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第17話:摂政の逆提案

作者: fuu
last update 最終更新日: 2025-09-20 23:00:06

鐘が六つ。風は乾いて、粉砂糖みたいに舞う石灰の匂いがした。大聖堂の影が広場に落ち、エレーネは黒いヴェールを指先で整える。

「宗教婚を——民が望んでいる」

言葉は短く、刃のように真っ直ぐだった。皇子は指先を内側で握る。王子の視線が横から支えた。ここは公。皇子が前に立つと決めた場だ。

「講和条約の婚姻条項に従い、成立はする。ただし、場所の解釈は未定だ」

止める息。王子の靴先が足首に軽く触れた。合図——大丈夫、と伝える圧。

エレーネは鼻で笑う。

「大聖堂こそ城と同格の公権の舞台。そこ以外、ある?」

ある、と皇子は思った。けれど、まだ剣(速さ)より盾(間)が要る。王子が半歩出て、公では黙る慎みを守りながら薄く笑った。

「ご祝福は尊い。だが、儀礼の独占は負担になる」

エレーネのまぶたがわずかに動く。それは「続けて」の合図。彼女は摂政。勝ち筋の香りに敏い。

皇子は喉を鳴らし、言葉を置いた。間で盾をつくる。

「地下街の誓約台帳。納骨堂の祖霊。古来、都市の契約は、鐘楼と骨のあいだで成されたと聞く。私たちの条約婚も、そうであれば、公平だ」

静寂。大聖堂の石が冷えて、足の裏に伝わる。エレーネは唇の端を上げた。

「逆に、こうしよう。納骨堂で契約を結び、広場で公開する。その後に大聖堂の階段で祝福を受ける。礼拝堂の扉は閉ざしたまま。祝福は鐘だけ」

逆提案。負けていない顔で、退き道を自分の言葉にする。王子が胸の内で笑い、皇子も小さく息を吐いた。

「承る」

「承る」

二人の声が揃い、鐘が七つになった。

◆◆◆

私室。扉を閉めると石灰の匂いは薄まり、蜂蜜を温める香りが広がる。王子が机に羊皮紙を広げた。

「合意契約。公と私の境界を、私たちが決める」

皇子は頷く。身体の契約と統治の契約を並べるのは、奇妙にぴったりだった。王子が読み上げ、短い句を合いの手のように交わす。

――可:手首の固定は布のみ。

――可:膝立ちの指示。

――不可:痕が残る行い。

――不可:息を奪うもの。

――合図:左足首への二度のタップで一時停止。

――セーフワード:『白葡萄』。

言って、皇子は喉でその音を転がしてみる。柔らかくて、切りやすい音。

――運用:『白葡萄』が出たら即時停止・距離・呼吸の同調・温かい飲み物。確認三つ。

王子の声は落ち着いている。筆先が踊り、最後に添える。

――週一回のスイッチ・デー:五の曜日。公務も交代。公では皇子が前、私室では王子が支える。逆の日は王子が表、皇子が補佐。

皇子は笑い、王子も笑う。そこへ侍従長が茶を運び、書類の束に目を見張った。

「それは評議の議題ですね。すぐ写して——」

「あ、それは——」

時すでに遅し。若い書記が廊下で朗々と読み上げる。

「議題七。週一回のスイッチ・デー——」

廊下が静まり、誰かが喉を鳴らした。王子は瞬きもせず扉を開ける。

「執務交代日のことだ。民の前での立ち位置が週一で入れ替わる。透明性のために公示する」

若い書記が赤くなって頷き、侍従長は咳払いして茶を丁寧に置いた。皇子は耳まで熱くなったが、王子が湯気の立つ蜂蜜湯を差し出し、指先で手の甲を撫でる。落ち着く。笑ってしまう。こういう誤解は、許される。

◆◆◆

地下街は香辛料と金属の匂いでむっとしていた。市場の灯りは薄暗い。皇子は前に出て、王子は一歩後ろ。地下街の長は鉄の指輪をいくつも重ねている。

「大聖堂の階段で祝福、だと? あいつらは鐘で金を取る」

「骨の前で誓約すれば、鐘の音は飾りだ」

王子の言葉に、長は笑った。

「いい。台帳は灰の兄弟会が守る。納骨堂の燭台一本を、おまえらの名で灯せ。誓いは灯に留まる」

「費用は?」

「祭礼税の一部を地下の清掃に回す。それで手を打つ」

皇子は頷いた。香の煙で鼻が痛い。だが言葉は真っ直ぐ出る。

「取引だ。書く」

◆◆◆

公開儀礼の日。広場は布と花で彩られ、鐘楼にリボンが揺れた。皇子は前に立ち、王子が横に寄って目だけで問いかける。呼吸は合っている。

書記官が蝋を垂らし、印璽を押した。赤い蝋が冷え固まる匂い。群衆のどよめき。皇子は声を広げる。

「婚姻は条約の一部。領地は開き、通行を許し、税を軽くする」

短い句。王子の言葉も重ねた。

「争いは長く、眠りは浅かった。今日からは、眠りを深くする」

笑いが起きる。おばあさんが「よく眠れ」と叫び、皇子も笑って手を振った。

階段の上、扉は閉ざされ、司祭長が外へ出てくる。鐘が打たれ、エレーネが立っていた。ヴェールは風に揺れ、目は鋭い。

「祝福を」

それだけ言って彼女は一歩引く。司祭長が短く祈り、中へは入らない。鐘が鳴るだけ。人々は拍手した。扉が閉ざされたままだと、逆に空が広く見えた。

◆◆◆

納骨堂は冷たく静かで、燭台は低い。骨の壁、火の匂い。灰の兄弟会が文を読み上げ、二人の名を刻む。王子が蝋燭に火を移す。

皇子の指が震えた。音が小さすぎて、記憶がうるさくなる——戦の夜、鐘、足、息。

「……『白葡萄』」

囁き。王子の手がすぐに離れた。距離。呼吸の合図。吸って、吐く。もう一口。蜂蜜の瓶が持ち込まれ、温い杯が手に押し込まれる。熱が指に戻った。

「ここで止める? 外に出る?」

王子の声は低い。皇子は首を振る。

「続ける。火を見ていたい」

「ゆっくり。私の手を見て」

指先の動きに合わせ、皇子は火を移す。炎は揺れたが、消えなかった。兄弟会の男がうなずく。

「それでよい。祖霊は見ているが、裁かぬ。ただ、覚えている」

儀礼は終わった。外に出ると夕日が赤く大聖堂を染め、広場の屋台から肉の焼ける匂いが立った。刃が鞘に戻るみたいに、胸の硬さが収まっていく。

夜。王子は皇子の襟を緩め、温い手で首筋を撫でた。彼は眠気といっしょに、昼の硬さを手放す。

「よくやった」

「お腹、空いた」

王子が笑ってパンをちぎる。アフターケアは食事と水分と、言葉。交わす約束は短い。

「明日、執務は君が前」

「うん」

「五の曜日は、私が前」

「うん」

軽いノック。侍従長が文を差し出した。封蝋は灰色。地下の印。

「カスパル・グレイより。条件提示。納骨堂の灯を守る対価として、都市の灰の流れを改革せよ、とのこと」

王子と皇子は顔を見合わせた。いつものように、笑いが先、策が後だ。

次回、第18話:カスパル・グレイの条件

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