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三日の出張、息子の母は別人に

三日の出張、息子の母は別人に

By:  三三Completed
Language: Japanese
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私は小林由衣(こばやし ゆい)、出張に出て三日目、長いあいだ静まり返っていた息子のクラスの保護者ライングループに、突然一人の女性保護者が入った。 音声メッセージを再生すると、聞き覚えのない甘い女性の声が流れる。 「はじめまして。新任の国語教師の白石真帆(しらいし まほ)です。後藤智也(ごとう ともや)の母でもあります。これからはよろしくお願いします」 私は全身がこわばり、グループのメンバー一覧を開いて何度も見比べた。 智也は私の息子。彼女が智也の母なら、私はいったい誰? すぐ夫の後藤亮介(ごとう りょうすけ)に電話する。 「ねえ、保護者のライングループ、誰か間違って入ってない?」 電話口で、彼は一拍おいて、それから何でもないふうに笑った。 「名前のかぶりじゃない?学校って同姓同名、けっこうあるし。どうしたの、何かあった?」 私は笑って「大丈夫」と言い、通話を切った。けれど胸のざわめきは消えず、空港へ駆け込み、その夜のうちに飛び立った。

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Chapter 1

第1話

私は小林由衣(こばやし ゆい)、出張に出て三日目、長らく静まり返っていた息子のクラスの保護者ライングループに、突然一人の女性保護者が入った。

音声メッセージを再生すると、聞き覚えのない甘い女性の声が流れる。

「はじめまして。新任の国語教師の白石真帆(しらいし まほ)です。後藤智也(ごとう ともや)の母でもあります。これからはよろしくお願いします」

私は全身がこわばり、グループのメンバー一覧を開いて何度も見比べた。

智也は私の息子。彼女が智也の母なら、私はいったい誰?

