LOGIN鐘が十度鳴り、白い大聖堂の扉が開いた。香油の匂い。冷たい石の床。王子は腰の剣を外し、皇子の半歩後ろに立った。公では皇子が前に。私室では王子が支える。そう決めた契約は、今日、条約婚の儀で公文となる。
大司教が巻紙を広げた。金糸の手袋が紙を抑える音が小さく響いた。
「合意契約の件。両者、聞こえるか」 皇子は喉奥で息を整えた。森で出会ったときは震える手だったのに、今日は自分で前に出る。王子はそれを肩甲骨の緊張で見分けた。まだ硬いが、折れない。大司教は条文を読み上げる。
「一、可と不可。可は『束縛』『命令』『跪座』。不可は『傷痕を残す行為』『呼吸を妨げる行為』」 ざわめき。王城評議員の首が一斉に動く。王子は肩を揺らしもしない。合意の明文化は政治だ。相互の境界は、国境に似る。「二、合図。手の三拍は『弱めて』。左手が床は『中止』。セーフワードは『葡萄』」
地下街の顔役たちが同時に眉をひそめるのを王子は見逃さなかった。市場の値下げ合図がたしかそれだ。あ、被ってるな、と王子は内心で額を押さえた。「三、アフターケア。温湯、甘味、冷却膏、三十分の抱擁。異変は侍医へ報告」
皇子が小さく笑った。甘味で笑う。それでいい。「四、週一回のスイッチ・デーを設け、主従の位置を反転する」
評議員席から咳払い。王子は視線だけで返す。君らのスイッチは政務と信仰の間だ。こちらは身体と信頼の間。似て非なるが、根は同じ。巻紙を閉じる前に、摂政エレーネが立った。黒衣は静かな炎だった。
「文言に問題がある」 声は冷たくも礼節を失わない。王子は頷く。来ると思っていた。 「『跪座』の義務。帝位継承者に対する私的義務が公務に干渉し得る。『葡萄』は地下街では値崩れ合図。さらにアフターケアに『三十分の抱擁』。抱擁は美徳だが、儀礼上時間を区切るのは宗礼の規範に反する可能性がある」 王子は皇子の背を指先で一度、軽く叩いた。三拍。落ち着いて。前へ。 皇子は一歩進み、直視で返した。 「照会を。教会法に、照らして」 エレーネは頷き、書記官に合図した。使者が走る。大聖堂の空気が引き締まった。条例の読み上げは続いた。条約婚は成立し、祝詞が響いた。石と光と人の呼吸で、儀は締めくくられた。公開儀礼は完了。だが言葉の闘いは始まる。
私室に戻ると、王子はいつもの位置についた。背後。肩を預ける距離。
「葡萄、やっぱり市場合図と被ってた」 皇子は頬を赤くして笑った。 「甘いのが好きだから、つい」 「好きなら別の果物を」 「甘栗?」 「それは地下街の合図で『裏口に回れ』だ」 「危ない」 二人とも笑った。軽いコメディは骨の軋みをほどく。笑い終えると、王子は湯を注ぎ、皇子の手を取って目と目を合わせた。合図の復唱。三拍は弱める。左手が床で中止。新しいセーフワードは——。 「『星灯』にしよう。市場では使わない」 「うん。星灯」 皇子は言葉を口の中で転がし、頷いた。その頷きが、王子の胸に小さな灯を増やした。「アフターケア、三十分の抱擁は削るか?」
「削らない。時間は目安。教会には『抱擁は相互の慰撫として適切、時間指定は便宜上』と添えて」 王子は皇子のこめかみに薬香の膏を塗り、指を絡ませた。柔らかい掌。森で震えていた頃とは違う。雄になる訓練は、体の反応だけじゃない。言葉の出し方、会議での椅子の座り方、沈黙の長さ。全部つながっている。「明日の評議、君が先に開口する。三句で、短く」
「三句」 「息はみぞおち。視線は一人に固定。命令形」 皇子は頷く。その頷きの角度が、もう臣のそれじゃない。王子は胸の奥で笑った。扉が叩かれ、若い侍従が地下街からの文を持ってきた。地下街の顔役が面談を求めている。納骨堂の鍵を動かす噂が走っているらしい。納骨堂。灰の回廊。先祖の骨が眠る場所は力の象徴だ。誰が鍵を持つかで街は動く。
