LOGIN新婚間もない頃、夫の賀川雅文(かがわ まさふみ)に緊急派遣の命令が下り、国境なき医師として戦地へ向かった。 結婚したばかりで離れて暮らすことに耐えられず、私は仕事を捨て、彼に付き添って戦地へ赴いた。 けれど半年が過ぎても、夫は私を戦闘が続く危険な駐在地に住まわせたまま。 私は何度も命を落としかけたというのに、彼の教え子である女子学生は、いつの間にか安全なエリアにある家族向け宿舎へ移されていた。 怒りで頭に血がのぼり、その場で帰国すると言い出した私を、雅文は慌てて抱きとめ、必死になだめた。 「彼女は俺の教え子なんだ。もし何かあれば、周囲から責められる。だから、まずは君に我慢してもらうしかなかった。家族用宿舎はいま増設中なんだ。来月には、君の入居資格を申請するから」 私は結局、彼の立場を思ってその言葉を受け入れ、戦地に残った。 だが、思いがけずウイルスに感染し、家族枠で優先接種を申請しようとしたとき、告げられたのは残酷な事実だった。 「システム上、賀川様のご家族として登録されているのは谷口静香(たにぐち しずか)様という方です。あなたは本当に、賀川様の奥様ですか?」 その瞬間、全身の血の気が引いた。 谷口静香――それは、雅文のあの教え子の名前だった。 すべてに絶望した私は、兄に電話をかけた。 「兄さん、迎えに来て。それから――離婚協議書も一通、持ってきて」
View More「あなたと谷口さんの間に、本当に何もなかったのかもしれない。あなたのほうから積極的に何かを始めたわけでもないのかもしれない。でも、雅文――」彼の心臓が、落ち着きを失ったように脈打っていた。これ以上は聞きたくない。そんな怯えが、はっきりと顔に出ていた。けれど私は、逃げ道を与えなかった。「付き合っていた頃のあなたは、そばに女の子が近づくだけで、すぐに距離を置いていた。彼女がいるって、その場でちゃんと線を引いてた。いつだって私の気持ちを最優先にして、少しでも私が傷つかないようにって考えてくれてた。なのにあなたは、谷口さんが自分を好きだって気づいていながら、彼女の好意を拒まなかった。それが意味することなんて、一つしかない。もう、あの頃ほど私を愛していなかったし、私の気持ちも、もう大事じゃなくなっていたの。結局、私たちは誤解だとか、愛人だとか、誰かに奪われたとか、そういうことで別れたんじゃない。ただ――もう、お互いを愛していなかった。それだけよ」離婚する前、私は何度も自分に問いかけた。どうして私たちは、こんなふうになってしまったのだろうと。たぶん、彼に愛されていた頃を知っていたからこそ、私はわかってしまったのだ。彼はもう、あの頃のようには私を愛していないのだと。そして私も、ようやく彼を愛さなくなっていたのだと。私は背を向けて歩き出そうとした。その瞬間、雅文の顔色が変わった。「違う……美波、違うんだ。今言うようなことじゃ……」「もう聞きたくないの」私はそのまま式場へ戻った。披露宴会場はにぎやかで、義姉と兄が私を連れて会場を回り、親戚たちに紹介してくれた。雅文はずっと宴会場の外にいた。中へ入りたくて、近づきたくて、それでももう踏み込むことができなかった。結婚式が終わってからも、雅文は何度か私を訪ねてきた。言うことはいつも同じだった。自分が悪かった、後悔している、埋め合わせをしたい――以前、私が欲しいと言ったものを次々と買って寄こし、私が受け取るかどうかもおかまいなしに、全部うちの玄関先に積み上げていった。でも私は、そこまで馬鹿じゃない。あれは全部お金だ。私は全部受け取って、中古売買サイトに出して売り払った。それでも雅文がしつこく現れるのは、やはり鬱陶しかった。義姉が言った。「いっそ誰かに彼氏のふり
あれから長いあいだ、雅文が私の生活に現れることは本当になかった。病院を異動したわけでもなければ、病院に顔を出すこともなかった。院長の話では停職中らしく、いつ復帰するのかもわからないという。私の生活は、それまでと変わらなかった。家と職場を往復するだけの毎日。兄と恋人の仲は順調に実り、すでに結婚式の準備に入っていた。私は数日休みを取り、二人の結婚式に出席した。盛大な式だった。義姉のウェディングドレスは本当に綺麗で、私は思わず何枚も写真を撮った。ブーケトスの場面になると、義姉はわざわざ私を指名した。「美波ちゃん、お兄さんも私も、本当にあなたが前の恋を乗り越えて、新しい幸せに出会ってくれることを願ってるの。このブーケは、そのためにあなたのためだけに用意したものよ。ちゃんと受け取ってね」私は笑ってそれを受け取った。「ありがとう、お義姉さん、兄さん。二人の気持ち、ちゃんと受け取るね」けれどブーケを抱えたそのとき、遠くに雅文の姿が見えた。宴会場の外に立っていたのだ。披露宴がまだ終わる前に、彼は中へ入ってきた。「話がある」兄の結婚式を台無しにされたくなくて、私は彼について行った。廊下の突き当たりまで来てから、雅文は長いこと言葉を探していた。ようやく、申し訳なさそうに口を開く。「静香のことは、俺が悪かった。君にあんなことをしていたなんて知らなかった。君があの子を目の敵にしてるって言葉を信じたのも悪かった。あのネックレスだって、俺が贈ったものじゃない。美波、俺は最初から静香を愛してなんかいなかった。特別扱いしたこともない。家族用宿舎の件だって、本当に人にあれこれ言われたくなかっただけなんだ」私は煙草の箱から一本抜き取り、火をつけると、淡々と言った。「それで?」彼は眉をきつく寄せ、目に信じられないものを見るような色を浮かべた。「……いつから煙草なんて吸い始めたんだ?体だって弱いのに。消せ」私は手を伸ばしてきた彼の手を避け、煙を細く吐き出しながら笑った。「あなたに、私のことをとやかく言う資格があるの?」その一言に、雅文は言葉を失った。もう離婚したのだ。今さら、彼に何の権利があるというのか。離婚してしまえば、自分はすぐにでも美波のことを忘れられる。雅文はそう思っていた。国内のあちこちを
