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第8話:灰の回廊の囁き

Author: fuu
last update Last Updated: 2025-09-11 23:00:08

鐘の音が高く、薄く、街の屋根瓦を渡っていった。大聖堂の白い尖塔は陽に灼け、祭壇の灰色の石板はひんやりと指を冷やした。皇子は前に立ち、王子ユリウスは半歩後ろで支えた。公開儀礼は簡素で、だからこそ目が集まる。

「条約婚、ここに成立」

祭官の声。硬い。

「共治の誓約、ここに宣言」

皇子が短くうなずく。喉が乾いているのがユリウスにはわかった。肩甲骨の可動が小さくなっている。緊張の癖だ。右掌を、袖口の陰で軽く押す。合図。支えるぞ、と。

「公では私が前に」

皇子は客席を見ず、真っ直ぐ前を見て言った。通る声。訓練の成果だ。

「私室では、王子に支えられる」

一瞬、ざわめき。言い切った。よし、とユリウスは心で頷いた。祭官がうっかり台本を読み違え、立ち位置を指で示す方向を逆にしたのを見て、ユリウスは肩を竦めた。段取りミス、想定内。皇子がそっと視線だけで「大丈夫?」と聞いてきて、ユリウスはわずかに笑って頷いた。軽い緩衝材。緊張は一段抜けた。

儀礼の最後、二人は魔紋契約板に手を置いた。金線が走り、光の文字が立ち上がる。条約と共治規約だけでなく、二人の合意契約も添付される。

可の事項。指示語、軽い拘束、跪座。不可の事項。痛みを増す器具、屈辱語、公衆の前での接触。合図は掌二回。セーフワードは「琥珀」。週に一度のスイッチ・デーは灯の曜日の宵、私室に限る。アフターケア。温茶、湯、身体の確認、言語の確認。

祭官が読み上げ、魔紋がパチパチと音を立てた。客席の空気が少しやわらいだ。納得の空気。契約から置くのが正解だ、とユリウスは思った。愛はあとからついて来ればいい。まずは信頼の種だ。

式後、控えの間で皇子が小声で笑った。

「台本、直しておく?」

「直さなくていい。伝わったから」

「うん」

短い抱擁。香の匂いが薄く残る。ユリウスはその背中を一度だけ強く叩いてから手を離した。

地下街の空気は甘く、湿っていた。焼き菓子と油と染料の匂い。石の天井から滴る水が、細い音で店の軒を打つ。儀礼からひと刻後、ユリウスは外套を替え、皇子と距離を取り、別行動に移った。反条約派の資金路はここに潜む、と告げたのは納骨堂の古参司書——彼女は名を名乗らず「古い手」とだけ言ったが——が昨夜置いていった灰色の紙切れだった。

灰の回廊、囁きに耳を。

回廊は大聖堂の地下と納骨堂を結ぶ古い通路のことだ。戦のたびに、骨壺と寄進が行き交った。今も、名目上は同じ。だが噂がある。寄進がどこかで濾過され、銀貨が別の袋に移る。

ユリウスは耳を使った。まずは雑音。噂は振動と熱に乗る。人の手の微細な動き、視線の揺れ。路地で飴を配る若い口入屋に甘い菓子を渡し、雑談に紛らせて訊く。

「灰の回廊、どっちへ行けばよかったっけ」

「は?あんた観光?」

「うん。死者の道って、なんか……ロマンあるよね」

「ロマンね。怖いよ。けど、仕事は多い」

彼が指したのは香の店の裏、細い軸廊。苔の匂い。ユリウスは銀貨を一枚渡し、余計な礼は言わなかった。礼の重さで関係を歪めない。彼の指先の煤を見て、午前三時頃にどこかで焚いた、と見当をつける。儀礼の灯を片付ける時間だ。寄進が動く刻はそこだ。

角を曲がって二つ目、灰色の扉をくぐる。耳元で低い囁きがするような、風鳴り。灰の回廊だ。壁に古い魔紋。王祖の時代の、骨と地脈を繋ぐ記号。ユリウスは掌を触れるだけで、読まない。魔紋は目で読むと酔う。

前方から壺を抱えた女が来る。腕に刻む細い紐。納骨堂の運搬係。ユリウスはその足取りを避けざまに重ねた。歩幅と刻を合わせ、息を合わせる。彼女の視界の端になり、視界の中心には入らない位置でついていく。壺の蓋に蝋封。封蝋の刻印が不自然だ。大聖堂の印ではなく、市井の工房の印。偽封?いや、二重封だ。上に別の封を重ねている。

