تسجيل الدخول「ママ、待って!」
伸ばした手は、誰にも届かなかった。
炎が廊下を赤く染めている。遠くでガラスが割れ、誰かが自分の名を叫んだ。母の白い服が扉の向こうへ消える。追いかけようとしても足が動かず、代わりに近づいてきたのは、黒い服の男たちだった。
次の瞬間、身体がふわりと浮いた。
『目を閉じていてください』
聞き覚えのある声。雨の冷たさ。耳元で乱れる息遣い。自分を抱いた少年の頬から、赤いものが落ちてくる。
『お兄ちゃん、血が……』
彼は答えず、ただ走り続ける。やがてその腕から力が抜け、芽里は暗い地面へ落ちていった。
「凌司さん!」
自分の声で目が覚めた。
見慣れた別邸の寝室だった。ベッド脇の時計は午前2時を少し回っている。窓の外は静かで、廊下から物音ひとつ聞こえない。
芽里は胸元を押さえた。夢だと分かっているのに、心臓が激しく脈打ち、指先の震えが止まらなかった。
帰国してから、昔の屋敷や庭を見て、懐かしい気持ちになった。その分、遠ざかっていた夜の記憶まで呼び戻してしまったらしい。
母の最後の顔は思い出せない。それなのに、血に濡れた凌司の手だけは、夢の中でもはっきり見えた。
枕元の携帯を取る。画面にある「凌司さん」の名前を見つめ、芽里はためらった。
今は深夜だ。彼は今日も仕事をしていた。自分はもう22歳で、怖い夢くらい1人でやり過ごせるはずなのに。
それでも、あの手が離れていく感触が消えない。
芽里は通話ボタンを押した。
呼び出し音は、1回も鳴り終わらなかった。
「芽里? どうした」
眠そうな声ではない。いつもと変わらない、落ち着いた声だった。
「……起こしちゃった?」
「起きていた。何があった?」
その優しさに触れた途端、こらえていたものが溢れた。
「怖い夢を見たの。昔の……あの夜の夢」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
「怪我はしていないな? 今は部屋にいるんだな?」
「うん。私、大丈夫。でも、凌司さんが……」
最後まで言えなかった。再び涙がこぼれ、声が詰まった。
「分かった。今から行く」
「えっ? 待って、こんな時間に――」
「無理に話さなくていい。電話は切らなくてもいいから」
凌司はそう言い、上着をつかんだ。
****
広瀬邸の書斎では、青いマグカップがまだ机の中央に置かれていた。
凌司は通話をつないだまま廊下へ出る。警備責任者に車の準備を告げると、玄関で待っていた職員が驚いた顔をした。
「社長、何か緊急の――」
「芽里が悪夢を見た」
それだけで、職員は黙って車の扉を開けた。
大企業の社長が夜中に駆けつける理由としては、あまりに些細に聞こえるだろう。だが凌司にとっては違った。18年前、あの子がどれほど震えていたかを知っている。今夜も同じ恐怖の中にいるなら、1分でも早くそばへ行きたかった。
車内では電話から芽里の小さな呼吸が聞こえていた。
「凌司さん、本当に来なくても平気だよ。声を聞いたら、もう落ち着いてきたから」
「俺が行きたいんだ。気にするな」
「……いつもそう言うよね」
「ああ。昔から、そうだろう」
芽里がかすかに笑った。それを聞いて、ようやく凌司も息をつく。
間もなく別邸に着くと、彼は玄関で待っていた家政婦に事情を伝えた。芽里を驚かせないよう静かに階段を上がり、寝室の扉をノックする。
「芽里、俺だ」
「入って」
ベッドの上で膝を抱えた芽里は、目元を赤くしていた。
凌司はその姿を見た瞬間、胸が締めつけられた。4歳の頃、長椅子の陰から自分を見上げた少女と、同じ目をしていた。
「遅くなった。怖かったな」
芽里は首を振った。
「来てくれただけで、もう平気」
彼がベッドの脇に椅子を寄せると、芽里はそっと手を差し出した。
「昔みたいに、握っていてくれる?」
凌司の視線が、その手に落ちる。
