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遠ざかる月と星、遠く過ぎた恋

遠ざかる月と星、遠く過ぎた恋

By:  匿名Completed
Language: Japanese
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神谷晴佳が刑務所を出たその日、外は冷たい雨が降っていた。 風に乗って雨粒が肌を刺し、刑務所の門前には報道陣が押し寄せていた。 「神谷さん、水月ノ庭事件であなたの依頼人が敗訴し、半年前に飛び降り自殺しました。遺族の方があなたに責任を問うてますが、どうお考えですか?」 「神谷さん、弁護士連合会から除名され、あなたの恩師も引退に追い込まれました。この件について一言お願いします!」 記者たちがどれだけ問いかけようとも、晴佳はただ黙ってうつむいたまま前へ進み、人混みをかき分けるようにして出口へ向かった。 道端には黒いゲレンデが停まっていて、夫・神谷誠司が車にもたれながら煙草を吸っていた。 その隣で、宇佐見美月が彼の腕を軽く引っ張り、誠司が視線を門の方に向ける。 そこで、現した姿は……

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Chapter 1

第1話

神谷晴佳(かみや はるか)が刑務所を出たその日、外は冷たい雨が降っていた。

風に乗って雨粒が肌を刺し、刑務所の門前には報道陣が押し寄せていた。

「神谷さん、水月ノ庭事件であなたの依頼人が敗訴し、半年前に飛び降り自殺しました。遺族の方があなたに責任を問うてますが、どうお考えですか?」

「神谷さん、弁護士連合会から除名され、あなたの恩師も引退に追い込まれました。この件について一言お願いします!」

記者たちがどれだけ問いかけようとも、晴佳はただ黙ってうつむいたまま前へ進み、人混みをかき分けるようにして出口へ向かった。

道端には黒いゲレンデが停まっていて、夫・神谷誠司(かみや せいじ)が車にもたれながら煙草を吸っていた。

その隣で、宇佐見美月(うさみ みづき)が彼の腕を軽く引っ張り、誠司が視線を門の方に向ける。

二人は並んで晴佳の前へと歩み寄った。

美月は晴佳の額にある傷痕を指差し、顔をしかめて言った。

「お姉さん、それどうしたの?うわっ、すっごい目立つ……ていうか、めっちゃグロくない?ほぼ顔そのものが崩壊したみたいじゃないか〜」

晴佳はさっと前髪をかき下ろして傷を隠そうとしたが、広すぎてまったく隠れなかった。

その傷は、刑務所の中で受けた暴力の痕だった。

誠司は一言も口を開かなかった。ただ、彼女を見る目は冷たく、どこか他人事だった。

美月はにこにこと笑いながら、小さな箱を差し出した。

「お姉さん、これ、私と誠司さんからのプレゼントだよ。新しい靴。これ履いて、もう二度と道を踏み外さないでね?」

道を踏み外す、か。

晴佳は、何とも言えない皮肉を感じた。

一年前、なぜ自分が逮捕され、刑務所に入る羽目になったのか、この二人が誰よりもよく知っているはずだった。

晴佳は弁護士として、五年間無敗を誇った実力者。業界でも名の知れた敏腕弁護士だった。

一方、美月は晴佳の父・宇佐見忠弘(うさみ ただひろ)の私生児で、二年前に忠弘に連れられて家に来た。

彼女も弁護士ではあるが、三年の間、一度も勝訴したことがなく、業界でも最底辺と見なされていた。

すべては一年前、「水月ノ庭事件」で変わってしまった。

その案件では、晴佳は被害者である少女の代理人として、資産家・鎌田源次郎(かまた げんじろう)を訴えた。

そして、美月は鎌田側の弁護人だった。

証拠は十分、勝訴はほぼ確実と思われていた。

ところが、開廷の前夜、晴佳のパソコンに保存されていた証拠データがすべて消失した。

結果、敗訴。

事件は世間に大きく報道され、被害者の少女は「売春婦」として晒し者になった。

晴佳は「証拠捏造」の疑いで告発され、弁護士連合会から除名、懲役一年の判決を受けた。

美月のほうは、この事件で「勝った側」として一躍有名人になった。

晴佳は、当初はその理由がわからなかった。

だが、ある日、誠司のスマホの中に見つけたグループチャットで、すべてが繋がった。

誠司、美月、そして父・忠弘の三人グループだ。

【お姉さんって、世間の評価も実力も全部あるくせに、法廷で私を本気で潰そうとしたよね?あれ、絶対わざとだと思う】

【晴佳が悪いよ。美月、お父さんはお前の味方だからな】

【誠司さん、どう思う?】

【言ってごらん。見られたくない証拠や資料って、どれ?】

……

車は宇佐見家へ向かって走る。車窓から外を見つめながら、晴佳は思う。

一年という時間は、長いようで短い。だけど、すべてが変わるには十分すぎる長さだった。

宇佐見家の邸宅は、外装も内装もまるで別の家のようにリフォームされていた。そして、門のそばにあった大きな桃の木が、姿を消していた。

晴佳は走って庭へ行き、使用人に尋ねた。

「母が植えた桃の木はどこ?」

使用人は無表情で言った。

「美月様がジャスミン茶がお好きでして。『庭で育てたジャスミンのお花で淹れたお茶が一番安心』とおっしゃって、旦那様がご命令で、あの桃の木を伐採してジャスミンに植え替えました」

こころが、ぐっと痛んだ。

あの桃の木は二十年前、母・常磐綾乃(ときわ あやの)が生前に自ら植えたもの。母が残してくれた、唯一の思い出だった。

それが、ただの茶葉のために切り倒されたというのか。

晴佳は踵を返し、父に文句を言おうと玄関に向かった。しかしその途中、突如現れた女に腕を掴まれ、次の瞬間――

パシンッ!

