Masuk王子は扉の前で一度だけ指を鳴らした。合図は音ではなく、呼吸の長さだ。吸って四、吐いて六。皇子の胸が同じ拍で上下したのを見て、彼は頷いた。今夜は舞踏会、そして条約婚の公開儀礼。森を抜けて丘の都に入ったばかりの二人は、旅の埃も残したまま仮面をつけた。森の匂いがまだ衣の裾に残る。旅立ちの続きを、ここで政治に変える。
「公では、あなたが前に」 皇子は短く言い、仮面の紐を結ぶ王子の指を両手で包んだ。薄い革の手袋越しに鼓動が伝わってくる。弱い緊張ではない。緊張を踏み台にする意志だ。 「私室では、私が支える」 王子も短く返す。約束の反復は契約の一部だった。 控えの間の机には羊皮紙が開かれている。旅のあいだ二人で書き直してきた合意契約だ。可は、言葉による指示、手首を取る導き、膝への軽い圧、後ろからの抱擁。不可は、痛みを目的とする行為、痕の残る掴み、侮辱語、公衆の場での恣意的な優位誇示。合図は、指先で二度のタップが「緩めて」、三度が「中止」。声のセーフワードは「灯」。運用は、聞こえた瞬間に即時停止、指示の無効化。アフターケアは、蜂蜜茶を一杯、足の冷却と保湿、言葉での三つの確認――よくできた/嫌だった点はないか/次回の調整。 「灯、でいいな」 皇子が最後に確かめる。彼は成年に達した夜、森で星を仰ぎながら自分で選んだ言葉だ。 「灯で止まる。約束だ」 王子は羊皮紙に印章を押した。条約婚の文言と同じ朱のインクで、私的契約に公の色を混ぜる。週に一度のスイッチ・デーは月の三の晩。役割を交換し、互いの境界を磨く日だ。旅のときも都のときも守る。 扉が開く。楽の弦が流れ込む。大広間は仮面と鏡面の海だった。大聖堂の聖職者は白金の胸飾りを光らせ、地下街の行商頭は数珠を指に絡め、納骨堂の灰衣の司書は、小さな骨壺を帯に下げている。権力は三つの階層を持ち、それぞれが相手の靴音を数えていた。 王子は半歩後ろに立ち、皇子の肩甲骨に指先を置く。圧はわずか。進め、止まれ、回れの三種類。合図を感じた皇子は前に出た。群衆がざわめきを呑みこむ。歩調は二人の間だけで先に一致していた。小さな呼吸の振り子が、長い広間の空気を揃えていく。 「御前にて跪礼を」 白衣の年長の司祭が言う。大聖堂の礼法では、婚姻に祝祷を与える前に、皇子が神と聖具に膝を折るのがしきたりだった。 皇子の腰がわずかに揺れた。王子は指先で二度、軽くタップ。「緩めて」。皇子は一拍置き、そして自分の前で両手を合わせる。 「まず、互いに跪く」 彼の声はよく通った。王子の喉が鳴る。ここまで真っ直ぐに言えるようになったのは、森での練習の成果だ。雄になる訓練は、声から始めた。 二人は互いに片膝をつき、視線を合わせる。王子は低く言った。 「あなたの意志を尊ぶ。共に治める」 「あなたの手で導かれる。共に支える」 それから二人は同時に司祭へ膝を折った。大広間に小さなため息が走る。形の反転が意味を増やした。白衣の目が細くなる。彼らは神の前に等しい、と。 地下街の行商頭が、艶のある赤いリボンを差し出してきた。 「縁結びの印を。首にどうぞ」 首、という言い方に王子の背筋が固くなる。公での支配の誤読を招きかねない。皇子の掌が王子の手首を握った。三度、やわらかいタップ。中止――ではなく、提案の切替だ。二人で決めた運用。「三度」は外からの圧に対しても有効にする、と。 王子は微笑んで、リボンを手首に巻いた。自分と皇子の右手を揃え、結び目を中央に置く。 「手綱ではなく、縁に」 行商頭が笑い、周囲も和らいだ。誤解は甘さで解ける。軽いコメディは緊張を割るための塩だ。 納骨堂の司書が骨壺をひとつ掲げた。 「先祖は静寂を求む。婚姻祭の鐘は、地下に響く」 鐘の時打ちの回数を減らせ、と遠回しに言っている。