LOGIN「え……」
彩花の要求に驚いたのか、男は唖然となっていた。
無精ひげで気づかなかったが、この男はまだ青年のような年齢に見える。おそらく、自分と同年代だと彩花は思い、妙な親近感を抱いていた。
――この人も、人生に絶望してるんだろうな。
男は明らかに動揺しながら、
「俺なんかで、良いのか?」
「ええ」
自分なんかどうなっても良い、どうせ義兄からは捨てられたのだし、この際どこの馬の骨とも分からない相手と一夜限りの関係を持っても良いだろうと思った彩花は、近くのラブホテルへと赴いた。
シャワーも浴びず、部屋に入るなり彩花はドレスを脱ぎ捨て、ベッドへ横になった。男も合わせるように、ボロボロの服を脱いだ。やがて、ベッドで体を重ねていく二人。男の動きは粗野だが、彩花は苦痛とは思わなかった。
男のぬくもりを自らの白い柔肌で感じながら、彩花は受け入れていた。指と指を絡ませ、同時に唇を何度も重ねていく。行為の間だけでも、あの憎い義兄のことを彩花は忘れることができた。
絶頂まで行った時、ふと男の目を見ると、彼は寂しそうな目をしていた。彩花には、男の目が鏡に映った自分のように見えた。今の自分も、この男と同じ目をしているのだろうと。
「シャワー、浴びてくる」
男はそう言ってベッドを出ると、彩花に背を向けた。
「……!」
彩花は絶句した。男の広い背中の中央には、炎のような暗紅色の痣があった。
だが、聞いてはいけないことだと思い、彩花は自分の胸の内で抑えた。
翌朝。ホテル代を枕に置き、熟睡している男をそのままにして、彩花はホテルを後にした。
ホテルから少し歩き、広い通りに出たところでタクシーを捕まえると、彩花は何事もなかった顔で家路に着いた。朝帰りをしても、心配する家族など誰一人いない。継父は仕事に出かけ、義兄もおそらく新婚旅行でしばらくは不在になる。
中学時代からの親友の藤堂さくらから電話があったのは、午前中のことだった。「彩花、私たち受かってたよ!」
受験したアメリカの大学の合格発表日であったことすら、彩花は忘れていた。
「一緒に頑張ろうね!」
高らかな親友の声を聞き、ようやく彩花は救われた気持ちになった。
それからまもなく、彩花はさくらと共にアメリカへ旅立っていった。渡米を気に、彩花は家族との関係を断ち切った。何もかも忘れて、新しく生まれ変わろうと心に決めたのだった。
月日が経つのは早く、渡米から五年の歳月が流れた。
経営学を専攻した四年間の大学生活を経て、彩花はさくらと、現地の大学で同級生になった「やっぱり、大企業からの出資が必要なんじゃないかな」
真面目な口調だったが、黒縁メガネ越しの細い優しい眼と言い、健太の柔和な雰囲気は大学時代から変わっておらず、会社にとっても良い緩衝材のポジションになっていた。
「出資先、見つけるしかないね」
険しい顔をした彩花は、気合いを入れるようにヘアゴムを手にして、焦げ茶色の長髪をポニーテールにした。
「下でスイーツ買ってきたよ。一回、糖分接種しよ」
コンビニのビニール袋を持ったさくらが戻ってきたのは、その時だった。学生時代は黒の長髪だったが、帰国を気にイメージチェンジをしたいからとショートヘアにした。
『ALIVE』のオフィスは、鉄筋コンクリート造りのビルがいくつも続く、ビジネス街の一角にあるテナントビルの三階にあり、一階はコンビニになっていた。
「健太が、出資が必要なんじゃないかって言ってる。私も、その考えには賛成」
スイーツを食べながら呟くように彩花が言うと、さくらは聴きづらそうに、
「やっぱり、お父さんの会社に頼りたくはないよね」
「彩花の気持ちも分かるよ。自分たちで会社起こしたのに、父親の力を借りるのもねぇ」
健太が冷静に言うと、さくらは続けて、
「アメリカにいる間も連絡してこなかったし、結構冷たいもんね、彩花の家族。お兄さんだって、結婚した途端に全然気にかけてこなくなったしね」
さくらの言う通り、アメリカに行ってから、継父も義兄も一切連絡をしてくることはなかった。自分から家族との関係を断ったと言えばそれまでだが、もし何か連絡が来ても無視することもできた。だがその連絡の一通すら、家族からは届かなかったのだ。それに親友とはいえ、さくらには結婚式当日のことを打ち明けることができなかった。義兄に片想いしていたことも、その拓也に突然冷たくあしらわれて自暴自棄になって偶然街で出会った男と一夜を共にしたことも。
