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第18話:灰の王の条件

Author: fuu
last update Last Updated: 2025-09-21 23:00:33

大聖堂の鐘が三度鳴り、石床の魔紋が薄金に脈打った。王子は半歩だけ後ろに立ち、皇子の背を視界に収める。公では皇子が前に——それが今日からの二重統治の決まりだ。呼吸を整え、肩甲の革が軽く鳴る音を聞く。皇子の背筋はいつもより硬い。緊張は悪ではない、と王子は心の内で小さく突っ込んだ。悪いのは喉が渇いて誓文の言葉が絡まることだ。水、あとで絶対に飲ませる。

「誓文を」と老司祭が促す。灰色の香が柔らかく鼻を刺した。

皇子は一息、それから前を向く。

「我らは条約によって婚姻を結ぶ。国境を開き、巡礼と商いの路を守る。戦の前に対話を、利の前に秩序を」

王子が続けた。

「我らは互いの身を守り、互いの領を支え合う。法の前に平等であることを示すため、今日の契約を公開する」

聖壇の上、銀砂で描かれた契約紋がふっと浮き、二人の足元まで細い枝のように伸びてきた。指輪の段になると、王子はつい手癖で皇子の手を引き寄せ過ぎ、司儀の若い従者が咳払いする。

「公共の場では、前に立つ方が主導を」

「あ」

王子は即座に手を緩めた。皇子が小さく笑い、指を差し出す。逆の手を出しかけて、二人して同時に気づいた——左右を間違えた。大聖堂に一拍の笑いが走り、緊張の糸が解ける。こういう事故は歓迎だ、と王子は内心で頷く。

契約紋が金から青へと色を変え、公開儀礼は署名へ移った。王子は宮廷書記官の読み上げに合わせ、条約婚の条文に名を記す。「公では皇子が前に、私室では王子が支える」——二重統治の条。王子は横目で皇子の横顔を見た。負担ではなく、背骨にする。それが自分の役目だ。

儀礼が終わると、掌が少し汗ばんでいた。歓声、楽の音、銀の鈴。外の石段に出ると陽の光は容赦なく白い。人の海が波打ち、花弁が舞った。王子は皇子の肘にそっと触れ、さりげなく日の向きを変えさせて影で目を休ませる。公の顔のままで支える。慣れれば簡単だ。慣れるまではこっそりだ。

私室に下がったのは、鐘が四度目を告げてから。薄い蜜柑色の灯と、熱い茶の湯気。王子は卓に羊皮紙を広げた。個々人の契約——二人のための条。愛より先に契約、契約より先に信頼の種を置く。

「可は」

王子が書き出す。

「手を取る、抱擁、口づけ、合図の確認、跪礼の練習」

「不可は、痣が残る行い、呼吸を乱す行い、公務前の長い拘束」

皇子が頷く。その頷きが少し早い。

「合図は?」

「右手を二度握るで一時停止。肩に触れて下へ滑らせるで完全停止」

「セーフワードも」皇子は真剣だ。

「言葉で止めたい時のために」

王子は少し考え、皇子の目に灰色の光を見つけて言った。

「『灰』」

皇子が笑う。

「君らしい。灰は残る。燃え尽きても、残る」

「運用は、そのまま」

王子はさらさらと書く。

「『灰』で全停止。アフターケアは茶と水、脈の確認、温の足湯、軟膏。寝具の交換と、夜の抱き寄せ」

「週一回のスイッチ・デーは?」

皇子が首をかしげる。

「第七日にしよう。君が導く日。私が従う日」

皇子は照れて視線を逸らし、指でテーブルの縁をなぞった。

「その日、君が膝をつくのを見るの、少し怖くて、少し嬉しい」

王子はひと呼吸、彼の手を包む。

「怖い時は『灰』を言っていい。君が前に出ることは、君を独りにすることじゃない」

契約に二人の名を記す。魔紋が柔らかな碧を灯して沈んだ。王子は皇子の髪を一筋、指でほどき、額へ軽く口づける。これ以上はしない。今日は公務がある。そういう段取りだ。

扉が軽く叩かれた。地下街の使いだと若い従者が告げる。

「カスパル・グレイが、大聖堂の下で待つと」

王子と皇子は互いに頷いた。約束通り、公の顔を整える。王子は半歩下がり、皇子が扉を開けた。

◆◆◆

地下街の入り口は聖堂裏の石段のさらに下、香の匂いが別の香に変わる場所にある。湿り気のある風と、燻る薬草と皮革の匂い。闇は厚いが、蝋燭の点は多い。カスパル・グレイ——煤をまとう細身の男——が骨の杖に身を預けていた。髪にも衣にも灰が薄く積もっている。灰は汚れではなく、印だ。