王子は皇子の肩に指を添える。導きの圧。皇子は一歩前に出た。 「鐘は七つ。地上は祝う。地下は静める」 彼は続けた。 「鐘楼に布を。納骨堂の天井に新しい吸音の板を。費用は共治基金から」 地下街、納骨堂、大聖堂、それぞれの視線が一度だけ交わる。妥協線が見えた瞬間、外交団の数人が小さく頷いた。歩調と同じで、合意も小さな圧で揃う。 舞踏が始まる。皇子は前に立ち、王子の手を背中に受けた。四分の三拍子が床に落ちる。皇子の靴先は迷わなかった。王子が足首の角度を押し、脛に軽く触れるだけで、彼は旋回の径を抑え、列を割って外交団の築く波の間に入り込む。合図の密度は最小限。彼らの歩幅が鏡の中で一つに見えた。 「統率が取れているな」 青衣の若い従者が囁き、主の袖にメモを滑らせる。外交団は二人を「一人の政」として見始めた。仮面の下の視線が、尊敬の角度に傾く。 公開儀礼の中心で、司祭が宣言した。 「条約婚、成立」 言葉が天井に当たって散る。拍手。仮面の集団が花のように動く。その花弁の間を、二人はリードとフォローの境界を溶かしながら進んだ。公で皇子が前に、私室では王子が支える。二重統治は、踊りの図形でみせるのがいちばん速い。 夜が沈み、部屋に戻る。扉が閉じる音に、二人の肩の力がやっと落ちた。王子は皇子の靴を脱がせ、濡れ布で足首を拭いた。冷たすぎないように、僅かに温い水。蜂蜜茶を一杯、皇子の手に持たせる。アフターケアの順番は身体に染みている。 「足、どう」 「少し張ってる。けど、悪くない」 皇子の言葉は正直だ。王子は膝に軟膏を塗りながら、三つの確認を口にした。 「よくできた。嫌だったことは」 「首の話。あなたが替えたの、助かった」 「次回の調整は」 「鐘の件、最初に出す。地下街の提案に先手を」 王子は笑って額を合わせた。彼に甘くするのは、政に強くなるための筋トレだ。溺愛は筋肉になる。彼は本気でそう信じている。 「明日、スイッチ・デーだ」 皇子が茶を啜りながら言う。王子は一瞬、眉を上げた。 「舞踏長の追加リハが朝から」 「入れ替えようか。明日の夜に」 「契約を更新する?」 羊皮紙を取り出し、日付の横に小さな追記を入れる。週一の原則を変えず、例外のときの調整手順を明文化する。合意は生き物だ。二人はそう扱う。 「灯」 皇子が囁く。王子が顔を上げた。 「止める意味じゃなくて。今日の灯、よく働いたねって」 「ありがとう」 言葉のケアは、指のケアと同じくらい大切だ。王子は皇子を包むように抱いた。仮面の下で使った筋肉が、やっと柔らかくなる。 扉の外では、地下街の商人たちが祭の片付けを始め、大聖堂の聖歌隊が鐘に布を掛け、納骨堂の司書が柱に寄りかかって夜気を吸っている。三つの階層は完全には解けない。それでも今夜、二人の歩調に合わせて一度だけ同じ拍を踏んだ。旅の先にある共治の形が、ゆっくりと輪郭を持ちはじめている。 王子は寝台にもぐりこんだ皇子の髪を撫でながら、森で見た星の配列を思い出した。旅立ちは続く。次は大聖堂の奥、納骨堂の古い魔紋の修繕。目的地は次に変わる。でも歩調はもう合った。あとは前へ。 次回、第11話:やわらかな主命寝具に沈んだ香の匂いが、喉の奥で甘く絡む。帝都の夜は静かだ。いや、静かにさせたのは私たちだな。今夜は鐘の音より先に決めることがある。「書式はこれでいいか?」 「うん。読み上げて」私たちはすでに成年の儀を終えた。だから紙より先に声で確かめる。「可は、指示語の使用、姿勢の誘導、手首に絹帯。接吻と抱擁」 「不可は、痛みを伴う行為、侮辱語、痕の残る拘束、刻印魔術」皇子は頷く。緊張で唇が乾いている。へえ、可愛い。水を差し出す。ひと口、ふた口。「合図は三段階。