تسجيل الدخول「本当に、私が遊びに行ってもいいの?」
翌朝、芽里が念を押すと、凌司は電話の向こうで小さく笑った。
「昨日もそう答えただろう。車を迎えに行かせる」
「今日は自分で行けるよ。場所も教えてもらったし」
「……分かった。気をつけて来い」
電話を切った凌司は、すぐに慎吾を呼んだ。
「午後の予定を空けろ。客が来る」
「お嬢様ですね。すでに応接室の準備を進めています」
「応接室?」
「はい。庭が見える、一番明るい部屋を」
凌司は首を振った。
「芽里は、俺がどう暮らしているのか知りたいそうだ。取り繕う必要はない」
慎吾は一瞬だけ目を見開いた。海外の首脳級の客人ですら案内したことのない私的な居住区へ、芽里を招くつもりなのだ。
「承知しました。では、普段どおりに」
「……いや、待て」
凌司は机の上を見回した。積み上がった書類、冷めたコーヒー。昨夜も眠らずに仕事をしていたことが、一目で分かる。
「コーヒーは片づけてくれ」
慎吾は笑いをこらえて頭を下げた。
****
広瀬邸の門が開いたとき、芽里は思わず足を止めた。
長いアプローチの奥に白い石造りの邸宅がそびえ、噴水のそばには高級車が並んでいた。ホテルと見まがう豪華さだった。
けれど、玄関に迎えに出た凌司の姿を見た途端、そのすべてが気にならなくなった。
「凌司さん!」
「迷わなかったか?」
「うん。すごいお家だね! でも、本当に1人で住んでるの?」
「使用人はいる。ほかに家族はいない」
当たり前のような答えだった。
芽里は昨日買った紙袋を抱え直した。中には、遥と一緒に選んだ青いマグカップが入っている。
「今日はね、渡したいものがあるの」
「俺に?」
「あとでのお楽しみ」
凌司はそれ以上聞かず、彼女を中へ招き入れた。
大理石の床には一筋の傷もない。天井には大きなシャンデリアが輝き、壁には有名画家の作品が並んでいた。
「美術館みたい……」
「気に入ったものがあれば、持って帰っていい」
「そういうことじゃないよ!」
芽里が笑うと、凌司は少し困ったように眉を下げた。
その顔を見て、芽里は胸が温かくなった。世界的な企業グループの社長なのに、自分の冗談にはどう返せばいいか分からないらしい。
****
屋敷を案内されるうちに、芽里は奇妙なことに気づいた。
客間には季節の花が飾られているのに、凌司の書斎には一輪もない。廊下の美術品も、どれも取引先からの贈り物だという。
「じゃあ、いつもここで1人で食べてるの?」
「会食も多い。家では簡単に済ませる」
「テレビは?」
「ほとんど見ない」
「本とか映画は?」
「読むのは仕事の資料だな」
芽里は足を止めた。
「このテーブル、何人座れるの?」
「20人ほどだ」
「凌司さんは、どこに座るの?」
「……あまり使わない。会食がなければ、書斎で済ませる」
芽里は長いテーブルの端から端まで見渡した。椅子は寸分違わず並び、皿1枚置かれていない。誰かと食事を楽しんだ気配がなく、まるで客を迎える日だけ息を吹き返す部屋のようだった。
「こんなに立派なのに、もったいないね」
「そうかもしれないな」
凌司は反論しなかった。大きな屋敷を買ったのは、安全で仕事に便利だったからだ。そこでどんなふうに笑い、誰と食卓を囲むかなど、考えたこともなかった。
この家には、世界中から買い集めた品がある。それなのに、持ち主が心から欲しがって選んだものは見当たらない。
「……凌司さん、このお家、寂しくない?」
何気なく尋ねたつもりだった。
だが凌司は、すぐには答えなかった。
寂しいという感情を、考えたことがなかった。芽里が無事で、仕事が滞りなく進めば、それで充分だと信じてきた。誰もいない夜に灯りのついた書斎へ戻ることも、彼にはごく普通の日常だった。
「慣れている」
ようやく返ってきた答えに、芽里の胸がきゅっと痛んだ。
慣れている。寂しくない、とは言わないのだ。
「私、小さい頃、凌司さんは何でも持ってると思ってた」
「今も必要なものは揃っている」
「うん。でも、誰かと一緒に食べたご飯が美味しかったとか、帰るのが楽しみだったとか、そういう話を聞いたことがないなって」