頬に鋭い痛みが走る。

女は泣きながら叫んだ。

「みんな見て!この人が、私の娘を殺したんです!この悪徳弁護士が!!」
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第1話
神谷晴佳(かみや はるか)が刑務所を出たその日、外は冷たい雨が降っていた。風に乗って雨粒が肌を刺し、刑務所の門前には報道陣が押し寄せていた。「神谷さん、水月ノ庭事件であなたの依頼人が敗訴し、半年前に飛び降り自殺しました。遺族の方があなたに責任を問うてますが、どうお考えですか?」「神谷さん、弁護士連合会から除名され、あなたの恩師も引退に追い込まれました。この件について一言お願いします!」記者たちがどれだけ問いかけようとも、晴佳はただ黙ってうつむいたまま前へ進み、人混みをかき分けるようにして出口へ向かった。道端には黒いゲレンデが停まっていて、夫・神谷誠司(かみや せいじ)が車にもたれながら煙草を吸っていた。その隣で、宇佐見美月(うさみ みづき)が彼の腕を軽く引っ張り、誠司が視線を門の方に向ける。二人は並んで晴佳の前へと歩み寄った。美月は晴佳の額にある傷痕を指差し、顔をしかめて言った。「お姉さん、それどうしたの?うわっ、すっごい目立つ……ていうか、めっちゃグロくない?ほぼ顔そのものが崩壊したみたいじゃないか〜」晴佳はさっと前髪をかき下ろして傷を隠そうとしたが、広すぎてまったく隠れなかった。その傷は、刑務所の中で受けた暴力の痕だった。誠司は一言も口を開かなかった。ただ、彼女を見る目は冷たく、どこか他人事だった。美月はにこにこと笑いながら、小さな箱を差し出した。「お姉さん、これ、私と誠司さんからのプレゼントだよ。新しい靴。これ履いて、もう二度と道を踏み外さないでね?」道を踏み外す、か。晴佳は、何とも言えない皮肉を感じた。一年前、なぜ自分が逮捕され、刑務所に入る羽目になったのか、この二人が誰よりもよく知っているはずだった。晴佳は弁護士として、五年間無敗を誇った実力者。業界でも名の知れた敏腕弁護士だった。一方、美月は晴佳の父・宇佐見忠弘(うさみ ただひろ)の私生児で、二年前に忠弘に連れられて家に来た。彼女も弁護士ではあるが、三年の間、一度も勝訴したことがなく、業界でも最底辺と見なされていた。すべては一年前、「水月ノ庭事件」で変わってしまった。その案件では、晴佳は被害者である少女の代理人として、資産家・鎌田源次郎(かまた げんじろう)を訴えた。そして、美月は鎌田側の弁護人だった。証拠は十
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第2話
女は「水月ノ庭事件」の被害者の母親だった。その後ろには、またしても記者の群れ。フラッシュの光が容赦なく目に突き刺さり、晴佳の頭がくらりと揺れる。女は晴佳を何度も突き飛ばし、叩いてきた。「娘には訴えるなって言ったんだよ。私たちみたいな庶民が金持ち相手に勝てるわけないって。でも、この女が『勝てます』って自信満々だったのよ!結局うちの娘は売春婦呼ばわりされて、自殺したの。で、この人は?今日、出所?ふざけんなよ!何でこいつが生きてるの?死ぬべきはあんたよ!うちの娘の命を返してよ!」女の両手が飛び、晴佳はバランスを崩して地面に倒れ込みそうになる。そのとき、美月が彼女を支え、無理やり顔を持ち上げた。