「行こう。地下へ」 「今から?」 「今夜はスイッチ・デーじゃない。公務だ」 「よかった。評議とスイッチ・デー、重なってたら混乱する」 「誰かが床に左手を置く」 笑いながら、二人は外套を取った。地下街は湯気と油の匂い。香辛料が鼻を刺す。顔役は薄暗い店の奥に座っていた。背後の壁に、納骨堂の鍵の模造が掛けられている。挑発だ。
「公では皇子が前に出る約束だったな」 顔役は目だけで笑った。 皇子は前に出た。足が止まる。喉が渇く。その瞬間、王子の指が背で三拍。弱める。呼気が解ける。 「納骨堂の鍵は、摂政でも、地下でもない」 皇子の声は静かに響いた。 「祖霊は城と街のもの。大聖堂の規範に基づいて、我々が共に守る」 顔役は片眉を上げる。王子は黙って皇子の肩から手を外した。ひとりで立たせる。 「地下は見張りを出す。鍵は大聖堂に置け。その代わり灰の回廊の商い税を緩めろ」 皇子は息を飲み、言い切った。 「三分の一。三ヶ月だけ」 短句。固定視線。命令形。森で彼に教えた「雄」の態度が、ここで政治に変換される。顔役は舌打ちし、笑った。 「三分の一。ひと月だ」 「二」 「……よし、二」 手が打たれ、香辛料の匂いの中で小さな合意が結ばれた。階段を上がる頃、王子は肩を叩いた。
「よくやった」 「三句、忘れかけた」 「背中に書いた」 「ずるい」 二人で笑い、石段を上がる。顔を上げると、大聖堂の尖塔が月を割っていた。翌朝、照会の返書が大聖堂から届いた。大司教の封蝋。エレーネが自ら開封する。王子と皇子は並んで立った。
「教会法に照らし、相互の合意に基づく『節制された主従』は婚姻の徳に反しない。セーフワードは俗の手信号と混同を避ける表現に改めることが望ましい。アフターケアは相手を『人』として扱う誓いの具体化であり、宗礼の精神に適う」 エレーネは一瞬、目を細めた。負けず嫌いの目じゃない。正確に重さを量る目だ。 「文言を『星灯』に改め、抱擁の時間は『必要なだけ』に。跪座の語は宗礼の用語に置換しなさい」 「『礼座』で」 皇子が口を開き、エレーネは頷いた。 「よろしい」評議室の空気はひんやりしていた。エレーネの視線は依然、鋭い。けれど敵のそれではない。王子は知っていた。彼女は火を持つ手だ。燃やすためじゃない。灯すための。
「公開儀礼はもう済んだ。後は運用だ」
エレーネが切り、皇子が続ける。 「週一回のスイッチ・デーは、評議と重ねない」 小さな笑いが起きた。王子は咳払いで整え、口を開く。 「地下街とは税で仮合意。納骨堂の鍵は大聖堂に。灰の回廊の見回りは地下と交代で」 短句で、役目を置いていく。言葉が職人の手触りを得ていく。儀が終われば、私室。温湯。甘味。星灯と囁いて目を合わせる。皇子は肩を落とし、王子はその首筋に手を置いた。アフターケアは政治の外にあるようで、内側の芯でもあった。互いに人として扱うという誓いは、政にも届く。
「エレーネ、怖い?」
皇子がぽつりと言った。王子は首を振った。 「怖いのは、君が自分を小さくし続けること」 「小さくしない」 「じゃあ、次は灰の回廊だ。囁きが増えている」 皇子は息を吸った。森で拾った最初の勇気を、胸の真ん中に戻す。王子はその中心を手で押さえた。支える。公では皇子が前に。私室では王子が支える。二重の統治は、今日も回り始めたところだ。次回、第8話:灰の回廊の囁き
