Mag-log in香の煙が白い柱に縒れて、天蓋の金線が朝の光をほどく。
大聖堂は冷たかった。 床の石が靴底から脛まで現実を押し上げてくる。 「前へ」 侍従の声は礼儀正しいが、勝敗のない戦の号砲に聞こえた。 アルトリウスは一歩出た。 ルシアンは半歩後ろで並ぶ。 公の場では、彼が後ろ盾であると示すために。 「誓約を」 祭司の古い声。 差し出される羊皮紙。 アルトリウスは書面の文言を追い、肺に空気を溜めた。 喉が渇く。 けれど、背から微かな囁きが来る。 「肩を落とすな。三拍、ためてから」 ルシアンの声は低く、やわらかい命令だった。 いつものそれだ。 柔らかいのに、背骨に届く。 アルトリウスは三つ数え、言葉を出した。 「帝国皇子アルトリウスは、王国王子ルシアンと条約婚を結ぶ。この婚姻を両国の橋とする」 声は石に返って、大聖堂の空気がわずかに温くなる。 それからルシアンが言葉を重ねた。 「王国王子ルシアンは、私室では彼を支え、公では彼の前に立つことを誓う」 司書官が合図し、外の鐘が鳴る。 公開儀礼は成功だ。 そう、ここまでは。 巻物を掲げた伝令が滑らせた。 手が滑ったのか、天が悪戯したのか、彼の口が読み上げたのは条約文ではない。 私室用の合意契約が、澄んだ声で大聖堂に流れた。 「可──口頭命令、手枷まで。不可──火傷を伴う印、露出の強要。合図──三度の指先合図で減速、セーフワードは『灯』」 空気が止まり、次にざわめいた。 祭壇脇で侍従長が目を剥く。 地下街から招いた商人たちの目尻が上がり、貴族席の扇が一斉に動いた。 まずい。 そう思った瞬間、ルシアンが軽く笑った。 「誤読だ。だが良い機会だな」 彼は後ろから一歩、アルトリウスの横へ出た。 しかし声は譲らない。 「我らは公文にも私文にも合意を明文化する。言葉を持たぬ契約は危ういからだ。これは寝室の話にとどまらない。両国の取引も、神殿の徴税も、地下の秤も、同じだ」 アルトリウスは頷いた。 喉の渇きがすっと引くのが分かった。 「帝都の納骨堂の権利も、地下街の流通も、大聖堂の儀礼も。私の名の下に、合意なき変更を禁ず」 声が大きくなったわけではない。 けれど人々は顔を上げた。 ルシアンが袖の下で指を一本、そっと触れてきた。 よくできた、と触れる指だった。 鐘がもう一度鳴った。 儀礼はそのまま進み、骨の指輪ではなく、相手の脈にそっと触れる接吻で締めくくられた。 大聖堂は冷たかったが、指先と拍動は温かい。 午后は、私室。 今日は週に一度のスイッチ・デー。 命じるのはルシアン、従うのはアルトリウス。 役割を反転させる日。 従うことで、自尊を守る訓練の、日。 扉は厚く、外の喧騒は鼠ほど。 水は柔らかく温い。 テーブルには淡い蜂蜜ミルクと温布。 合意契約を再確認するのが二人の習いだ。 ルシアンが読み上げて、アルトリウスが復唱した。 「可──口頭命令、触れる範囲は手首から肩、腰。不可──露出強要、痛みの器具。合図──三度の指先合図で減速、セーフワードは」 「『灯』」 「運用──私が聞き違えたら、もう一度同じ言葉を、はっきり」 「うん」 その「うん」が、アルトリウスの中で鳴った。 従っているのに、奪われていない。 委ねているのに、沈んでいない。 「膝」 ルシアンの主命はやわらかかった。 命令なのに、羽毛のよう。 「頭を上げて。目を見る。よくできた」 アルトリウスは息を数えた。 三拍。 首の後ろに置かれた手は、重すぎず、軽すぎない。 扉の外で、誰かが咳払いをした。 合図が間に合わない。 アルトリウスの体が反射した。 「灯」 ルシアンの手が止まった。 ほんの糸一筋の間で、完全に止まった。 「入るな」 ルシアンが外へ短く命じ、また視線を戻す。 