そして、額の傷跡をわざとカメラの前に晒すようにして、にっこり笑いながら言った。「水月ノ庭事件は、確かにお姉さんのミスでしたが、ちゃんと償ってるんですよ。見てください、この傷……被害者って言っても、ただのウェイトレスでしょ?うちの姉は別荘に住んでるお嬢様なんですよ。そんな子と比べるなんて、お姉さんが可哀想じゃないですか?」……その日の夜、晴佳はゴールデンタイムのニュースに取り上げられた。映像の中で、美月は「お姉さん」と親しげに呼びながら、まるで姉の代弁者のように語っていた。当然、世間はそれを晴佳の言葉として受け取った。ニュースが流れた直後、ネットは荒れに荒れた。【弁護士の恥よ。たった一年で済んだのが不思議。無期懲役が妥当でしょ】【刑務所でいじめてくれた人たちに感謝!お嬢様から醜女へ、最高のエンタメ】【このクズ弁護士の住所、誰か知らない?プレゼント送りたい】誹謗中傷だけでなく、命の危険すら感じるレベルになっていた。このままでは危ない。そう判断した晴佳は、真実を伝えるための動画を撮り、メディアへ送ろうとした。と、そのとき。誠司が部屋に怒鳴り込んできて、スマホを奪い取った。「何してるんだ!」「説明するわ」「説明?そんなのしたら、美月が傷つくだろうが!」晴佳は、結婚して五年になるこの男を見つめ、その瞳の輝きが少しずつ薄れていった。それはかつて彼女の手を握り、固く誓って、一生守ると言った男だった。今、その男が、別の女のために、自分にすべての汚名をかぶらせようとしている。「じゃあ、私は?
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第3話
たぶん誠司自身はもう忘れてるだろう。でも晴佳は、忘れたことなんて一度もなかった。あの頃、彼女は弘明大学法学部一番人気のある美人だった。誠司はただ経済学部の貧乏学生。学費だって、晴佳の母・綾乃が援助していたくらいだった。晴佳のまわりには、たくさんの男が群がっていた。曲を作ってくれる人、花束を抱えてくる人。でも、毎日、女子寮の前で待っていたのは、誠司だけだった。夏は冷たい飲み物を、冬はホットミルクティーを持って、わざわざ図書館まで送ってくれた。けど、晴佳は一度も彼に話しかけたことがなかった。同じ寮の子たちも彼を馬鹿にしていた。「見てよ、あれ。マジで高嶺の花狙ってるカエルがいる!身の程知らずね、おとぎ話と現実の区別もつかないのかね!」そんなふうに、みんなが笑ったあの日。晴佳だけは、立ち止まり、彼に向かってこう言った。「自転車……私、一回も乗ったことないの。教えて」それからほどなくして、二人が付き合っているという噂が大学中に広まった。上級生の中には、「まだ恋してもないのに、もう失恋した気分だ」と落ち込む者もいた。掲示板には「何ヶ月で別れるか」なんてスレッドまで立っていた。何といっても、二人の差は明らかだった。誠司は普通以下。晴佳は外見・成績・家柄すべてが完璧。でも、誰もが驚いたのは、二人が卒業と同時に、結婚したことだった。プロポーズを受けたとき、晴佳は誠司の目を見て、こう言った。「誠司は優しい人。こんなに優しくされたら、断るのが申し訳なくなる……もし断ったら、きっと後悔する。だから……ねえ、これからもずっと、今みたいにいてくれる?」誠司は、即答だった。彼女を抱きしめて、まるで心臓まで差し出すように言った。「君のおかげで俺は人生をやり直せたんだ。人間らしく生きられるようになった。俺は、この先の人生、君だけに尽くして生きていく」ああ、本当に、バカみたいだった。結婚して、まだ五年。今、振り返ってみると、それがまるで前世の記憶みたいに感じる。永遠なんて、どこにもなかった。男の誓いなんて、裏切るためにあるものだ。結婚して三年が過ぎた頃、美月が忠弘に連れられて戻ってきた。それ以来、晴佳は父と夫を、少しずつ失っていった。父は、彼女にはぶっきらぼうなくせに、美月が裁判