寝具に沈んだ香の匂いが、喉の奥で甘く絡む。帝都の夜は静かだ。いや、静かにさせたのは私たちだな。今夜は鐘の音より先に決めることがある。「書式はこれでいいか?」 「うん。読み上げて」私たちはすでに成年の儀を終えた。だから紙より先に声で確かめる。「可は、指示語の使用、姿勢の誘導、手首に絹帯。接吻と抱擁」 「不可は、痛みを伴う行為、侮辱語、痕の残る拘束、刻印魔術」皇子は頷く。緊張で唇が乾いている。へえ、可愛い。水を差し出す。ひと口、ふた口。「合図は三段階。指の二度叩きで緩めて、三度叩きで中断。セーフワードは」 「星砂」 「運用は即時。言った瞬間に止める」書きつけに指で魔紋をなぞる。金の線が薄く灯って、紙の端がじんわり暖かい。契約が入った合図だ。愛より先に契約。今夜はそれでいい。翌朝、帝国を変えるんだ。段取りは多いほど安心する。「ねぇ」 「ん?」 「週に一度は、私が上に立つ日がほしい」 「スイッチ・デーか。決まりだ。第八日の夕刻から夜明けまで。公務が挟まったら繰り越し」皇子の肩が少し落ちて、目が和らいだ。約束は呼吸だ。しておけば肺が軽い。「じゃあ、始めるね」 「どうぞ、前に」私は寝台の縁に腰掛け、皇子を前に立たせる。背筋。顎の角度。視線の流し方。声は短く。「一歩進んで」 「……うん」 「言うんだ。『私が前に立つ』」 「私が前に立つ」少し上ずった。いい練習台詞だ。公では彼が前だ。私室では、私が背を支える。二重の統治は、二重の呼吸だ。「もう一度。低く」 「私が、前に立つ」胸の響きが落ちた。喉の震えが安定している。左手に絹帯を回す。結ばない。触れるだけ。皇子が小さく息を吸う。「次。『命ずる』」 「命ずる」私
大聖堂の鐘が九度、石の空に跳ねた。白い香煙と銀砂の匂い、膝下に吸い込まれるような冷え。皇子は祭壇の前に立ち、王子は半歩だけ後ろにいた。公では皇子が前に、という新しい約束は、群衆の視線より先に二人の足の置き方を変えた。条約婚の公開儀礼は、宣言と言葉の鎖よりも静かな魔紋で締めくくられた。右手首に同じ印。薄金の輪が皮膚に馴染み、触れると微かに温かい。老司祭が宣書を掲げ、地下街の組頭と納骨堂の守り手が遠巻きに測るような目を向ける。力が集まる場所には、必ず目が集まる。「祝福を」と老司祭。皇子は頷き、声を張った。 「民の前で約を立てる。たとえ領土が裂けても、この遵奉は砕かない」 声は少し震えたが、震えの先に息が通った。王子は手首の魔紋を親指でひと撫でし、それだけで安心の合図を送る。誰にも見えない距離で。儀礼の後、三派が寄ってくる。 「大聖堂の鐘は新政の時だけ鳴るもの。寄進の割合は——」 「地下街の通行税は今後も我らが徴す。祝宴の荷も例外ではない」 「納骨堂の鍵は朝廷と我らが両持ちとする。祖霊は誰のものでもない」 言い分はどれも一理ある。皇子は正面から受け、期限だけ切った。 「今は祝いだ。具体は明日、朝の席で。証人を置いて取り決めよう」 王子は腕を組んで黙り、足先だけ皇子の踵に触れた。踏ん張れている、なら良し。夜。王族用の控え室は厚手のカーテンと蜂蜜酒の匂いに包まれていた。扉に二重の施錠をして、やっと二人きりになる。皇子は肩を落として息を吐いた。 「背中を押してもらってばかりで、情けないな」 「公では君が前、私室では私が支える。段取り通りだ」 王子は紙束を机に置いた。再誓約書。公の文言をなぞらない、二人だけの規約。王子がペンを置き、皇子と向き合う。 「可と不可、合図、アフターケア。言葉にして、署名しよう」 皇子は頷き、まず不可から書いた。出血行為は不可。屈辱語は不可。誰かの前での拘束は不可。可は、絹の手袋と柔らかい拘束具