「使ってくれてありがとう」 その一言が、驚くほど温かい。 アルトリウスはあぁと思った。 命令は檻ではない。 鍵なのだ。 外に出るための、合図の鍵。 休憩。 水を飲む。 肩に温布。 ミルクに蜂蜜を溶かし、唇に運ばれる。 「あと二つ命じる。できなければ、灯で止める」 「うん」 「呼吸を私に合わせる。次に、言葉で望みを言う」 望み。 望みを言うことは、いつだって一番むずかしい訓練だった。 アルトリウスは目を伏せ、そして上げる。 「抱いて。だけど、軽く。長く」 ルシアンの目が笑った。 「主命だ」 抱擁は、本当に軽かった。 重くなる寸前で、いつも止まる。 そして長い。 長さは、何よりの贅沢だ。 夕刻。 地下街へ降りる。 一段降りるごとに温度が変わるのが分かる。 香の代わりに鉄と油、柑橘の皮の匂い。 商人ギルドは明るく、速く、噂は路地を走る鼠より早い。 「儀礼の巻物は笑ったぞ、殿下」 地下の主が顔に布を巻いたまま笑った。 アルトリウスは肩で受け、それを背へ滑らせる。 「笑われても、原則は変わらない。地下の秤も合意の上にある」 言い切る声。 今日は、言い切れる。 昼の柔らかい命令が、背骨を支えている。 地下街の次は納骨堂。 石灰と冷気、蝋燭の青い炎。 骨堂守が静かに頭を下げる。 「皇子、王子。我らの権利は祖先から。神殿は口を出し過ぎる」 「大聖堂は儀礼の正統を主張する。地下は搬送と衛生の効率を。その間で骨は静かに眠りたい」 ルシアンが状況を簡潔にまとめる。 アルトリウスは頷いた。 「今夜から当分、三者合同の輪番にする。葬送は大聖堂、搬送は地下、保管は骨堂。合意に反する干渉は、禁ずる」 「輪番の起点は?」 「スイッチ・デーに合わせよう」 地下の主が目を丸くした。 骨堂守が笑った。 大聖堂の祭司は唇を結び、それから観念の息を吐いた。 「合意する」 戻り道、ルシアンが肩を叩く。 「よく言った」 「君の命令があったから」 「命令だけでは無理だ。従う力があった」 言葉の間合いが甘い。 くすぐったいほど。 アルトリウスは思う。 森で出会ったとき、喉が小枝で傷ついた獣みたいだった自分が、いま、声で渡りを作るのだと。 夜。 私室。 窓の外に星が薄く開く。 ルシアンは灯りを落とし、もう一度だけ命じた。 「明日、議席で最初に話すのは君だ。三拍、間を取れ。私は横で水を持っている」 「うん」 「恐かったら?」 「灯、と言う」 「そう。それから」 ルシアンは額に口づけた。 「よくできた。だから、よく眠れ」 布の重みは静かで、心臓の拍は規則に戻る。 アルトリウスは眠りに落ちる前、舌の裏に触れた。 まだ何も刻まれていないそこに、いつか灯を置く日を思う。 言葉と印は、自分に戻るための道標だ。 次回、第12話:舌紋の灯鐘が三度、都の空を割った。香の匂いが白い柱をのぼり、光は大聖堂のステンドを焦がすみたいに濃かった。 皇子は一歩前へ出た。外では彼が先頭に立つ。王子は半歩後ろで外套の裾を整え、肩甲の紐を結び直しながら低く言った。 「歩幅、合わせる」 皇子は小さく息を吸い、頷いた。膝が笑わない。訓練の成果だ、と彼は胸奥で言い聞かせた。公開儀礼は、条約婚から始まった。帝国と王国の戦を終わらせ、二つの王統を結ぶ文言は羊皮紙に古い魔紋で縫い込まれている。老司教が巻物を掲げ、群衆は静まった。 「契りの第一条。戦は条約で終え、同床ではじまらないこと」 王子は笑いを堪え、皇子は喉の奥で笑いそうな自分を飲み込んだ。愛より先に契約、契約より先に信頼の種。二人で決めた順番だ。続いて、二人だけの合意契約が読み上げられる。可の範囲、不可の範囲。合図。アフターケア。 「拘束は軽度のみ。痕を残さない。侮蔑語は用いない。合図は左手二指の上げ下げ、または三度の掌打。