静かな構内を歩く。
今は五限目の真っ最中だから、廊下を歩く学生もまばらだ。
「真野君は講義なかった? サボったりしてないよね?」
水曜日の五限目は深津もちょうど講義が入っていなかったから、早めの時間を指定した。
理玖の都合で講義を欠席させていたとしたら、由々しき事態だ。
「文学部は基本、水曜は四限までしかないんだ。三年以上になって選択教科が増えると、水曜日の午後はスカスカになる学生多いみてぇだよ」
そういえば、文学部四年生の鈴木も同じような話をしていた。
「そうなんだね。医学部の学生は基本、講義がぎゅうぎゅうで入ってる印象だ。水曜日の五限が唯一、空いている程度かな」
学ぶ教科が多いから、選択教科が増えてもぎゅうぎゅうだ。
慶愛大学は総ての学部が広大なキャンパスの中に納まっているから、色んな学生がいる。
「祐里が勉強で忙しそうで、良かったって思った。会う機会が減っても自然だから」
後ろ向きな発言に、理玖は真野を振り返った。
「これからはまた、会う機会が増えるよ。真野君には僕のnormalになってもらう予定だからね」
「……え? どういう意味?」
真野が不安そうな顔をしている。
「詳しい説明は後でするよ。ただ、僕は真野君が欲しいと思っているってだけ」
そんな話をしているうちに、理玖の研究室に着いてしまった。
「まだ来てないと思うから、部屋で心の準備とかしているといい……」
ドアのカギを開けて、中を覗く。
「本当に男性ですか? 美しすぎて女性にしか見えません。完璧すぎます
会議室から出ると、誰もいなかった。 理玖がいなくなって探し回っているのかもしれない。「あら? 向井先生、おかえりなさーい」 後ろから伊藤に声を掛けられた。「急に向井先生の姿が見えなくなったから、更待さん大慌てでその辺、走り回っているみたいですよ~」 ニコニコしている伊藤はいつも通りの様子だ。(もしかして、佐藤さんが僕に話しかけやすいように、わざと更待さんの気を引いたのかな?) だとしたら國好もきっと、佐藤に気が付いている。 佐藤が付けてきていると気が付いて、わざと声を掛ける隙を作ったのだろう。 何も知らないのは更待だけという訳だ。「あ! 更待さーん、向井先生、いましたよ~!」 遠くの廊下を走る更待に向かい、伊藤が声を掛けた。 更待が猛ダッシュで走ってきた。「一体、どこに消えていたんですか、先生……」 めちゃくちゃ息が上がっている。 大変に申し訳なく思った。「ちょっと、トイレに……。ごめん」 大変苦しいがベタな言い訳をした。「お待たせしました。何かありましたか?」 とても良いタイミングで國好が戻ってきた。 息が上がっている更待を眺めて、國好が不思議そうに聞いている。「向井先生がトイレに行っていただけですよぉ。ちょっと長かったけどねぇ」 伊藤がクスリと笑んだ。 本当に、何をどこまで知っているのだろうと思う。「そうですか
第一学生棟総合受付の近くで、國好が立ち止まった。 時計を確認して理玖を振り返る。「そろそろ会議が終わる時間ですが、空咲さんを待ちますか?」 理玖は首を傾げた。「時間通りに終わるとも限らないし、研究室に唐木田さんが待機してくれていますから、晴翔君には一度、部屋に戻ってもらった方がいいと思いますが」 部屋を空にして盗聴器を仕掛けられる状況を懸念して、なるべく誰かは残るようにしている。 晴翔たちが戻ったら栗花落が残り、唐木田が冴鳥の研究室に合流する約束だ。 國好の目線が理玖の後ろに泳いだ気がした。「では、少しだけここでお待ちください。更待、頼んだぞ」 國好が前を指さす。「わかりました」 更待が頷いて、國好が総合受付の方に駆けていった。 入れ違いのように事務員の伊藤の姿が見えた。 理玖たちを見付けて手を振っている。「向井先生、お久し振りです。えっと、警備員の更待さん?」 理玖への挨拶もそこそこに、伊藤が更待に声を掛けている。「あのね、そこで國好さんに頼まれたんだけど……」 手に持った書類を見せながら、伊藤と更待が立ち話を始めた。 更待が完全に理玖に背を向ける姿勢になった。 と思った瞬間、後ろから口を塞がれて、体を引っ張られた。 後ろから抱きかかえられているから、顔もわからない。 ジタバタする暇もなく、第三会議室に押し込まれて、鍵を掛けられた。「向井センセ、もうちょっと部屋の外に出てくんない? 付け入る隙も無いんだけど」&
金曜の午後、理玖は改めて折笠からの手紙を読み返していた。 折笠から預かったUSBは警察が押収している。 コピーを理玖と福澤理事長、羽生部長がそれぞれに持っている。「改めて読んでも、RoseHouseについては一言も書かれていない」 理研や奥井の名前は、はっきり書いてあるのに、RoseHouseや安倍晴子については一つも書かれていない。それが気になった。「悪人面した悪人と、善人面した善人か」 これが唯一、安倍晴子を指している気がするが。「どうして折笠先生は、RoseHouseについての明言を避けたんだろう」 理玖以外の人間がUSBを見付ける懸念を考慮したのかもしれないが。 だとすれば、理研や奥井の名前も伏せるはずだ。(理研は明記して、RoseHouseは伏せなきゃならない事情ってなんだろう) Dollへの寄付金の振込先口座はRoseHouseの名義がしっかり書かれていた。 隠す意味がない気がする。「理研は潰したいけど、RoseHouseには潰れてほしくない。そういう心理かな」 臥龍岡を愛していた折笠なら、もしかしたらそう考えるかもしれない。 それに、理玖が一番気になったのは。「大事な人を持っていかれないように……。晴翔君を誑かす輩がいる、のかな」 RoseHouseを完全に潰す理玖の意向に、晴翔は賛同しかねる様子ではあった。 だが、それはSky総研副社長として、あの施設の価値を考えたが故だろう。「それも充分、誑かしと呼べなくもないか」 大企業の役職という立場で資
