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第20話:最初の勝ち点

Author: fuu
last update Last Updated: 2025-09-23 23:00:12

鐘楼の影が石畳に長く張り、夕陽の赤が輪郭を灼いた。大聖堂の前庭は香炉の煙と旗の布音で満ち、二つの国の紋章が並び立つ。皇子は一歩、前へ。背に落ちる影は王子のものだ。

——公では皇子が先を行き、私室では王子が支える。

その立ち位置は偶然ではない。互いの合意で、選び取り、磨いてきた「型」だ。

公開の儀礼は、初めてほどには震えない。額に触れる聖油は冬の水のように冷たく、祈祷の詠唱は石壁を舐めて低く響く。皇子は腹の底で息を撫で、旅の森で覚えた腹式呼吸で胸の波を整える。

その横で、王子の指が皇子の手の甲を二度、淡く押す。合図。言葉ではなく体で支える。引きすぎない、押しすぎない——「支えるために余白を残す」という訓練の成果。

「誓うか」

司祭長の問いに、皇子は半拍だけ遅れて頷く。

「誓う」

声はよく通り、石の空へ澄んだ軌跡を描いた。自分で驚いたのか、皇子は小さく笑う。王子は奪わない微笑で受け止める。所有ではなく、支援であることを示すための笑い。

儀礼は進む。誓紙に朱筆、指輪の交換。幕間、王子は包みを解き、帳簿の抜粋を広げた。地下街の納骨堂に積まれた銀貨、香油商組合の印、反対派へ流れる寄付の径路。細い線で結ばれた闇の地図。

「公表する」

王子の声は短く、確度がある。皇子が頷き、言葉で杭を打つ。

「虚偽はない」

その一言が広場の石へ真直ぐに落ち、波紋の角がとれていく。拍手が連なり、娘が花を投げ、老人が杖で石畳を二度叩く。支持は山のようには膨れない。だが川幅は広がる。市場の値札に小花が描かれ、井戸端の噂が書き換わる。微増——それでよい。積層は、やがて石段になる。

◆◆◆

摂政は笑わない。青髪の兵士が封蝋の重い書状を携え、控え間へ二人を呼ぶ。

「誰に教えられた」

王子は肩をすくめる。

「地下街は、歩けばわかる」

皇子が半歩、前へ。

「私たちの名で、公表する。あなたの名ではない」

肘掛けを叩く乾いた音が、苛立ちの拍を刻む。皇子の背筋がわずかに硬くなる。王子は手首を二度、軽く叩く。合図。

皇子の視線が王子を探し当て、小声で「灯」。セーフワード。

摂政の眉がわずかに動き、護衛が本当にランプを持ってきてしまい、場に妙な間が落ちる。

「違う、言葉の合図だ」

王子は柔らかな笑いで空気を切り直す。余白を作る笑いは、剣より早い。

皇子は水を含み、舌の裏に置いてから前を向く。

「公金と祈りは、混ぜない。それだけです」

摂政の舌打ちは小さいが、重い。去り際の一言。

「地下を覗くな」

王子は静かに一礼した。

「地上のために、降りる」

◆◆◆

控えを出ると、若い従者が巻物を抱えて駆けてきた。

「殿下! 条約の追補文書、今すぐ印を!」

王子は封の薄藍に眉を寄せる。私室用の色。中身は二人の「合意契約」。可・不可、合図、アフターケア。あの夜に書き交わした文が、公文書の箱へ迷い込んでいた。

「これは公開されない」

王子は即座に巻き直す。従者は耳まで赤く震えた。

「申し訳ございません! 条約の『約定』と、床に置かれていた『約定(私文書)』が……」

皇子の肩がふるりと揺れる。

「字面が似てる」

王子も笑い、しかし釘を打つ。

「似ているが、混ぜない」

◆◆◆

私室。儀礼後のアフターケアは契約通りに、淡々と甘い。温い湯を肩に受け、蜂蜜菓子を二つに割って分ける。皇子の手首には紅い細紐——“可”の範囲の標。手は繋ぐが、縛らない。肩を二度叩けば「待って」、セーフワードは『灯』——今日、確かに場を救った鍵。

王子は布で皇子の髪を拭きながら言う。

「よく言えた」

皇子は唇を尖らせる。

「途中で逃げた」

「逃げるのも技術だ。あの人の前で“逃げを選べた”のは雄の判断」

「……雄、か」

「君が雄であることと、君を甘やかすことは矛盾しない」

二人は巻いた契約を開き、癖の読み上げで呼吸を揃える。

——可:抱擁、額の口づけ、手首の紐まで。

——不可:跪礼の強要、声の封じ、祈りの混同。

——合図:肩二回/手首一回=「待って」。

——セーフワード:『灯』(第三者の前でも有効)。

——アフターケア:温い飲み物、甘味ひとかけ、言葉での振り返り、距離の再設定。

王子は巻物を閉じ、印を指先で確かめる。

「そして、週一回のスイッチ・デー」

「明日」

「明日は無理だ」

地下土間の査察、商会との面談、納骨堂の石番との会談。予定はぎっしりだ。

「では七日後」

「七日後は、森に戻る日」

声が重なり、一瞬の沈黙。ついで笑いが弾ける。

「段取りが悪いね」

「直そう」

羊皮紙に小さな印を押す——七日に一度、誰が『前』に立つか。公は皇子、私室は王子。スイッチ・デーは逆。明文化された規則は、体と心の負担を狙い通りに分割してくれる。

「今日、民が笑ってた」

「笑ってた」

「私たちを、じゃない。互いを見て笑ってた」

「それは、支持の微増より大きい」

◆◆◆

夕刻。地下街の入口で香煙が薄く揺れる。森の薬師からもらった香の残り。袖に染みた香油が記憶を連れてくる——旅立ち、森での出会い、次の目的地。順序は守る。大聖堂の地下は迷宮で、納骨堂は静かに金を飲む。反対派の資金路は、骨と骨の隙に潜む。

王子は皇子の手を取り、二度、軽く叩く。前へ。

「降りよう」

皇子は喉の奥の祈りをほどき、言葉に換える。

「降りて、帰る」

降りることは退却ではない。地上のための前進だ。支持は一日で山にならないが、石段を一段ずつ降りるように積み増せる。

扉の前には青髪の兵士。封鎖札には摂政の印。

「理由」

王子の問いに兵士は困り、手袋を弄ぶ。

「……雨漏りの修繕、と書いてあります」

皇子の口元がふるりと震え、王子は目を細める。まだ笑うのは早い。

「修繕の手伝いに入る」

王子は淡々と告げ、条約婚の共同印章を札へ添える。公印が公印を開く。兵士は肩をすくめ、道を開けた。

「お気をつけて」

「灯」

皇子が小さく呟き、王子が頷く。セーフワードは鍵にもなる——良い符牒は命を守る。

階段の口から冷たい石の匂いが吹き上がる。湿り気を帯びた風が膝を撫でる。王子は掌を重ね、皇子の背を二度、そっと押した。前へ。皇子は一歩、踏み出す。

その足取りはまだ柔らかいが、確かに“前”の重さを受けていた。王子はそれを見て、支える力をほんの少しだけ緩める。——自分の足で立つための余白を、計画的に残す。

——小さな勝ち点が、確かにここに置かれた。

次回、第21話:地下聖堂への降下

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