凌司は目を伏せた。会議を終えて夜遅く帰っても、屋敷の灯りがついているのは使用人が待っているからだ。自分の帰宅を喜んで駆け寄ってくる人など、ここにはいなかった。
芽里はそれ以上尋ねなかった。代わりに、手にした紙袋を両手で持ち直す。自分が持ってきた小さな贈り物が、この家に少しでも温かさを加えられたらと思った。
****
「じゃあ、これを使って」
芽里は紙袋から箱を取り出した。
中に入っていたのは、深い青色のマグカップだった。持ち手が大きく、手に取るとほっとするような丸みがある。
「昨日、遥と選んだの。凌司さんに似合いそうだと思って」
凌司は受け取ったまま動かなかった。
高価な贈答品なら、これまで数えきれないほど受け取っている。だが、芽里が自分のために店を回り、色や形を選んでくれた。それだけで、胸の奥に熱いものが広がった。
「……俺に、くれるのか」
「そうだよ。変かな?」
「いや。嬉しい」
彼は両手でカップを包み込んだ。割れ物を持つというより、失くしてはいけない宝物を受け取ったような手つきだった。
「今度から、これでコーヒーを飲んでね」
「……使うのか?」
芽里は目を丸くした。
「使うために買ったんだよ!」
「割れるかもしれない」
「そしたらまた一緒に選ぼうよ」
凌司は顔を上げた。
また、一緒に。
芽里は何の気なしに言ったのだろう。けれど、凌司にはその言葉が、思いがけない贈り物に聞こえた。
将来の自分にも、彼女と買い物をする時間がある。そんな些細な未来を、彼は1度も思い描いたことがなかった。
「……そうだな」
ゆっくり微笑むと、芽里も嬉しそうに笑った。
凌司はカップの底を確かめ、細かな傷がないかまで見た。高価な品を評価するときの目ではなかった。芽里が自分のために店で立ち止まり、これを手に取った。その時間を、形ごと残しておきたかった。
「じゃあ、早速何か飲もう!」
****
その日の午後、凌司は初めて、仕事の資料を開かずに紅茶を飲んだ。
芽里がカップを両手で包みながら留学中の思い出を話す。凌司は青いマグカップで紅茶を飲み、ただその声を聞いていた。
窓から差し込む日差しが、いつもは冷たく見える部屋を明るく照らしていた。
「凌司さん、また来てもいい?」
「もちろん」
「じゃあ次は、一緒にご飯を作ろうね」
「料理は得意じゃないぞ」
「私が教えるから大丈夫!」
彼は思わず笑った。誰かに何かを教わるのを、こんなにも楽しみに思えたのは初めてだった。
芽里を玄関まで見送ったあと、凌司は書斎へ戻った。
机の中央には、青いマグカップが置かれている。慎吾が書類を並べようとしたが、凌司はその場所を空けるよう告げた。
「ここに置いておく」
「毎日お使いになりますか」
「ああ」
その返事に慎吾は笑みを隠した。
だが凌司は、机の奥にある鍵付きの小箱へ視線を向けた。
芽里にはまだ、見せられないものがある。
18年前の誓いから始まった、誰にも明かしたことのない宝物。
彼はそっと箱に触れた。
「……いつか、話せるだろうか」
数日後、芽里はホテルの控室で、鏡の前に立つ凌司を見つめていた。今日は宮原家と縁の深いホテル経営者の娘の結婚式だ。祖父の重隆が急用で出席できなくなり、芽里が代わりに招かれていた。広瀬グループとも取引のある家で、凌司も招待を受けている。「凌司さん、ちょっとこっち向いて」「どうした?」「ネクタイ、曲がってる」凌司が鏡を見るより早く、芽里は彼の前へ歩み寄った。「動かないでね」そう言って両手を伸ばし、結び目を整える。背の高い凌司に届くよう、少し爪先立ちになった。彼は息を止めた。いつもの芽里なら、髪に落ちた葉を取ってほしいと頼み、転びそうになればためらわず腕をつかんでくる。触れることは珍しくなかった。けれど今、鼻先に彼女の髪が揺れ、ほのかな香りがしただけで、身体が強張ってしまう。「……芽里。自分で直せる」「あと少しだから」芽里は真剣な顔で結び目を引いた。凌司は視線を落としかけ、慌てて壁の時計を見た。彼女はもう子供ではない。自分が不用意に近づいていい相手ではないのだ。「できた!」芽里が一歩下がる。「凌司さん、顔が赤いよ。暑い?」「……いや。何でもない」凌司は手を上げたものの、結び目には触れなかった。せっかく彼女が直してくれたものを、崩したくなかった。