ログイン大聖堂の鐘が三度鳴り、石床の魔紋が薄金に脈打った。王子は半歩だけ後ろに立ち、皇子の背を視界に収める。公では皇子が前に——それが今日からの二重統治の決まりだ。呼吸を整え、肩甲の革が軽く鳴る音を聞く。皇子の背筋はいつもより硬い。緊張は悪ではない、と王子は心の内で小さく突っ込んだ。悪いのは喉が渇いて誓文の言葉が絡まることだ。水、あとで絶対に飲ませる。
「誓文を」と老司祭が促す。灰色の香が柔らかく鼻を刺した。
皇子は一息、それから前を向く。
「我らは条約によって婚姻を結ぶ。国境を開き、巡礼と商いの路を守る。戦の前に対話を、利の前に秩序を」
王子が続けた。
「我らは互いの身を守り、互いの領を支え合う。法の前に平等であることを示すため、今日の契約を公開する」
聖壇の上、銀砂で描かれた契約紋がふっと浮き、二人の足元まで細い枝のように伸びてきた。指輪の段になると、王子はつい手癖で皇子の手を引き寄せ過ぎ、司儀の若い従者が咳払いする。
「公共の場では、前に立つ方が主導を」
「あ」
王子は即座に手を緩めた。皇子が小さく笑い、指を差し出す。逆の手を出しかけて、二人して同時に気づいた——左右を間違えた。大聖堂に一拍の笑いが走り、緊張の糸が解ける。こういう事故は歓迎だ、と王子は内心で頷く。
契約紋が金から青へと色を変え、公開儀礼は署名へ移った。王子は宮廷書記官の読み上げに合わせ、条約婚の条文に名を記す。「公では皇子が前に、私室では王子が支える」——二重統治の条。王子は横目で皇子の横顔を見た。負担ではなく、背骨にする。それが自分の役目だ。
儀礼が終わると、掌が少し汗ばんでいた。歓声、楽の音、銀の鈴。外の石段に出ると陽の光は容赦なく白い。人の海が波打ち、花弁が舞った。王子は皇子の肘にそっと触れ、さりげなく日の向きを変えさせて影で目を休ませる。公の顔のままで支える。慣れれば簡単だ。慣れるまではこっそりだ。
私室に下がったのは、鐘が四度目を告げてから。薄い蜜柑色の灯と、熱い茶の湯気。王子は卓に羊皮紙を広げた。個々人の契約——二人のための条。愛より先に契約、契約より先に信頼の種を置く。
「可は」
王子が書き出す。
「手を取る、抱擁、口づけ、合図の確認、跪礼の練習」
「不可は、痣が残る行い、呼吸を乱す行い、公務前の長い拘束」
皇子が頷く。その頷きが少し早い。
「合図は?」
「右手を二度握るで一時停止。肩に触れて下へ滑らせるで完全停止」
「セーフワードも」皇子は真剣だ。
「言葉で止めたい時のために」
王子は少し考え、皇子の目に灰色の光を見つけて言った。
「『灰』」
皇子が笑う。
「君らしい。灰は残る。燃え尽きても、残る」
「運用は、そのまま」
王子はさらさらと書く。
「『灰』で全停止。アフターケアは茶と水、脈の確認、温の足湯、軟膏。寝具の交換と、夜の抱き寄せ」
「週一回のスイッチ・デーは?」
皇子が首をかしげる。
「第七日にしよう。君が導く日。私が従う日」
皇子は照れて視線を逸らし、指でテーブルの縁をなぞった。
「その日、君が膝をつくのを見るの、少し怖くて、少し嬉しい」
王子はひと呼吸、彼の手を包む。
「怖い時は『灰』を言っていい。君が前に出ることは、君を独りにすることじゃない」
契約に二人の名を記す。魔紋が柔らかな碧を灯して沈んだ。王子は皇子の髪を一筋、指でほどき、額へ軽く口づける。これ以上はしない。今日は公務がある。そういう段取りだ。