灰の回廊は冷たかった。磨かれた石の床に、納骨堂から舞い上がる細い灰が薄膜のようにかぶさっている。油灯の香り、パン屋の黒麦の匂い、地下街の煮込んだ臓物の湯気。皇子は喉の奥に土の味を感じ、唇を湿らせた。「ここでやる」と彼は言った。大聖堂の上階に陣取る司祭たちは顔をしかめたが、王子が一歩前に出て、書簡を掲げる。「条約婚の公定式場は、市と冥府の境であること。先帝の印章だ」司祭は沈黙した。骨守の老女が杖で床を二度打った。乾いた音が、合図のように響く。灰の回廊の両側、地下街の人々が肩を寄せ合う。肉屋の若旦那、香草売り、歌うたい。彼らと目線を合わせる高さまで、皇子は階段を降りた。森で出会った旅の初め、泥だらけの自分を笑って手を差し伸べた男——王子の掌は、今も、同じ温度で彼の背を支える。「順序が入れ替わっている」と王子が囁いた。儀礼司の巻物が乱れている。先に契約の朗読、その後に魔紋の描入。今は太鼓が呼応を待っているのに、聖句が始まりかけている。皇子は頷いた。肩越しに太鼓打ちの若者へ指を立て、三拍の間を切る。地下街の太鼓が地鳴りのようにうなり、混乱は音に吸われた。王子が片眉を上げる。よくやった、という短い笑み。彼は喉の土の味が甘く変わるのを、自分の舌で確かめた。契約書は二綴りあった。ひとつは国家のため——条約婚に伴う関税調整、納骨堂の管理権限、地下街の市場税の配分。もうひとつは彼らのため。合意契約の条項は、銀の糸を編むみたいに細かく記されている。「可と不可、合図、アフターケアは明文化済み」と王子が読み上げた。声は低く、地下の壁がよく響く。「不可は、拘束を超える痛み、呼吸を奪う行為、公共の場での羞恥。可は、指示、言葉、触れ方。合図は三種類。握手の三回タップで中止、衣の端を摘むのは減速、言葉のセーフワードは灰百合」「灰百合」と皇子が復唱すると、近くの飴売りがぴくりと反応して、蜂蜜入り?と聞き返した。周囲が笑い、緊張がほどける。王子が肩をすくめる。「蜂蜜は後でな」皇子は続けた。「アフターケアは温水、甘味、言葉の確認。週に一度、風の曜日はスイッチ・デー。公では私が前に立つが、私室で
鐘の音が白い塔を震わせ、鳩が舞い上がった。大聖堂の前庭は二国の旗で埋まり、石畳は磨かれた銀のように光っている。皇子は緋のマントを肩にかけ、手袋越しに冷えた欄干を握った。指先が強張る。彼は一歩前に出る役を託されていた。公では皇子が前に、私室では王子が支える——二人の取り決めは、今日、国と神の前で明文化される。「参集の信徒よ。教会は新約を承認する」大司教の声が響き、ざわめきが押し寄せては引いた。白髭は震えもせず続ける。「我らは過去、王権に不当な介入をした。悔い改める。納骨堂の領分も、地下街の生の知恵も、神の御業と同じく尊い。二都の共治を妨げるものではない」その言葉に、地下の通気口の奥から、低い口笛が返った。地下街の長が手下へ合図したのだと、王子は気付いて小さく肩を緩める。納骨堂の番人たちも黒衣を揺らして一礼した。敵対ではない。今日は祝祷である。皇子は喉を潤すように息を吸った。王子の人差し指が彼の手袋の甲に一拍、二拍、と鼓動のように触れる。合図だ。背中を真っ直ぐに、と訓練で繰り返した触れ方。「新約の朗読を」助祭が巻物を捧げ持つ。条約婚の条文は、税の割当から港湾の共同管理、軍の交代駐屯まで細かい。だが最後に添えられた薄い書綴じに、観衆は顔を見合わせた。王子が視線で促し、皇子がうなずく。「私室における合意契約の条(くだり)を読み上げる」大聖堂が少しざわめいた。王族の契約に私事が混じっている、と眉をひそめる者もいた。だが大司教は黙って頷き、助祭が読み始めた。「可は、手首の拘束、言葉による命令、膝行の指導、接吻まで。不可は、傷の残る行為、呼吸を妨げる行為、祈りの時間を侵す行為。合図は、指輪を三度叩く。セーフワードは——」助祭が喉で転がした言葉に、王子は少し身を乗り出した。いけない、彼は目が悪い。「ぶ、葡萄酒——」「ちがう」皇子の小さな声に、広い空間が息を止めた。王子が優しく巻物に指を添える。文字の上に影を落とす。「薄明(はくめい)だ」「薄明、と記す。&