「とりあえず、今週末までにリストまとめちゃおう」
「そうね」
「よし、やるぞ」
三人は奮起して、出資先を見つけるための情報収集とリスト作成に励んだ。やがて、世界にいくつもの支社を持つ、日本では大手のIT企業として名高い株式会社『
二ヶ月後。書類選考を経て、『神宮寺ホールディングス』本社でのプレゼン参加が決定し、彩花が代表して、プレゼンへ赴くことになった。
『神宮寺ホールディングス』の本社ビルは都心の中心地にそびえ立っていた。
パンツスタイルの黒いビジネススーツに身を包んだ彩花は、ビルの中に足を踏み入れ、エレベーターに乗った。
途中、エレベーターが止まり、見るからに上質な生地で作ったと思われるスーツを着た背の高い端正な若い男性が入ってきた。
ドアが閉まり、男性が目的地のボタンを押した瞬間、大きな鈍い音がし、辺りが真っ暗になった。
――え、故障……? こんな時に限って……。
彩花は必死に非常ボタンを押したが、応答はない。諦めたように大きな溜息をつくと、同席している男性はこの状況に焦る様子もなく、壁際に迫って、彩花を追い詰めてきた。「ちょっと……何なんですか?」
「五年前に逃げた子猫……匂いは、今もまったく変わらないな」
「……?」
エレベーターが止まってから、どれだけの時間が経っただろうか。彩花にとって、この狭い空間で、いきなり壁に迫ってきた男性と同じ空気を吸っていることが、何より苦痛だった。男性はその後も、何も言わずにじっとこちらを見続けている。 ――いつまでこんな至近距離にいるの。五年前に逃げた子猫って何? 逃げたくても逃げられないこのシチュエーションと、刻一刻と迫るプレゼンの時間が、彩花を余計に苛立たせていた。 やがて機械の音がして灯りがつくと、エレベーターは何事もなかったように作動し始めた。エレベーターは彩花の押したボタンの通り、十八階で止まった。ドアが開くと、彩花は男性から逃げるように去っていった。 ――何、あの男。不審者? 痴漢? 長く続く十八階の廊下を、彩花はひたすら走った。ふと腕時計を見ると、プレゼンの時間を三十分も過ぎている。エレベーター事故があったとは言え、遅刻したことに変わりはない。それでも、一筋の望みにかけて、彩花はプレゼンが行われる会議室へと向かった。 会議室の前には、全身ダークグレーのスカートスタイルのスーツを着た女性が、タブレットを持って立っていた。「申し訳ございません。本日十三時よりプレゼンをする予定でした、『ALIVE』の北城と申しますが」 受付担当と思われる女性は、細い赤縁メガネ越しに冷ややかな目で彩花を見ると、タブレットをスライドさせて、何かを確認した。「北城様ですね。予定の時間を、もう三十分も過ぎております。申し訳ございませんが、お引き取り下さい」 無表情で、まるでAIロボットのような女性の淡々とした声が返ってきた。「そうですか……。失礼しました」 女性に軽く頭を下げると、彩花はビルを後にした。この現実を受け止めるしかないと思いつつも、オフィスに戻るまでの彩花の足取りは重かった。 オフィスに戻った彩花は、エレベーター事故の件をさくらと健太に伝えた。反論や文句が飛んでくることは覚悟の上だったが、二人は明るく慰めてくれた。「とんだ災難だったね。まあ事故ならしょうがないよ。他にも出資先は見つけようと思えばできるんだし、次に向かって動いてこう」「こういう大手企業ってさ、担当の役員とか取締役の人が審査するのがほとんどでしょ。代表は、下から来たものにイエスかノーの判断をするだけだからね。それだったら、ちゃんと社長自ら審査して、俺たち