「もう用がないなら、私は行くわ」そう言って歩き出しかけたとき、背後から突然声が飛んできた。「離婚の慰謝料、いくら欲しいんだ?いくら必要なんだ。言い値を言え。俺、賀川雅文は安物かもしれないが、俺の金まで安くはないだろ?」その声には皮肉が滲んでいた。それが私に向けられたものなのか、それとも自分自身に向けたものなのかはわからなかった。私は一瞬足を止め、振り返って彼を見た。「本当に離婚に同意するの?また何か企んでるんじゃないでしょうね?」雅文の視線は、ずっと私の顔に張りついたままだった。そこから何か違う感情を見つけ出そうとしているかのように。引き留める気持ち。あるいは、未練。ほんの少しでもいい。もしそんなものが見えたなら、きっと彼は躊躇なく駆け寄ってきて、私を抱きしめていただろう。後悔している、離婚なんてしたくない、二人は最期まで結ばれているべきだと――そう言ったかもしれない。けれど私は、相変わらず静かなままだった。むしろ、これ以上関わりたくないという冷たささえ滲んでいた。彼に、いったい何が言えただろう。いったい何ができただろう。雅文は唇をわずかに歪め、ひどく皮肉げに言った。「俺を避けるために職員寮にまで逃げ込んだお前に、俺がたとえ何か企みがあったとしても、どうすることもできないだろうが」私は少し考えてから答えた。「家を一軒ちょうだい。あなた名義のものならどれでもいい。現金で清算してくれても構わない。それ以外はいらないわ」雅文はそれ以上何も言わず、弁護士が私と協議に来るとだけ残して去っていった。立ち去るその背中は、いつも真っすぐだったはずなのに、その時は初めてわずかに丸まって見えた。ひどく打ちのめされ、魂が抜けたようだった。雅文は約束どおり、離婚に応じた。財産分与の件も驚くほど円満にまとまり、彼は私に家を一軒渡しただけでなく、一億円まで用意した。署名の日は、兄が一緒についてきてくれた。「雅文のやつ、案外気前は悪くなかったな。あの家はあいつの持ち物の中でもいちばん市場価値が高い。今も値上がりしてるから、売れば何億にもなるぞ」私は淡く笑った。「私も、あそこまで良心的だとは思わなかった。前に、私がどうして指輪を捨てたのかって聞いてきたことがあったの。そのあと急に離婚する気になったみたい」兄
ヘリはゆっくりと上昇していった。私は上空から、地上に立つ雅文をひと目だけ見下ろした。彼は砲弾が飛び交う中に立ち尽くし、ただ静かにヘリが離れていくのを見つめていた。そのとき彼が何を考えていたのか、誰にもわからない。そしてもう、私も知りたいとは思わなかった。帰国後、兄は私に精神科の予約を取り、定期的にカウンセリングを受けさせた。各種の検査結果に問題がないとわかってから、私は再び病院に復職し、病院の職員寮も申請した。国境なき医師には何の手当もなかった。それに、雅文は海外へ行く前に、私たちの新居だった家を売ってしまっていた。私は妙なところで頑固で、恋愛のことでまで相手より惨めになりたくなかった。家を買うときも、自分の名前を入れるなら自分の貯金を全部出すと譲らなかった。賀川家は裕福で、選んだ立地も最高だった。私の給与なんて、せいぜい自分の気持ちを納得させるためのものにすぎなかったのだ。今の私は一文なしで、部屋を借りるにも家賃を気にしなければならない。兄にはもう恋人がいる。あちらにいつまでも居候するわけにもいかず、結局、職員寮に入るしかなかった。私が引っ越したと知って、兄から電話がかかってきた。「雅文のほうは、自分が帰ってからでないと離婚の件は進められないと言ってる。たぶんもうすぐ戻る。あと三日だ」「うん。兄さんもちゃんと休んで。もし雅文がどうしても応じないなら、私が直接会って話すから」ここしばらく、兄が私のことで昼も夜もなく奔走していたのはわかっていた。賀川家を敵に回すのは、決していいことではない。「お前は俺の妹だ。俺まで守らなかったら、誰がお前を守るんだ。ただな、しばらく雅文には会うな。なんていうか……あいつ、様子がおかしい。嫌な感じがするんだ」……その電話から間もなく、私は病院で雅文と鉢合わせた。目は真っ赤に充血し、まぶたも腫れている。全身から、どこか陰鬱な空気が滲み出ていた。兄の言うとおりだった。彼の様子は明らかにおかしい。まるで何か大きな打撃を受けたかのように、ひどく憔悴していた。私は回診に向かうところで、見なかったふりをして通り過ぎようとしたが、すれ違いざま、雅文が突然私の腕を掴んだ。声は冷え切っていた。「どうして、これを捨てた?」彼の左手にあったのは、戦地で私が投げ捨てたあの指輪。
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