すぐ夫の後藤亮介(ごとう りょうすけ)に電話する。

「ねえ、保護者のライングループ、誰か間違って入ってない?」

電話口で、彼は一拍おいて、それから何でもないふうに笑った。

「名前のかぶりじゃない? 学校って同姓同名、けっこうあるし。どうしたの、何かあった?」

私は笑って「大丈夫」と言い、通話を切った。けれど胸のざわめきは消えず、空港へ駆け込み、その夜のうちに飛び立った。

飛行機が着くなり、私はそのままタクシーを拾い、息子の小学校へと向かった。

智也は七歳、小学一年生だ。

今は午後一時四十分、ちょうど五限目が始まったところだ。

校門にいた警備員はきちんと対応してくれて、私が保護者だと分かるや否や、すぐに担任の先生へ連絡を取ってくれた。

数分後、白いブラウスに黒いスカート――新卒のように若い女性が足早に駆けてくる。

顔立ちは普通で、かろうじて清楚といったところだが、声はやわらかく、物腰は柔らかい。

女の勘が告げる――この女が、私の探していた相手だ。

予感どおり、私を見るなり彼女はうろたえた。

彼女の顔はさっと青ざめ、手足は勝手に震えだす。まるで猛獣でも見たかのように。

「こ、こちらの保護者の方、本日はどのようなご用件で……」

あまりに怯えて言葉もまともに繋がらない。

それでいて、保護者のライングループでは堂々と自分を智也の母だと名乗ったのだ。

「保護者のライングループでのメッセージ、どういうことかしら」

警備員の前で、私ははっきり切り出す。

「あなた、智也の母だと?すごく気になるわ」

膝の横に下げていた手が一瞬ぎゅっと握り締められ、彼女は慌ただしく警備員を見やる。そして、引きつった笑みを浮かべながら言い訳を始める。

「それはですね、もうすぐ学校で保護者会があるじゃないですか。智也のお父さんが、ご夫婦ともに忙しくて出られないって言ったんです。

智也をがっかりさせないように、私に身代わりをしてほしいって頼んできたんです。

ご迷惑をおかけしていたら、本当に申し訳ありません!」

つじつまは完璧だ。自分との関わりはきれいに切り離し、ついでに出張で家を空けがちな私をさりげなく踏みつける説明でもある。

もし私が彼女のインスタをくまなく調べていなければ、その言葉を信じてしまったかもしれない。

水曜の夜八時、市民会館の大ホール。

彼女は、バラの花束を買う男性の後ろ姿を投稿した。

キャプションは【私が愛するのは王子じゃない――王様だ】

翌日、私はバラ科アレルギーで入院した。

金曜の夕方六時、街はゲリラ豪雨。

彼女は学校のひさしで雨宿りする自撮りを上げた。

【私の王様は、いつ迎えに来てくれるの】と書いた。

その三分後、亮介からメッセージが送ってきた。

【今夜は残業で智也の迎えに行けなくなった。悪いけど頼むな】

そのメッセージが届いたとき、私は病院で点滴を受けていて、薬のせいで半ば眠り込んでいた。

気づいた時には、すでに二時間が過ぎていた。

その間、智也は迎えが来ず、校門の守衛室の前で冷たい風にさらされ続けていたのだ。

その晩、彼は三十九度の高熱を出した。

病院へ向かう車の中で、亮介はため息ばかりつき、言葉の端々で私がメッセージを確認しなかったことを責めていた。

私も本気で自分を責め、熱にうなされる智也の顔を撫でながら、一晩中「ごめんね」と繰り返していた。
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松坂 美枝
妻子を大事にしてれば順調に出世出来たのにアホな男だったわあ クズ女も教師でアレとか残当な最後だった
2025-10-11 10:44:45
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12 Chapters
第1話
私は小林由衣(こばやし ゆい)、出張に出て三日目、長らく静まり返っていた息子のクラスの保護者ライングループに、突然一人の女性保護者が入った。音声メッセージを再生すると、聞き覚えのない甘い女性の声が流れる。「はじめまして。新任の国語教師の白石真帆(しらいし まほ)です。後藤智也(ごとう ともや)の母でもあります。これからはよろしくお願いします」私は全身がこわばり、グループのメンバー一覧を開いて何度も見比べた。智也は私の息子。彼女が智也の母なら、私はいったい誰?すぐ夫の後藤亮介(ごとう りょうすけ)に電話する。「ねえ、保護者のライングループ、誰か間違って入ってない?」電話口で、彼は一拍おいて、それから何でもないふうに笑った。