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5話

Author: Amy
last update publish date: 2026-10-29 17:15:05

「宮原のお嬢様、ずいぶん立派な護衛をお持ちですね」

休憩室から戻った芽里に、男が声をかけた。城崎直哉(しろさき なおや)、32歳。国内有数の不動産グループの御曹司だ。

「広瀬社長が直々に靴の世話までなさるとは。随分と大切にされているようで」

笑顔の奥に皮肉が透けていた。芽里は礼儀正しく微笑む。

「凌司さんには、昔からお世話になっているんです」

「宮原家も、いい人材を拾いましたね。あれほどの男を護衛にしていたとは」

拾った。その言い方が引っかかった。凌司は今、少し離れた場所で海外企業の代表と話している。芽里が「もう大丈夫だから、お仕事に戻って」と送り出したばかりだった。

「凌司さんは、私たちにとって大切な方です。そういう言い方は控えていただけますか」

「失礼。もっとも、今では宮原家のほうが彼に守られている立場でしょう? 昔の勢いもなくなったと聞きますし」

「経営のお話でしたら、祖父にお願いします」

芽里は穏やかに答えて立ち去ろうとした。だが、直哉はさらに声を落とした。

「そういえば、ご両親はあの襲撃事件で亡くなられたとか。あれほど警護の厳しい屋敷が襲われるなんて、よほど恨みを買っていたんでしょうね」

芽里の足が止まった。

銃声。炎。母の声。4歳のあの夜の記憶が、不意に胸を締めつける。

「……両親のことを、そんなふうに言わないでください」

「お気を悪くされましたか? 昔の事件について、少し感想を述べただけですよ」

男は悪びれる様子もない。芽里は言い返そうとしたが、喉が詰まった。

父も母も、どんな思いで自分を守ろうとしたのか。この男は何も知らない。

周囲にはほかの招待客もいた。誰かが気づいているはずなのに、誰も口を挟まない。

相手は大手グループの跡取りで、今夜の宴席では有力な客の1人だった。

芽里は父と母の顔を思い出そうとした。けれど記憶の中の2人は、いつも遠い。

どうして、知らない人にまで大切な思い出を踏みにじられなければならないのだろう。

悔しさに視界が滲んだ、そのとき。

「今、何と言った?」

背後から低い声が響いた。

****

直哉が振り向くと、凌司が立っていた。

「ひ、広瀬社長……!」

「芽里に何と言ったのか、聞いている」

凌司の視線が芽里に移る。彼女は慌てて目元を拭ったが、赤くなった目を隠すことはできなかった。

「凌司さん、何でもないの。私なら大丈夫だから」

凌司はしばらく芽里を見つめたあと、直哉に向き直った。

「城崎グループは、うちと再開発事業を3件進めていたな」

「は、はい。いつも大変お世話に――」

凌司は携帯を取り出した。

「慎吾。城崎グループへの新規投資を停止しろ。既存事業も撤退の条件を精査してくれ」

電話の向こうで慎吾が短く了承した。

直哉の顔から血の気が引く。

「お待ちください! そんなことをされたら、うちの会社は……!」

「困るのか?」

「当然です! 何千人もの社員がいるんですよ!」

「それだけの社員を背負う男が、人の死を冗談にするのか」

いつの間にか周囲の会話が途絶えていた。財界人たちは息を潜め、凌司の次の言葉を待っている。

「俺を侮辱するなら、好きにすればいい」

凌司は直哉をまっすぐ見た。

「だが、お前は芽里の両親の死を笑いものにした」

「じょ、冗談です! 悪気は――」

「冗談で済ませていいことと、悪いことがある」

会場の端に立っていた玲奈も、その光景を見ていた。何度面会を求めても動かなかった男が、芽里の涙を見た途端、取引を切り捨てようとしている。玲奈はグラスを持つ指に力を込めた。

直哉はたまらず頭を下げた。

「申し訳ありません! お嬢様にも謝ります! どうか撤回を……!」

凌司はもう彼を見なかった。芽里のそばへ戻り、手を差し出す。

「帰ろう。疲れただろう」

芽里はその手を見つめた。胸の奥には安堵と、言葉にならない不安が同時に広がっていた。

****

帰りの車で、芽里が口を開いた。

「凌司さん。城崎さんの会社、本当に取引をやめるの?」

「そのつもりだ」

「あの人の言葉は許せない。両親のことをあんなふうに言われて、本当に悔しかった」

芽里は膝の上で両手を握る。

「でも、その会社で働く人たちは何も悪くないでしょう? 取引がなくなったら、あの人だけの問題じゃ済まないよ」

凌司は答えなかった。先ほどは、芽里を泣かせた男を許せないという思いでいっぱいだった。

「私のために、何も悪くない人まで不幸になるのは嫌なの」

芽里の声がかすれた。両親を失った自分は、突然大切なものを奪われる苦しさを知っている。相手を許すことはできなくても、無関係な人まで同じ思いをしてほしくなかった。

凌司は黙った。

芽里は彼を責めたいわけではなかった。侮辱された自分を庇ってくれたとき、嬉しかったのは本当だ。あの場で1人だったら、きっと泣き崩れていた。

「助けてくれて、ありがとう。でもね、私、凌司さんに怖い人になってほしくない」

凌司の指が止まった。

彼は自分が何を言われても気にしない。だが、芽里に恐れられることだけは、考えたくもなかった。

凌司は返事をする前に、芽里の顔を確かめた。先ほどの男を思い出したときにはまだ悔しそうに眉を寄せている。それでも彼女は、見知らぬ社員の暮らしを案じていた。

「……分かった。もう一度、判断し直す」

「本当?」

「ああ。お前が望まないことをしたかったわけじゃない」

芽里は少しほっとしたように笑った。それでも、凌司の胸には小さな痛みが残った。

芽里を泣かせた男を許せなかった。なのに、守ろうとした自分まで、彼女を悲しませてしまった。

****

その夜、凌司は本社の執務室で慎吾と向き合っていた。

「城崎グループの件、法務と事業部から報告が届いております」

「新規投資は止めたままでいい。既存事業は継続しろ。あの男には経営から身を引いてもらう。社員に負担をかけるな」

「承知しました」

慎吾が書類を閉じたとき、凌司が不意に尋ねた。

「慎吾。俺は、そんなに怖い男に見えるか?」

思いもよらない質問に、慎吾は顔を上げた。

「……社長を恐れる方は、少なくありません」

「そうだろうな」

「ですが、お嬢様は社長を怖がっているのではなく――」

「分かっている」

凌司は窓の外に目を向けた。

「世界中の人間に恐れられても構わない。だが、芽里にだけは嫌われたくない」

言い終えて、彼は自嘲するように笑った。

そのとき、携帯が震えた。芽里からだった。

【凌司さん、今日は助けてくれてありがとう。だけど、明日もう一度、ちゃんとお話ししたいな】

凌司は画面を見つめる。いつもなら彼女からの連絡だけで心が和らぐのに、今夜は違った。

もし、もう守ってほしくないと言われたら。

18年間、ただ彼女を守るために生きてきた自分は、その言葉に耐えられるだろうか。

敵の銃口を前にしても揺らがなかった男が、たった1通のメッセージを前に、返信する指を止めていた。

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