Mag-log in夜は鐘ひとつ分、長く伸びていた。古い回廊の一室。石は夜露を吸い、蝋の匂いが甘く重い。皇子は外套を脱いだ王子の背中を見つめ、息を整える。公では前に出る彼が、今はペンを握る指をわずかに震わせていた。
「書くか」
王子が短く言い、羊皮紙を広げる。金具の箱から封蝋と紋章印、細い青のリボン。準備の音が、やけに心地よい。皇子は肩を回し、笑った。
「合意から」
「うん。先に境界、次に合図、最後に手当て」
言葉は短く、視線はまっすぐ。彼のやり方だ。皇子は頷き、自分の呼気に耳を澄ます。鼓動は早い——嫌な早さではない。
「可は、命令口調。指示の反復。首筋への口づけ。手首を重ねての固定まで」
王子の声は低い。皇子は補う。
「不可は、跪きの強要。痕が残る圧。息を奪う遊び。人前での服従の演出」
「了解。合図は二つ——言葉と、三回の軽いタップ」
皇子は慎重に口を開いた。
「セーフワードは『藍』」
王子が細く笑い、指先で皇子の手を包む。掌が熱い。
「いい音だ。藍、だな」
「運用は即時停止、呼吸確認、水分、姿勢変更、十数える」
「十数えたら、再開の可否はお前が決める」
皇子は小さく息を吐き、肩から力を抜いた。迷いはない。王子は短い条文として落としていく。飾らず、端正に。
「週に一度、スイッチ・デー」
王子が書き、顔を上げる。皇子が瞬く。
「日取りは?」
「七曜の六。巡礼が少ない日」
「地下街の市と被る」
「……ずらすか?」
扉の外で書記の咳払い。王子がため息を隠す。入ってきた書記は、顔を赤くした。
「失礼。『スイーツ・デー』の件、献菓は何人前に?」
「スイッチだ」
王子と皇子が同時に訂正する。書記は耳まで赤くなって退いた。皇子は笑いを嚙み殺し、王子は肩を揺らす。夜に、小さな笑いが浮いた。
「続けよう」
王子は羽根ペンを置き、真顔に戻る。
「公ではお前が前。私室では私が支える。二重に、崩さない」
皇子は頷く。彼が『支える』と言うたび、からだの真ん中がやさしく満たされた。
「条約婚は明日。大聖堂で。公開の誓約は、主権の並列を示す文言で」
「私文書は今夜。これで、公の争点のひとつは消えるはず」
どちらがどちらに臣従するのか——という問答は、二人のあいだではもう答えが出ている。羊皮紙の言葉がそれを縫い止めた。王子は封蝋を垂らし、二人の紋章を交互に押す。円と円が重なり、中央に小さな月ができた。
「最後。『雄になる』訓練の位置づけ」
皇子が言い、王子が顎で促す。
「政治の場で、主導の一歩を私が踏む。指示を受けてではなく、決めて宣言する。訓練は朝の稽古と談判の役目分け。失敗の責は二人で持つ」
王子は目を細めた。
「決めたら、私が後押しする。肩で、手で、言葉で。戻りたくなったら?」
「藍」
皇子はためして言う。空気がわずかに震え、王子の指が自然に緩む。止まる——視線が合う——呼吸が合う。一拍置く。運用は、もう生きている。
「いい」
王子が水差しを差し出す。冷えた縁が唇に触れ、皇子は小さく喉を鳴らした。
「署名する」
二人は斜めに並び、手首が触れる距離で名を記す。筆跡に迷いはない。蝋が固まり、夜はさらに深くなった。
「寝るか」
王子が言い、皇子はうなずく。寝台に入る前、王子が額に軽く口づけた。短い、でも確かな接触。皇子は目を閉じる。安心が胸に落ちる。
「明日、前に立つ」
「うん。背中は私だ」
◆◆◆
翌朝。大聖堂の白い塔は陽を受けて青く眩しい。参列者のざわめきは穀倉の風の音に似ていた。皇子は前に出る。祭壇の石はひんやりと硬く、足の裏に凛とした線が通る。王子は半歩後ろ。彼の気配が、背骨をまっすぐ支えた。
「争点は三つ」
祭衣の司祭が挙げる。位次、納骨堂の鍵、地下街の市。
「条約婚の位次について」
皇子は私文書の写しを掲げる。
「私たちは互いの主権を侵犯しない。公では私が前に立つ。これは私室の定めと対で運用される。従属ではない。並列だ」
