手から箒が滑り落ちた。反射的にメモを握りつぶしかけ、慌ててもう一度広げる。
若博は以前、書道を習っていたから、その端正で力強い字には見覚えがあった。
文字を見た瞬間、何かを書くときの若博の楽しそうな笑みまで思い浮かんだ。
けれど、これが麗奈に宛てた言葉だと思った途端、どうしていいかわからなくなった。
だって、ほんの1時間前にも私は若博に聞いたばかりだったから。
「あの転校生、どうして毎日若博くんのところに来るの?なんか、若博くんのこと好きそうだけど」
若博は答えず、唇をきゅっと結んだまま私の後ろへ目を向けた。
振り返ると、麗奈が背伸びをしながら、届かない黒板の上のほうを懸命に消していた。
すると若博は席を立って教壇へ向かい、袖をまくると黒板消しで、麗奈の手が届かないところを少しずつ拭いてやる。
席へ戻ってきた若博に、私はカッターの刃を交換しながら、何でもないことのように聞いた。
「西野さんのこと、好きなの?」
若博の睫毛は、女の子が羨ましくなるほど長く濃い。その澄んだ目に、少し困ったような色が浮かんだ。
[まさか。ああいうタイプは好きじゃないよ]
そう手話で返され、ようやく肩の力が抜けたせいか、手元まで気が緩んだ。
カッターの刃先が指をかすめ、思わず小さく声を上げる。指先には、血がじわりと滲んでいた。
若博はすぐに表情を変え、眉を寄せると、余計なことは何もせずに私の指を取り、滲んだ血をそっと拭ってくれた。
触れた手の温度も、すぐそばに感じる気配も昔から知っているものだった。それだけで、ざわついていた気持ちがすっと落ち着いていく。
私は瞬きをしながら、心の中で自分に言い聞かせた。
ほら、やっぱり若博は私のことが好きなんだ。
なのに今、手の中にあるメモにはこう書かれている
【麻美ちゃんがわざと変なふうに訳すかもしれないと思って、あんなふうに否定したんだ。だから、怒らないで。
僕が一番好きなのは麗奈ちゃんだよ。だから、同じ大学を目指そう】
ポケットの中で、くしゃくしゃになったメモを強く握りしめた。
私はもともと、嫌なことがあっても黙って我慢するような性格じゃない。その場で若博を呼び止め、はっきりさせようとした。
聞きたいことはいくらでもあった――西野さんに書いたあのメモ、いったいどういう意味?
そう口から出かけた時、一瞬きょとんとしていた若博が彼の細い指をそっと持ち上げた。そして、絆創膏を貼った私の指先を見つめながら、真剣な、それでいて優しい目で手話を送ってくる。
[指、まだ痛む?]
私はその手を払いのけた。胸の奥に溜まっていた悔しさと苛立ちが、一気にこみ上げる。
「私が鬱陶しいなら、そう言えばいいじゃん。
わざわざ隠す必要なんてないでしょ」
若博の視線が動き、私の手にあるメモに気づいた。
けれど、慌てる様子はなかった。それどころか、またこんなことで怒っているのかと言いたげな疲れた表情で、静かに手を動かした。
[そういう意味じゃないよ。
ただ、麻美ちゃん……僕たち、少し距離が近すぎると思わない?]
若博はそこで手を止めた。続きを伝えるべきか迷っているらしく、ひどく言いにくそうにしている。
「言ってあげてよ。言わなきゃ橘さんだって直せないでしょ?悪いところがあるなら、ちゃんと直したほうがいいんだから」
澄んだ声が割って入った。いつからそこにいたのか、麗奈が若博の肩にそっと触れ、励ますように彼を見ていた。
また、これだ。
私は本能的に嫌な気分になる。
昔から私は頑固で、一度こうと決めたら簡単には諦めない性格だった。
中学生の頃、事故をきっかけに声が出なくなった若博は、すっかり無口で内向的になり、学校でいじめられても何も言わずに耐えていた。
それが腹立たしくてたまらなかった私は、相手より頭一つ背が高いのを武器に、若博をいじめていた子たちと大喧嘩をやらかした。そして、「もう二度と若博くんに手を出さないで。次やったら絶対に許さないから!」と言い渡した。
それでも若博は相変わらず何をされても黙っていたため、私は歯痒くて仕方がなかった。
それで席替えのとき、先生が若博に希望を聞くと、若博は黙ったまま、一人がいいと手話で答えた。
すかさず私は手を挙げる。「先生、若博くん、私と一瞬でも離れるなんて耐えられない、一生私の隣の席がいいって言ってます」
