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第9話:第二の鍵

Author: fuu
last update Last Updated: 2025-09-12 23:00:32

森を抜けて首都に入ったとき、皇子は掌の汗を拭った。王子の指が絡み、圧をやわらげるように一度だけ押し返す。合図は決めてある。二度の圧で「止める」、三度で「話す」。言葉の合意と同じくらい、触れ方の合意が二人を安定させた。

地下街の入り口で、顔役が肩をすくめた。

「白骨鍵?また古い怖い話を拾ってきたな」

「噂だけでいい。どこが発火点だ」

王子の声は冷たく短い。皇子は横で息を整え、質問を一本に絞る訓練どおりに続ける。

「納骨堂に条約破棄状が眠ると聞いた。鍵は大聖堂が持つ、と」

顔役は目を細め、香草の匂いが強い湯気を吹きかけてきた。

「白骨鍵は、瘡のように争いを呼ぶ。大聖堂は「遺徳」と呼ぶが、こっちは「札束」と呼ぶ。持ってるだけで商売になるからな。納骨堂は……司祭どもが騒がせないための倉庫だ」

「場所は」

「聞かなかったことにしてくれ。代わりに忠告をひとつ。骨の形をしてるのは鍵じゃない。鍵なのは、骨の『由来』だ」

王子が礼を言い、骨型のパンを三本買った。祭の屋台のおやつだ。皇子は一本を齧って、笑ってむせた。

「……発酵鍵」

「白骨な。可愛い間違いだが覚えづらいなら書いておけ」

皇子は指先で王子の手の甲に「白骨」となぞり、その隣に小さく「灯」。二人だけのセーフワードだ。

条約婚の公開儀礼は、日没の大聖堂で執り行われることになっていた。帝都の石はまだ熱を抱き、鐘楼は沈む光を抱えたまま震える。王子は誓約文の最後を確認し、皇子に渡す。

「可・不可、合図、アフターケア。全部読み上げられるか」

「うん。公では私が前に、私室では君が支える。週一回のスイッチ・デーは月虹の日。セーフワードは『灯』。不可は——首や呼吸に関わる拘束、痛みの残るもの、第三者の介入。可は——言葉での指示、姿勢の訓練、軽い拘束、褒美の給付」

王子が頷き、袋から砂糖漬けの柑橘を取り出して口に押し込んだ。

「うまい」

「緊張してる顔だった。甘いので塗っておく」

大聖堂の階段は人で満ちた。老司祭が白い手袋を直しながら出迎えた眼差しは、柔らかさの奥に計算があった。

「条約婚の成立を祝う。だが、聖なる納骨堂は騒がせないように」

王子は笑って、皇子の背中に触れた。皇子が一歩前へ出る。

「納骨堂は祖先のもの。騒がせません。けれど、祖先が残した『破棄状』の有無は、次に騒ぐ者を止めるために確かめたい」

老司祭の瞼がわずかに跳ねた。王子はそれを見逃さない。

「まさか——」

「噂に火をつけるのは、いつも鍵を持つ者だ」

儀礼は粛々と進んだ。二人の指には、同じ魔紋が刻まれた輪が嵌められる。魔紋は相手の心拍を緩やかに伝える程度の紐帯で、同意の揺らぎを知らせる機能しか持たない。誓詞の中に、可・不可と合図とアフターケアの条がそのまま読まれたとき、半数が首を傾げ、半数が安堵して笑った。二人は、誰にも驚かれないために、あえて驚かせた。

最後の祈りで、皇子は一瞬、喉を詰まらせた。王子の親指が背に二度押される。「止める」の合図。皇子は微笑み、ゆっくり息を吐いた。

「大丈夫」

小声でそれだけ言い、祈りを結ぶ。鐘が降り、群衆が沸いた。

儀礼の後、老司祭が近寄り囁いた。

「夜半、納骨堂へ。白骨鍵の由来について——話がある」

地下街の顔役も陰から指を立てる。二つの権力が同じ時刻を差すとき、争いは深い。

夜半。燭が湿った空気に溶け、骨壺の列は薄い乳色に浮かんだ。老司祭は鍵を掲げる。煌めいたのは骨ではない。白竜の角だ。かつて帝の遠征で屠られた古き守護者。その欠片が鍵だった。