ざわめきは一拍で収まった。司祭は目を細め、やがて頷く。神文ではなく、政の言葉で話す二人が珍しいのだろう。それでも、理解は届いた。ひとつ、消えた。
地下街の顔役が進み出る。襟元に銀の小札。声は低い。
「市の税と警備」
王子が半歩だけ横に出る。皇子の視線が合う。王子は短く言った。
「回廊沿いに露台を認める。納骨堂の接線は禁域。税は均等。守りは城衛と地下の番の混成で回る」
納骨堂の守り人が杖を鳴らす。頬に古い灰の印。
「鍵は私たちの血が預かる。書付は写しを大聖堂に。改修の出入りを勝手に決めるな」
皇子が頷き、言葉を足す。
「鍵は動かさない。書付の写しを地下街にも。三者立会いで開閉する」
司祭が両手を広げ、魔紋が淡い光を描く。円に茨。二人の前で花開くように織られ、石に沈んだ。契印がつく。公の儀礼は静かで、確かだ。
途中、小さな騒ぎがあった。侍従が箱を持ち間違え、指輪の代わりに納骨堂の古鍵が出てくる。会場がどよめく。皇子は一瞬だけ目を白黒させ、王子が笑って鍵を掲げた。
「先に先祖が祝福したらしい」
笑いが広がり、侍従は慌てて正しい箱を持ってくる。空気が柔らかく解けた。誤解は、ほどくと甘い。皇子はその甘さに肩の力を落とす。
◆◆◆
儀礼ののち、二人は回廊の陰へ。石壁がひんやりと肌に近い。王子が皇子の手を取り、小指の付け根をやさしく揉む——緊張が溜まる場所だ。
「水」
皇子は受け取り、半分飲む。胸の奥は高鳴っているが、苦しくはない。王子が額を寄せる。
「よく前に立った」
「背中があったから」
王子は頷き、抱き寄せる。ほんの少し強く、すぐ緩める。圧が安心に変わる。その感覚を、皇子は覚えておく。これが二人の『戻る』やり方。
「訓練、今夜は短めに」
「うん。市場の調整が先」
「スイッチ・デーは明後日にずらす」
「……甘い」
皇子が笑い、王子も笑う。甘やかしは甘い。ともすれば骨を抜かれる。けれど今は、背骨をまっすぐ伸ばせる。夜の誓文が芯にある。
広場に戻れば、露台の位置でまた揉める。日当たり、雨だれ。皇子は短く指示を出し、動線を描く。反論が来る。受け止め、一拍置いて二手の案を出す。喉が熱くなり、脈が速くなる。王子がすぐそばにいる。もし迷えば——
『藍』
心の内で一語を唱える。呼吸が整い、視界が澄む。王子の親指が、指の甲を一度だけ撫でた。信号は最小で十分だ。次の言葉が、すっと出る。
「雨の日は内側、晴れの日は外側。棚は折りたたみ式。これで」
顔役が頷き、司祭が記す。守り人は杖を軽く鳴らした。打音が、合意の合図になった。
儀式は終わり、争点のひとつはたしかに消えた。位次ではなく、並列。二人は肩を並べて回廊を歩く。石が熱を返しはじめ、昼の匂いが木洩れ日と混ざる。
王子が囁く。
「今夜、蜜菓子を買ってこよう」
「さっき『スイーツ・デー』って言われたし」
「先取りだ」
「……甘い」
「お前が好きだ」
皇子は立ち止まり、王子の胸に額を当てる。短い抱擁。言葉のケアはいつだって効く。彼は目を閉じ、背筋を伸ばした。『雄になる』という言葉が、政治の姿勢と一本に結びついていくのを感じながら。
次回、第20話:最初の勝ち点
鐘が三度、都の空を割った。香の匂いが白い柱をのぼり、光は大聖堂のステンドを焦がすみたいに濃かった。 皇子は一歩前へ出た。外では彼が先頭に立つ。王子は半歩後ろで外套の裾を整え、肩甲の紐を結び直しながら低く言った。 「歩幅、合わせる」 皇子は小さく息を吸い、頷いた。膝が笑わない。訓練の成果だ、と彼は胸奥で言い聞かせた。公開儀礼は、条約婚から始まった。帝国と王国の戦を終わらせ、二つの王統を結ぶ文言は羊皮紙に古い魔紋で縫い込まれている。老司教が巻物を掲げ、群衆は静まった。 「契りの第一条。