로그인翌朝、目を覚ました澪は、部屋の一角に置かれた大きな箱を見て固まった。
「……え?」
一つではない。二つでもない。三つでもない。
部屋の一角が埋まるほどの箱が積み上がっていた。しかも全て高級ブランドのロゴ入りである。
「な、なにこれ……!?」
澪は慌ててベッドから降りた。恐る恐る一つ目の箱を開ける。
「……き、昨日の服」
淡い水色のワンピースだった。昨日、桜に勧められて試着したものの、買わなかったはずの服。
嫌な予感がしながら、次の箱も開ける。
「これも……」
昨日手に取っただけのカーディガン。
その次。
バッグ。
靴。
アクセサリー。
そしてまた服。
「なんでぇぇぇぇ!?」
澪の悲鳴が神宮寺家に響いた。
リビングには、静かな空気が流れていた。 先ほどまでの騒ぎが嘘だったかのように、部屋は元の穏やかさを取り戻している。 けれど、その静けさの中には、まだ張り詰めた余韻が残っていた。 澪はソファへ腰を下ろしたまま、膝の上で両手を重ねていた。 そんな澪の小さく震えていた指先に、温かなカップがそっと差し出される。「どうぞ」 芹香が柔らかく微笑む。いつものように優しいハーブティーの香りが立ちのぼった。「ありがとうございます」 澪は両手でカップを受け取る。震える手がしっかりとカップを包み込むまで、芹香は澪の手を支え続けた。カップの温もりと芹香の温もりが、少しずつ心まで温めてくれるようだった。 誰も急いで澪に話しかけようとはしなかった。 皆、それぞれ少し離れた場所で自分たちの作業に戻りながら、澪を静かに見守っている。 やがて……。「……綾人くん」 その静けさの中にぽつりと水滴を落とすように、澪が小さく呟いた。 窓際で花の手入れをしていた綾人は、澪の隣に来ると、そっと腰を下ろした。「私……」 澪は綾人のほうを見ずに、カップの中で揺らめくハーブティーを見つめている。俯き気味のまま、少しだけ笑おうとして、口元は強張った。うまく笑えずに、一度唇を引き結んだ。「お母さんに、あんな顔を向けられたの……初めてでした」 気丈に明るく紡ごうとするその声は、微かに震えていた。綾人は何も言わず、じっと澪を見つめている。元気を取り繕う必要がないとも、悲しむなとも言わない。ただただ、ありのままの澪を受け入れるように。 澪は俯いたまま続けた。「ずっと、お母さんは私を嫌ってるのかなって思ってました」 そこで、一度言葉を切る。胸元のお守りに、そっと触れて、ぎゅっと握り込んだ。「今日、やっと分かったんです。嫌いだとかじゃなくて、憎んでいたんだなって」 痛む胸を誤魔化すようにお守りを握る手に力が入る。「お父さんが亡くなってから、私は……娘じゃなかったんですね」 けれど、涙は、もう流れなかった。その代わりに、長い長い溜め息がこぼれる。「でも、悲しい……はずなのに、どこか、ほっとしてる私もいるんです。腑に落ちた、というか……」 澪は少しだけ首を傾げる。母親から向けられた視線も言葉も、全部全部胸を締め付けるくらい苦しい。けれど、これまでの自分に対する態度について、ど
母親が花ばさみを澪に向かって振りかぶる。「全部、あんたが悪いのよ――!」 その叫びがリビングへ響いた瞬間だった。「っ!」(避けきれない……!) 澪が思わず腕をかざして自分の身を守ろうとしたときだ。強く手首を掴む音が響き、母親の手が空中で止まった。「な、なによ……!」 母親は目を見開いた。花ばさみは、澪へ届くことなく止められている。 その手首を掴んでいたのは、綾人だった。 静かな瞳。けれど、その奥には凍てつくような怒りが宿っている。母親が腕を振りほどこうとするが、綾人の手は微動だにしない。握られた手首だけが逃げ場を失っていく。やがて母親の手から花ばさみが滑り落ち、金属音が床に響いた。「離して……!」「……それ以上、澪に触れるな」 綾人が静かに口を開く。 冷たい視線に母親は息を呑み、唇を震わせた。部屋の空気がビリビリと張り詰めた。「佐伯、相良」「承知いたしました」 名前を呼ばれただけの佐伯と相良が同時に動く。 相良は母親との距離を詰め、これ以上前へ出られない位置へ静かに立つ。 佐伯は落ちた花ばさみを拾い上げ、自身の手の中に隠すように仕舞い込んだ。「澪さま、こちらへ」 芹香が優しく澪の肩を抱き、母親から隠すように距離を取らせる。