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第4話
美月は、箱を悲鳴と共に数メートル先に放り投げた。中から血塗れの何かが転がり出て、カーペットに血の跡を引いた。使用人は膝から崩れ落ちそうな勢いで震えている。「し、死んだネズミ……なんで……死んだネズミなんか……!」ちょうどそのとき、誠司がお皿を持ってキッチンから出てきた。目の前の光景を見た瞬間、手に持っていた器を投げ出し、慌てて美月のもとへ駆け寄る。「美月、大丈夫か!?」彼はしゃがみ込み、美月の手を優しく取り、まるで壊れ物を扱うように確認した。美月はにっこりと笑い、あざといほどの愛らしさを振りまいた。「大丈夫、心配かけてごめんね、誠司さん」そして、わざとらしく口を尖らせ、美月は晴佳を指差す。「お姉さんが、死んだネズミなんて送ってきて……わたしを脅かしたの。ほんと、ひどいよ……」誠司の顔に険しいしわが寄る。「お前……刑務所で性格歪んだのか?」忠弘も声を荒げた。「お前はどこまで性悪なんだ!美月に謝れ!」晴佳は、どこか遠い目をしながら顔を上げた。「……そのネズミ、私が送ったって証拠は?」美月はすぐさま声を張り上げた。「名前書いてあったじゃん!宛名、あんたのよ!」晴佳は無表情のまま、反論していた。「宛名が私だからって、私が注文したとは限らないでしょ?あんた、誰かから荷物受け取ったことない?」美月は一瞬言葉を詰まらせ、すぐに不機嫌そうに返す。「は?あんたみたいな犯罪者に荷物なんて誰が送るっての?ありえないでしょ!」晴佳の顔に皮肉な笑みが浮かんでいた。「そうさせたのはあんたの発言でしょ?あんたがああいうこと言わなきゃ、誰もそんな嫌がらせしないわよ」美月の顔がみるみる赤くなる。「なにそれ!じゃああんたが買ってないって証拠出しなさいよ!」「私は証明する必要ない」晴佳は、ほんの僅かに顎を上げて言い返す。「『無罪推定の原則』って知ってる?私に罪があるって言うなら、証明するのはそっちの義務。あんた、弁護士のくせにそんな基本も知らないの?」その言葉と共に、朝の光に包まれた彼女のシルエットが、不思議と神聖で荘厳なものに見えた。その一瞬、誠司はかつての無敗の敏腕弁護士・神谷晴佳を思い出した。言葉は鋭く、筋道もはっきりしていて、まさに理詰め。彼女が一度口を開け
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第5話