小さかった指はすらりと伸びていた。あの夜、必死に握り返してきた子供の手とは違う。芽里はもう、自分で未来を選べる大人だ。
なぜか、その手を取ることにためらいを覚えた。
芽里は心細そうに笑った。
「……駄目?」
「そんなわけないだろう」
凌司はようやく手を伸ばし、彼女の指を包んだ。
温かい。
その感触に芽里の肩から力が抜けたのを見て、凌司は自分を戒めた。何をためらっている。お前は、芽里を安心させるためにここへ来たんだろう。
「もう大丈夫だ。ここにいる」
芽里は枕に頬を埋め、彼の手を握ったまま目を閉じた。
****
しばらくして、芽里が小さく尋ねた。
「凌司さん、あの夜のこと、怖くなかった?」
凌司は窓の外を見た。
「怖いと思う暇がなかった」
「私ね、夢の中で凌司さんが倒れたの。何度呼んでも起きてくれなくて……」
再び指先に力がこもる。
「起きてるだろう。ほら、ちゃんとここにいる」
「うん……」
「お前が大きくなるまで死なないと、約束したからな」
芽里は薄く目を開けた。
「もう大きくなっちゃったよ」
凌司は返す言葉を失った。
あの約束を果たした今、自分は何のために生きるのか。以前なら、迷わず芽里を守り続けると答えられた。だが彼女は少しずつ、自分の力で歩こうとしている。
「……そうだな。立派になった」
彼は微笑んだ。芽里はその表情を見て安心したように目を閉じ、間もなく静かな寝息を立て始めた。
凌司は手を離そうとしたが、指がわずかに握り返された。眠っていても、彼女は手を離したくないらしい。
ならば朝までここにいよう。
いつもどおり、そう決めたはずだった。
なのに、眠る芽里の顔を見ていると、胸の奥に説明できないものが残った。安らかな寝顔を守りたい。その気持ちは18年前から変わらない。けれど、今夜の自分は、手を握っていてほしいと頼まれたことを、どこか嬉しいとも感じていた。
彼女に必要とされることが、こんなにも嬉しい。
護衛として当然の役目のはずなのに。
凌司はそっと視線を落とした。彼女の手を握る自分の指が、いつもより慎重に見えた。
****
朝の光がカーテン越しに差し込んでいた。
芽里は目を覚まし、ベッドの脇に凌司がいることに気づいた。椅子に身体を預けたまま、浅く眠っている。
昨夜、手を握ってくれた姿勢から、ほとんど動いていない。
「……凌司さん」
小声で呼んでも、返事はなかった。
芽里は繋がれた手を見つめた。長い指、手の甲に残る古い傷。自分を抱いて銃声の中を走った手が、今も変わらずそばにある。
けれど、この手は昔からこんなに大きかっただろうか。
芽里は初めて、その手を守ってくれる人の手ではなく、1人の男性の手として意識した。
胸が、思いがけず大きく鳴った。
目の前で凌司がゆっくり瞼を開く。
「……起きたのか。もう怖くないか?」
芽里は慌てて視線を上げ、笑顔を作った。
「うん。凌司さんのおかげ」
彼はいつもどおり優しく笑った。
その笑顔を見た芽里の胸が、また小さく高鳴った。
昨夜の夢はもう怖くなかった。けれど今朝、彼女の中には、まだ名前のつけられない新しい戸惑いが生まれていた。
数日後、芽里はホテルの控室で、鏡の前に立つ凌司を見つめていた。今日は宮原家と縁の深いホテル経営者の娘の結婚式だ。祖父の重隆が急用で出席できなくなり、芽里が代わりに招かれていた。広瀬グループとも取引のある家で、凌司も招待を受けている。「凌司さん、ちょっとこっち向いて」「どうした?」「ネクタイ、曲がってる」凌司が鏡を見るより早く、芽里は彼の前へ歩み寄った。「動かないでね」そう言って両手を伸ばし、結び目を整える。背の高い凌司に届くよう、少し爪先立ちになった。彼は息を止めた。いつもの芽里なら、髪に落ちた葉を取ってほしいと頼み、転びそうになればためらわず腕をつかんでくる。触れることは珍しくなかった。けれど今、鼻先に彼女の髪が揺れ、ほのかな香りがしただけで、身体が強張ってしまう。「……芽里。