LOGIN神谷晴佳が刑務所を出たその日、外は冷たい雨が降っていた。 風に乗って雨粒が肌を刺し、刑務所の門前には報道陣が押し寄せていた。 「神谷さん、水月ノ庭事件であなたの依頼人が敗訴し、半年前に飛び降り自殺しました。遺族の方があなたに責任を問うてますが、どうお考えですか?」 「神谷さん、弁護士連合会から除名され、あなたの恩師も引退に追い込まれました。この件について一言お願いします!」 記者たちがどれだけ問いかけようとも、晴佳はただ黙ってうつむいたまま前へ進み、人混みをかき分けるようにして出口へ向かった。 道端には黒いゲレンデが停まっていて、夫・神谷誠司が車にもたれながら煙草を吸っていた。 その隣で、宇佐見美月が彼の腕を軽く引っ張り、誠司が視線を門の方に向ける。 そこで、現した姿は……
View More突然、晴佳が訊ねた。「悠貴さん、私、さっき泣いた時、変だった?」悠貴は淡々と答える。「普段の方がマシだった」その言葉のあと、晴佳はしばらく黙り込んだ。悠貴は少し慌てた様子で尋ねる。「どうしたんだ?」「あなたは本当に話し下手で、女の子の慰め方もわかってない。だから彼女ができないんじゃない?」「確かに慰めるのは苦手だ。でも、あなたが言う『彼女ができない』ってのは、もしかしたら、彼女を欲しがっていないだけかもな」「じゃあ、男の彼氏が欲しいの?」「晴佳……」「冗談だよ」運転手が車のドアを開けた。晴佳が先に乗り込み、悠貴も続いて座る。車は静かに走り出した。車内は静寂に包まれていた。悠貴が軽く咳払いをして口を開く。「実は前から言いたいことがあったんだ」晴佳はわざととぼけて訊く。「何?」悠貴は数秒間沈黙し、言葉を選んだ。「実は、ずっと……」晴佳が突然振り返った。「悠貴さん、先にいくつか質問してもいい?」悠貴は少し驚きながらも、頷いた。「どうぞ」「鎌田の会社が銀行から融資を断られ、倒産に至ったのはなぜ?」「それは普通のことだ。彼の会社の負債率が高くて、まるで高空の綱渡りみたいな状態だった。不注意が命取りになる」「でも彼は何年も用心してたのに、なぜ急に失敗したの?」「商売は戦場だ。勝つこともあれば負けることもある。他に何か?」「誠司が突然証拠を破壊したと認めたのはなぜ?」「彼も完全に悪党じゃないってことだ」「でもそれは私の知る誠司と違う」「他に質問ある?」「うん。悠貴さん、なんで私を盗み撮りしてたの?」悠貴は一瞬戸惑う。晴佳は彼の顔のわずかな表情まで見逃さない。悠貴は目をそらし、彼女の視線を避けてしまった。晴佳は優しく彼の顔を向け直し、目を見つめる。「まだ隠し事を続けるつもり?鎌田はあなたのせいで潰れた。彼が自首しなければ、水月ノ庭事件の再審はほぼありえなかった。誠司もあなたに説得された。だから私が弁護士を続けられるんだ。私は馬鹿じゃない。こんなに幸運が続くなんて、サンタクロースの仕業だなんて思わないよ」悠貴の瞳は深く澄んでいる。彼が見つめると、晴佳の心はこれまでにないほど安心した。「今度は私が質問していい
一ヶ月後、水月ノ庭事件の再審が行われた。資産家の鎌田源次郎が自首し、神谷誠司が証拠隠滅を認めたことで、事件は極めて明確になった。当時の被害者はついに冤罪を晴らした。同時に、晴佳がかつて偽証罪で有罪判決を受けていた件も覆された。晴佳は裁判所の門を出た。入り口で待ち構えていた報道陣が一斉に押し寄せる。「神谷さん、弁護士資格を回復されましたが、今後も弁護士を続けられますか?」「今回の件で、業界のリスクについて何か懸念はありますか?」「同業の弁護士たちに、何かメッセージはありますか?」晴佳は立ち止まり、カメラに向かって言った。「もし半年前、出所したばかりの頃に同じ質問をされたら、迷っていたかもしれません。ですが今は違います」「これからも弁護士を続けます。未来が幸運であろうと不幸であろうと、この道を貫きます」記者がさらに問いかける。「神谷さん、その決意を変えたのは何ですか?迷いを捨てた理由は?」晴佳は軽く微笑んだ。「ある方に教えられたのです。『公平と正義を礎に、侵すべからざる法の精神』と。そして私はその人を信じています」記者たちは質問を続けるが、晴佳はそれ以上口を開かず、静かに車に乗り込んだ。車は静かに街の喧騒を抜け、やがて緑豊かな静かな墓地の前で止まった。黒いスーツに身を包んだ晴佳は、墓参りの準備を整えていた。彼女は白いマーガレットの花束を手に、被害者の墓前へと歩いていった。すると、そこにはひときわ背の高い人影が立っていた。「悠貴さん?」「晴佳」彼女が驚いているのとは対照的に、悠貴はずっと落ち着いていた。まるで、彼女がここに現れることを最初からわかっていたかのように。晴佳は口を引き結び、問う。「なぜここに?」悠貴は彼女をじっと見つめる。「実は、この墓地を買ったのは私なんだ。彼女の葬儀も、私が手配した」晴佳は思わず言葉を失った。そういえば、ここは高額な墓地だった。誰かの支えがなければ、あの被害者の少女がここに安らかに眠るのは難しかっただろう。彼女は手にした白いマーガレットの花をそっと供え、墓碑に一礼してから、その前にしゃがみこみ、優しく表面の埃を払った。黒白の遺影の中、少女はあの日のまま、無邪気な笑顔を浮かべていた。晴佳の目頭が熱くなり、声がわず