「名前のかぶりじゃない? 学校って同姓同名、けっこうあるし。どうしたの、何かあった?」私は笑って「大丈夫」と言い、通話を切った。けれど胸のざわめきは消えず、空港へ駆け込み、その夜のうちに飛び立った。飛行機が着くなり、私はそのままタクシーを拾い、息子の小学校へと向かった。智也は七歳、小学一年生だ。今は午後一時四十分、ちょうど五限目が始まったところだ。校門にいた警備員はきちんと対応してくれて、私が保護者だと分かるや否や、すぐに担任の先生へ連絡を取ってくれた。数分後、白いブラウスに黒いスカート――新卒のように若い女性が足早に駆けてくる。顔立ちは普通で、かろうじて清楚といったところだが、声はやわらかく、物腰は柔らかい。女の勘が告げる――この女が、私の探していた相手だ。予感どおり、私を見るなり彼女はうろたえた。彼女の顔はさっと青ざめ、手足は勝手に震えだす。まるで猛獣でも見たかのように。「こ、こちらの保護者の方、本日はどのようなご用件で……」あまりに怯えて言葉もまともに繋がらない。それでいて、保護者のライングループでは堂々と自分を智也の母だと名乗ったのだ。「保護者のライングループでのメッセージ、どういうことかしら」警備員の前で、私ははっきり切り出す。「あなた、智也の母だと?すごく気になるわ」膝の横に下げていた手が一瞬ぎゅっと握り締められ、彼女は慌ただしく警備員を見やる。そして、引きつった笑みを浮かべながら言い訳を始める。「それはですね、もうすぐ学校で保護者会が
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第2話
でも、本来「ごめん」と言うべきなのは、私ではなかった。バッグを握る手に力が入り、指先が白くなる。私は視線をゆっくりと彼女のうろたえた顔に滑らせる。そして、耳たぶでぎらりと光る、刺すようなブルーの輝き。私は口の端だけで笑う。「白石先生、そのピアス、素敵ね。彼氏からのプレゼント?高かったんじゃない?」先月のバレンタイン、私は亮介の購入履歴を偶然見てしまった。純金のブレスレットと、サファイアのピアス。ブレスレットは十万円で、私の手首に。そして、七十六万円のそのピアスは、いま目の前のこの女に。私の言葉を聞いた途端、真帆の顔は血の気を失い、唇を小刻みに震わせながらも、何ひとつ声を発せない。無様だ。脳裏に、その言葉がふっと浮かぶ。彼女から目を離し、私は踵を返した。帰り道、私は父に電話をかけた。父は亮介の直属の上司であり、小林グループの実権者でもある。「お父さん、お願いがあるの」私はスマホの待ち受け画面を、家族三人の写真から智也とのツーショットに変え、そして、驚くほど冷静な声で続けた。「亮介に約束していたマーケティング部長のポスト、取り消して。それと、腕の立つ離婚弁護士を紹介して。私は彼と離婚する。そう、彼は智也の国語の先生と不倫したの」父は動きが早い。三十分もしないうちに、弁護士が連絡を寄こし、3ギガ分の証拠と資料を送ってきた。開いてみると、真帆のインスタ投稿のほかに、これまで一度も目にしたことのない動画アカウントがあった。投稿は八十三本。どれにも亮介の姿が紛れ込んでいる。――去年のクリスマス。亮介は「残業で帰れない」と言いながら、実際には真帆のもとへ飛び、雪原で一緒に星を描いていた。――智也の七歳の誕生日。亮介が息子に贈ったプレゼントは、真帆と選んだもの。小さなクマのぬいぐるみ。動画の中で真帆は、亮介とのツーショット写真をそのクマのぬいぐるみの腹にねじ込み、勝ち誇ったように笑っている。「亮介のかわいい坊やへのサプライズよ。これが見つかる日が、楽しみで仕方ない」コメント欄には事情を知らない通りすがりの書き込みがあった。【配信者の彼氏って、離婚したの?】猫のアイコンを掲げた真帆が、こう答えていた。【そうだよ。でもすぐ、私が彼氏の子供のお母さんになるから】添え
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第3話
