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7話

Author: Amy
last update publish date: 2026-11-01 13:34:17

「凌司さん、今日はお願いがあるの」

朝の電話で芽里がそう切り出した瞬間、凌司は署名しかけていた書類から顔を上げた。

「何が欲しい?」

「物じゃないよ。今日、遥と2人で出かけたいの」

留学中に親しくなった水城遥(みずき はるか)が、帰国祝いに街を案内すると言ってくれたのだという。久しぶりに友達と買い物をして、行きたかった店でお茶を飲む。芽里は楽しそうに予定を話した。

「車を出そう。護衛も2人つける」

「……そう言うと思った」

電話の向こうで芽里が小さく笑った。

「今日はね、普通の女の子みたいに出かけてみたいの。友達と電車に乗って、お店を見て、帰りも自分で帰る。駄目?」

凌司の手が止まった。

4歳の芽里を抱いて雨の中を走った夜から、彼女の安全を他人任せにしたことはない。どこにいても助けられるよう、車も人員も確保してきた。

「今はまだ帰国したばかりだ。土地勘も戻っていないだろう」

「大学の間は、ずっと自分で出かけてたよ」

「それは分かっている」

「じゃあ、信じて。私、もう22歳だよ」

彼女の声に、甘える響きはなかった。

凌司は窓の外に目を向けた。昨日、芽里に言われたばかりだ。何でも先回りして決めないでほしい、と。

守ってやりたい。だが、自分が作った安全な世界に閉じ込めたいわけではない。

「……分かった。楽しんでこい」

「本当?」

「ただし、困ったときは必ず連絡しろ。迎えが必要ならすぐに行く」

「うん! ありがとう、凌司さん!」

電話が切れたあとも、凌司はしばらく携帯を置けなかった。

****

「警護車両は何台ご用意しましょう」

慎吾の質問に、凌司は書類を閉じた。

「必要ない」

「……はい?」

「今日は友人と2人で出かけるそうだ。尾行もするな」

慎吾は珍しく聞き返した。

「よろしいのですか。18年前の襲撃以来、警護の方針は厳格にしてきましたが」

「緊急時に動ける態勢だけ整えておけ。本人には干渉するな」

言い切った凌司自身、胸の奥は落ち着かなかった。

もし何かあったら。人混みではぐれたら。昔の敵が姿を現したら。

考え始めれば、危険などいくらでも思いつく。それでも、芽里の望みをなかったことにはしたくない。

あの夜は彼女のために、他人の人生を動かそうとした。今日は逆に、自分が芽里を守るという役目から、ほんの少し手を離さなければならない。それがこれほど難しいとは思わなかった。

慎吾が退出したあと、凌司は仕事に戻った。

「社長、本日の買収案件ですが――」

報告する役員は緊張していた。凌司は提案書の不備を数分で見抜き、修正の期限を告げる。誰も彼の判断に逆らえない。

ところが会議が終わると、彼は机の上の携帯へ目をやった。

着信はない。

時計はまだ午前11時だった。

(今ごろ、何をしているんだろう)

メッセージを送ろうとして、指を止めた。

連絡を取る理由ならいくらでも作れる。昼食は取ったか、足は痛まないか、人が多すぎないか。

けれど、それでは昨日と何も変わらない。

凌司は携帯を伏せた。

芽里が大人になったことを、1番喜ぶべきなのは自分のはずだった。

****

「ねえ芽里、さっきから携帯ばっかり気にしてない?」

遥に指摘され、芽里は慌てて画面を消した。

「そんなことないよ」

「嘘。誰かから連絡を待ってる顔」

2人は雑貨店を出たところだった。芽里の手には小さな紙袋があり、中には深い青色のマグカップが入っている。

「それ、誰へのお土産?」

「凌司さんに。いつも何でも買ってくれるから、たまには私も何か贈りたくて」

「例の、すごいお金持ちの護衛さん?」

「昔は護衛だったけど、今は会社の社長さん」

遥は吹き出した。

「何、その規模の違い。そんな人にマグカップ?」

芽里は袋を胸に抱いた。

「高いものなら、自分で何でも買えちゃう人だから。私が選んだものなら、少しは喜んでくれるかなって」

遥はしばらく芽里を見つめた。

「……芽里、その人の話をするとき、すごく嬉しそう」

「大切な人だもん」

そう答えたのに、なぜか頬が熱くなった。

凌司なら、いつもの穏やかな顔で受け取ってくれるだろう。だが、そのあと本当に使ってくれるだろうか。好みも知らないまま選んでしまった。

そこまで考えて、芽里は苦笑した。

凌司も、自分への贈り物を選ぶとき、こんなふうに悩んだことがあるのだろうか。

「それより、お腹すいたね!」

芽里は遥の腕を取った。今日は自分で選んだ1日だ。心配ばかりしていたら、凌司に笑われてしまう。

****

夕方、急に雨が降り始めた。

駅前には傘を求める人が集まり、電車も混雑していた。芽里と遥は屋根のある通路で雨宿りをしたあと、駅の売店で傘を買った。

「迎えに来てもらわなくていいの?」

遥が尋ねる。

芽里は携帯を見た。凌司からの連絡は1件もない。

少し意外だった。いつもなら食事を済ませたか、疲れていないかと尋ねてくるのに。

(今日は、私がお願いしたから……)

そう気づくと、胸が温かくなった。

凌司は今ごろ、気になって仕方がないはずだ。それでも約束を守ってくれている。

「大丈夫。自分で帰れるよ」

遥と別れ、電車に揺られて宮原家へ戻った頃には、雨も上がっていた。

芽里は部屋に入るなり、凌司へメッセージを送った。

【ただいま! 今日はすごく楽しかったよ。ありがとう】

****

本社の執務室で、凌司の携帯が震えた。

画面を見た瞬間、肩から力が抜けた。

無事に帰った。それだけで、夕方から胸の中に居座っていた不安がようやく静まる。

【おかえり。楽しめたならよかった】

返信すると、すぐに次のメッセージが届いた。

【凌司さん、今日は一度も電話してこなかったね】

凌司は少し迷ってから答えた。

【お前の邪魔をしたくなかった】

数秒後。

【ありがとう。そういう凌司さん、大好き!】

その文字を見つめ、凌司は苦笑した。

昔から芽里は、嬉しいことがあると何のためらいもなくそう言う。

彼にとっては、あの幼い少女が無邪気に笑いかける姿と重なる言葉だった。

なのに今日、その短い一文をすぐに閉じることができなかった。

自分にも、こんなふうに気持ちを向けてくれる人がいる。

その事実が、ひどくありがたかった。

さらにメッセージが届く。

【そうだ! この前の約束、覚えてる? 明日、凌司さんのお家に遊びに行ってもいい?】

凌司の視線が止まった。

世界中の財界人が招かれたがる広瀬邸。その扉を、芽里はただ彼に会うために開けたいと言っている。

招けば、芽里はきっと喜ぶ。自分も、嬉しくないはずがない。

しかしあの屋敷には、芽里に見せられるような暮らしが何もなかった。

高価な絵画も調度品も揃っているのに、自分の好きなものが1つも浮かばない。芽里が「凌司さんのことをもっと知りたい」と笑った顔を思い出すほど、何もない自分が恥ずかしくなる。

彼はしばらく画面を見つめてから、返信した。

【ああ。待っている】

送信したあと、凌司は誰もいない執務室で呟いた。

「……あいつに見せたいものが、何もないな」

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