****式場には白い花が飾られ、柔らかな音楽が流れていた。披露宴が始まると、主賓席の凌司には挨拶が絶えなかった。有力企業の経営者たちは彼と数分話すために列を作り、芽里にも名刺を差し出してくる。「広瀬社長、ぜひ後ほどお時間を」「今日は祝いの席だ。仕事の話は別の日にしてくれ」凌司はにべもなく断った。ところが芽里が「新婦さんのドレス、近くで見てみたいな」と囁くと、すぐに立ち上がる。「案内しよう」「凌司さんも一緒に?」「嫌か?」「ううん、嬉しい」彼はその一言で、今までの冷たい表情を忘れたように微笑んだ。少し離れた場所で見ていた慎吾は、挨拶に来た取引先へ「社長は本日、商談をお受けしません」と丁重に告げた。もう理由を説明する必要もない。その取引先の会長は、凌司が芽里の椅子を引く姿を目で追った。「広瀬社長が女性を気遣うところなど、初めて見たよ」慎吾は曖昧に笑った。女性だからではない。芽里だからだ。凌司はこれまでも、出張先からわざわざ彼女の誕生日に帰国し、海外にしかない画材を探し回っ
「ママ、待って!」伸ばした手は、誰にも届かなかった。炎が廊下を赤く染めている。遠くでガラスが割れ、誰かが自分の名を叫んだ。母の白い服が扉の向こうへ消える。追いかけようとしても足が動かず、代わりに近づいてきたのは、黒い服の男たちだった。次の瞬間、身体がふわりと浮いた。『目を閉じていてください』聞き覚えのある声。雨の冷たさ。耳元で乱れる息遣い。自分を抱いた少年の頬から、赤いものが落ちてくる。『お兄ちゃん、血が……』彼は答えず、ただ走り続ける。やがてその腕から力が抜け、芽里は暗い地面へ落ちていった。「凌司さん!」自分の声で目が覚めた。見慣れた別邸の寝室だった。ベッド脇の時計は午前2時を少し回っている。窓の外は静かで、廊下から物音ひとつ聞こえない。芽里は胸元を押さえた。夢だと分かっているのに、心臓が激しく脈打ち、指先の震えが止まらなかった。帰国してから、昔の屋敷や庭を見て、懐かしい気持ちになった。その分、遠ざかっていた夜の記憶まで呼び戻してしまったらしい。母の最後の顔は思い出せない。それなのに、血に濡れた凌司の手だけは、夢の中でもはっきり見えた。枕元の携帯を取る。画面にある「凌司さん」の名前を見つめ、芽里はためらった。今は深夜だ。彼は今日も仕事をしていた。自分はもう22歳で、怖い夢くらい1人でやり過ごせるはずなのに。それでも、あの手が離れていく感触が消えない。芽里は通話ボタンを押した。呼び出し音は、1回も鳴り終わらなかった。「芽里? どうした」眠そうな声ではない。いつもと変わらない、落ち着いた声だった。「……起こしちゃった?」「起きていた。何があった?」その優しさに触れた途端、こらえていたものが溢れた。「怖い夢を見たの。昔の……あの夜の夢」電話の向こうで、短い沈黙があった。「怪我はしていないな? 今は部屋にいるんだな?」「うん。私、大丈夫。でも、凌司さんが……」最後まで言えなかった。再び涙がこぼれ、声が詰まった。「分かった。今から行く」「えっ? 待って、こんな時間に――」「無理に話さなくていい。電話は切らなくてもいいから」凌司はそう言い、上着をつかんだ。****広瀬邸の書斎では、青いマグカップがまだ机の中央に置かれていた。凌司は通話をつないだまま廊下へ出る。警備責任者に車の準備を告げると、玄関で待ってい
「本当に、私が遊びに行ってもいいの?」翌朝、芽里が念を押すと、凌司は電話の向こうで小さく笑った。「昨日もそう答えただろう。車を迎えに行かせる」「今日は自分で行けるよ。場所も教えてもらったし」「……分かった。気をつけて来い」電話を切った凌司は、すぐに慎吾を呼んだ。「午後の予定を空けろ。客が来る」「お嬢様ですね。すでに応接室の準備を進めています」「応接室?」「はい。庭が見える、一番明るい部屋を」凌司は首を振った。「芽里は、俺がどう暮らしているのか知りたいそうだ。取り繕う必要はない」慎吾は一瞬だけ目を見開いた。海外の首脳級の客人ですら案内したことのない私的な居住区へ、芽里を招くつもりなのだ。「承知しました。では、普段どおりに」「……いや、待て」凌司は机の上を見回した。積み上がった書類、冷めたコーヒー。