「由来は血の記録。鍵穴は、罪悪感だよ、若い方」

皇子は黙って聞いた。王子が片眉を上げ、短く問う。

「破棄状はどこだ」

「一番奥。帝の母の棺の下だ。だが開けるには……」

言い終える前に、若い従者が影から飛び出した。地下街の走りだ。角鍵に手を伸ばす。王子はその手首をすくい上げ、耳を軽く捻るだけで止めた。

「暴力は使わない。合図はわかるな」

「……参った」

老司祭がため息をつき、鍵を皇子に手渡した。

「賢く使え。帝都は祈りと商いでできている。どちらかだけが勝つと、どちらも負ける」

棺が軋み、冷たい空気が頬を撫でた。封蝋に、昔の摂政の印。破棄状の文面は簡潔で残酷だ。「戦の徴が三つ揃えば、条約は無に帰す」。三つの徴は、飢饉、疫、辺境の反乱。今、二つが揃っていた。最後の一つを偽装すれば、条約婚を無効にできる。

王子は文を読み終え、破ることなく閉じた。

「燃やせば済む話じゃない。燃やした者が犯人になる。公開して、無力化しよう」

皇子はうなずいた。訓練で覚えた低い声が喉から出る。

「聖印写本庫で公開写しを作成する。『共治印』を新たに刻む。破棄状より後の法で上書きする」

老司祭は半歩、退いた。地下街の若者は目を丸くした。

「そんな手が……」

翌朝。二人は再び大聖堂の前に立つ。写本庫の書記官が震える手で剣先のように尖った羽根を走らせ、新しい布告文が掲げられた。

「帝と王国の『共治』宣言。公では皇子が前に立つ。私室では王子が支える。大聖堂・地下街・納骨堂は相互に監査する」

人々がどよめく。最初の改革は、表現の仕方から始まった。

私室に戻ると、皇子は脱力し、王子の肩に頭を預けた。

「声、震えてなかった?」

「最後だけ。完璧に近い。だが完璧は危険だ。次は余白をつくる練習」

「……厳しい」

「甘やかす。ほら、蜂蜜ミルク」

湯気の向こうで、皇子は笑った。喉の緊張がほどけるのを王子は掌で確かめる。手のひら越しに伝わる鼓動は、誓約の魔紋より頼りになった。

「スイッチ・デー、どうする?」皇子がカップを置いて訊ねた。「月虹の日、評議と被った」

王子は日程表をめくり、苦笑する。

「段取りミスだな。夜に回す。公の君が終わったあと、私の合図で始める」

「合図は?」

王子は皇子の髪を梳いた。

「灯、だ」

皇子は吹き出した。「それセーフワード」

「だから冗談だ。真面目に決める。合図は——『おかえり』」

「……いいね」

夜の訓練は十五分だけにした。姿勢、呼吸、視線。それ以上に踏み込む前に、皇子が肩を竦めた。

「灯」

王子はすぐ止め、毛布を引き寄せた。温かさを重ね、「君はよくやった」と低く告げる。アフターケアの言葉は簡単で、だからよく効く。皇子は頷き、額を押し当ててきた。

「僕、雄になる。政治の意味で」

「知ってる。私がその道具になる」

外では鐘がまた鳴っていた。大聖堂は祈り、地下街は商い、納骨堂は眠る。鍵は金庫ではなく、共治の枠に収まった。骨ではなく由来を握ったことで、争いはひとつ静まった。まだ始まったばかりだったが、始まったことが重要だ。

次回、第10話:儀礼の仮面

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