「条約婚、見た」

カスパルが口端だけ上げた。声は乾いているが、目は光る。

「神様が好みそうな形。地下は神様の客じゃないが」

皇子が一歩前へ。

「条件を」

「早い」カスパルが笑った。

「好きだ。条件は三つ。ひとつ、地下の者に赦しを。追い立てないこと。ふたつ、納骨堂の儀礼を地下に戻すこと。死者の道は上の都合だけで変えないこと。みっつ、白骨鍵を持ち出すなら、必ず戻すこと。ここは墓所だ。空の国庫じゃない」

王子は頷き、皇子の横顔を見る。皇子の喉がわずかに動いた。納骨堂——皇子の過去に絡む言葉だ。王子は皇子の指に触れ、さりげなく握る。二度の握り返しが来ないか確かめる。皇子はゆっくり息を吐いた。

「赦しは、明日評議で出す」皇子の声に芯が通る。

「大聖堂との共同布告にする。死者の道は将来の改革に織り込む。白骨鍵は使い、戻す。証人を付けて良いか」

「良い」カスパルは顎をしゃくる。

「ただし、聖堂の印吏だけは嫌だ。名前で鍵を縛る者は信用しない」

「では地下の長老を」王子が口を挟む。

「あなたの側から二名、こちらから二名。四名で鍵の移動を記録する」

カスパルは杖で石床を軽く二度叩いた。

「交渉がうまい。さらに条件。スイッチ・デーとかいう変な日を、上では隠せ。地下はこういう噂に飢えている」

皇子が真っ赤になり、王子は盛大に咳払いをして場の灰を散らした。「失礼、手元が滑りました」

別の蝋燭の火がゆらゆら揺れ、地下街の商人たちの笑いが小さくこぼれる。空気が少し温かくなった。軽口はむしろ歓迎だ。緊張は笑いでほどける。

「白骨鍵の在処はどこだ」

皇子が戻る。声に芯があった。今日の公開儀礼が、皇子の喉に一本の棒を通したのだ、と王子は思う。いい棒だ。折れず、揺れる。

「納骨堂の第三環。灰の礼拝堂の裏。骸骨の口が二つある。上は誰でも噛まれる。下は、誓文を持つ者だけが噛まれない」

カスパルの視線が契約羊皮紙へ滑った。

「今日書いたやつを持っていけ。今日は駄目だ。大聖堂の香が強い。夜更け、香が落ちたら案内する」

王子は息を整える。やっと骨の扉が眼前だ。

「案内の代価は?」

「上と地下の二重統治を、地上だけの話にしないこと」カスパルは肩をすくめた。

「地下の王にも椅子を。古い、狭い、壊れやすい椅子でいい」

皇子が一歩前に出る。王子は半歩下がる。公の顔で、私の背骨。

「約束する。カスパル・グレイ、今日の誓いは灰にも降ろす」

カスパルが薄く笑い、杖で石をひと撫でする。

「夜更けだ。灰が落ちるころ」

交渉が終わった、と王子は感じた。だが帰り際、柱陰の聖堂側の印吏が目だけでこちらを刺す。彼らの権力は地下を嫌う。大聖堂・地下街・納骨堂——三つの勢力の均衡。今日、ひとつの目盛りが動いた。

◆◆◆

私室に戻る途上、皇子の歩みが一瞬だけ乱れた。王子は即座に手を取る。指が二度、強く握られる。合図——一時停止。王子は歩みを止め、廊の壁に寄り、茶を頼んだ。カップの温が掌に移り、皇子の呼吸が戻るのを待つ。セーフワードは出なかったが、合図の運用は正しかった。

「ありがとう」皇子は息を整える。

「灰の香が、昔を……」

「灰は残る。けれど、燃やすのは私たちだ」王子は短く言い、肩越しに笑わせた。

「それと、スイッチ・デーの噂は、当分地下に降ろさない。君の誇りのために」

皇子が笑う。

「誇りと恥は紙一重だ」

夜更けへ向けて準備をする。契約羊皮紙、灯、麻縄ではなく布の帯、香を中和する香。王子は念のため、アフターケアの軟膏も袋に入れた。政治の儀礼も、心身を使う以上はケアがいる。雄になる訓練は、相手を壊しては続かない。

窓の外、鐘が五度鳴り、灰が細雪のように降った。地下の王は条件を示し、二人は応えた。白骨鍵は近い。けれど、近さは油断を呼ぶ。王子は自分の中の主導と従属の位置を、指の間で確かめた。公では皇子が前に、私室では王子が支える。互いの椅子を守るために。

次回、第19話:夜更けの誓文

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