智也が生まれた年、ほんの少し黄疸が強くて、青い光を浴びる治療が必要になった。それだけのことなのに、亮介は仕事を全部投げ出し、二十四時間つきっきりで付き添った。その彼が、いまは。胸の奥に広がる冷えは、ますます重く沈んでいく。私は椅子に座り直し、亮介の不倫の証拠をさらに辿る。そのとき、真帆の動画アカウントが更新された。画面の中の彼女は、昨日私と会ったときと同じ服装で、目尻に涙の跡を残し、いかにもかわいそうに見せている。「亮介の元妻がまた押しかけてきて、私には彼の子どもの母親になる資格がないって……怖いの」そう言いながら鼻をすするふりをし、さりげなく亮介とのチャット画面を映し出す。「でも亮介は私をすごく大事にしてくれているの。明日の保護者会には、私と一緒に出てくれるって約束してくれたの。いよいよお母さんになれるんだと思うと、緊張しちゃう」彼女は、まさか亮介に、私が帰ってきたことを伝えていない?画面の隅に浮かぶ、智也が生まれてから一度も変わっていない亮介の青いアイコンを見つめ、私はふっと笑った。いいわ。保護者会なら、本物の母親が出席しても、何もおかしくないものね。翌日、学校の保護者会。私は目立たない装いで人混みに紛れ、智也のクラスのいちばん隅に腰を下ろす。席につくやいなや、亮介からメッセージが届く。【由衣、仕事はうまくいってる?いつ帰ってくる?】彼は探りを入れている。【ちょうど会場に着いたところ。もう始まるから、また後で】私はそっけなく返した。画面には「入力中」の表示、続いて「了解」を示す子猫のスタンプが送られてきた。それは真帆のアイコンとまったく同じだ。胸の奥がむかつき、私はそれ以上返信せずにスマホをしまった。今学期から新しく担任となった真帆が、壇上へと歩み出た。今日はいつになく気合いを入れていて、シンプルなベージュのワンピースに、片側に編み込んだ髪。顔には隙のない化粧が施されている。昨日の怯えた姿はどこにもなく、そこにあるのは作り物めいた母性。見れば見るほど、吐き気を催す。「保護者の皆さま、こんばんは。本日のテーマは、あたたかな家庭です。家庭は子どもにとって、最も大切な拠り所です。私たち大人は子どもの心の健康に目を配り、幸せで調和のとれた環境を築いていかなければなりま
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第4話
「智也、さあ、ママって呼んで」智也は小さく首を振り、亮介の背中に身を隠した。そしてか細い声でつぶやく。「この人はぼくのママじゃない」保護者席からも疑問を口にする者がいた。「たしか智也くんのお母さんって小林由衣さんじゃなかった?始業前に会ったことあるけど、どういうこと?」「そうそう、私も覚えてるわ。これは一体どういうこと?」真帆の顔がみるみるうちに蒼白になり、救いを求めるように亮介を見た。案の定、彼は二秒ほどためらった後、悠然と壇上に立ち、咳払いをして口を開く。「皆さん、誤解です。小林由衣は、俺の息子の母親ではありません。彼女はただ……」一拍置いて、彼は視線をやさしく真帆へ落とす。「彼女は息子のために雇ったシッターです。本当の母親は真帆なんです」シッター?私は一瞬、呆然とし、心の奥が氷のように凍りついた。亮介とは大学時代からの付き合いで、十年もの間、苦楽を共にしてきた。彼が事業に失敗して多額の借金を背負ったとき、私は父とまで絶縁して彼を選んだ。仕事の付き合いで頻繁に飲酒して胃を壊した彼のために、毎朝五時に起きて胃に優しいおかゆを煮てあげた。子どもが欲しいと言われたときには、手術台の上でさえ、自分よりも赤ん坊を優先しようと覚悟したこともあった。その彼が、智也の目の前で、そして、クラスの保護者全員の前で、私のことをただのシッターだと言い放った。心の奥で凍りついていた冷たさは、瞬時に裏返り、全身を焼き尽くすような怒りの炎へと変わっていく。教室の保護者たちは、すっかり納得したように顔を見合わせる。「そういうことだったのね。じゃあその小林由衣って人、ひどいわね。ただのシッターのくせに、子どもにママなんて呼ばせて」真帆に向けて、助言する人まで出てくる。「白石先生、あなたは優しすぎるから気をつけないと。シッターに好き勝手させて、子どもが悪い影響を受けたら大変よ」「そうそう。最近のシッターってタチ悪いのいるから」真帆は頬を上気させ、いかにも良妻賢母の笑みでうなずく。「ええ、みなさんの言う通りですね。気をつけます」智也は目を赤くしながら反論する。「違う!みんなの言ってることは間違ってる!あの人はぼくのママじゃない!ぼくのママは、小林由衣なんだ!」すかさず別の保護者が舌
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第5話