指の二度叩きで緩めて、三度叩きで中断。セーフワードは」 「星砂」 「運用は即時。言った瞬間に止める」書きつけに指で魔紋をなぞる。金の線が薄く灯って、紙の端がじんわり暖かい。契約が入った合図だ。愛より先に契約。今夜はそれでいい。翌朝、帝国を変えるんだ。段取りは多いほど安心する。「ねぇ」 「ん?」 「週に一度は、私が上に立つ日がほしい」 「スイッチ・デーか。決まりだ。第八日の夕刻から夜明けまで。公務が挟まったら繰り越し」皇子の肩が少し落ちて、目が和らいだ。約束は呼吸だ。しておけば肺が軽い。「じゃあ、始めるね」 「どうぞ、前に」私は寝台の縁に腰掛け、皇子を前に立たせる。背筋。顎の角度。視線の流し方。声は短く。「一歩進んで」 「……うん」 「言うんだ。『私が前に立つ』」 「私が前に立つ」少し上ずった。いい練習台詞だ。公では彼が前だ。私室では、私が背を支える。二重の統治は、二重の呼吸だ。「もう一度。低く」 「私が、前に立つ」胸の響きが落ちた。喉の震えが安定している。左手に絹帯を回す。結ばない。触れるだけ。皇子が小さく息を吸う。「次。『命ずる』」 「命ずる」私
大聖堂の鐘が九度、石の空に跳ねた。白い香煙と銀砂の匂い、膝下に吸い込まれるような冷え。皇子は祭壇の前に立ち、王子は半歩だけ後ろにいた。公では皇子が前に、という新しい約束は、群衆の視線より先に二人の足の置き方を変えた。条約婚の公開儀礼は、宣言と言葉の鎖よりも静かな魔紋で締めくくられた。右手首に同じ印。薄金の輪が皮膚に馴染み、触れると微かに温かい。老司祭が宣書を掲げ、地下街の組頭と納骨堂の守り手が遠巻きに測るような目を向ける。力が集まる場所には、必ず目が集まる。「祝福を」と老司祭。皇子は頷き、声を張った。 「民の前で約を立てる。たとえ領土が裂けても、この遵奉は砕かない」 声は少し震えたが、震えの先に息が通った。王子は手首の魔紋を親指でひと撫でし、それだけで安心の合図を送る。誰にも見えない距離で。儀礼の後、三派が寄ってくる。 「大聖堂の鐘は新政の時だけ鳴るもの。寄進の割合は——」 「地下街の通行税は今後も我らが徴す。祝宴の荷も例外ではない」 「納骨堂の鍵は朝廷と我らが両持ちとする。祖霊は誰のものでもない」 言い分はどれも一理ある。皇子は正面から受け、期限だけ切った。 「今は祝いだ。具体は明日、朝の席で。証人を置いて取り決めよう」 王子は腕を組んで黙り、足先だけ皇子の踵に触れた。踏ん張れている、なら良し。夜。王族用の控え室は厚手のカーテンと蜂蜜酒の匂いに包まれていた。扉に二重の施錠をして、やっと二人きりになる。皇子は肩を落として息を吐いた。 「背中を押してもらってばかりで、情けないな」 「公では君が前、私室では私が支える。段取り通りだ」 王子は紙束を机に置いた。再誓約書。公の文言をなぞらない、二人だけの規約。王子がペンを置き、皇子と向き合う。 「可と不可、合図、アフターケア。言葉にして、署名しよう」 皇子は頷き、まず不可から書いた。出血行為は不可。屈辱語は不可。誰かの前での拘束は不可。可は、絹の手袋と柔らかい拘束具
灰の回廊は冷たかった。磨かれた石の床に、納骨堂から舞い上がる細い灰が薄膜のようにかぶさっている。油灯の香り、パン屋の黒麦の匂い、地下街の煮込んだ臓物の湯気。皇子は喉の奥に土の味を感じ、唇を湿らせた。「ここでやる」と彼は言った。大聖堂の上階に陣取る司祭たちは顔をしかめたが、王子が一歩前に出て、書簡を掲げる。「条約婚の公定式場は、市と冥府の境であること。先帝の印章だ」司祭は沈黙した。骨守の老女が杖で床を二度打った。乾いた音が、合図のように響く。灰の回廊の両側、地下街の人々が肩を寄せ合う。