自分で直せる」「あと少しだから」芽里は真剣な顔で結び目を引いた。凌司は視線を落としかけ、慌てて壁の時計を見た。彼女はもう子供ではない。自分が不用意に近づいていい相手ではないのだ。「できた!」芽里が一歩下がる。「凌司さん、顔が赤いよ。暑い?」「……いや。何でもない」凌司は手を上げたものの、結び目には触れなかった。せっかく彼女が直してくれたものを、崩したくなかった。****式場には白い花が飾られ、柔らかな音楽が流れていた。披露宴が始まると、主賓席の凌司には挨拶が絶えなかった。有力企業の経営者たちは彼と数分話すために列を作り、芽里にも名刺を差し出してくる。「広瀬社長、ぜひ後ほどお時間を」「今日は祝いの席だ。仕事の話は別の日にしてくれ」凌司はにべもなく断った。ところが芽里が「新婦さんのドレス、近くで見てみたいな」と囁くと、すぐに立ち上がる。「案内しよう」「凌司さんも一緒に?」「嫌か?」「ううん、嬉しい」彼はその一言で、今までの冷たい表情を忘れたように微笑んだ。少し離れた場所で見ていた慎吾は、挨拶に来た取引先へ「社長は本日、商談をお受けしません」と丁重に告げた。もう理由を説明する必要もない。その取引先の会長は、凌司が芽里の椅子を引く姿を目で追った。「広瀬社長が女性を気遣うところなど、初めて見たよ」慎吾は曖昧に笑った。女性だからではない。芽里だからだ。凌司はこれまでも、出張先からわざわざ彼女の誕生日に帰国し、海外にしかない画材を探し回っ
「ママ、待って!」伸ばした手は、誰にも届かなかった。炎が廊下を赤く染めている。遠くでガラスが割れ、誰かが自分の名を叫んだ。母の白い服が扉の向こうへ消える。追いかけようとしても足が動かず、代わりに近づいてきたのは、黒い服の男たちだった。次の瞬間、身体がふわりと浮いた。『目を閉じていてください』聞き覚えのある声。雨の冷たさ。耳元で乱れる息遣い。自分を抱いた少年の頬から、赤いものが落ちてくる。『お兄ちゃん、血が……』彼は答えず、ただ走り続ける。やがてその腕から力が抜け、芽里は暗い地面へ落ちていった。「凌司さん!」自分の声で目が覚めた。見慣れた別邸の寝室だった。ベッド脇の時計は午前2時を少し回っている。窓の外は静かで、廊下から物音ひとつ聞こえない。芽里は胸元を押さえた。夢だと分かっているのに、心臓が激しく脈打ち、指先の震えが止まらなかった。帰国してから、昔の屋敷や庭を見て、懐かしい気持ちになった。その分、遠ざかっていた夜の記憶まで呼び戻してしまったらしい。母の最後の顔は思い出せない。それなのに、血に濡れた凌司の手だけは、夢の中でもはっきり見えた。枕元の携帯を取る。画面にある「凌司さん」の名前を見つめ、芽里はためらった。今は深夜だ。彼は今日も仕事をしていた。自分はもう22歳で、怖い夢くらい1人でやり過ごせるはずなのに。それでも、あの手が離れていく感触が消えない。芽里は通話ボタンを押した。呼び出し音は、1回も鳴り終わらなかった。「芽里? どうした」眠そうな声ではない。いつもと変わらない、落ち着いた声だった。「……起こしちゃった?」「起きていた。何があった?」その優しさに触れた途端、こらえていたものが溢れた。「怖い夢を見たの。昔の……あの夜の夢」電話の向こうで、短い沈黙があった。「怪我はしていないな? 今は部屋にいるんだな?」「うん。私、大丈夫。でも、凌司さんが……」最後まで言えなかった。再び涙がこぼれ、声が詰まった。「分かった。今から行く」「えっ? 待って、こんな時間に――」「無理に話さなくていい。電話は切らなくてもいいから」凌司はそう言い、上着をつかんだ。****広瀬邸の書斎では、青いマグカップがまだ机の中央に置かれていた。凌司は通話をつないだまま廊下へ出る。警備責任者に車の準備を告げると、玄関で待ってい