セーフワードは『雪』」 司教が「ゆき」と発音した瞬間、地下街の頭領がくしゃみをした。緊張が少しだけほぐれ、笑いが波紋のように広がる。王子は皇子の指を握り、指輪の内側に刻んだその文字を撫でた。 「アフターケア。温かい飲み物、体温の維持、言葉での確認。拒否の理由を尊重し、再交渉は別日に」 朗々とした声が石壁に返る。儀礼の場でこんなに具体的な合意を明文化するのは前代未聞だったが、拍手は止まらなかった。二人の間に走った信頼の糸が、群衆の間にも一本ずつ投げ渡されたように見えた。聖具の箱が運ばれてきたとき、段取りが一つ転んだ。儀具の箱と器具の箱が同じ意匠で、文官が取り違えていたのだ。王子用のサインペンの代わりに、私室で使うソフトカフが金糸の布の上に鎮座してしまった。 「これは……革新的だな」 老司教が目を白黒させる。王子がひょいとカフを掲げ、群衆に向かって言った。 「公では皇子が前に、私室では私が支える。それだけの印だ」 笑いの渦が起こり、老司教
鐘の音が白い塔を震わせた。大聖堂の床は陽光に温まり、石の匂いがかすかに甘い。皇子は一歩、前に出た。公では彼が前に立つ。それが二人で決めたやり方だった。王子は半歩後ろ。視線で「呼吸」と告げる。皇子は息を数えた。肩に落ちる影が、いつもの合図のように優しい。森で出会った日の、彼の指の温度を思い出す。迷いを撫でて、背骨を立てさせた指だ。堂内は満員だった。条約婚の公開儀礼。帝国と王国の境で何度も頓挫した文言は、今朝ようやく一本線になった。二人の右手首に巻かれた白紐に、魔紋の燐光が走る。誓約魔法は、契約の条と合意の条を同列に刻む。「合意契約を読み上げる」皇子の声は良く通った。王子が喉の奥で小さく「いい」と呟く。承認の合図。皇子は続けた。「可は、互いの命令を公共目的に限ること。不可は、身体の安全と尊厳を損なう命令すべて。合図は、手の甲を二度叩くこと。そのときは即座に中止する。セーフワードは『灯』。口にされたときは、理由を問わず一切を止め、アフターケアとして水、甘味、毛布、そして抱擁を提供する」ざわめきが生まれ、すぐに収まった。王子が一歩進み、同じ条を繰り返した。響きの正確さが彼の性質を示す。最後に、王子が笑って付け加えた。「週1回のスイッチ・デーを設ける。公は皇子が前、私室では私が支える。逆の日は、私が前で、皇子が支える。政と心を、週ごとに点検するためだ」年配の臣が咳払いをしたが、隣の司祭に肩を小突かれて黙る。場の空気が柔らかくなったところで、事故は起きた。侍従が運ぶはずの儀礼の腕輪が、なぜか見慣れた革の箱に入っている。王子は開けて、乾いた笑いを漏らした。柔らかい黒革。金具。見覚えしかない。「……誰だ、寝室の箱を堂内便に混ぜたのは」侍従が青ざめた。皇子はすっと手を上げた。合図。笑って首を傾げる。「灯」王子が即座に箱を閉じ、水差しを差し出した。堂内が笑ってほどける。皇子は一口飲み、息を整え、正しい箱を受け取った。儀礼の腕輪は凛とした銀。革の方は、後で笑い話になる。扉が、外からどんと叩かれた。鐘がひとつ、ふいに止む。旧摂政派だ、と
市井の香りは甘かった。焼いた蜂蜜菓子、石臼で挽いた麦の匂い、油の焦げる音。皇子は人の波に肩を預けながら息を整えた。森を抜け、白樺の風を背に受けてここへ来た。大聖堂の鐘は祭りの開始を告げ、地下街の太鼓は胸の底で鳴っていた。納骨堂の若い守り手たちは香を焚き、先祖の名を囁いていた。三つの力が同じ通りに立っている。珍しい光景だ、と皇子は思った。彼の隣で、王子が文書筒を開いた。羊皮紙の契約が涼しい音でほどける。蝋印はふたりの紋を重ねた形だ。 「本日、可は手首のリード、腰への触れ、頬まで。