女は回廊の途中で狭い扉を叩いた。一次の叩き、二呼吸、二次の叩き。扉はわずかに開き、灰が漏れる。そこに男の手が伸び、壺は一度内へ。戻ってきたとき、封の位置がわずかにずれていた。壺の重さも変わっている。骨が少し減った?いや、壺の中に仕込んだ袋が外されたのだろう。寄進の銀貨は骨の下に仕込むのが古いやり口だ。

反条約派の資金は、死者の敬虔さを踏み台に流れている。ユリウスは背中の汗が冷えるのを感じた。怒りは慎重に畳む。感情は手触りに残し、刃にしない。

扉の奥から、囁き声。

「今夜は倍だ。条約婚のせいで、目が増えた」

「灰を厚く敷け。足音でバレる」

「納骨堂の長には、四分の一だ」

四分の一。分け前。どこへ?

「武具工房。森の外縁にいる連中に」

森。あの森か。二人が出会った場所の縁で、未練みたいにくすぶる反条約の焚き火。ユリウスは舌の裏に噛んだ言葉を押し戻し、静かに離れた。

戻り道、皇子が待っていた。人混みに紛れた上等のフード。目だけが出ていて、それでもユリウスには不安が見えた。

「どう?」

「見えた。反条約派の資金、灰の回廊で濾過。納骨堂の長、関与」

「……やっぱり」

皇子の拳が小さく握られ、すぐに開いた。ユリウスは合図を送る。掌二回。落ち着け。彼は深く吸い、吐いた。

「明日、納骨堂に行く。公で」

「君が前に立つ」

皇子は頷いたが、頬の筋肉はこわばっていた。「雄になる」訓練は、身体の使い方からだ。夜、私室。灯が柔らかく揺れている。合意契約の写しが書見台の上にあり、魔紋が薄く脈打つ。ユリウスは椅子に座らせ、皇子の背中に手を置いた。

「呼吸、数える」

「一、二、三」

「肩、上げない」

皇子の肩が遠慮がちに下がる。声を前へ。腹から出す。命令文の語尾は断言。問わない。揺らさない。

「納骨堂の長。寄進の濾過をやめなさい」

皇子の声は細く、だがまっすぐ。ユリウスは首を傾げる。視線で「もう一度」。彼は繰り返し、今度は声が一段深く出た。よし。

圧が上がった瞬間、皇子の手が膝をつまんだ。強く。合図。限界が近い。ユリウスは即座に距離を一歩緩めた。

「続ける?止める?」

「……琥珀」

セーフワード。ユリウスは頷き、練習を切った。距離を取る。椅子ごと軽く回し、彼の膝の向きと目の高さを合わせる。水を渡し、手を包む。掌は冷たい。温茶の湯気が揺れる。

「よく言えた。十分」

「足が震えた」

「震えたら座ればいい。明日は立って、途中で座る椅子をこちらで用意する。段取りは僕が持つ」

皇子は笑った。小さく、しかし確かな笑いだった。ユリウスはその笑いに甘さをひと匙足す。

「灯の曜日、今日はスイッチ・デーだったね」

「……忘れてた」

「僕も。儀礼と地下街で、すっかり」

「どうする?今から?」

「今夜はやめよう。契約の通り、不可は無理。可も、体調と相談」

「うん。灯の曜日は来週に持ち越し」

段取りミスは、二人で笑いに変えた。予定は守るが、身体はもっと大事だ。

その時、隣の私室から侍従の咳払いが聞こえた。扉越しの声。

「申し上げます。特使の手紙。至急」

ユリウスは皇子と目を合わせた。一拍、同時に頷く。ユリウスが受け取り、皇子が封を切る。灰色の封蝋。納骨堂と同じ色だ。

「納骨堂の鍵は二本。長と司祭。二つそろえば回廊の鋼扉が開く」

皇子が文を読み上げた。第二の鍵。ユリウスは椅子に深く座り直し、地図を引き寄せた。指が地下街から大聖堂、そして納骨堂へと滑る。

「公で君が前に。私室では僕が持ち場を整える。明日は、鍵を一つずつ取る」

「うん」

「終わったら、湯を沸かして、甘いもの」

「約束」

小指が触れ、すぐに離れる。薄い接触。十分だった。信頼は、こうして一つずつ置いていけばいい。愛は焦らない。けれど、今の甘さは確かだ。

眠る前、ユリウスは壁の向こうの灰の回廊を想像した。あの囁き。濾過される銀。それを止める手触りを、彼は大事に握った。政治は、身体のように合図で動く。合意があってこそ強くなる。皇子を雄にする訓練は、明日の扉の前で初めて、本当の意味を持つ。

次回、第9話:第二の鍵

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