晴佳は静かに部屋の中に座っていた。背後でドアが開き、誠司が入ってくる。「今日の件……俺たちが勘違いしてた。ごめん」晴佳は答えなかった。聞こえなかったわけじゃない。ただ、どうでもよかった。彼ら三人に誤解されても、謝られても、もうどうでもいい。誠司の胸に空虚な痛みが広がる。「晴佳……」彼が呼びかけても、晴佳は背を向けたまま言った。「私のマットレスは?」誠司の動きが止まった。晴佳の使っていたマットレスは、かなりの高級品で特注だった。弁護士という職業は一日中座って資料を読むことも多く、腰への負担も大きい。彼女は元々腰を痛めていて、夜も痛みで目が覚めるほどだった。だから医者のすすめで、矯正機能付きのマットレスを特注で作ったのだ。誠司は黙っていた。晴佳は、それを予想していたように、淡々とした口調で言う。「美月の部屋に運んだんでしょ」その声はあまりにも静かで、まるで干からびた井戸の底から響いてくるようだった。誠司の胸が、綿でぎゅうぎゅうに詰められたように苦しい。「晴佳……」実は、晴佳は出所した日の夜に、すでに気づいていた。自分のベッドの感触が明らかに違うことに。そのとき、彼女は何気なく誠司に聞いた。「このマットレス、なんか寝心地違うね」誠司は答えなかった。晴佳もそれ以上聞かなかった。翌日、美月の部屋の前を通りかかったとき、部屋の中から男女の会話が聞こえてきた。「美月、マットレス返せよ。お姉さん、気づいたみたいだ」「気づいたからって何?お姉さん、刑務所で一年間も硬いベッドで寝てたんでしょ?あんな高級マットレスなんて、身の丈に合ってないよ」それに対して、誠司は何も言わなかった。沈黙は、同意と同じだった。刑務所に入った人間に、高級マットレスを使う資格さえ失くした。服役していた過去が、消えない汚点になることはわかっていた。でもそれが、最も信じていた人たちから、心臓にナイフを突き刺す理由になるなんて、想像もしていなかった。しかもそのナイフは、刺したあとで、何度も何度も中をかき回してくる。とことん、血が流れるまで。……出所して半月後、美月の誕生日がやって来た。朝早くから、使用人たちが走り回り、パーティーの準備で大忙しだった。晴佳は階下の慌ただしい
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第6話
人混みの中から小さな騒ぎが上がり、続いてざわめきとくすくす笑いが広がった。男は手に持っていたワイングラスを床に叩きつけた。ガラスの割れる音が耳に刺さる。「お前のせいで、俺たち弁護士全員が罵られてるんだぞ!業界の恥さらし、腐ったミカンがひとつあるだけで全部台無しだ!」誠司と美月も騒ぎに気づいてこちらへ来た。二人ともその光景を目にして固まった。その混乱に乗じて、誰かが後ろから晴佳を突き飛ばした。彼女は尻もちをつき、見上げた先には嘲笑を浮かべる視線が並んでいた。美月は心底楽しそうな声で話した。「お姉さん、どうしたの?ワイン頭からかぶっちゃって、しかも転んじゃって。やっぱりお姉さんっていつもドジだもんね。水月ノ庭の件であれだけやらかしたのも納得だわ」誠司が軽く咳払いしてたしなめる。「美月、人前だぞ。晴佳にも少しは顔を立ててやれ」「だって、私つい本当のこと言っちゃうんだもん」美月は口を尖らせ、誠司はその姿に慈しみの笑みを浮かべた。「美月は素直な子だ」そのやりとりを見ていた晴佳の胸に、もはや痛みはなかった。感情はすでに麻痺して、ただ潮のように心を満たす虚しさだけが残っていた。その闇のとき、横から長くすっとした指が、彼女の目の前に差し出された。低く落ち着いた男性の声が、頭の上から降ってきた。「手を、貸して」晴佳が見上げると、そこには記憶に焼き付くほど整った顔立ちがあった。シャープな輪郭に冷ややかな瞳、端正な顔。長瀬悠貴(ながせ ゆうき)。その名前が自然と脳裏に浮かぶ。