不可は跪拝の強制と跡の残る拘束」 王子が短く読み上げる。皇子は喉を動かした。「合図は?」 「三度のタップで緩める。セーフワードは『柘榴』」 「アフターケアは?」 「水、陰、言葉の確認。俺が責任を持つ」 互いに頷くと、王子が目尻を和らげた。「それと、今日は週に一度のスイッチ・デーだ」 皇子は一瞬まばたきし、思わず笑いそうになった。「曖昧な天は厄介だな」 「公では君が前。私室では俺が支える。だが今日の私人の分は日没からにしよう。臨時条項、どうだ」 「受け入れる」 羊皮紙の隅に短い文言が追記され、蝋で封じられた。契約が身体に落ちる感覚を、皇子は好きだった。愛より先に契約。契約より先に信頼。その順番が彼を楽にした。広場の石畳には白い粉で踊り紋が描かれていた。螺旋が三度、中心で交わる。太鼓持ちが「踊れ」と笑い、屋台の娘が「ふたり、先に」と背を押した。皇子は一歩、前へ。公では彼が先に立つ。王子は半歩後ろ、指先で手首を支える。合意済みの熱が皮膚越しに伝わった。太鼓が三つ、鐘がひとつ。皇子は踊り紋に従って足を運んだ。右へ、二歩。左、止まる。王子の短い声が背に落ちる。 「息」 彼は息を吐いた。腰に軽く触れる手。力はない。ただ方向だけがある。雄になる訓練、と王子は呼ぶ。支配ではなく、選ぶこと。選ぶための筋肉。皇子は両手を広げ、群衆の円に向けて合図した。 「一緒に」
鐘の余韻が大聖堂の高い穹窿に絡み、薄い香が白い煙になって昇っていった。祭壇の上、皇子は前に立ち、王子は半歩うしろに寄り添った。公では皇子が先に、私室では王子が支える──二人が選んだ二重の秩序だ。「条約婚を、ここに成立させる」皇子の声はよく通った。胸の中央で淡い金の魔紋がひらき、誓いの文言が空気に溶ける。王子は短くうなずき、誓書の巻末に自筆の印を押した。契約は二重。国家間の条約として、そして二人の関係のルールとして。「可は、合意のもとに。不可は、口頭で明確に」皇子が読み上げる。その指先に、王子がそっと触れた。「合図は三つ。手を二度叩く、指輪に指を添える、視線を落とす」王子が続ける。書記が速記羽根で音を刻む。最後に、セーフワード。「葡萄。これで即時中止。誰であれ尊重する」大司教が「証」と低く唱え、祭壇石に光が弾けた。群衆は息を呑み、次いで歓声に変わる。条約婚の成立と公開儀礼。二人の連続する短い言葉が、国の法と身体の合意を同じ重さで縫い合わせた。地下街は、昼でも薄暗い。式ののち、二人は外套を纏い、石段を降りた。床石は油で滑り、香辛料と金属の匂いが混ざる。「税を上げる話ではない。任命を変える話だ」王子が穏やかに切り出し、地下街の顔役が腕を組む。血統で独占されてきた末端の監督職を、住区ごとの投票で選ぶ。皇子は前に出る。「候補は血筋からも出る。ただし、最終は票だ」短い。だが硬い。顔役は底を測るように皇子の目を見る。王子は身体の角度をわずかに変え、支えの気配だけを渡す。合図は要らなかった。皇子の背筋は伸びていた。納骨堂は冷たかった。骨壁に刻まれた名が規則正しく光る。司の灯が揺れ、古い権利書が開かれる。「祖霊が継承を指名する。これが我らの掟」司の目は細かった。皇子は手の甲に描かれた魔紋に息をかけ、静かに返す。「祖霊の灯守は、施主たちが選ぶ。毎年、花の季に。灯守の印は納骨堂が授ける」血は敬う。だが意思は生きている者の側に置く。王子が文案を差し出す。灯守は儀礼の長だが、王座の代行ではない。司はしば