昨夜も眠らずに仕事をしていたことが、一目で分かる。「コーヒーは片づけてくれ」慎吾は笑いをこらえて頭を下げた。****広瀬邸の門が開いたとき、芽里は思わず足を止めた。長いアプローチの奥に白い石造りの邸宅がそびえ、噴水のそばには高級車が並んでいた。ホテルと見まがう豪華さだった。けれど、玄関に迎えに出た凌司の姿を見た途端、そのすべてが気にならなくなった。「凌司さん!」「迷わなかったか?」「うん。すごいお家だね! でも、本当に1人で住んでるの?」「使用人はいる。ほかに家族はいない」当たり前のような答えだった。芽里は昨日買った紙袋を抱え直した。中には、遥と一緒に選んだ青いマグカップが入っている。「今日はね、渡したいものがあるの」「俺に?」「あとでのお楽しみ」凌司はそれ以上聞かず、彼女を中へ招き入れた。大理石の床には一筋の傷もない。天井には大きなシャンデリアが輝き、壁には有名画家の作品が並んでいた。「美術館みたい……」「気に入ったものがあれば、持って帰っていい」「そういうことじゃないよ!」芽里が笑うと、凌司は少し困ったように眉を下げた。その顔を見て、芽里は胸が温かくなった。世界的な企業グループの社長なのに、自分の冗談にはどう返せばいいか分からないらしい。****屋敷を案内されるうちに、芽里は奇妙なことに気づいた。客間には季節の花が飾られているのに、凌司の書斎には一輪もない。廊下の美術品も、どれも取引先からの
「凌司さん、今日はお願いがあるの」朝の電話で芽里がそう切り出した瞬間、凌司は署名しかけていた書類から顔を上げた。「何が欲しい?」「物じゃないよ。今日、遥と2人で出かけたいの」留学中に親しくなった水城遥(みずき はるか)が、帰国祝いに街を案内すると言ってくれたのだという。久しぶりに友達と買い物をして、行きたかった店でお茶を飲む。芽里は楽しそうに予定を話した。「車を出そう。護衛も2人つける」「……そう言うと思った」電話の向こうで芽里が小さく笑った。「今日はね、普通の女の子みたいに出かけてみたいの。友達と電車に乗って、お店を見て、帰りも自分で帰る。駄目?」凌司の手が止まった。4歳の芽里を抱いて雨の中を走った夜から、彼女の安全を他人任せにしたことはない。どこにいても助けられるよう、車も人員も確保してきた。「今はまだ帰国したばかりだ。土地勘も戻っていないだろう」「大学の間は、ずっと自分で出かけてたよ」「それは分かっている」「じゃあ、信じて。私、もう22歳だよ」彼女の声に、甘える響きはなかった。凌司は窓の外に目を向けた。昨日、芽里に言われたばかりだ。何でも先回りして決めないでほしい、と。守ってやりたい。だが、自分が作った安全な世界に閉じ込めたいわけではない。「……分かった。楽しんでこい」「本当?」「ただし、困ったときは必ず連絡しろ。迎えが必要ならすぐに行く」「うん! ありがとう、凌司さん!」電話が切れたあとも、凌司はしばらく携帯を置けなかった。****「警護車両は何台ご用意しましょう」慎吾の質問に、凌司は書類を閉じた。「必要ない」「……はい?」「今日は友人と2人で出かけるそうだ。尾行もするな」慎吾は珍しく聞き返した。「よろしいのですか。18年前の襲撃以来、警護の方針は厳格にしてきましたが」「緊急時に動ける態勢だけ整えておけ。本人には干渉するな」言い切った凌司自身、胸の奥は落ち着かなかった。もし何かあったら。人混みではぐれたら。昔の敵が姿を現したら。考え始めれば、危険などいくらでも思いつく。それでも、芽里の望みをなかったことにはしたくない。あの夜は彼女のために、他人の人生を動かそうとした。今日は逆に、自分が芽里を守るという役目から、ほんの少し手を離さなければならない。それがこれほど難しいとは思わなかった。慎