「お怪我はございませんか?」 桜もすぐ澪の隣へ寄り添う。いつのもような弱々しい声ではなく、伏せられがちな瞳も今はしっかりと澪を見つめている。ひまわりも澪の前へ立ち、小さく両手を広げた。「澪さまには、もう誰も近付けません」 神宮寺家全員が、当たり前のように澪を守るよう動いていた。 いまだに綾人に手首を掴まれたままの母親は、「くっ」と喉を鳴らした。その顔は苦煮がしく歪められている。そんな母親の顔を見るのは、澪にとっても初めてだった。 まさか母親から、こんなにも憎悪に満ちた顔を向けられるなんて――。澪は痛む胸をかくすように、胸元に下がるお守りに触れる。「私は母親なのよ! 娘を叱って何が悪いの!」 息を乱し叫ぶ母親を、綾人は静かに見下ろした。「叱る? 澪が叱られるようなことをしたのか?」 短く問い返す。「それに、お前が持っていたのは花ばさみだ。それを振り上げることが、お前にとっては『叱る』という行為なのか?」 母親の表情が強張る。「……だって、この子は……! 私と美羽からお父さんを奪
母親の一言で、リビングには重苦しい沈黙が流れ始める。 母親はいまだに澪の服を掴んだまま、さめざめと涙を流している。「お願い……美羽はまだ大学生で若いのよ?」 震える声で母親は懇願するように紡ぐ。「これから先の人生があるし、ほら、若気の至りってあるじゃない? よくある姉妹喧嘩が少し行きすぎちゃっただけで――」 母親が吐く言葉が澪の心に刺さる。若気の至り。姉妹喧嘩。今回美羽がしたことは、それで済む話だろうかと、澪は自分のスカートの裾をぎゅっと握りしめた。「ね? 澪。警察なんて大袈裟にして。お姉ちゃんなんだから、訴えるなんてバカなことは……」「誰が訴えると言った」 綾人の静かで威圧的な声が、その言葉を遮った。 母親の肩がびくりと震える。 綾人はゆっくりと近づくと、母親と澪の間へ、静かに身体を入れた。そして、澪の服を掴んでいた母親の手を引き剥がす。「……あらやだ、神宮寺さん」 母親は作り笑いを浮かべる。「昨日は、本当に申し訳ありませんでした。美羽には、私からきちんと言い聞かせます。ですから――」「遅い」 綾人は短く返す。まるでナイフのように突き刺さる綾人の視線に、母親の表情が固まった。「え……?」「言い聞かせる機会は、いくらでもあったはずだ。まさか、『今回が初めて』だと思ってるわけではないよな?」 綾人の声は、どこまでも冷たく、静かだった。荒げられないからこその、場を制圧するような圧。ビリビリと肌を刺すような緊張感に、澪は小さく息を呑んだ。(綾人くん、怒ってる……) 斜め後ろから、そっと綾人の顔を覗く。表情が全て見えるわけではないが、それでも澪には分かった。 綾人は、母親の手首を掴んだまま、一歩足を踏み込む。母親は押されるように後退りをした。「澪から婚約者を奪ったとき。個展を壊したとき。そして昨日」 一つずつ。淡々と並べられる事実。「そのたびに、お前は何をした」 母親は口を開く。けれど、何も言えないのか、ただ唇を震わせるだけだ。「わ、私は……」「ああ。お前自身が一番分かっているだろう。白石美羽を庇っただけだ」 母親が息を呑む。「ち、違います!」 思わず叫ぶ。「美羽は私の大切な娘なの! だから、家族を守ろうと――」「家族?」 綾人が静かに聞き返した。 その一言だけで、部屋の空気が変わる。「なら聞く」
翌朝の神宮寺家のリビングには、穏やかな朝の光が差し込んでいた。 窓辺には先日綾人が生けたばかりのリンドウの花が飾られている。「澪さま、お加減はいかがですか?」 芹香が温かなハーブティーを差し出した。「ええ、大丈夫です。ありがとう」 澪は両手でカップを包み、小さく微笑む。 昨日の出来事は、まだ胸の奥に重く残っているけれど、夜は比較的ゆっくりと眠ることができた。寝る前に綾人が「何かあったらすぐ呼べ」と声をかけてくれたからかもしれない。「無理はなさらないでくださいね。今日はゆっくりしてください」 桜が心配そうに澪の顔を覗き込みながら言った。「そうですよ!」 ひまわりも元気よく頷いた。「今日は澪さま甘やかしデーです!」「甘やかしデー?」 澪が思わず笑う。「はい! 今からスタートです!」 元気いっぱいの返事に、リビングに小さな笑い声が広がった。その空気を包むように、佐伯も穏やかに目を細める。