智也は私に気づくと、ぱっと顔を輝かせて声をあげた。「ママ!」彼は真帆の腕から抜け出そうともがいたが、その小さな体は容赦なく押さえ込まれたままだ。「放して!ママのところに行く!この悪い人!」大勢の前だというのに、真帆はなおも手を緩めない。さっきまで智也の手をつかんでいた彼女の手の向きが変わり、私が何をしようとしているのかに気づいたころには、智也はもう声を上げて泣いている。「ママ、助けて!この人、ぼくの手をつねったの!痛いよ!」私が鋭くにらみつけると、真帆は自分の取り乱しに気づいたのか、手の力を弱めた。智也はその隙に、私のそばへと身を寄せてきた。私はハンカチを取り出し、智也の頬を伝った涙をそっとぬぐった。胸の奥には罪悪感がこみ上げる。もっと早く異変に気づいていたら、智也にこんなつらい思いをさせなかったのに。真帆の顔は見る見る青ざめ、歪んでいく。けれど、私の気迫の前では、一言の反論すらできない。私は立ち上がり、きっぱりとした声で言う。「亮介、あなたに話しているの。聞こえないの?答えて!智也の本当の母親は、誰?」亮介は聞こえないふりを決め込み、真帆も同じく口を閉ざす。私を甘く見て、言いなりになる相手だとでも思っているの?背後の保護者たちは口々に議論し始め、さっきまで一方的だった空気が少しずつ揺らぎ始める。「小林由衣さんのあの気迫……どう考えてもシッターじゃないわ」「そうそう。さっき白石先生、智也くんの手をつねってたよね?自分の子にそんなこと、普通はできない」「智也くんの目元、小林由衣さんにそっくりだと思うんだけど」「口をつぐんでるのは、やましいからだろう?もう真実は見え見えよ」私は手を二度打ち鳴らした。すると護衛たちが教室に現れ、壇上の二人を有無を言わせず引き下ろしていく。そして、私は息子を抱きしめながら、ゆっくりと壇上へ上がる。「智也、みんなに教えてあげなさい。本当のママは誰?」智也は大きな目をぱちぱちさせて口を開く。「小林由衣が、ぼくのママ」「パパとママ、離婚したの?」「してない」「じゃあ、白石先生みたいなことをする人のことを、ママは前に教えたよね?なんて呼ぶの?」智也は首をかしげて、しばらく考えるふりをした。そして次の瞬間、指先を真帆に突きつけ、はっ
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第6話
私が手を伸ばすと、真帆は反射的に顔を庇う。「白石先生、怯えることはないわ。ただプロジェクターのリモコンを取るだけよ」彼女は手を下ろし、引きつった表情を整えてから、平静を装って言う。「由衣、あなたが可哀想だから、うちのシッターとして置いてあげただけ。調子に乗って、図々しく振る舞わないで」小林グループの長女であるこの私が、よりによってシッターにまで落ちぶれるなんてね。私はリモコンを手にし、プロジェクターを起動させた。ノートパソコンを操作し、行政のオンラインサービスから戸籍の婚姻記録を映し出す。画面に現れたのは――婚姻中の表示と、私と亮介の氏名。夫:後藤亮介 妻:小林由衣 目が節穴でなければ、正妻が誰かは誰にでも分かる。そういえば、あの女は動画で私を「元妻」だなんて言っていた。離婚記録を確認すると――空欄。離婚?元妻?シッター?――私の肩書きは、ずいぶんと賑やかなことね。ひと言も返さなくても、その沈黙だけで真帆には十分な打撃になっただろう。そして、私はバッグからゆっくりと一枚の戸籍謄本を取り出す。スキャナにかざし、プロジェクターに映した。表題の「戸籍謄本」という文字を目に入ると、真帆の顔色が一瞬で変わった。プロジェクターに映し出された画面では、智也の名前のすぐ下には「母:小林由衣」という文字。その箇所を意図的に拡大し、全員に見せつけた。「白石先生、あなた、いつから小林由衣に改名なさったの?みんなに何の説明もなしで、教育者がそんな嘘をつくなんて、よくないわよ。それとも、亮介があなたを整形でもさせたのか?整形前は私と同じ顔だったの?」この言葉は、誰がどう聞いても真帆をあからさまに嘲笑し、同時に亮介の浮気を鼻で笑う冷ややかさを帯びていた。突きつけられた証拠は、残酷なほど明瞭だ。目尻に残った数滴の涙は、真帆をいっそう愚かに見せる。――自力で切り抜けられないなら、男に縋る。それが、真帆のようなぶりっ子のよく使う手口だ。案の定、彼女は怯えた子猫のように亮介の背に身を寄せる。男の庇護欲はたちまち掻き立てられ、亮介は真帆の頭を撫でて慰めるような仕草を見せた。そして、勢いのまま壇上へと荒々しく踏み込み、私を掴んで教室の外へ引きずり出す。体面を気にして声は抑えら
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第7話