彼女は彼の尊厳を救い、人生の流れを変えた。踏みにじられた泥のような彼を、一躍、皆が羨み敬う存在へと変えた。だが、彼は何をしたのか?自らの人生を照らすその明るい月を、自分の手で砕いてしまった。誠司は美月の下劣な誘惑に負け、理性を失い、次第に変わり果てていった。晴佳はあの日の大学キャンパスのままの晴佳だ。しかし彼はもう、あの頃の誠司ではなかった。誠司は皮肉な笑みを浮かべた。笑いながら、涙がこぼれた。何年ぶりだろう、涙を流すのは。まだ心の底には感情が残っていたんだ。晴佳という名で痛みを感じているのだ。翌朝、晴佳は電話を受けた。それは警察署からの連絡だった。「神谷晴佳さんでしょうか?現在、刑務所に服役中の神谷誠司が自首し、水月ノ庭事件当時、証拠を意図的に隠滅したことを認めました。事実であれば、あなたの偽証罪は取り消され、弁護士資格も回復される可能性があります。本日はそのご連絡です。追って、出廷をお願いすることになりますので、よろしくお願いいたします」警察はそう告げると電話を切った。耳元の呼び出し音が鳴り響く中、晴佳はぼうっとしたままだった。その時、玄関で使用人の声がした。「お嬢様、美月様が玄関で大声をあげております。あなたを探しているそうです」晴佳は玄関に向かい扉を開けた。「追い返せ」「彼女は拒否し、もう何日もここにいます……」「私が直接話す」十数分後、晴佳は門の前に立った。美月は彼女を見つけると、狂ったように飛びかかってきた。しかし指一本触れられず、ボディーガードに引き離された。「無駄な抵抗はやめて。あなたは私を傷つけられない」「どうしてそんなに冷酷なの?父も誠司も牢にいるのに、私一人でどうやって生きろっていうの?あんたは別荘に住んで、私は地下室に押し込められて、飯もろくにたべないの!今日、金をよこさないなら追い出させない!近所にもあんたの冷酷さを知らしめてやる!」晴佳は笑った。「騒ぎたいならご自由に。私だって一度刑務所に入った身だ。人の目が怖いか?」美月は呆然とした。「あんた……」晴佳は一歩一歩近づく。「懲りないな。自分の間違いをまだわかっていない」美月は足元に倒れ込み、姉の足に抱きつき泣いた。「わかった、わかったよ!姉
晴佳本人さえ知らなかった。この世に、こんな写真が存在しているなんて。しかも、その写真が悠貴の書斎にあった。そして何年ものあいだ、大切に保管されていた。晴佳はその写真を手に取り、本棚の前で長く呆然と立ち尽くした。……刑務所の面会室。鉄の門が開き、悠貴が刑務官に連れられて入ってきた。鉄格子の向こうのテーブルの後ろには、手錠をかけられた誠司が座っている。足音を聞いて顔を上げ、二人はしばらく目を合わせた。悠貴は誠司の向かいに腰を下ろした。誠司は無表情で言った。「俺に会いたい理由は何だ?」悠貴は遠回しにせず答えた。「一年以上前、晴佳が偽証罪で有罪となった件については、あなたが一番ご存じでしょう?」誠司は冷笑を漏らした。「何を?彼女のために正義を貫くつもりか?」悠貴は淡々とした顔で言う。「これだけの借りがありながら、あなたは一度でも償おうと考えたことがあるのですか?」誠司の笑みは急に消え、前かがみに身を乗り出し、鋭い狼のような目で悠貴を睨みつけた。「正直に言ってやるよ。あの夜、美月の誕生日パーティーで、お前が晴佳に気があるって見抜いた。お前は彼女を救うヒーローになりたいんだろう?そんな願い、俺が絶対に叶えさせない!当時の真実を語らせて彼女の潔白を証明する方法はある。お前が彼女に会わせればいい。俺がこの刑に服している間、一度も彼女は見舞いに来なかった。そんなやつがどうして潔白を望めるんだ?」悠貴は拳を強く握り締めた。ずっと誠司の厚かましさは知っていたが、実際に目の当たりにすると吐き気がした。悠貴はやっと冷静さを取り戻した。「今日は相談に来たのではありません。彼女に、償う機会を与えに来たのです。どう答えるかはあなたの自由です。ですが、真実を明らかにする手段は百以上あります。ついでに伺ってもよろしいでしょうか。彼女が刑務所にいた一年の間、一度でも面会に来ましたか?」誠司は言葉を失った。そうだ。彼は美月と浮気に夢中で、晴佳の存在など忘れていた。悠貴の声は冷たく凍りつくようだった。「額の傷は、服役三か月目に洗面所で転倒した際のものです。小脛の傷は、ムカデに噛まれた痕で、処置が遅れていれば脚を失っていたかもしれません。背中には、食物アレルギーによるかきむし
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