「本当に、私が遊びに行ってもいいの?」翌朝、芽里が念を押すと、凌司は電話の向こうで小さく笑った。「昨日もそう答えただろう。車を迎えに行かせる」「今日は自分で行けるよ。場所も教えてもらったし」「……分かった。気をつけて来い」電話を切った凌司は、すぐに慎吾を呼んだ。「午後の予定を空けろ。客が来る」「お嬢様ですね。すでに応接室の準備を進めています」「応接室?」「はい。庭が見える、一番明るい部屋を」凌司は首を振った。「芽里は、俺がどう暮らしているのか知りたいそうだ。取り繕う必要はない」慎吾は一瞬だけ目を見開いた。海外の首脳級の客人ですら案内したことのない私的な居住区へ、芽里を招くつもりなのだ。「承知しました。では、普段どおりに」「……いや、待て」凌司は机の上を見回した。積み上がった書類、冷めたコーヒー。昨夜も眠らずに仕事をしていたことが、一目で分かる。「コーヒーは片づけてくれ」慎吾は笑いをこらえて頭を下げた。****広瀬邸の門が開いたとき、芽里は思わず足を止めた。長いアプローチの奥に白い石造りの邸宅がそびえ、噴水のそばには高級車が並んでいた。ホテルと見まがう豪華さだった。けれど、玄関に迎えに出た凌司の姿を見た途端、そのすべてが気にならなくなった。「凌司さん!」「迷わなかったか?」「うん。すごいお家だね! でも、本当に1人で住んでるの?」「使用人はいる。ほかに家族はいない」当たり前のような答えだった。芽里は昨日買った紙袋を抱え直した。中には、遥と一緒に選んだ青いマグカップが入っている。「今日はね、渡したいものがあるの」「俺に?」「あとでのお楽しみ」凌司はそれ以上聞かず、彼女を中へ招き入れた。大理石の床には一筋の傷もない。天井には大きなシャンデリアが輝き、壁には有名画家の作品が並んでいた。「美術館みたい……」「気に入ったものがあれば、持って帰っていい」「そういうことじゃないよ!」芽里が笑うと、凌司は少し困ったように眉を下げた。その顔を見て、芽里は胸が温かくなった。世界的な企業グループの社長なのに、自分の冗談にはどう返せばいいか分からないらしい。****屋敷を案内されるうちに、芽里は奇妙なことに気づいた。客間には季節の花が飾られているのに、凌司の書斎には一輪もない。廊下の美術品も、どれも取引先からの
「凌司さん、今日はお願いがあるの」朝の電話で芽里がそう切り出した瞬間、凌司は署名しかけていた書類から顔を上げた。「何が欲しい?」「物じゃないよ。今日、遥と2人で出かけたいの」留学中に親しくなった水城遥(みずき はるか)が、帰国祝いに街を案内すると言ってくれたのだという。久しぶりに友達と買い物をして、行きたかった店でお茶を飲む。芽里は楽しそうに予定を話した。「車を出そう。護衛も2人つける」「……そう言うと思った」電話の向こうで芽里が小さく笑った。「今日はね、普通の女の子みたいに出かけてみたいの。友達と電車に乗って、お店を見て、帰りも自分で帰る。駄目?」凌司の手が止まった。4歳の芽里を抱いて雨の中を走った夜から、彼女の安全を他人任せにしたことはない。どこにいても助けられるよう、車も人員も確保してきた。「今はまだ帰国したばかりだ。土地勘も戻っていないだろう」「大学の間は、ずっと自分で出かけてたよ」「それは分かっている」「じゃあ、信じて。私、もう22歳だよ」彼女の声に、甘える響きはなかった。凌司は窓の外に目を向けた。昨日、芽里に言われたばかりだ。何でも先回りして決めないでほしい、と。守ってやりたい。だが、自分が作った安全な世界に閉じ込めたいわけではない。「……分かった。楽しんでこい」「本当?」「ただし、困ったときは必ず連絡しろ。迎えが必要ならすぐに行く」「うん! ありがとう、凌司さん!」電話が切れたあとも、凌司はしばらく携帯を置けなかった。****「警護車両は何台ご用意しましょう」慎吾の質問に、凌司は書類を閉じた。「必要ない」「……はい?」「今日は友人と2人で出かけるそうだ。尾行もするな」慎吾は珍しく聞き返した。