鐘が三度、鳴った。香の煙が白く漂い、聖油が肌にひやりと触れた。大聖堂の中央、皇子は胸に手を当て、王子の差し出す掌に指を重ねた。司祭の声は短く、魔紋が手首に浮かび、青金色の光で互いの脈を結んだ。公開儀礼は、淡々と、だが確かに終わった。地下街の代表は袖の陰で数え、納骨堂の管理長は無言で頷き、列柱の影には押し合う視線。権利の取り合いは終わっていない。むしろ、ここからだ。皇子は息を吸い、前に立ち、簡潔に宣言した。「共に治める」王子は一歩、半歩だけ後ろへ。掌の力だけで支える。その距離感が、公の合図だった。夜。私室に移ると、カーテンは厚く、焔は低く、窓は鍵が下りていた。机の上に羊皮紙、銀の印章、細い羽根ペン。王子は外套を脱ぎ、皇子の喉元の赤い印を指先で確かめる。「痛むか」「平気だ。儀礼の油の匂いがする」「なら、始めよう。私的条項の更新だ」二人は椅子に並んで座り、文字を交互に置いていった。可、と不可。合図、順序、アフターケア。王子が短く読み上げ、皇子が短く頷いた。「可。命令の口上。視線の固定。跪礼」「不可。痕の残る拘束。首を圧す行為。公の場での混同」皇子は指先を軽く上げた。「要確認。手枷は絹のみ。鍵は見える場所に」王子が笑う。「絹以外は、納骨堂から怒られる」ここで扉が軽く叩かれた。侍従が青い顔で羊皮紙の束を差し出す。「先ほどのドラフト、誤って納骨堂に回してしまいまして……戻ってきました」束の表紙には、赤い書き込み。「骨壺区域に金属鍵は禁止」。二人は声を殺して笑った。皇子は耳朶まで赤い。「返事を書こう。金属鍵は私室用だって」王子は「了解」とだけ言って、可の欄に一行足した。「合言葉の運用。セーフワードは『灯』。ささやきで発する。三度、手を叩く動作と併用」皇子はその言葉だけで喉が動いた。「……『灯』」「今は運用の確認だ。言えば、すべて止める。水を出す。手を包む。説明は求めない。再開の合図は『続ける』。それがなければ、夜は終える
軍鼓が二つ、違う拍を刻んでいた。広場の石畳にひびく重音が片や三歩、片や四歩。列が蛇のようにうねり、槍の穂先が互いの肩に刺さりそうになった。「止め」皇子が前に出て、掌を立てた。春の光が外套の縁を白く縁取り、彼の耳は緊張でほんのり赤かった。王子は半歩後ろで、視線だけで行軍長に合図した。「原因は?」「太鼓頭がふたり、殿下」「それは知っている」王子が小さく笑って、皇子の腰骨に目に見えない支えの手を置いた。触れはしない。だが皇子の肩の呼吸が一つ整った。公では皇子が前。私室では王子が支える。その二重の歩調を、軍にも教える必要があった。《『軍の歩調って本当に歩調だよな』》彼らは大聖堂の影で条約婚を成立させたばかりだった。公開の儀礼では、白砂糖で磨かれた石の階段を、皇子が先に上がり王子が背面を守った。誓約の巻紙には「支配と委ね」の章があり、政治の合意と同じ体裁で、私室の契約が明文化された。可・不可、合図、アフターケア。セーフワードは薄荷。指先三回の合図で緩め、薄荷の言で即時停止、そして蜂蜜茶とぬるい湯、それから背に描く温めの魔紋。官能の言葉が、法律の言い回しで刻まれているのは、少し可笑しくもあり、安心でもあった。問題は、軍だった。二頭制と告げただけでは、現場は迷う。誰の号令に従い、どの旗を見るか。大聖堂は儀礼の権威を主張し、地下街は糧秣の配分権を握り、納骨堂は戦没者の名の扱いをめぐって口を出してきた。権力が絡まれば軍鼓も乱れる。「手引きを出す」王子が言い、地下街の書写工と取引した。地上の印刷は大聖堂の発願が必要だが、地下なら早い。薄い羊皮を重ねた掌サイズの冊子に、魔紋の透かしを入れた。表紙には二つ首の鷲の紋。左は蒼、右は朱。蒼は皇子、朱は王子。公務の場では蒼の旗が前、私室と戦術即応時は朱が支えに入る。その切り替えを明確にするために、「週一のスイッチ・デー」を軍も採用した。毎週火の六日、旗の位置が入れ替わる。笑った兵も多かったが、笑いが溶かす誤解もある。「スイッチって、その……」若い隊士が耳を赤くした。王子が片目をつむった。「公務