彼は弘明大学法学部の先輩で、「伝説の存在」だった。二年で四年分の単位を修了し、誰もが法律家の道を行くと思っていた矢先、突如商学部へ転科した。そして卒業後は家業を引き継ぎ、実業家としても悠貴の才覚は際立っていた。わずか数年で、長瀬グループの業績を一段と押し上げたのだった。ビジネス誌では「次世代のリーダー」と称されている。人々のざわめきがざっと広がる。「えっ……長瀬悠貴?」「めったに公の場に姿を見せないのに、まさか美月の誕生日パーティーに来るなんて……」晴佳はその中でまばたきもせず、ただ見つめていた。悠貴はしゃがんで彼女の手首を取り、軽々と立たせた。そして胸ポケットからハンカチを取り出し
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第7話
晴佳は部屋に戻ると、シャワーを浴びて一階へ戻らなかった。階下の賑やかな声も、やがて遠ざかっていった。どうやら宴は終わったらしい。眠りにつこうとしたその時、スマホが鳴った。美月からのメッセージだ。【お姉さん、部屋に来て。プレゼントがあるんだ】晴佳は部屋を出て美月の部屋へと向かう。だが、ドアの前で、部屋の中から聞こえてきたのは、男女の低く甘い声。「美月……やめろよ。お姉さんすぐ隣だぞ」「大丈夫だって。どうせ寝てるよ。お姉さんが帰ってきてから、ずっと我慢してたんだから……誠司さん、あれ、ほしいのよ」「万が一聞かれたら――」「誠司さんって、そんなにお姉さんが怖いの?」泣き出したような声。鼻声混じりの哀願。「ね、教えて……お姉さんが帰ってきてから、もう彼女としたの?誠司さんの側に、私一人しかいないと、その約束忘れたの?」「……してないよ」誠司の声は、どこか申し訳なさそうで、それでいて優しかった。「だから、泣くな。な、美月……だってさ、晴佳の額の傷、見てたら気が萎えるじゃん?」やっと美月は笑い出した。「やっぱり、誠司さんは私のこと、ちゃんと好きなんだ。じゃあ、お返しさせてね……じっとしてて、私がするから」「美月、そんなことまでして……」「いいの。だって男には欲求ってものがあるんでしょ?私は、喜んで応えてあげる」それからしばらく、くぐもった息づかいと、湿った声が断続的に聞こえてきた。「ねえ……私とお姉さん、どっちが可愛い?」「お前だよ」「私とお姉さん、どっちが気持ちいい?」「お前に決まってる」「じゃあ……どっちが好き?」「お前だ、美月……もっと……」耳が、じんじんと痛む。晴佳の全身から力が抜けていった。血が止まり、呼吸すら忘れるような衝撃だった。フラフラと部屋に戻り、窓の外を見ながらただぼんやりと座っていた。どれだけ誠司がどうしようもない男になっても、最後の一線くらいは守ると。でも、それすらも彼を買いかぶっていたに過ぎなかった。深夜。ようやく眠りについた晴佳だったが、再びスマホのバイブ音で目を覚ました。【お姉さん、聞こえてた?マットレスも、男も、もう私が使ってるの】【正直に言うとね、お姉さんが刑務所での一年間、誠司さんと私はほとんど毎晩一緒だった
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第8話