扉が軽く叩かれた。地下街の使いだと若い従者が告げる。
「カスパル・グレイが、大聖堂の下で待つと」
王子と皇子は互いに頷いた。約束通り、公の顔を整える。王子は半歩下がり、皇子が扉を開けた。
◆◆◆
地下街の入り口は聖堂裏の石段のさらに下、香の匂いが別の香に変わる場所にある。湿り気のある風と、燻る薬草と皮革の匂い。闇は厚いが、蝋燭の点は多い。カスパル・グレイ——煤をまとう細身の男——が骨の杖に身を預けていた。髪にも衣にも灰が薄く積もっている。灰は汚れではなく、印だ。
「条約婚、見た」
カスパルが口端だけ上げた。声は乾いているが、目は光る。
「神様が好みそうな形。地下は神様の客じゃないが」
皇子が一歩前へ。
「条件を」
「早い」カスパルが笑った。
「好きだ。条件は三つ。ひとつ、地下の者に赦しを。追い立てないこと。ふたつ、納骨堂の儀礼を地下に戻すこと。死者の道は上の都合だけで変えないこと。みっつ、白骨鍵を持ち出すなら、必ず戻すこと。ここは墓所だ。空の国庫じゃない」
王子は頷き、皇子の横顔を見る。皇子の喉がわずかに動いた。納骨堂——皇子の過去に絡む言葉だ。王子は皇子の指に触れ、さりげなく握る。二度の握り返しが来ないか確かめる。皇子はゆっくり息を吐いた。
「赦しは、明日評議で出す」皇子の声に芯が通る。
「大聖堂との共同布告にする。死者の道は将来の改革に織り込む。白骨鍵は使い、戻す。証人を付けて良いか」
「良い」カスパルは顎をしゃくる。
「ただし、聖堂の印吏だけは嫌だ。名前で鍵を縛る者は信用しない」
「では地下の長老を」王子が口を挟む。
「あなたの側から二名、こちらから二名。四名で鍵の移動を記録する」
カスパルは杖で石床を軽く二度叩いた。
「交渉がうまい。さらに条件。スイッチ・デーとかいう変な日を、上では隠せ。地下はこういう噂に飢えている」
皇子が真っ赤になり、王子は盛大に咳払いをして場の灰を散らした。「失礼、手元が滑りました」
別の蝋燭の火がゆらゆら揺れ、地下街の商人たちの笑いが小さくこぼれる。空気が少し温かくなった。軽口はむしろ歓迎だ。緊張は笑いでほどける。
「白骨鍵の在処はどこだ」
皇子が戻る。声に芯があった。今日の公開儀礼が、皇子の喉に一本の棒を通したのだ、と王子は思う。いい棒だ。折れず、揺れる。
「納骨堂の第三環。灰の礼拝堂の裏。骸骨の口が二つある。上は誰でも噛まれる。下は、誓文を持つ者だけが噛まれない」
カスパルの視線が契約羊皮紙へ滑った。
「今日書いたやつを持っていけ。今日は駄目だ。大聖堂の香が強い。夜更け、香が落ちたら案内する」
王子は息を整える。やっと骨の扉が眼前だ。
「案内の代価は?」
「上と地下の二重統治を、地上だけの話にしないこと」カスパルは肩をすくめた。
「地下の王にも椅子を。古い、狭い、壊れやすい椅子でいい」
皇子が一歩前に出る。王子は半歩下がる。公の顔で、私の背骨。
「約束する。カスパル・グレイ、今日の誓いは灰にも降ろす」
カスパルが薄く笑い、杖で石をひと撫でする。
「夜更けだ。灰が落ちるころ」
交渉が終わった、と王子は感じた。だが帰り際、柱陰の聖堂側の印吏が目だけでこちらを刺す。彼らの権力は地下を嫌う。大聖堂・地下街・納骨堂——三つの勢力の均衡。今日、ひとつの目盛りが動いた。