「跡形もなく木端微塵に破壊する」 理玖の言葉に、國好と晴翔が顔を上げた。「栗花落さんの状態はPTSD、外傷性心的トラウマ症候群です。一朝一夕で治る病気ではない。RoseHouseが存続する限り、トラウマは続く。だから、再起不能なまでに破壊しましょう。RoseHouseも、マザーと呼ばれる安倍晴子も」 國好が理玖の言葉に気後れしている。「木端微塵に破壊って、どうするんですか?」 晴翔が恐々問う。「晴翔君は以前に、あれだけ整った施設を壊すのは勿体ないからSky総研で引き取ると言ったよね?」「えぇ、HPに掲載されている施設としては充実しているし、あんなに完璧な設備はないです。箱を貰えるなら、営業形態を変えて引き継ぎたいと考えますよ」「それは却下だよ」 晴翔が、ぐっと言葉を飲んだ。「栗花落さんであの状態なんだ。RoseHouseに深く犯されている臥龍岡先生や秋風君は、それ以上だろう。RoseHouse出身の総ての子供が栗花落さんと同じだと考えるべきだ」「そう、ですね……」 晴翔が視線を落として同意した。「片鱗でも残せば恐怖は続く。子供たちのPTSDを根本から治療するには、恐怖の根源であるRoseHouseの壊滅が必須だ。自分たちを縛る鎖はないのだと、本人たちが気が付かないといけない。それでも、リハビリは必要になるけどね」 理玖は両手の人差し指を揃えて、目の前に掲げた。「RoseHouseの破壊とマザーである安倍晴子の社会的な失墜。それがPTSDを治療する最低条件です」 國好が晴翔と同じように、煮え切らない顔をした。「
保健室を介して栗花落に安定剤の処方を出した。 呼吸は安定して傾眠傾向だったので、今は仮眠室で休んでもらっている。 更待と唐木田を部屋の警備に残して、理玖と晴翔は國好と共に部屋を移した。 真野と待ち合わせをした第一図書館の個室は作りもしっかりして壁も厚いので、内緒話にはぴったりの場所だ。「栗花落は、俺がWO犯罪対策班に移動になってすぐに保護した子供です。当時は十五歳で、親からの性的虐待に気が付いた中学教師の通報がきっかけでした」 國好が俯きがちに淡々と話してくれた。「栗花落の家から違法なonlyの興奮剤が見つかり、入手ルートがDollだとわかりました。慶愛大とは別の大学のDollで、仕切り役も折笠ではなかった。最初のDollの検挙事件でした」 十一年前の日本だと、onlyの興奮剤は治験すら始まっていない。 日本に存在してはいけない薬だ。「栗花落がRoseHouseの出身者だと知り、聴取にも行きましたが、その時点でRoseHouseに怪しい点は見付けられなかった。里親の性的虐待が認められて、児童相談所を通して保護扱いになり、ウチで引き取りました」「國好さんの家に、ですか?」 晴翔の問いかけに、國好が小さく頷いた。「RoseHouseは礼音を戻してくれと言ってきましたが、本人が戻りたがらず。その姿があまりに必死だったので、親父が引き取ると決めました。礼音が……、大学を卒業するまでは、ウチで面倒を見ようと」 十一年前なら、國好の父親はまだ現場に出ていたんだろう。 RoseHouse出身なら他に身寄りもないだろうから、行く場所もなかったはずだ。「ウチで過ごしている時の礼音は、普段のように明るくてお調子者で、でもやけに気が回る子供でした。大人の顔色を
「理研の下部組織って認識だったけど、RoseHouse自体が一つの都市だね。ここだけで子供が生活し、大人は職を得られる。保母さんや保育士は住み込みだし、病院スタッフの雇用もRoseHouseが独自にしているんだ」 職員募集の文字を眺めて理玖は呟いた。 後ろの栗花落が「ひゅっ」と息を吸い込んだ。 振り返ると、胸を掴んで蒼い顔をしている。「栗花落さん、大丈夫ですか? もしかして、調子が悪い?」「大丈夫っすよ。久々に昔のこと、思い出しただけっす」 何となく、いつもの栗花落と様子が違う。「気分が悪いようなら、無理に一緒に観なくてもいいですよ」 どれだけ施設が充実していようと、栗花落にとっては不当な性教育を強いられてきた場所だ。良い思い出ではないだろう。「俺の情報が役立つかもしれないっすから。いつまでも逃げてたら、俺だって変われない」 俯いた栗花落の顔が、見たことがないくらい切羽詰まって見えた。 何となく心配に想いながら、理玖は理事長ページをクリックした。「館長は奥井部長、責任者は理研の安倍千晴所長だけど、理事長は別なんだ。安倍晴子って、千晴所長の母親だね。前任の理研の所長だ」 理研の所長は早々に降りて、娘の千晴に譲ったと聞いていた。 RoseHouseの理事長に収まるためだったのだろうか。 理事長の挨拶ページには、ありきたりな理事長挨拶や理念が掲載されている。「施設全体が家族。WOの子供たちが差別なく健やかに育つための家庭を作りたい。理事長は施設の子供たちの母親的存在で、親しみを込めてマザーと呼ばれている。ふぅん」 読み上げながら理玖は鼻を鳴らした。 娘の千晴同様、母親の晴子もあまり