真っ暗な部屋で、晴佳は天井を見つめていた。ここ数年の出来事が、まるで映画のフィルムのように脳裏をよぎる。もう父親なんて、とうにいなかったも同然だ。そして今、夫さえ、もう要らないと思っていた。……その夜、晴佳は久しぶりにぐっすりと眠れた。翌朝、太陽が高く昇ってからようやく目を覚まし、ゆっくりと洗面を終えて階下へ降りた。すると、耳に飛び込んできたのは美月のヒステリックな叫び声だった。「なんであんたたち来てんのよ!?なんで私のジャスミンを掘り起こしてんの!?お茶に使うのに!」玄関先では、作業服の男たちがせっせと動いていた。彼らの手際の良さで、繁茂していたジャスミンは一株残らず根こそぎ掘り返されていく。「いやああああ!」と美月は絶叫するが、作業員たちはまるで聞こえていないかのように手を止めなかった。晴佳はリビングのソファに腰掛け、使用人がいれたばかりのお茶を口にした。「彼らを呼んだのは私よ」美月は一瞬きょとんとし、それから怒り狂ったように晴佳の前まで詰め寄った。「どういうつもり!?あれは私のジャスミンよ!」晴佳は背もたれにくつろぎながら、笑顔で顔を上げた。「つもりも何もないわ。ただ、あんたのジャスミンが目障りだっただけ」美月は数秒ほど呆気に取られ、それから泣き声を上げた。「あんた本気で私を敵に回すつもり!?わざとよね、完全に嫌がらせでしょ!」晴佳は頷く。「正解。あんたが嫌いなの。だから嫌がらせしてるの」またも言葉を失った美月は、歯を食いしばって叫ぶ。「あんたなんか……たかが前科持ちのくせに!調子に乗らないで!」晴佳の笑顔はその瞬間、すっと消えた。ゆっくりと立ち上がり、無表情のまま睨みつける。「刑務所の中は確かに辛かったわ。でも、名誉毀損って罪名、知ってる?その口の利き方、控えたほうがいいわよ」美月の声が、喉でつかえて止まった。まるで別人を見ているようだった。晴佳は変わった。以前のような遠慮がちな様子は微塵もなく、代わりに放たれる鋭い威圧感に、思わず一歩後ずさった。そんな美月の表情を、晴佳は見逃さなかった。そして、静かに笑んだ。今日からは、もう自分を抑えるのはやめた。これまで我慢してきたのは、気にかけていたからだ。父のことも、誠司のことも。だからこそ
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第9話
晴佳はくるりと父の方へ向き直り、無表情のまま淡々と告げた。「じゃあ仕方ないわね。ジャスミンもゴミとして捨てたから、植え直せって言われても無理よ」忠弘は怒りで胸を押さえた。「親にそんなこと言うのか!わざと俺に逆らってるんだな!」美月は泣きながら父にすがりついた。「お父さん、姉さんがひどすぎるよ……!お父さんを殺す気なの……?」忠弘は咳き込み、震える手で晴佳を指さす。「……もういい、お前なんか……俺の娘だなんて思いたくもない!さっさと出ていけ!今すぐこの家から出て行け!!」それを聞いた晴佳は、あっさりと肩をすくめた。「娘として思いたくない?同感よ。ちょうど私も、あなたを父だなんて思いたくないわ。でも、『この家から出ていけ』って言われても、それは無理な相談ね」一歩、また一歩と近づき、真正面からふたりを見据えた。「ねぇ、お父さん……もう歳には勝てないのね?この別荘、誰の名義か……ほんとに忘れた?私の名義よ。お母さんが遺してくれた財産。出ていくべきなのは私じゃない。あんたたちよ」そう言って、晴佳は迷いなく二人を指さした。その瞬間、美月と忠弘は完全に固まった。美月は動揺した声で父に尋ねた。「お父さん……お姉さん、何言ってるの?どうせまた嘘でしょ?ね?」彼女は所詮、愛人の子。