鐘が三度、深く鳴った。大聖堂の白い天蓋の下、王子は息を短く整え、手元の誓約書をもう一度だけ見直した。墨は乾いている。余白に小さく書かれた合図も、読み上げる順番も、全部揃えてある。彼は書記官を呼んで、指先でとんとんと示した。「ここ。セーフワードの綴り、直っているか」「……はっ。先ほどの『武道』は『葡萄』に訂正済みです」危なかった。武術で止まる婚礼は嫌だ。葡萄の方が平和で甘い。王子は苦笑し、帷の向こうにいる皇子へ目線を投げた。薄い布越しに、彼の喉元で冷たく光る喉輪が見えた。誓印として鍛えられた銀は、控えめな魔紋を帯びている。触れれば脈に沿ってぬくもるはずだ。「冷たいか」「少し。でも、落ち着く」皇子は短く答え、視線で合図を返した。今日、公の場では彼が前に立つ。王子は一歩下がり、背から支える役目だ。いつも通り。いや、いつもより一歩だけ強く。「確認する。可は、命令語と儀礼の拘束。不可は、痛みと恥。公衆の前での過剰な演出も不可」「合図は、右手二度で緩めて、三度で止める」「セーフワードは」「葡萄」「終わったら、蜂蜜湯と毛皮の外套。それから話す。感想と次の段取り」皇子は喉輪に触れて、小さく笑った。その笑みは以前より深さを増している。森で出会った夜、彼はよく震えた。今も緊張しているが、震えの質が違う。構えがある。王子はそれを嬉しいと思った。訓練は政治に利く。雄になるって、こういうことだ。「週に一度、スイッチ・デーは守る」王子が念を押すと、皇子は頷いた。「次は火の六。夜明けから午前だけ、君が前」「了解した。昼には返す」帷が上がる。香の煙が流れ込んだ。列柱の影に、地下街の代表が数人、黒いマントを寄せ合っている。納骨堂の管理者たちは反対側の席で、骨の紋章を刺繍した布を膝に置いて沈黙していた。大聖堂の僧正が立ち上がる。声は澄んで、よく響いた。「両国の条約婚を、神々と民の前に掲げる」王子と皇子は歩み出た。祭壇の石は冷えており、足裏から緊張を吸い上げて
午前の光が絹を透かして揺れた。私室は香木の匂いと湯気で満ち、長卓の上には一枚の羊皮紙が置かれている。角は何度も折り返され、端に金の封蝋。二人で書いて、二人で直した——最後のスイッチ・デー用の合意契約だ。皇子が深呼吸した。喉仏が小さく上下する。緊張の癖は隠せない。王子は笑って、指でその上下をなぞった。「読もう。最後まで」「うん」王子が声に出して読む。字は簡潔で、余白は多い。儀礼の文言は極力削った。二人のための契約だからだ。——可:指示の言語化、象徴具の着用(首輪・手輪)、跪座、手の拘束(柔紐のみ)、声の訓練。不可:打擲、窒息に類する圧迫、傷の残る刻印。合図:手首二度叩き=緩めて、頬に触れる=止めて話す。セーフワード:「黎明」。即時全面停止。アフターケア:温湯・蜂蜜入乳、薬草軟膏、安静と対話。途中での水分補給は随時許可。皇子の耳が赤い。文言の客体が自分だと分かっているからだ。王子は最後の行に指を滑らせた。署名の右、余白に小さく付記がある。——公の政務にも準用。相手の「黎明」に即時停止で応じ、二十四時間再審。合意なき決裁は禁止。「ここ。肝心だ」「分かってる。ぼくがあなたに向けて言うときも、あなたがぼくに向けて言うときも、同じ効力」「うん」封蝋を外すのは今だ。王子が蝋を割り、二人で署名を重ねる。外の鐘が一つ鳴って、二人は顔を見合わせた。王子の目尻に小さな笑い皺。「音合わせ、今日は上手く鳴るといいが」「前回は地下街の鐘と競り合ってめちゃくちゃだったからね」「魚の競りの鐘に負ける王都の鐘、あれは笑った」緊張がほどける。皇子の肩の力が落ちて、王子に背を預けた。王子はゆっくりと首輪——喉輪——を取り上げる。銀の環。装飾は控えめで、内側に二人の紋の簡略化。儀礼用のそれに似ているが、軽く、柔らかい。「今日は、これをつける?」「つけたい。これで……ぼくが命じる練習をしてもいい?」「