◆◆◆
私室に戻る途上、皇子の歩みが一瞬だけ乱れた。王子は即座に手を取る。指が二度、強く握られる。合図——一時停止。王子は歩みを止め、廊の壁に寄り、茶を頼んだ。カップの温が掌に移り、皇子の呼吸が戻るのを待つ。セーフワードは出なかったが、合図の運用は正しかった。
「ありがとう」皇子は息を整える。
「灰の香が、昔を……」
「灰は残る。けれど、燃やすのは私たちだ」王子は短く言い、肩越しに笑わせた。
「それと、スイッチ・デーの噂は、当分地下に降ろさない。君の誇りのために」
皇子が笑う。
「誇りと恥は紙一重だ」
夜更けへ向けて準備をする。契約羊皮紙、灯、麻縄ではなく布の帯、香を中和する香。王子は念のため、アフターケアの軟膏も袋に入れた。政治の儀礼も、心身を使う以上はケアがいる。雄になる訓練は、相手を壊しては続かない。
窓の外、鐘が五度鳴り、灰が細雪のように降った。地下の王は条件を示し、二人は応えた。白骨鍵は近い。けれど、近さは油断を呼ぶ。王子は自分の中の主導と従属の位置を、指の間で確かめた。公では皇子が前に、私室では王子が支える。互いの椅子を守るために。
次回、第19話:夜更けの誓文
鐘が三度、都の空を割った。香の匂いが白い柱をのぼり、光は大聖堂のステンドを焦がすみたいに濃かった。 皇子は一歩前へ出た。外では彼が先頭に立つ。王子は半歩後ろで外套の裾を整え、肩甲の紐を結び直しながら低く言った。 「歩幅、合わせる」 皇子は小さく息を吸い、頷いた。膝が笑わない。訓練の成果だ、と彼は胸奥で言い聞かせた。公開儀礼は、条約婚から始まった。帝国と王国の戦を終わらせ、二つの王統を結ぶ文言は羊皮紙に古い魔紋で縫い込まれている。老司教が巻物を掲げ、群衆は静まった。 「契りの第一条。戦は条約で終え、同床ではじまらないこと」 王子は笑いを堪え、皇子は喉の奥で笑いそうな自分を飲み込んだ。愛より先に契約、契約より先に信頼の種。二人で決めた順番だ。続いて、二人だけの合意契約が読み上げられる。可の範囲、不可の範囲。合図。アフターケア。 「拘束は軽度のみ。痕を残さない。侮蔑語は用いない。合図は左手二指の上げ下げ、または三度の掌打。セーフワードは『雪』」 司教が「ゆき」と発音した瞬間、地下街の頭領がくしゃみをした。緊張が少しだけほぐれ、笑いが波紋のように広がる。王子は皇子の指を握り、指輪の内側に刻んだその文字を撫でた。 「アフターケア。温かい飲み物、体温の維持、言葉での確認。拒否の理由を尊重し、再交渉は別日に」 朗々とした声が石壁に返る。儀礼の場でこんなに具体的な合意を明文化するのは前代未聞だったが、拍手は止まらなかった。二人の間に走った信頼の糸が、群衆の間にも一本ずつ投げ渡されたように見えた。聖具の箱が運ばれてきたとき、段取りが一つ転んだ。儀具の箱と器具の箱が同じ意匠で、文官が取り違えていたのだ。王子用のサインペンの代わりに、私室で使うソフトカフが金糸の布の上に鎮座してしまった。 「これは……革新的だな」 老司教が目を白黒させる。王子がひょいとカフを掲げ、群衆に向かって言った。 「公では皇子が前に、私室では私が支える。それだけの印だ」 笑いの渦が起こり、老司教