朝7時を回ったばかりだというのに、広瀬グループ本社の最上階には、すでに灯りがついていた。慎吾が執務室へ入ると、凌司は昨夜のままの姿勢で資料を読んでいた。机には冷めたコーヒーが置かれ、窓の外では朝日が高層ビルのガラスを照らしている。「社長、まさか一晩中……」「城崎の件は?」「既存の共同事業は継続できます。新規投資の見合わせも撤回可能です。ただ、城崎家の当主から、息子を事業責任者から外すと連絡がありました」凌司は報告書に目を落とした。直哉の父親は、息子の不始末を詫びるため、朝を待たずに何度も連絡してきたらしい。「取引は予定どおり進めろ。あの男には芽里へ直接謝罪させるな。謝罪状だけ、本人が受け取るかどうか決めればいい」「承知しました」慎吾は報告書を閉じた。昨日なら凌司は、会社がどれほど損をしようと決定を変えなかっただろう。「……お嬢様のご意見ですか」「違う。あいつは何も悪くない人間を巻き込むなと言った。俺が、そこまで考えていなかった」凌司は淡々と答えたが、書類を持つ指先に疲労が滲んでいた。昨日、芽里の目に涙が浮かんだ瞬間、彼には相手を許すという選択肢が消えた。18年前、血まみれの少女を抱いて逃げた夜からずっとそうだった。だが、芽里はその選択を望まなかった。彼女が傷ついた事実を消せない以上、今さら何をしても遅いのかもしれない。携帯が震えた。『凌司さん、今日はお昼に来られる? お庭でお茶しながら話そう』凌司はすぐに返信した。『行く』それから画面を見つめ、もう一文を打った。【昨日は、怖い思いをさせてすまなかった】送信までに、ずいぶん時間がかかった。****芽里は庭のテラスで彼を待っていた。昨日のドレスとは違い、淡い色のカーディガンを羽織り、テーブルには2人分の紅茶が並んでいる。「凌司さん、早いね。まだ約束の30分前だよ」「待たせるよりいい」「私だって凌司さんを待たせてみたかったのに」芽里が笑うと、凌司はようやく肩の力を抜いた。「……昨日の件だが」「うん。私もそれを話したかったの」凌司は向かいの椅子に座った。「城崎との取引は続けることにした。あいつは事業の担当から外れる。ほかの社員には影響が出ないようにする」芽里はほっとしたように息を吐いた。「よかった。ありがとう」「礼を言われることじゃない」「でも、凌司さん
「宮原のお嬢様、ずいぶん立派な護衛をお持ちですね」休憩室から戻った芽里に、男が声をかけた。城崎直哉(しろさき なおや)、32歳。国内有数の不動産グループの御曹司だ。「広瀬社長が直々に靴の世話までなさるとは。随分と大切にされているようで」笑顔の奥に皮肉が透けていた。芽里は礼儀正しく微笑む。「凌司さんには、昔からお世話になっているんです」「宮原家も、いい人材を拾いましたね。あれほどの男を護衛にしていたとは」拾った。その言い方が引っかかった。凌司は今、少し離れた場所で海外企業の代表と話している。芽里が「もう大丈夫だから、お仕事に戻って」と送り出したばかりだった。「凌司さんは、私たちにとって大切な方です。そういう言い方は控えていただけますか」「失礼。もっとも、今では宮原家のほうが彼に守られている立場でしょう? 昔の勢いもなくなったと聞きますし」「経営のお話でしたら、祖父にお願いします」芽里は穏やかに答えて立ち去ろうとした。だが、直哉はさらに声を落とした。「そういえば、ご両親はあの襲撃事件で亡くなられたとか。あれほど警護の厳しい屋敷が襲われるなんて、よほど恨みを買っていたんでしょうね」芽里の足が止まった。銃声。炎。母の声。4歳のあの夜の記憶が、不意に胸を締めつける。「……両親のことを、そんなふうに言わないでください」「お気を悪くされましたか? 昔の事件について、少し感想を述べただけですよ」男は悪びれる様子もない。芽里は言い返そうとしたが、喉が詰まった。父も母も、どんな思いで自分を守ろうとしたのか。この男は何も知らない。周囲にはほかの招待客もいた。誰かが気づいているはずなのに、誰も口を挟まない。相手は大手グループの跡取りで、今夜の宴席では有力な客の1人だった。芽里は父と母の顔を思い出そうとした。けれど記憶の中の2人は、いつも遠い。どうして、知らない人にまで大切な思い出を踏みにじられなければならないのだろう。悔しさに視界が滲んだ、そのとき。「今、何と言った?」背後から低い声が響いた。****直哉が振り向くと、凌司が立っていた。「ひ、広瀬社長……!」「芽里に何と言ったのか、聞いている」凌司の視線が芽里に移る。彼女は慌てて目元を拭ったが、赤くなった目を隠すことはできなかった。「凌司さん、何でもないの。私なら大丈夫だから」