授業中、学年主任が難しい数学の問題を出して、解ける人はいないかと聞いたときも、若博のノートには計算がびっしり書かれているのに、なぜ毎回白紙で提出するのか不思議に思いながら、親切心で手を挙げた。
「先生、若博くん、3通りの解き方ができるみたいです」
……
そんなことを繰り返すうちに、若博が教室の隅で一人きりになることはなくなった。休み時間には話しかけたり、勉強を教えてもらいに来たりする子も増えていった。
やがて学年主任に勧められて数学オリンピックに挑戦し、推薦枠で難関高校への進学が決まったときは、私も心から嬉しかった。
けれど若博は目を赤くして、その日はずっと何かを言いたそうにしていた。そして帰り際、ようやく一枚のメモを私に差し出してくる。
【僕が勉強を教えるから、一緒の高校に行かない?】
顔を真っ赤にしながら、それでも頑なに私を見つめていた。
あれが、初めて若博にときめいた瞬間だった。私たちは同じ気持ちなんだと、そう思っていた。
けれどそれは、麗奈が転校してくるまでのことだった。
あの日、私は再上映される映画を一緒に観に行こうと、若博をしつこく誘っていたのだが、彼は困ったように笑いながら、図書館でノートを整理したいと手話で伝えてきた。
それでも私は、いつもの調子で、わざと自分に都合よく受け取る。「なんだ、私と同じこと考えてたんじゃん。若博くんもインターステラー見たいんでしょ!」
昔から何度もやってきたやり取りだったから、私はそれをおかしいと思ったことなど一度もなかった。
けれど麗奈は眉をひそめ、真剣な顔で私を見た。
「もう少し若博くんの気持ちを尊重したら?今、図書館に行きたいって言ってたよね。どうしていつも、若博くんの意思をわざと無視するの?」
その瞬間、空気がしんと静まり返った。
私は呆然とした。
私が?
若博を困らせてた?
何より堪えたのは、その言葉で初めて気づいたかのように、若博が麗奈に頷き、[ありがとう]と手話で伝えたことだった。
言葉にしなくても通じ合っていると思っていた私たちの関係も、ふざけ合う中にあった親しさも、その一言ですべて否定されたような気がした。
それからの麗奈は、まるで若博を救うために現れた物語の主人公みたいに、他人との境界線を引くことや、嫌なことにはきちんと「嫌だ」と示すことを彼に教えるようになった。
今だってそうだ。
麗奈に見つめられた若博は、ようやく覚悟を決めたように、ゆっくりと私へ手話を送ってくる。
[僕は……もう少し自分だけの時間が欲しい]
その日から、私はずっと考えていた。
もしかして私って、物語に出てくる悪役の女なのか?
若博が黒い部屋を好むのは本当だ。ただ私は、ずっと部屋に閉じこもっていないで、もっと陽の光を浴びたほうがいいと思っていただけ。
一人で静かに過ごすほうが好きなのに、私が勝手に彼の生活へ入り込んでいただけで、そもそも若博は私なんて必要としていなかったのかもしれない。
いや、若博は昔から頭がいい。
私がいなくても、きっと今と同じように優秀で、元気にやってこられたはずだ。
そう考えてみると、私はなんて強引で、自分勝手で、面倒で、わがままなんだろう。頼まれてもいないのに、ずっと若博の平穏をかき乱していただけだったなんて。
ベッドに横になったままぼんやりしているうちに、いつの間にか外は暗くなり、小雨が降り始めていた。
窓から吹き込む湿った風が細かな雨粒を頬に運び、その冷たさで少しだけ頭が冴える。
そこでようやく、今日は若博が経過観察の通院日だったと思い出した。
若博が声を出せなくなったのは事故が原因で、決して一生治らないわけではない。
彼の両親は何軒もの病院を回り、最後に診てもらった白髪交じりの医師は、診察を終えると首を横に振って「心の傷は、簡単には治せませんからね」と言った。
声帯そのものはすでに回復している。ただ、心に受けた傷が残っていて、本人が声を出そうとしないのだという。
医師は言葉を選びながらカウンセリングを受けられるクリニックを紹介し、できれば月に一度は通ったほうがいいと勧めてくれた。
けれど最初の頃、若博は知らない人と話すのが嫌だと言って行きたがらなかった。
そう言う若博を、私は毎日のように追いかけ回して説得した。
「病院行こうよ。ちゃんと通うなら、毎週一緒に数学オリンピックの講座にも付き合ってあげるから。
私、本当に若博くんの声が聞きたいの。