「え……」 彩花の要求に驚いたのか、男は唖然となっていた。 無精ひげで気づかなかったが、この男はまだ青年のような年齢に見える。おそらく、自分と同年代だと彩花は思い、妙な親近感を抱いていた。 ――この人も、人生に絶望してるんだろうな。 男は明らかに動揺しながら、「俺なんかで、良いのか?」「ええ」 自分なんかどうなっても良い、どうせ義兄からは捨てられたのだし、この際どこの馬の骨とも分からない相手と一夜限りの関係を持っても良いだろうと思った彩花は、近くのラブホテルへと赴いた。 シャワーも浴びず、部屋に入るなり彩花はドレスを脱ぎ捨て、ベッドへ横になった。男も合わせるように、ボロボロの服を脱いだ。やがて、ベッドで体を重ねていく二人。男の動きは粗野だが、彩花は苦痛とは思わなかった。男のぬくもりを自らの白い柔肌で感じながら、彩花は受け入れていた。指と指を絡ませ、同時に唇を何度も重ねていく。行為の間だけでも、あの憎い義兄のことを彩花は忘れることができた。絶頂まで行った時、ふと男の目を見ると、彼は寂しそうな目をしていた。彩花には、男の目が鏡に映った自分のように見えた。今の自分も、この男と同じ目をしているのだろうと。「シャワー、浴びてくる」男はそう言ってベッドを出ると、彩花に背を向けた。「……!」 彩花は絶句した。男の広い背中の中央には、炎のような暗紅色の痣があった。 だが、聞いてはいけないことだと思い、彩花は自分の胸の内で抑えた。 翌朝。ホテル代を枕に置き、熟睡している男をそのままにして、彩花はホテルを後にした。ホテルから少し歩き、広い通りに出たところでタクシーを捕まえると、彩花は何事もなかった顔で家路に着いた。朝帰りをしても、心配する家族など誰一人いない。継父は仕事に出かけ、義兄もおそらく新婚旅行でしばらくは不在になる。 中学時代からの親友の藤堂さくらから電話があったのは、午前中のことだった。「彩花、私たち受かってたよ!」 受験したアメリカの大学の合格発表日であったことすら、彩花は忘れていた。「一緒に頑張ろうね!」 高らかな親友の声を聞き、ようやく彩花は救われた気持ちになった。 それからまもなく、彩花はさくらと共にアメリカへ旅立っていった。渡米を気に、彩花は家族との関係を断ち切った。何もかも忘れて、新しく生まれ変わろうと心に決めたのだ
「お母さん、お姉ちゃん。やっぱり、行かないといけないよね……」 北城彩花は、広々とした和室の壁にかけられた黒い額縁の中で微笑む亡き母と、瓜二つの双子の姉にそう問いかけた。彩花にとって、二十歳という記念すべき誕生日は最悪な日であった。今日は、義兄である拓也の結婚式なのである。十年前、亡き母の再婚に伴って、彩花には突然四歳上の兄ができた。血は繋がっていないとは言え、拓也は兄であったが、この十年、彩花は拓也にひたすら秘めた想いを抱いていた。 花柄のレースが施されたネイビーのドレスを着た彩花は、都心にある結婚式場まで何とか重い足を運んだ。会場に向かうタクシーの中で拓也から、『渡したいものがある』 と、一言メッセージが届いた。一体何をもらうのかという疑問と、片想いをしていた兄を何とか祝わなければという憂鬱な気持ちのまま、気がつけば彩花は、結婚式場の控え室のドアの前に立っていた。「はい」 ノックをすると、中から聴き慣れた男の声が聞こえた。彩花がドアを開けて入ると、タキシード姿で短髪をワックスで固めた拓也が鏡台の前に座っていた。「結婚、おめでとう」 彩花は心では思ってもいないことを、あえて口にした。「ああ、ありがとう」「何、渡したいものがあるって」 一刻も早くこの場から立ち去りたい彩花は、すぐに用件を尋ねた。拓也は何も言わずに彩花の目の前にやってきた。キリッとした目鼻立ちの拓也の顔が近づくと、そのまま大きな真珠がいくつも連なるネックレスをかけられた。ワックスのツンとした匂いが、彩花の鼻の中を刺していく。 彩花が不思議そうに拓也を見つめると、拓也は眉間に深い皺を寄せて、露骨に嫌な顔を彩花に一瞬見せると背を向けた。「口止め料だ」「口止め料……?」 彩花は訝しそうに真珠の一つを掴んだ。「姉のことも、お前のその気持ち悪い感情も、全部忘れろ」「それ、どういう意味……? 私は……」 彩花が何か言い返す前に、拓也は背を向けて、「早く出ていけ。誤解されたくないからな」「何、誤解って……」 これ以上、彩花には反論する気力が起きなかった。仕事で多忙な継父は頼れず、母も双子の姉も亡くなり、頼れる唯一の家族であった拓也から、まさかこんな扱いを受けるなんて。 ――何でこんな男に、十年も片想いしてきたんだろう。 部屋を出て、