肉屋の若旦那、香草売り、歌うたい。彼らと目線を合わせる高さまで、皇子は階段を降りた。森で出会った旅の初め、泥だらけの自分を笑って手を差し伸べた男——王子の掌は、今も、同じ温度で彼の背を支える。「順序が入れ替わっている」と王子が囁いた。儀礼司の巻物が乱れている。先に契約の朗読、その後に魔紋の描入。今は太鼓が呼応を待っているのに、聖句が始まりかけている。皇子は頷いた。肩越しに太鼓打ちの若者へ指を立て、三拍の間を切る。地下街の太鼓が地鳴りのようにうなり、混乱は音に吸われた。王子が片眉を上げる。よくやった、という短い笑み。彼は喉の土の味が甘く変わるのを、自分の舌で確かめた。契約書は二綴りあった。ひとつは国家のため——条約婚に伴う関税調整、納骨堂の管理権限、地下街の市場税の配分。もうひとつは彼らのため。合意契約の条項は、銀の糸を編むみたいに細かく記されている。「可と不可、合図、アフターケアは明文化済み」と王子が読み上げた。声は低く、地下の壁がよく響く。「不可は、拘束を超える痛み、呼吸を奪う行為、公共の場での羞恥。可は、指示、言葉、触れ方。合図は三種類。握手の三回タップで中止、衣の端を摘むのは減速、言葉のセーフワードは灰百合」「灰百合」と皇子が復唱すると、近くの飴売りがぴくりと反応して、蜂蜜入り?と聞き返した。周囲が笑い、緊張がほどける。王子が肩をすくめる。「蜂蜜は後でな」皇子は続けた。「アフターケアは温水、甘味、言葉の確認。週に一度、風の曜日はスイッチ・デー。公では私が前に立つが、私室で
鐘の音が白い塔を震わせ、鳩が舞い上がった。大聖堂の前庭は二国の旗で埋まり、石畳は磨かれた銀のように光っている。皇子は緋のマントを肩にかけ、手袋越しに冷えた欄干を握った。指先が強張る。彼は一歩前に出る役を託されていた。公では皇子が前に、私室では王子が支える——二人の取り決めは、今日、国と神の前で明文化される。「参集の信徒よ。教会は新約を承認する」大司教の声が響き、ざわめきが押し寄せては引いた。白髭は震えもせず続ける。「我らは過去、王権に不当な介入をした。悔い改める。納骨堂の領分も、地下街の生の知恵も、神の御業と同じく尊い。二都の共治を妨げるものではない」その言葉に、地下の通気口の奥から、低い口笛が返った。地下街の長が手下へ合図したのだと、王子は気付いて小さく肩を緩める。納骨堂の番人たちも黒衣を揺らして一礼した。敵対ではない。今日は祝祷である。皇子は喉を潤すように息を吸った。王子の人差し指が彼の手袋の甲に一拍、二拍、と鼓動のように触れる。合図だ。背中を真っ直ぐに、と訓練で繰り返した触れ方。「新約の朗読を」助祭が巻物を捧げ持つ。条約婚の条文は、税の割当から港湾の共同管理、軍の交代駐屯まで細かい。だが最後に添えられた薄い書綴じに、観衆は顔を見合わせた。王子が視線で促し、皇子がうなずく。「私室における合意契約の条(くだり)を読み上げる」大聖堂が少しざわめいた。王族の契約に私事が混じっている、と眉をひそめる者もいた。だが大司教は黙って頷き、助祭が読み始めた。「可は、手首の拘束、言葉による命令、膝行の指導、接吻まで。不可は、傷の残る行為、呼吸を妨げる行為、祈りの時間を侵す行為。合図は、指輪を三度叩く。セーフワードは——」助祭が喉で転がした言葉に、王子は少し身を乗り出した。いけない、彼は目が悪い。「ぶ、葡萄酒——」「ちがう」皇子の小さな声に、広い空間が息を止めた。王子が優しく巻物に指を添える。文字の上に影を落とす。「薄明(はくめい)だ」「薄明、と記す。&