「ええ。では、今日はそうしましょう」 使用人たちが作ってくれる穏やかな空気に、昨日までの緊張が少しずつほどけていく。 ハーブティーに口をつけ、その甘やかな香りにホッと一息ついたときだった。 玄関の軽やかなチャイムが部屋中に鳴り響いた。「こんな時間に誰ですかね?」 ひまわりが芹香たちと顔を見合わせる。「私が参ります」 佐伯が一礼し、静かにリビングをあとにした。 ◇ 門の前には、一人の女性が立っていた。 澪と美羽の母親だった。佐伯はそっと静かに息を呑み、背筋を伸ばし彼女の前に立つ。「澪を呼んでちょうだい」 開口一番、母親はそれだけをぶつけるように言った。 佐伯は一礼し、そして母親の顔をじっと見据えた。「失礼ですが、お約束はございますでしょうか」「そんなものないわよ」 母親は苛立ったように腕を組む。「私は澪の母親なの」「澪さまからは承っておりません」 佐伯の声の調子は崩れず、終始穏やかな返事だった。「お引き取りください」「はぁ?」 佐伯の口から発せられた言葉に、母親の顔はひどく歪み、声が一段高くなる。「娘に会いに来た母親を追い返すつもり?」「澪さまのご意思を確認しておりませんので」「だから母親だって言ってるでしょう! 意思も何もないの!」 門越しに母親は身を乗り出す。 佐伯は一歩も動かず、その体が
ホテルの外階段には、重たい沈黙が流れていた。 美羽の前にはホテル警備員が立ち、ホテルスタッフは警察へ状況を説明している。 その一方で、相良は何も言わず、静かに階段を下りていった。 数段下、石段の上へ落ちていた片方のパンプスを拾い上げる。 傷は付いていないか。 ヒールは折れていないか。 丁寧に確認すると、小さく頷いた。 そして澪の前へ戻る。「失礼いたします」 穏やかな声とともに片膝をつき、澪の足元へパンプスをそっと添えた。 震える足に無理をさせないよう、ゆっくりと履かせる。「……ありがとうございます」 澪が小さく頭を下げる。 相良は優しく微笑んだ。「当然でございます」 それだけ言うと、静かに立ち上がった。 その何気ない所作が、不思議なくらい澪の心を落ち着かせていく。 ◇「こちらです。防犯カメラに一部始終が記録されております」 防犯カメラのデータを持って来たホテルスタッフのその言葉を聞いた瞬間だった。「……っ!」 美羽の肩がびくりと震える。「すぐにご確認いただけます」 警察官は頷いた。「ありがとうございます。後ほど確認させていただきます」 そして、美羽へ視線を向ける。「お話を伺えますか」「わ、私は……!」 美羽は必死に首を振る。「署で詳しくお話を伺います」 淡々と告げられたその言葉に、美羽の顔から血の気が引いた。 震える声が漏れる。「私は悪くないの……」 誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からないようだった。 ◇「白石さん」 今度は警察官が澪へ優しく声を掛けた。「お怪我はありませんか?」 澪は小さく頷き、隣の綾人を見た。「はい。彼が助けてくれたので……」 警察官は綾人を見る。「あなたが?」「ああ」 綾人は静かに答えた。「腕を掴んだ。転落はしていない」 簡潔な説明。そこへ相良も一歩前へ出る。「ホテル側の映像をご確認いただければ、状況は明らかになるかと存じます」 警察官はメモを取りながら頷いた。「分かりました」 必要な確認だけを終えると、再びホテル責任者のもとへ向かっていく。「白石先生」 そっと近づいてきた林田が申し訳なさそうに頭を下げた。「本当に申し訳ございませんでした。招待状がないものは入れないはずだったのですが……」「いいえ」 澪は静かに首を横