真帆の顔は怒りで赤く染まったが、どうすることもできない。やがて足元がおぼつかなくなり、ふらりとよろめいて後ずさった。亮介が彼女の肩を抱き寄せ、私に怒鳴る。「由衣、分かってるのか。真帆は心臓の持病があるんだぞ!」「それが、私と何の関係があるの?」亮介は真帆を横抱きにすると、私の脇を通りざま、歯を食いしばって吐き捨てる。「もし真帆に何かあったら、絶対に許さないからな。由衣、お前には本当に失望した」慌ただしく去っていく亮介の背中を見つめながら、私の胸の奥がひどく締めつけられる。まさか彼の口から、あんな脅しの言葉を聞くことになるなんて思いもしなかった。失望、だって?亮介……亮介。本当はもう、とっくにあなたには失望していたのよ。ただ、積み重ねてきた長い年月の想いが、まだほんのわずかに未練を残していただけ。真帆には、むしろ感謝すべきなのかもしれない。彼女のおかげで、亮介の正体を思い知らされ、最後に残っていた幻も壊れた。かつては私だけに向けられていた愛情が、今では別の女のもとへ流れていく。背後からの探るような視線が、私を奮い立たせる。ここで泣き叫ぶ?そんな真似は小娘のすること。私を裏切り、そして智也を傷つけた報いは、必ず受けてもらう。父の部下たちは動きが早い。離婚協議書はすでに下書きが整えられ、私のスマホに送られてきている。【お嬢様、ご確認ください。修正点があればご指示を】財産は一切持たせずに家を出す。子どもの親権は、もちろん私が持つ。私はスマホのメッセージ欄に短く打ち込む。【気に入ったわ。最終版にして印刷して】亮介のために小林グループの後継者という立場を投げ出し、両親と対立したこと――あれは私の人生で最も愚かな選択だった。もう、私の本来の居場所に戻るときだ。父の段取りで、私は小林グループに復帰することになった。そして、亮介の直属の上司となった。あの日の保護者会の一部始終は、誰かのスマホで撮られ、ネットに流された。野次馬たちが押し寄せ、亮介や真帆に関するあらゆる情報を掘り起こしていく。二人はすべてをさらけ出されたが、私は相変わらずその騒ぎの外に立っている。父は昔から私の個人情報の管理に細心の注意を払ってきた。だから、あの連中が私の情報を探し出せないのは当
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第8話
「でも、夫婦は本来、苦楽を共にするものですよね。亮介がいちばんつらい時に彼女は去ったのに、どうして出世の気配が見えた途端に戻って来られるんですか?それで小林由衣は、シッターという名目で図々しく家に入り込んできたんです。子どもに余計な影を落としたくなくて、外には智也のシッターだとだけ説明していました。それから智也のことです。私は本当に、いい母親になろうと必死でした。それなのに、こんなふうに嫌われて……ようやく気づきました。継母という立場が、どれほど難しいものかを。子どもの心に入り込むのが、こんなにも大変だなんて。その日、小林由衣は思い通りにいかなかったから、学校に押しかけて大声で騒ぎ立てました。そのせいで私は仕事を失ったんです。けれど私は前を向きます。勇気を持って生きていきます。私には支えなければならない愛する人がいるからです」……もっともらしい言葉を並べ立てて、延々と喋る。その動画を見て、私はただ失笑するばかりだ。同じ頃、亮介もSNSに書き込んでいた。【これからの道は険しい。だが、私はいつまでも君の盾でいる。流言を恐れない。世の裁きが下りたあと、潔白は必ず戻る。ネットは無法地帯ではない!】思わず二人に拍手でもしてやりたいぐらいだ。動画のコメント欄は見事に一色に染まっていて、私は鼻で笑う。【真帆を叩いたことない人、いる?】【最初から配信者は濡れ衣だって言ったのに、そのときは信じてもらえなかった】【うわ、元妻まじ無理。昇進が見えたら、すぐ戻ってくるとか】【子どもを利用するだけじゃなく、私たちの同情まで計算づく。ここまで個人情報が出てこないなんて、その動画だって元妻が流したに決まってる】【真帆はほんと器が大きい。彼氏が元妻と連絡取るのを許してるんだよ? 私ならシッターとして家に入れるどころか、顔を見るだけでも不快でたまらないのに】……所詮は群がる道化。好きに跳ね回っていればいい。私は弁護士に証拠の確保を指示し、その先の計画に取りかかった。あの保護者会以来、亮介からの連絡は一度もない。翌日、出社すると、親友が怒り心頭で私のオフィスに飛び込んできた。「由衣、あのクズ夫、真帆を自分のアシスタントにしたって。さすがにひどすぎるのじゃない? 早く片をつけなよ。見てられない」私はゆっくりと茶を
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第9話