鐘の音が白い塔を震わせた。大聖堂の床は陽光に温まり、石の匂いがかすかに甘い。皇子は一歩、前に出た。公では彼が前に立つ。それが二人で決めたやり方だった。王子は半歩後ろ。視線で「呼吸」と告げる。皇子は息を数えた。肩に落ちる影が、いつもの合図のように優しい。森で出会った日の、彼の指の温度を思い出す。迷いを撫でて、背骨を立てさせた指だ。堂内は満員だった。条約婚の公開儀礼。帝国と王国の境で何度も頓挫した文言は、今朝ようやく一本線になった。二人の右手首に巻かれた白紐に、魔紋の燐光が走る。誓約魔法は、契約の条と合意の条を同列に刻む。「合意契約を読み上げる」皇子の声は良く通った。王子が喉の奥で小さく「いい」と呟く。承認の合図。皇子は続けた。「可は、互いの命令を公共目的に限ること。不可は、身体の安全と尊厳を損なう命令すべて。合図は、手の甲を二度叩くこと。そのときは即座に中止する。セーフワードは『灯』。口にされたときは、理由を問わず一切を止め、アフターケアとして水、甘味、毛布、そして抱擁を提供する」ざわめきが生まれ、すぐに収まった。王子が一歩進み、同じ条を繰り返した。響きの正確さが彼の性質を示す。最後に、王子が笑って付け加えた。「週1回のスイッチ・デーを設ける。公は皇子が前、私室では私が支える。逆の日は、私が前で、皇子が支える。政と心を、週ごとに点検するためだ」年配の臣が咳払いをしたが、隣の司祭に肩を小突かれて黙る。場の空気が柔らかくなったところで、事故は起きた。侍従が運ぶはずの儀礼の腕輪が、なぜか見慣れた革の箱に入っている。王子は開けて、乾いた笑いを漏らした。柔らかい黒革。金具。見覚えしかない。「……誰だ、寝室の箱を堂内便に混ぜたのは」侍従が青ざめた。皇子はすっと手を上げた。合図。笑って首を傾げる。「灯」王子が即座に箱を閉じ、水差しを差し出した。堂内が笑ってほどける。皇子は一口飲み、息を整え、正しい箱を受け取った。儀礼の腕輪は凛とした銀。革の方は、後で笑い話になる。扉が、外からどんと叩かれた。鐘がひとつ、ふいに止む。旧摂政派だ、と
市井の香りは甘かった。焼いた蜂蜜菓子、石臼で挽いた麦の匂い、油の焦げる音。皇子は人の波に肩を預けながら息を整えた。森を抜け、白樺の風を背に受けてここへ来た。大聖堂の鐘は祭りの開始を告げ、地下街の太鼓は胸の底で鳴っていた。納骨堂の若い守り手たちは香を焚き、先祖の名を囁いていた。三つの力が同じ通りに立っている。珍しい光景だ、と皇子は思った。彼の隣で、王子が文書筒を開いた。羊皮紙の契約が涼しい音でほどける。蝋印はふたりの紋を重ねた形だ。 「本日、可は手首のリード、腰への触れ、頬まで。不可は跪拝の強制と跡の残る拘束」 王子が短く読み上げる。皇子は喉を動かした。「合図は?」 「三度のタップで緩める。セーフワードは『柘榴』」 「アフターケアは?」 「水、陰、言葉の確認。俺が責任を持つ」 互いに頷くと、王子が目尻を和らげた。「それと、今日は週に一度のスイッチ・デーだ」 皇子は一瞬まばたきし、思わず笑いそうになった。「曖昧な天は厄介だな」 「公では君が前。私室では俺が支える。だが今日の私人の分は日没からにしよう。臨時条項、どうだ」 「受け入れる」 羊皮紙の隅に短い文言が追記され、蝋で封じられた。契約が身体に落ちる感覚を、皇子は好きだった。愛より先に契約。契約より先に信頼。その順番が彼を楽にした。広場の石畳には白い粉で踊り紋が描かれていた。