こんなにかっこいい顔してるんだから、絶対声だってかっこいいよ。お願い!」
一度、私は風邪をこじらせて熱を出し、学校を休んで病院のベッドで泥のように眠っていたことがある。
目を覚ますと若博がいて、点滴のチューブを手で温めながら、心配そうに見守ってくれていた。
どうしてカウンセリングに行かなかったのかと尋ねると、若博は首を横に振り、私の手のひらに指で文字を書いた。
【会いたかったから】
頬を赤くした若博は、それから手話で伝えてきた。
[僕の声を最初に聞くのは、絶対に麻美ちゃんがいい]
そこまで思い出したら、もうじっとしていられなかった。
少し焦りながら、それでも胸のどこかが甘く浮き立つ。
きっと若博は、私を待ってる。
……
雨に濡れたアスファルトが鈍く光り、空気は水をたっぷり含んだ綿のように重かった。
建物の軒下に立っていると、風に乗った冷たい雨粒が襟元から入り込み、思わず首をすくめる。
その次の瞬間、麗奈が、若博の喉仏に触れているのが見えた。
若博は、人に身体を触られるのをひどく嫌う。
子どもの頃、可愛がられすぎて近所のおばさんや年上の女の子たちに代わる代わる抱っこされ、頬をつままれていたせい――ではない。
あの頃の私は太っていて、一緒に遊んでくれる子がほとんどいなかった。
そんな私と遊んでくれたのが、若博だった。おままごとをするときも、私にはいつも騎士の役をくれた。
「騎士は強くなくちゃ。強ければ、お姫様をちゃんと守れるでしょ」
彼にそう言われた私は、こう聞いた。
「じゃあ若博くんがお姫様?お姫様じゃなきゃ、若博くんみたいに可愛くないもんね」
若博は顔を赤くしたあと、少しだけ得意そうに顎を上げた。「まあ……別に駄目ってわけじゃないけど。じゃあ、ちゃんと僕を守ってよ」
毎日のように一緒に過ごしていた私たちは、若博の母親から「麻美ちゃん、大きくなったら若博のお嫁さんになってくれる?」と笑ってからかわれるほど仲がよかった。
けれど、ある日突然、あんなに明るくて可愛かった若博がいなくなった。
大人たちは、誘拐されたのだと言っていた。
若博が見つかった日、私もその場にいたのだが、彼は全身ひどく汚れているのに、なぜか顔だけはきれいで、それでも目からは以前の輝きがすっかり消えていた。
私は若博が帰ってきたことが嬉しくて、何も考えずに手を取ろうとした。
けれど指先が触れた瞬間、若博は全身の力を振り絞るように私を突き飛ばし、大声で叫び続けた。
若博の母親は血の気を失った顔で、掌に爪が食い込むほど強く手を握りしめながら、小さな声で私に謝った。
「怖がらせちゃってごめんね。若博、ひどい目に遭ったから……
それで今もまだ、怖い夢を見ているの」
その後、若博は引っ越していった。
再会したときには、もう声が出なくなっていた。
年下の子たちにいじめられても、抵抗すらしない。
あのとき初めて、胸が痛いという感覚を知った。
昔の若博があまりにも明るく、眩しいほど輝いていて、その姿が幼い頃の記憶いっぱいに焼きついていたからこそ、変わり果てた若博を目の前にしても、私はなかなか受け入れられなかったのだと思う。
だから私は、もう一度「騎士」になることを決めた。
若博が少しずつ元気を取り戻し、以前より私を頼るようになっていくのが、本当は嬉しくて仕方なかった。
でも同時に、誰にも言えない身勝手な気持ちも抱えていた。
若博には、私だけを頼ってほしかったのだ。
……
月が最後に残った雲の切れ間から顔を出し、差し込んだ光に一瞬目が眩んだ。
麗奈は若博の喉仏に触れていた。
口を動かしながら何かを教えているところを見ると、おそらく声の出し方や、声帯が震える感覚を確かめさせているのだろう。
私は涙を拭ったのだが、その瞬間、若博と目が合ってしまった。
私に気づいた若博の目に初めて動揺が走り、それはどこか気まずそうにも見える。
「どうして待っててくれなかったの?」
もう一度そっと涙を拭い、何でもないように言った。
それでもまだ、どこかで期待していたからか、自分でも気づかないうちに、声にはいつものような甘えた響きが残っていた。
若博が答えようと手を上げた、そのときだった。
麗奈がふっと笑い、若博を庇うように一歩前へ出る。
「どうして若博くんに誰かが近づくと、そんなに嫌そうにするの?
本当は、若博くんに仲のいい友達なんてできてほしくないんじゃない?