言外の狙いなんて、少し頭が回れば分かる。配信を任されるのは、言うまでもなく真帆だ。副社長の私が彼の身の回りまで把握していることに、亮介は内心ほくそ笑んだ。「贈り物は無駄じゃなかったな。今回のマーケティング部長のポストは、もう俺のものだ」亮介はそう心の中でつぶやいた。私はモニター越しに、喜色を浮かべる亮介を眺め、口元をわずかに緩める。秘書に会社の帳簿を調べるよう指示すると同時に、スマホを取り出して彼に一通のメッセージを送る。【亮介、このところずっと、あなたのほうから説明はないの?】返ってきたのは、実に決然とした文面だ。【何を説明しろっていうんだ。ただの誤解だろ。細かいことにこだわるのはお前の悪い癖だ。由衣、いいか、真帆に謝らない限り、この先一生お前を許さない!お前が智也の世話をおろそかにしたから、真帆が必死で母親役を引き受けてくれているんだ!】長いあいだ愛してきた人が、こんなふうに私を貶めるなんて思いもしなかった。外側の仮面を剥ぎ取ってみれば、中身はこんなにも腐っていたのだ。そのメッセージを見つめながら、私はふと昔に沈んでいく。付き合い始めた頃。亮介は自分のすべてを私に託してもいい、その笑顔さえ見られれば十分だと語っていた。彼は、私の手を取り、集まった人々の前で一緒に杯を掲げたいと言った。だから私は、彼のために両親に逆らった。結婚したばかりの頃。亮介は、ずっと私が妻でいてくれるなら、自分の力のすべてを尽くして、私のすべてを愛すると言った。だから私は命がけで智也を産んだ。結婚してから、亮介は、酒席や接待に走り回った。すべては私と智也に、少しでも良い暮らしをさせるためだ、と。だから私は両親に頭を下げ、彼のためにより良いものを勝ち取った。それでも結局、私の献身は見えないふりをされ、真心は踏みにじられた。三日後、マーケティング部長の選考会が始まる。真帆はスーツに身を包み、配信を開始する。会社の事業をてきぱきと紹介し、いかにも仕事熱心なふるまいだ。私も身なりを整え、会議室へと足を向けた。正確には、真帆のほうへ。ほどなくして、配信の視聴者たちが私に気づく。【えっ、あの人誰?綺麗すぎる】コメント欄は称賛一色に染まり、真帆の顔に嫉妬の色が浮かぶ。私が近づくと、彼女の
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第10話
彼女の言い分を信じる者もいれば、信じない者もいる。外の騒ぎに気を取られた亮介が、こちらへ歩いてくる。私を見た一瞬、まず驚嘆の色を浮かべた。その細かな変化を、真帆は見逃さない。歯ぎしりするように、彼女の憎々しげな声が飛んでくる。「亮介、彼女はあなたの昇進選考会を台無しにしに来たのよ!」亮介の目に宿った一瞬の驚嘆はすぐ消え、代わりに嫌悪と苛立ちが浮かぶ。「由衣、何しに来たの?」やっぱりお似合いの二人。私を見て最初に口にする言葉まで、まったく同じなのだ。「選考会に出席しに来たの」その一言に、亮介は逆上した。私の前へ踏み出すなり、勢いよく頬を打ちつける。「真帆の人生をめちゃくちゃにしただけじゃ足りないのか?今度は俺まで巻き込むつもりか!」彼の中では、私は最初から害を及ぼす存在だ。「選考会に出席しに来た」という一言が、彼の中で私への疑いを決定的なものにしてしまったのだ。配信のコメント欄では、私のありとあらゆる罪が語られ始める。毒親。金にがめつい元妻。下劣なシッター。頬に走る灼けつくような痛みと、真帆の嘲笑まじりの笑みが、むしろ私の意識を研ぎ澄ませる。さきほど秘書が持ってきた公金横領の証拠――あれだけで、彼らには十分すぎるほどの報いを受けさせられる。亮介が、私にしか聞こえない低い声で脅すように言う。「今日は何を騒ぎ立てるつもりだ。俺の昇進が、お前や智也にとって何の不都合がある?欲しいバッグもネックレスも、何だって買ってやる。だから頼む、もうやめろこの前の保護者会だって、ただの社交辞令だ。どうして分からないんだ!」私は腫れ上がった頬に手を当て、感情を一切込めずに告げる。「亮介、あなたのいい時代はもう終わりよ」配信では、真帆が雇ったサクラたちが惜しげもなくデマを書き立てている。だが次の瞬間、その嘘はあっけなくひっくり返される。父の秘書が、私が打たれたのを見てすぐさま駆け寄ってくる。「お嬢さま、どうなさったんですか?誰がこんな真似を!」選考会を取り仕切っていた前任部長も、慌てふためいて駆け寄ってくる。会長付きの秘書を、この会社で知らぬ者などいない。その名と顔は、役員フロアの誰の頭にも刻まれている。「シャリル様、一体誰がこのような無礼を働いたのですか!
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