螺旋が三度、中心で交わる。太鼓持ちが「踊れ」と笑い、屋台の娘が「ふたり、先に」と背を押した。皇子は一歩、前へ。公では彼が先に立つ。王子は半歩後ろ、指先で手首を支える。合意済みの熱が皮膚越しに伝わった。太鼓が三つ、鐘がひとつ。皇子は踊り紋に従って足を運んだ。右へ、二歩。左、止まる。王子の短い声が背に落ちる。 「息」 彼は息を吐いた。腰に軽く触れる手。力はない。ただ方向だけがある。雄になる訓練、と王子は呼ぶ。支配ではなく、選ぶこと。選ぶための筋肉。皇子は両手を広げ、群衆の円に向けて合図した。 「一緒に」
鐘の余韻が大聖堂の高い穹窿に絡み、薄い香が白い煙になって昇っていった。祭壇の上、皇子は前に立ち、王子は半歩うしろに寄り添った。公では皇子が先に、私室では王子が支える──二人が選んだ二重の秩序だ。「条約婚を、ここに成立させる」皇子の声はよく通った。胸の中央で淡い金の魔紋がひらき、誓いの文言が空気に溶ける。王子は短くうなずき、誓書の巻末に自筆の印を押した。契約は二重。国家間の条約として、そして二人の関係のルールとして。「可は、合意のもとに。不可は、口頭で明確に」皇子が読み上げる。その指先に、王子がそっと触れた。「合図は三つ。手を二度叩く、指輪に指を添える、視線を落とす」王子が続ける。書記が速記羽根で音を刻む。最後に、セーフワード。「葡萄。これで即時中止。誰であれ尊重する」大司教が「証」と低く唱え、祭壇石に光が弾けた。群衆は息を呑み、次いで歓声に変わる。条約婚の成立と公開儀礼。二人の連続する短い言葉が、国の法と身体の合意を同じ重さで縫い合わせた。地下街は、昼でも薄暗い。式ののち、二人は外套を纏い、石段を降りた。床石は油で滑り、香辛料と金属の匂いが混ざる。「税を上げる話ではない。任命を変える話だ」王子が穏やかに切り出し、地下街の顔役が腕を組む。血統で独占されてきた末端の監督職を、住区ごとの投票で選ぶ。皇子は前に出る。「候補は血筋からも出る。ただし、最終は票だ」短い。だが硬い。顔役は底を測るように皇子の目を見る。王子は身体の角度をわずかに変え、支えの気配だけを渡す。合図は要らなかった。皇子の背筋は伸びていた。納骨堂は冷たかった。骨壁に刻まれた名が規則正しく光る。司の灯が揺れ、古い権利書が開かれる。「祖霊が継承を指名する。これが我らの掟」司の目は細かった。皇子は手の甲に描かれた魔紋に息をかけ、静かに返す。「祖霊の灯守は、施主たちが選ぶ。毎年、花の季に。灯守の印は納骨堂が授ける」血は敬う。だが意思は生きている者の側に置く。王子が文案を差し出す。灯守は儀礼の長だが、王座の代行ではない。司はしば
鐘が三度、鳴った。香の煙が白く漂い、聖油が肌にひやりと触れた。大聖堂の中央、皇子は胸に手を当て、王子の差し出す掌に指を重ねた。司祭の声は短く、魔紋が手首に浮かび、青金色の光で互いの脈を結んだ。公開儀礼は、淡々と、だが確かに終わった。地下街の代表は袖の陰で数え、納骨堂の管理長は無言で頷き、列柱の影には押し合う視線。権利の取り合いは終わっていない。むしろ、ここからだ。皇子は息を吸い、前に立ち、簡潔に宣言した。「共に治める」王子は一歩、半歩だけ後ろへ。掌の力だけで支える。その距離感が、公の合図だった。夜。私室に移ると、カーテンは厚く、焔は低く、窓は鍵が下りていた。机の上に羊皮紙、銀の印章、細い羽根ペン。