あなたは若博くんのためにやってるって思ってるみたいだけど、橘さんがいなかったら、若博くんにはもっとたくさん友達ができてたかもしれないよ?」
無邪気にさえ見える顔で、麗奈は容赦なく言葉を重ねた。
「結局、若博くんを自分の思いどおりにしたいだけなんじゃない?友達は自分一人だけ。それなら若博くんは、ずっと橘さんだけを頼ってくれるもんね」
違う。そう言い返しかけたのに、なぜか声が出なかった。
悔しさで滲む視界の向こう、私は若博だけを見つめた。
お願いだから、私のために否定して。
若博なら、私がそんなつもりじゃなかったことを知っているはずだから。
麗奈の言っていることは違うと、若博自身の手で伝えてほしかった。
けれど、若博はそうしなかった。
彼の指が動き、その隣で麗奈が満足そうに笑っている。
[麻美ちゃん。僕は一度、麻美ちゃんがいない毎日を過ごしてみたい]
外では、雨が斜めに降り続いていた。
足元から冷えていくような感覚がして、私はそのまま振り返ることなく雨の中へ飛び出した。
視界の端で、若博が反射的に私を引き止めようとしたのが見えた。けれど麗奈が、その服の裾をつかむ。
そして若博はまた迷った末に、私を選ばなかった。
もういいや。
もう若博を好きでいるのは、やめよう。
翌日、私は熱を出して学校を休んだ。
頭痛をこらえながら大きな箱を一つ用意し、若博と一緒に撮った写真も、幼い頃からもらったものも、全部引っ張り出して放り込む。
ほかに残っていないか確認していると、若博からメッセージが届いた。
【昨日、雨に濡れたから熱が出たの?
今日は数学の授業があったから、ノートをまとめておいたよ】
返信はせず、机の上の古いカレンダーを1枚1枚めくった。
4ヶ月後の今日は、若博が最後にカウンセリングに通う日だ。
そして、大学入学共通テストが終わる日でもある。
若博が声を取り戻したら、最初に何を言ってくれるのだろう。そんなことを、今まで何度も想像してきた。
麗奈が転校してくるまでは、私の将来には当たり前のように若博がいたのだ。
私たちは、もう十数年も一緒にいたのだから。
あまりにも長くそばにいたせいで、今の穏やかで芯の強い若博からは想像もつかないほど、昔の彼が自信をなくし、繊細で不安ばかり抱えていたことさえ、いつの間にか忘れかけていた。
あの頃の彼は劣等感が強く、傷つきやすくて、いつも怯えていた。
一人にしないでと涙をこぼし、どこかへ行くなら必ず前もって教えてほしいとすがってきた。
あの頃は、「自分だけの時間が欲しい」なんて一度も言わなかったのに。
だから私も、若博とは一緒に大学へ行くものだと思っていたし、声を出す練習にも付き合って、この先もずっと一緒にいて、明日も、その次の日も、同じように過ごしていくのだと、信じて疑わなかった。
雨上がりの土の匂いを運んできた風が、まっすぐ顔に吹きつけてくる。
そこで我に返り、カレンダーも箱の中へ入れた。
もう一度部屋を見回し、何も残っていないことを確かめ、箱ごとマンションのごみ置き場へ捨てた。
そのとき、また若博からメッセージが届いた。【家までノートを届けようか?】
もう、今までどおりの気持ちで若博と接することはできなかった。
だから、そのまま連絡先をブロックする。
苦しくてたまらなかったし、とうとうこんなことまで考えてしまった。
最初から若博と出会っていなければ、よかったのに……
教室に入ると、私の席には麗奈が座り、楽しそうに若博と話していた。
若博もすっかりリラックスした様子で身体を少し彼女のほうへ向け、ときどき指先で手話を交えながら話を聞いていて、口元には淡い笑みまで浮かんでいる。
私が思わず足を止めると、目ざとく気づいた麗奈が小首を傾げた。
「橘さん、ごめんね。ここ、私の席になったの。
転校してきたばかりで、若博くん以外とはまだあまり仲良くないから」
そう言って若博の腕を引き、口元を上げる。「それに私、数学が苦手だから、先生にお願いして席を替えてもらったの。
だって私たち、同じ大学に行くつもりだから」
私はリュックの肩紐をぎゅっと握り、口調こそ穏やかなものの、明らかに挑発するような顔をしている麗奈をまっすぐ見返した。
「確かに、もう少し成績上げたほうがいいね。
今回の模試、クラスで30番だったんでしょ?その成績じゃ大学は厳しいと思うよ」
普段の私は、こんなふうに棘のある言い方をすることはほとんどない。裕福な家庭で何不自由なく育ち、両親の仲もよかったし、私と若博がいつも一緒にいることにも理解があって、「若博くんが麻美を泣かせないなら、それでいい」と笑ってくれるような親だった。
だから大抵の人には、悪意を持たずに接してきたつもりだ。
初めて誰かと喧嘩したのだって、若博がいじめられていたから。
顔を真っ赤にした麗奈にはそれ以上構わず、委員長・神崎朔(かんざき さく)の隣が空いているのを確認して、そちらへ向かおうとした。
ところが若博の横を通り過ぎようとした瞬間、腕をつかまれた。
若博は心底わからないという顔で手を動かす。[どうして僕をブロックしたの?
僕たち、友達だよね?]
私は俯いて小さく首を横に振り、一言ずつはっきり答えた。
「もう若博くんと友達ではいたくないの。
これからは、ただの他人だよ」