戦は条約で終え、同床ではじまらないこと」 王子は笑いを堪え、皇子は喉の奥で笑いそうな自分を飲み込んだ。愛より先に契約、契約より先に信頼の種。二人で決めた順番だ。続いて、二人だけの合意契約が読み上げられる。可の範囲、不可の範囲。合図。アフターケア。 「拘束は軽度のみ。痕を残さない。侮蔑語は用いない。合図は左手二指の上げ下げ、または三度の掌打。セーフワードは『雪』」 司教が「ゆき」と発音した瞬間、地下街の頭領がくしゃみをした。緊張が少しだけほぐれ、笑いが波紋のように広がる。王子は皇子の指を握り、指輪の内側に刻んだその文字を撫でた。 「アフターケア。温かい飲み物、体温の維持、言葉での確認。拒否の理由を尊重し、再交渉は別日に」 朗々とした声が石壁に返る。儀礼の場でこんなに具体的な合意を明文化するのは前代未聞だったが、拍手は止まらなかった。二人の間に走った信頼の糸が、群衆の間にも一本ずつ投げ渡されたように見えた。聖具の箱が運ばれてきたとき、段取りが一つ転んだ。儀具の箱と器具の箱が同じ意匠で、文官が取り違えていたのだ。王子用のサインペンの代わりに、私室で使うソフトカフが金糸の布の上に鎮座してしまった。 「これは……革新的だな」 老司教が目を白黒させる。王子がひょいとカフを掲げ、群衆に向かって言った。 「公では皇子が前に、私室では私が支える。それだけの印だ」 笑いの渦が起こり、老司教
鐘の音が白い塔を震わせた。大聖堂の床は陽光に温まり、石の匂いがかすかに甘い。皇子は一歩、前に出た。公では彼が前に立つ。それが二人で決めたやり方だった。王子は半歩後ろ。視線で「呼吸」と告げる。皇子は息を数えた。肩に落ちる影が、いつもの合図のように優しい。森で出会った日の、彼の指の温度を思い出す。迷いを撫でて、背骨を立てさせた指だ。堂内は満員だった。条約婚の公開儀礼。帝国と王国の境で何度も頓挫した文言は、今朝ようやく一本線になった。二人の右手首に巻かれた白紐に、魔紋の燐光が走る。誓約魔法は、契約の条と合意の条を同列に刻む。「合意契約を読み上げる」皇子の声は良く通った。王子が喉の奥で小さく「いい」と呟く。承認の合図。皇子は続けた。「可は、互いの命令を公共目的に限ること。不可は、身体の安全と尊厳を損なう命令すべて。合図は、手の甲を二度叩くこと。そのときは即座に中止する。セーフワードは『灯』。口にされたときは、理由を問わず一切を止め、アフターケアとして水、甘味、毛布、そして抱擁を提供する」ざわめきが生まれ、すぐに収まった。王子が一歩進み、同じ条を繰り返した。響きの正確さが彼の性質を示す。最後に、王子が笑って付け加えた。「週1回のスイッチ・デーを設ける。公は皇子が前、私室では私が支える。逆の日は、私が前で、皇子が支える。政と心を、週ごとに点検するためだ」年配の臣が咳払いをしたが、隣の司祭に肩を小突かれて黙る。場の空気が柔らかくなったところで、事故は起きた。侍従が運ぶはずの儀礼の腕輪が、なぜか見慣れた革の箱に入っている。王子は開けて、乾いた笑いを漏らした。柔らかい黒革。金具。見覚えしかない。「……誰だ、寝室の箱を堂内便に混ぜたのは」侍従が青ざめた。皇子はすっと手を上げた。合図。笑って首を傾げる。「灯」王子が即座に箱を閉じ、水差しを差し出した。堂内が笑ってほどける。皇子は一口飲み、息を整え、正しい箱を受け取った。儀礼の腕輪は凛とした銀。革の方は、後で笑い話になる。扉が、外からどんと叩かれた。鐘がひとつ、ふいに止む。旧摂政派だ、と