鐘が三度、深く鳴った。大聖堂の白い天蓋の下、王子は息を短く整え、手元の誓約書をもう一度だけ見直した。墨は乾いている。余白に小さく書かれた合図も、読み上げる順番も、全部揃えてある。彼は書記官を呼んで、指先でとんとんと示した。「ここ。セーフワードの綴り、直っているか」「……はっ。先ほどの『武道』は『葡萄』に訂正済みです」危なかった。武術で止まる婚礼は嫌だ。葡萄の方が平和で甘い。王子は苦笑し、帷の向こうにいる皇子へ目線を投げた。薄い布越しに、彼の喉元で冷たく光る喉輪が見えた。誓印として鍛えられた銀は、控えめな魔紋を帯びている。触れれば脈に沿ってぬくもるはずだ。「冷たいか」「少し。でも、落ち着く」皇子は短く答え、視線で合図を返した。今日、公の場では彼が前に立つ。王子は一歩下がり、背から支える役目だ。いつも通り。いや、いつもより一歩だけ強く。「確認する。可は、命令語と儀礼の拘束。不可は、痛みと恥。公衆の前での過剰な演出も不可」「合図は、右手二度で緩めて、三度で止める」「セーフワードは」「葡萄」「終わったら、蜂蜜湯と毛皮の外套。それから話す。感想と次の段取り」皇子は喉輪に触れて、小さく笑った。その笑みは以前より深さを増している。森で出会った夜、彼はよく震えた。今も緊張しているが、震えの質が違う。構えがある。王子はそれを嬉しいと思った。訓練は政治に利く。雄になるって、こういうことだ。「週に一度、スイッチ・デーは守る」王子が念を押すと、皇子は頷いた。「次は火の六。夜明けから午前だけ、君が前」「了解した。昼には返す」帷が上がる。香の煙が流れ込んだ。列柱の影に、地下街の代表が数人、黒いマントを寄せ合っている。納骨堂の管理者たちは反対側の席で、骨の紋章を刺繍した布を膝に置いて沈黙していた。大聖堂の僧正が立ち上がる。声は澄んで、よく響いた。「両国の条約婚を、神々と民の前に掲げる」王子と皇子は歩み出た。祭壇の石は冷えており、足裏から緊張を吸い上げて
午前の光が絹を透かして揺れた。私室は香木の匂いと湯気で満ち、長卓の上には一枚の羊皮紙が置かれている。角は何度も折り返され、端に金の封蝋。二人で書いて、二人で直した——最後のスイッチ・デー用の合意契約だ。皇子が深呼吸した。喉仏が小さく上下する。緊張の癖は隠せない。王子は笑って、指でその上下をなぞった。「読もう。最後まで」「うん」王子が声に出して読む。字は簡潔で、余白は多い。儀礼の文言は極力削った。二人のための契約だからだ。——可:指示の言語化、象徴具の着用(首輪・手輪)、跪座、手の拘束(柔紐のみ)、声の訓練。不可:打擲、窒息に類する圧迫、傷の残る刻印。合図:手首二度叩き=緩めて、頬に触れる=止めて話す。セーフワード:「黎明」。即時全面停止。アフターケア:温湯・蜂蜜入乳、薬草軟膏、安静と対話。途中での水分補給は随時許可。皇子の耳が赤い。文言の客体が自分だと分かっているからだ。王子は最後の行に指を滑らせた。署名の右、余白に小さく付記がある。——公の政務にも準用。相手の「黎明」に即時停止で応じ、二十四時間再審。合意なき決裁は禁止。「ここ。肝心だ」「分かってる。ぼくがあなたに向けて言うときも、あなたがぼくに向けて言うときも、同じ効力」「うん」封蝋を外すのは今だ。王子が蝋を割り、二人で署名を重ねる。外の鐘が一つ鳴って、二人は顔を見合わせた。王子の目尻に小さな笑い皺。「音合わせ、今日は上手く鳴るといいが」「前回は地下街の鐘と競り合ってめちゃくちゃだったからね」「魚の競りの鐘に負ける王都の鐘、あれは笑った」緊張がほどける。皇子の肩の力が落ちて、王子に背を預けた。王子はゆっくりと首輪——喉輪——を取り上げる。銀の環。装飾は控えめで、内側に二人の紋の簡略化。儀礼用のそれに似ているが、軽く、柔らかい。「今日は、これをつける?」「つけたい。これで……ぼくが命じる練習をしてもいい?」「