ホテルスタッフは無線機へ手を伸ばした。「警備をお願いします。ホテル正面階段でトラブルが発生しました」 その声を聞いた瞬間だった。「や……! 本当に違うんです!」 美羽の表情が大きく歪み、必死に首を振る。「私は本当に、お姉ちゃんを助けようとして――」「白石美羽」 綾人が静かに遮る。「それが本当なら、警備に好きだけ話せ」 その一言で、美羽の顔色はみるみる青くなっていく。いつものように自分を擁護してくれる人はいないのか、と周りを見回すが、美羽を見つめる瞳はどれも冷たいものばかりだった。 ◇ 澪はその場へ立ったまま、小さく震えていた。 今になって足から力が抜けていく。 もし綾人が間に合わなかったら。 もし、あの腕が届かなかったら。 そう考えた瞬間、全身がぞくりと震えた。「澪」 綾人のその声は、先ほどまで美羽に向けられていたものとは違って柔らかかった。「そこに座れ」「……でも」「いいから」 短く言うと、綾人は澪の体を支えながら、ゆっくりと階段に座らせた。 綾人は数段下がった場所にしゃがみ込み、澪の足元を見る。「足を見せてみろ」「は、はい……」 澪は少し戸惑いながら足を差し出した。片方のパンプスは階段の途中に落ちたままだ。差し出した澪の足は細かく震えている。綾人は、その足首にそっと触れると、軽く掌で包むように撫でた。「痛くないか」 綾人の体温が、冷えた足をじんわりと温めてくれる。「……はい」「捻ってもいないな」 澪は小さく頷き返した。「大丈夫です」と呟くように返された言葉を聞いて、綾人は、ようやく安心したように息を吐いた。「よかった」 そう綾人の肩の力が微かに抜けたのが分かった瞬間、澪の目から、一滴、涙が零れ落ち、頬を伝った。涙が、ぽつりと膝の上で握った手の上に落ちる。「……っ」 怖かった。 今さら、その感情が押し寄せてくる。「澪」 綾人はそっと手を伸ばし、澪の頬を伝う涙を拭う。「綾人くん……」 澪は、震える声で綾人の名前を呼ぶ。 綾人は何も言わず立ち上がると、澪の肩へ自分のジャケットを掛け、抱き締めた。 震える体を隠すように。 初めて出会った日の、あの雨の中のように――。「もう大丈夫だ」 綾人は、澪の背中に回した腕に力を込めた。強く、けれど、大切なものを壊さないように。「
車のドアが静かに閉まる。外の雨音が遠くなった。 澪は膝の上で手を握る。 隣には、先程出会ったばかりの男性が、窓際に頬杖をついて流れる景色を見ている。 車内は驚くほど静かだった。 隣に座っているだけなのに緊張する。 けれど……なぜだろう。不思議と怖くはない。 むしろ……どこか居心地の良ささえ感じてしまっているような――。「……寒くないか」 不意に掛けられた言葉に、澪の肩がびくりと跳ねた。「は、はいっ」 思わず声が裏返る。「全然、寒くないです」「それならいい」 「じ……神宮寺さんは、」 寒くないですか、と言いかけた言葉は、「綾人」 と短い声に遮られた。「え?」
「……澪?」 聞き慣れた声だった。 その瞬間、澪の体は強張る。 振り返った先には、息を切らせた拓真が立っていた。 雨に濡れた髪。 乱れた呼吸。 まるで必死に追いかけてきたみたいだった。「澪……!」 澪の姿を見て、安堵したように表情を緩めた拓真が、一歩近づいてくる。 けれど澪は思わず一歩足を後ろに引いた。 その仕草に、拓真の顔が傷付いたように歪む。「待ってくれ。話を聞いてほしい」「……」「誤解なんだ」 その言葉に、澪は思わず顔を上げた。 誤解。 その言葉が胸に刺さる。 だって澪は見たのだ。確実に。この目で。 ホテルの前で。 拓真が美羽に口づける姿を。「誤
温かかった。 冷え切っていた体が、じんわりと熱を取り戻していく。 雨の音が遠い。 白石澪は、抱き締められていることに気付いてからも、しばらく動けなかった。「……あの」 震える声が漏れる。 すると、男――神宮寺綾人は、ようやく我に返ったように目を伏せた。「……すまない」 けれどその腕は、なかなか離れない。 まるで、離したら消えてしまうものを抱えているみたいに。「あ、あの……」 澪がもう一度そう口を開くと、綾人はようやくゆっくりその腕を離した。 黒い手袋越しの指先が、最後まで名残惜しそうに澪のブラウスの袖に触れていたことに、澪は気付かない。「怪我
白石澪は、二十六年間の人生の中で、自分が『誰かに選ばれる人間』だと思ったことがない。「ごめんね、お姉ちゃん。私、ほんとダメでぇ……」 ソファに座った妹の美羽が、困ったように眉を下げる。 ふわふわに巻いたグレージュの髪。淡いピンクのネイル。思わず守ってあげたくなるような可愛らしい顔。「バイト先でも失敗ばっかりで……」「ううん。気にしないで。それよりも、美羽は早く休んで? 体に障るわ」 澪は笑った。美羽の代わりにノートパソコンの前に座って、大学の課題のレポートに向き合う。 澪が働く花屋は、比較的穏やかな客が多い、しかし今日は珍しくクレーム対応をして、頭