市井の香りは甘かった。焼いた蜂蜜菓子、石臼で挽いた麦の匂い、油の焦げる音。皇子は人の波に肩を預けながら息を整えた。森を抜け、白樺の風を背に受けてここへ来た。大聖堂の鐘は祭りの開始を告げ、地下街の太鼓は胸の底で鳴っていた。納骨堂の若い守り手たちは香を焚き、先祖の名を囁いていた。三つの力が同じ通りに立っている。珍しい光景だ、と皇子は思った。彼の隣で、王子が文書筒を開いた。羊皮紙の契約が涼しい音でほどける。蝋印はふたりの紋を重ねた形だ。 「本日、可は手首のリード、腰への触れ、頬まで。不可は跪拝の強制と跡の残る拘束」 王子が短く読み上げる。皇子は喉を動かした。「合図は?」 「三度のタップで緩める。セーフワードは『柘榴』」 「アフターケアは?」 「水、陰、言葉の確認。俺が責任を持つ」 互いに頷くと、王子が目尻を和らげた。「それと、今日は週に一度のスイッチ・デーだ」 皇子は一瞬まばたきし、思わず笑いそうになった。「曖昧な天は厄介だな」 「公では君が前。私室では俺が支える。だが今日の私人の分は日没からにしよう。臨時条項、どうだ」 「受け入れる」 羊皮紙の隅に短い文言が追記され、蝋で封じられた。契約が身体に落ちる感覚を、皇子は好きだった。愛より先に契約。契約より先に信頼。その順番が彼を楽にした。広場の石畳には白い粉で踊り紋が描かれていた。螺旋が三度、中心で交わる。太鼓持ちが「踊れ」と笑い、屋台の娘が「ふたり、先に」と背を押した。皇子は一歩、前へ。公では彼が先に立つ。王子は半歩後ろ、指先で手首を支える。合意済みの熱が皮膚越しに伝わった。太鼓が三つ、鐘がひとつ。皇子は踊り紋に従って足を運んだ。右へ、二歩。左、止まる。王子の短い声が背に落ちる。 「息」 彼は息を吐いた。腰に軽く触れる手。力はない。ただ方向だけがある。雄になる訓練、と王子は呼ぶ。支配ではなく、選ぶこと。選ぶための筋肉。皇子は両手を広げ、群衆の円に向けて合図した。 「一緒に」
鐘の余韻が大聖堂の高い穹窿に絡み、薄い香が白い煙になって昇っていった。祭壇の上、皇子は前に立ち、王子は半歩うしろに寄り添った。公では皇子が先に、私室では王子が支える──二人が選んだ二重の秩序だ。「条約婚を、ここに成立させる」皇子の声はよく通った。胸の中央で淡い金の魔紋がひらき、誓いの文言が空気に溶ける。王子は短くうなずき、誓書の巻末に自筆の印を押した。契約は二重。国家間の条約として、そして二人の関係のルールとして。「可は、合意のもとに。不可は、口頭で明確に」皇子が読み上げる。その指先に、王子がそっと触れた。「合図は三つ。手を二度叩く、指輪に指を添える、視線を落とす」王子が続ける。書記が速記羽根で音を刻む。最後に、セーフワード。「葡萄。これで即時中止。誰であれ尊重する」大司教が「証」と低く唱え、祭壇石に光が弾けた。群衆は息を呑み、次いで歓声に変わる。条約婚の成立と公開儀礼。二人の連続する短い言葉が、国の法と身体の合意を同じ重さで縫い合わせた。地下街は、昼でも薄暗い。式ののち、二人は外套を纏い、石段を降りた。床石は油で滑り、香辛料と金属の匂いが混ざる。「税を上げる話ではない。任命を変える話だ」王子が穏やかに切り出し、地下街の顔役が腕を組む。血統で独占されてきた末端の監督職を、住区ごとの投票で選ぶ。皇子は前に出る。「候補は血筋からも出る。ただし、最終は票だ」短い。だが硬い。顔役は底を測るように皇子の目を見る。王子は身体の角度をわずかに変え、支えの気配だけを渡す。合図は要らなかった。皇子の背筋は伸びていた。納骨堂は冷たかった。骨壁に刻まれた名が規則正しく光る。司の灯が揺れ、古い権利書が開かれる。「祖霊が継承を指名する。これが我らの掟」司の目は細かった。皇子は手の甲に描かれた魔紋に息をかけ、静かに返す。「祖霊の灯守は、施主たちが選ぶ。毎年、花の季に。灯守の印は納骨堂が授ける」血は敬う。だが意思は生きている者の側に置く。王子が文案を差し出す。灯守は儀礼の長だが、王座の代行ではない。司はしば
