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第4話

مؤلف: 富貴
外からは、もう何の音も聞こえなかった。

ただの一言すら――冷たい返事さえも返ってこなかった。

時間だけが、じわじわと過ぎていく。

もうダメかもしれないと諦めかけたその時――

ギィ――と、ドアが静かに開いた。

……でも、そこに立っていたのは悠真じゃなかった。

代わりに現れたのは、どこか複雑な表情を浮かべた羽川だった。

彼女の手元には、きちんと整理されたわたしのスーツケースと、床に落ちたままだったスマホがあった。

羽川は、それを無言でわたしの手に渡してきた。

「てっきり、これは引き止めるための芝居かと思ってた……まさか、本当に出て行くつもりだったなんてね」

わたし自身も、まさかこの瞬間に――

かつての「恋敵」に対して、感謝の念が湧くとは思ってもいなかった。

もし彼女が来てくれなかったら、わたしはきっと結婚式当日までこの部屋に閉じ込められたままだった。

わたしは視線をリビングへと向ける。

そこには、悠真の姿はなかった。

テーブルの上には、まだ湯気の立つ料理が置かれていた。

きっと、彼は羽川にわたしの食事を届けるよう頼んだのだろう。

それを見て、わたしはようやくほっと息を吐いた。

スーツケースのハンドルを握りしめ、スマホを手にして、ドアの方へと歩き出す。

羽川の横を通り過ぎるとき、ふと足を止めて言った。

「……ありがとう」

羽川は鼻で笑う。

「お礼なんていらないよ。むしろ、早く出てってほしいくらい」

それから、彼女は一瞬目線をそらして、こう続けた。

「ねえ、知ってた?……あたし、妊娠したの」

わたしは、思わずその場で固まった。

彼女はスマホを取り出して、すでに撮ってあった妊娠検査の診断書を見せてきた。

「悠真の子よ。生まれた瞬間から隠れて生きるなんてイヤだった。あんたさえいなければ、あたしはもうとっくに彼と結婚してたの。だから、あのときメッセージを送ったのよ」

「……こんなに早く、現実を理解してくれるなんて思わなかったけどね。でも、あんたって本当に――悠真のこと、好きだったんだね」

その顔には、もはやかつてのような嫉妬の色はなかった。

むしろ、ほんのわずかな同情すら含まれていた。

わたしは視線を落とし、彼女のふっくらとしたお腹を見つめた。

何も言い返さなかった。

彼女には、わたしが悠真をどこまでも愛して、身を引いたと――

そう見えているのだろう。

でも――もし最初から、悠真に「初恋の人」がいたと知っていたら。

わたしは絶対に、彼との結婚なんて引き受けなかった。

だって、父が亡くなる前に言ったのは、彼にわたしのことを頼むってことだけ。

「結婚しろ」なんて、一言も言ってなかった。

だから――わたしは彼女に、ひとつだけ言っておかなきゃならないことがある。

「悠真が自分から、あんたとの関係を隠してたのよ。

全部、わたしの持ってた株のために。計画的に、わたしを騙しただけ。

わたしはあんたたちの仲を壊したわけじゃない。責める相手、間違ってるわ」

だけど、羽川はただ手をひらひらと振りながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

その返事は、まるで論点の違うところを突いてくる。

「でもさぁ、悠真が株を買うために払ったお金、返してあげたんでしょ?

それで『好きじゃない』なんて、女同士だからこそ分かるのよ。あんた、未練あるくせに。

でもまあ、あさってにはあたしと悠真は正式に夫婦になるし。

もう、あんたが入り込んできたことくらい許してあげるわ」

――もう、聞いてられない。

彼女の自己満足なモノローグを無視して、わたしは足を踏み出す。

……けれど。

ドアの外へ一歩出たその瞬間、羽川がわたしの腕をつかんで引き戻してきた。

さっきまでの感謝の気持ちは、一瞬で消え失せる。

「どいて」

冷たい声で睨みつける。

相手が妊婦じゃなかったら、とっくに突き飛ばしていたかもしれない。

それでも羽川は、まるで何も聞こえていないかのように、勝手にしゃべり続ける。

そして――一枚のカードを、無理やりわたしの手に押し込んできた。

「ねぇ、あんた今、文無しで海外行くんでしょ?危ないじゃない。

このカードに40万入ってるわ。これ持って、二度と日本に戻ってこないで」

深く息を吸って、わたしは彼女の顔を見上げた。

その表情は――まるで「恩を施してやってる」とでも言いたげな、薄ら笑いだった。

……もう我慢できなかった。

パシンッ!

わたしの手が、勢いよく羽川の頬を打つ。

その音は、部屋に鋭く響き渡った。

彼女は叫び声を上げ、顔を抑えながら――何かを言いかけた、そのとき。

わたしの視線の端に、急いで駆けてくる悠真の姿が映る。

それを見た羽川は、瞬時にその場へ倒れ込み、顔を押さえたまま大げさに叫んだ。

「悠真っ!お腹が痛いのっ……ああっ、すごく痛いっ!」

なにそれ……

わたしは思わず眉をひそめた。

意味が分からない――そう思っていた次の瞬間。

――ドンッ!!

ものすごい力で、わたしの身体が後ろへ突き飛ばされた。

強く突き飛ばされたその衝撃に、

スーツケースを持っていたわたしはバランスを崩し、そのまま腰から床に倒れ込んだ。

鋭い痛みが背中に走り、顔から血の気が引いていくのがわかった。

――痛い……

わたしがうずくまっている横を、悠真は迷いなく通り過ぎる。

そして羽川をそっと抱き上げ、わたしの方を一度も見ることなく、その場を後にした。

わたしは彼の横顔に、一瞬だけ視線を送った。

そこには――焦りと、切迫した感情が滲んでいた。

ああ……なるほど。

悠真は、羽川が妊娠していることを知っていたのだ。

でも――

もう、それはわたしには関係のないことだった。

痛む腰を押さえながら、わたしは何とか身体を起こし、階段を一歩一歩ゆっくりと降りていった。

そのまま、一番早く来たタクシーを拾って乗り込む。

全速力で急いだはずだった。

でも、腰の痛みが足を引っ張り、結局――わたしは、わずかに遅れてしまった。

仕方なく、フライトの便を変更する。

それでも、わたしは落ち込まなかった。

打ち身の薬を腰に塗って、空港で一晩を過ごすことにした。

その間に、短期滞在だった出国手続きも、長期へと切り替える。

――しばらく、日本には戻らないつもりだ。

そして翌朝。

飛行機に乗り込むその直前、わたしのスマホが鳴った。

「もしもし、桃山夕凪様でいらっしゃいますか?」

「……そうですが」

「実は、これまでずっとマッチングをお待ちいただいていた心臓のドナーが、ようやく見つかりました。できるだけ早く、m国に来ていただけませんか?」

スマホの画面には見慣れない番号が表示されていた。

戸惑いながら、わたしは聞き返した。

「わたし……海外の病院には予約してないはずですけど」

「『桃山正松(ももやま しょうまつ)』様、ご存知ですか?」

わたしはハッと息を飲む。

「……父です」

「お父様からのご依頼で、ずっとドナーを探しておりました。夕凪様のご体調が特殊なため、条件が厳しかったのですが……ようやく適合者が見つかりました」

電話を切ったあと、わたしはしばらくその場に立ち尽くした。

胸の奥がじんと熱くなって――

……それでも、涙はこぼさなかった。

そしてそのまま、わたしは最後の一歩を踏み出し、

飛行機に乗って、この国を離れた。

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