宇佐見家のことなんて知るはずもなかった。忠弘に連れられてこの家に来た日、美月は、まるで洋館のような広大な邸宅を前に、目を丸くした。この贅沢な世界はすべて「お父さんのもの」だと、無意識に思い込んだのだ。でも実際には、会社も、不動産も、すべては晴佳の母・綾乃のものだった。晴佳の祖父・常盤正幸(ときわ まさゆき)は、地元でも名の知れた大企業の創業者。綾乃は、その一人娘として、愛情を一身に受けて育てられた箱入り娘だった。忠弘は、その家に婿入りした身だった。それでも、綾乃は夫を立てるため、娘に夫の姓を名乗らせた。だが、すべての財産が、しっかりと自分名義にしてあった。忠弘は鼻を鳴らして笑った。「だからなんだって言うんだ?別荘があんた名義なら、こっちは別にまた買えばいいだけの話だ」そして急に甘い笑みを浮かべて美月に向き直る。「美月、こんな家なんてもう飽きたろ?新しい家、もっといいの買ってやるよ」だが美
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第10話
堀内弁護士が、遺言の付帯条項を読み上げ終えた。その場が静まり返る中、忠弘は完全に呆然としていた。美月もまた、棒立ちのまま頭を殴られたような顔をしていた。綾乃が残した財産は、一括で夫と娘に渡るのではなく、月ごとに振り込まれる仕組みだった。付加条項にはこうある。「夫が婚姻関係に不誠実だった場合、もしくは娘に害をなした場合は、即時に遺産の継承資格を失うこと」妻に不誠実で、娘に対して不義理、忠弘は、その両方を完璧に満たしていた。忠弘はあきらめきれず、堀内弁護士の腕をつかんで騒ぎ出した。「今の話、よくわからん!そんな勝手なルール、無効だ!聞いてなかった!」美月も同調するように叫ぶ。「そうよ!遺言に後付けで条件なんて、おかしいわ!違法よ!」そのあまりの愚かさに、晴佳は思わず笑ってしまった。彼女が合図すると、すぐに警備員の男たちが前に出て、騒いでいた父娘を弁護士から引き離した。忠弘は喚き散らす。「俺の取り分、20%は絶対に俺のもんだ!誰にも渡さん!」晴佳はゆっくりとお茶を一口すすって言った。「堀内先生を困らせるのはやめて。彼は私の依頼通りに動いてるだけ。文句があるなら、私に言って」忠弘は一瞬、戸惑った表情を見せた。晴佳がまだ冷静に話してくれると思って、希望を見たようだった。彼は急いで笑顔を作り、媚びるように言った。「お母さんが勘違いしてただけだよ。でもお前は俺の本当の娘だろ?そんな誤解しちゃいかんよ」晴佳はうっすらと口角を上げた。「言いたいことがあるなら、まわりくどい言い方はやめて。全部言ってね」途端に、忠弘の顔はさらにほころぶ。「いや、なに、もう話は済んだよ。ただの誤解なんだから、その付帯条項ってのもなかったことにしてくれないか?家族なのに、付帯条項なんて言ってたら、情が冷めちまうだろう?」晴佳は無言でお茶を飲み続けた。彼女の反応がつかめず、忠弘はさらに必死になって媚びる。「お母さんが残したお金は、そんな一人で使い切れるようなもんじゃないだろ?人はな、金があっても幸せにはなれんのだよ。家族や情があってこその温もりだと思わんか?」家族や情があってこその温もり。晴佳の胸に、チクリとした痛みが走った。「……じゃあ、あなたも家族や情が大切だとわかってるって
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