鐘が三度、鳴った。香の煙が白く漂い、聖油が肌にひやりと触れた。大聖堂の中央、皇子は胸に手を当て、王子の差し出す掌に指を重ねた。司祭の声は短く、魔紋が手首に浮かび、青金色の光で互いの脈を結んだ。公開儀礼は、淡々と、だが確かに終わった。地下街の代表は袖の陰で数え、納骨堂の管理長は無言で頷き、列柱の影には押し合う視線。権利の取り合いは終わっていない。むしろ、ここからだ。皇子は息を吸い、前に立ち、簡潔に宣言した。「共に治める」王子は一歩、半歩だけ後ろへ。掌の力だけで支える。その距離感が、公の合図だった。夜。私室に移ると、カーテンは厚く、焔は低く、窓は鍵が下りていた。机の上に羊皮紙、銀の印章、細い羽根ペン。王子は外套を脱ぎ、皇子の喉元の赤い印を指先で確かめる。「痛むか」「平気だ。儀礼の油の匂いがする」「なら、始めよう。私的条項の更新だ」二人は椅子に並んで座り、文字を交互に置いていった。可、と不可。合図、順序、アフターケア。王子が短く読み上げ、皇子が短く頷いた。「可。命令の口上。視線の固定。跪礼」「不可。痕の残る拘束。首を圧す行為。公の場での混同」皇子は指先を軽く上げた。「要確認。手枷は絹のみ。鍵は見える場所に」王子が笑う。「絹以外は、納骨堂から怒られる」ここで扉が軽く叩かれた。侍従が青い顔で羊皮紙の束を差し出す。「先ほどのドラフト、誤って納骨堂に回してしまいまして……戻ってきました」束の表紙には、赤い書き込み。「骨壺区域に金属鍵は禁止」。二人は声を殺して笑った。皇子は耳朶まで赤い。「返事を書こう。金属鍵は私室用だって」王子は「了解」とだけ言って、可の欄に一行足した。「合言葉の運用。セーフワードは『灯』。ささやきで発する。三度、手を叩く動作と併用」皇子はその言葉だけで喉が動いた。「……『灯』」「今は運用の確認だ。言えば、すべて止める。水を出す。手を包む。説明は求めない。再開の合図は『続ける』。それがなければ、夜は終える
軍鼓が二つ、違う拍を刻んでいた。広場の石畳にひびく重音が片や三歩、片や四歩。列が蛇のようにうねり、槍の穂先が互いの肩に刺さりそうになった。「止め」皇子が前に出て、掌を立てた。春の光が外套の縁を白く縁取り、彼の耳は緊張でほんのり赤かった。王子は半歩後ろで、視線だけで行軍長に合図した。「原因は?」「太鼓頭がふたり、殿下」「それは知っている」王子が小さく笑って、皇子の腰骨に目に見えない支えの手を置いた。触れはしない。だが皇子の肩の呼吸が一つ整った。公では皇子が前。私室では王子が支える。その二重の歩調を、軍にも教える必要があった。《『軍の歩調って本当に歩調だよな』》彼らは大聖堂の影で条約婚を成立させたばかりだった。公開の儀礼では、白砂糖で磨かれた石の階段を、皇子が先に上がり王子が背面を守った。誓約の巻紙には「支配と委ね」の章があり、政治の合意と同じ体裁で、私室の契約が明文化された。可・不可、合図、アフターケア。セーフワードは薄荷。指先三回の合図で緩め、薄荷の言で即時停止、そして蜂蜜茶とぬるい湯、それから背に描く温めの魔紋。官能の言葉が、法律の言い回しで刻まれているのは、少し可笑しくもあり、安心でもあった。問題は、軍だった。二頭制と告げただけでは、現場は迷う。誰の号令に従い、どの旗を見るか。大聖堂は儀礼の権威を主張し、地下街は糧秣の配分権を握り、納骨堂は戦没者の名の扱いをめぐって口を出してきた。権力が絡まれば軍鼓も乱れる。「手引きを出す」王子が言い、地下街の書写工と取引した。地上の印刷は大聖堂の発願が必要だが、地下なら早い。薄い羊皮を重ねた掌サイズの冊子に、魔紋の透かしを入れた。表紙には二つ首の鷲の紋。左は蒼、右は朱。蒼は皇子、朱は王子。公務の場では蒼の旗が前、私室と戦術即応時は朱が支えに入る。その切り替えを明確にするために、「週一のスイッチ・デー」を軍も採用した。毎週火の六日、旗の位置が入れ替わる。笑った兵も多かったが、笑いが溶かす誤解もある。「スイッチって、その……」若い隊士が耳を赤くした。王子が片目をつむった。「公務