王子は外套を脱ぎ、皇子の喉元の赤い印を指先で確かめる。「痛むか」「平気だ。儀礼の油の匂いがする」「なら、始めよう。私的条項の更新だ」二人は椅子に並んで座り、文字を交互に置いていった。可、と不可。合図、順序、アフターケア。王子が短く読み上げ、皇子が短く頷いた。「可。命令の口上。視線の固定。跪礼」「不可。痕の残る拘束。首を圧す行為。公の場での混同」皇子は指先を軽く上げた。「要確認。手枷は絹のみ。鍵は見える場所に」王子が笑う。「絹以外は、納骨堂から怒られる」ここで扉が軽く叩かれた。侍従が青い顔で羊皮紙の束を差し出す。「先ほどのドラフト、誤って納骨堂に回してしまいまして……戻ってきました」束の表紙には、赤い書き込み。「骨壺区域に金属鍵は禁止」。二人は声を殺して笑った。皇子は耳朶まで赤い。「返事を書こう。金属鍵は私室用だって」王子は「了解」とだけ言って、可の欄に一行足した。「合言葉の運用。セーフワードは『灯』。ささやきで発する。三度、手を叩く動作と併用」皇子はその言葉だけで喉が動いた。「……『灯』」「今は運用の確認だ。言えば、すべて止める。水を出す。手を包む。説明は求めない。再開の合図は『続ける』。それがなければ、夜は終える
軍鼓が二つ、違う拍を刻んでいた。広場の石畳にひびく重音が片や三歩、片や四歩。列が蛇のようにうねり、槍の穂先が互いの肩に刺さりそうになった。「止め」皇子が前に出て、掌を立てた。春の光が外套の縁を白く縁取り、彼の耳は緊張でほんのり赤かった。王子は半歩後ろで、視線だけで行軍長に合図した。「原因は?」「太鼓頭がふたり、殿下」「それは知っている」王子が小さく笑って、皇子の腰骨に目に見えない支えの手を置いた。触れはしない。だが皇子の肩の呼吸が一つ整った。公では皇子が前。私室では王子が支える。その二重の歩調を、軍にも教える必要があった。《『軍の歩調って本当に歩調だよな』》彼らは大聖堂の影で条約婚を成立させたばかりだった。公開の儀礼では、白砂糖で磨かれた石の階段を、皇子が先に上がり王子が背面を守った。誓約の巻紙には「支配と委ね」の章があり、政治の合意と同じ体裁で、私室の契約が明文化された。可・不可、合図、アフターケア。セーフワードは薄荷。指先三回の合図で緩め、薄荷の言で即時停止、そして蜂蜜茶とぬるい湯、それから背に描く温めの魔紋。官能の言葉が、法律の言い回しで刻まれているのは、少し可笑しくもあり、安心でもあった。問題は、軍だった。二頭制と告げただけでは、現場は迷う。誰の号令に従い、どの旗を見るか。大聖堂は儀礼の権威を主張し、地下街は糧秣の配分権を握り、納骨堂は戦没者の名の扱いをめぐって口を出してきた。権力が絡まれば軍鼓も乱れる。「手引きを出す」王子が言い、地下街の書写工と取引した。地上の印刷は大聖堂の発願が必要だが、地下なら早い。薄い羊皮を重ねた掌サイズの冊子に、魔紋の透かしを入れた。表紙には二つ首の鷲の紋。左は蒼、右は朱。蒼は皇子、朱は王子。公務の場では蒼の旗が前、私室と戦術即応時は朱が支えに入る。その切り替えを明確にするために、「週一のスイッチ・デー」を軍も採用した。毎週火の六日、旗の位置が入れ替わる。笑った兵も多かったが、笑いが溶かす誤解もある。「スイッチって、その……」若い隊士が耳を赤くした。王子が片目をつむった。「公務