「よろしいのですか。18年前の襲撃以来、警護の方針は厳格にしてきましたが」「緊急時に動ける態勢だけ整えておけ。本人には干渉するな」言い切った凌司自身、胸の奥は落ち着かなかった。もし何かあったら。人混みではぐれたら。昔の敵が姿を現したら。考え始めれば、危険などいくらでも思いつく。それでも、芽里の望みをなかったことにはしたくない。あの夜は彼女のために、他人の人生を動かそうとした。今日は逆に、自分が芽里を守るという役目から、ほんの少し手を離さなければならない。それがこれほど難しいとは思わなかった。慎
朝7時を回ったばかりだというのに、広瀬グループ本社の最上階には、すでに灯りがついていた。慎吾が執務室へ入ると、凌司は昨夜のままの姿勢で資料を読んでいた。机には冷めたコーヒーが置かれ、窓の外では朝日が高層ビルのガラスを照らしている。「社長、まさか一晩中……」「城崎の件は?」「既存の共同事業は継続できます。新規投資の見合わせも撤回可能です。ただ、城崎家の当主から、息子を事業責任者から外すと連絡がありました」凌司は報告書に目を落とした。直哉の父親は、息子の不始末を詫びるため、朝を待たずに何度も連絡してきたらしい。「取引は予定どおり進めろ。あの男には芽里へ直接謝罪させるな。謝罪状だけ、本人が受け取るかどうか決めればいい」「承知しました」慎吾は報告書を閉じた。昨日なら凌司は、会社がどれほど損をしようと決定を変えなかっただろう。「……お嬢様のご意見ですか」「違う。あいつは何も悪くない人間を巻き込むなと言った。俺が、そこまで考えていなかった」凌司は淡々と答えたが、書類を持つ指先に疲労が滲んでいた。昨日、芽里の目に涙が浮かんだ瞬間、彼には相手を許すという選択肢が消えた。18年前、血まみれの少女を抱いて逃げた夜からずっとそうだった。だが、芽里はその選択を望まなかった。彼女が傷ついた事実を消せない以上、今さら何をしても遅いのかもしれない。携帯が震えた。『凌司さん、今日はお昼に来られる? お庭でお茶しながら話そう』凌司はすぐに返信した。『行く』それから画面を見つめ、もう一文を打った。【昨日は、怖い思いをさせてすまなかった】送信までに、ずいぶん時間がかかった。****芽里は庭のテラスで彼を待っていた。昨日のドレスとは違い、淡い色のカーディガンを羽織り、テーブルには2人分の紅茶が並んでいる。「凌司さん、早いね。まだ約束の30分前だよ」「待たせるよりいい」「私だって凌司さんを待たせてみたかったのに」芽里が笑うと、凌司はようやく肩の力を抜いた。「……昨日の件だが」「うん。私もそれを話したかったの」凌司は向かいの椅子に座った。「城崎との取引は続けることにした。あいつは事業の担当から外れる。ほかの社員には影響が出ないようにする」芽里はほっとしたように息を吐いた。「よかった。ありがとう」「礼を言われることじゃない」「でも、凌司さん
「宮原のお嬢様、ずいぶん立派な護衛をお持ちですね」休憩室から戻った芽里に、男が声をかけた。城崎直哉(しろさき なおや)、32歳。国内有数の不動産グループの御曹司だ。「広瀬社長が直々に靴の世話までなさるとは。随分と大切にされているようで」笑顔の奥に皮肉が透けていた。芽里は礼儀正しく微笑む。「凌司さんには、昔からお世話になっているんです」「宮原家も、いい人材を拾いましたね。あれほどの男を護衛にしていたとは」拾った。その言い方が引っかかった。凌司は今、少し離れた場所で海外企業の代表と話している。芽里が「もう大丈夫だから、お仕事に戻って」と送り出したばかりだった。「凌司さんは、私たちにとって大切な方です。そういう言い方は控えていただけますか」「失礼。もっとも、今では宮原家のほうが彼に守られている立場でしょう? 昔の勢いもなくなったと聞きますし」「経営のお話でしたら、祖父にお願いします」芽里は穏やかに答えて立ち去ろうとした。だが、直哉はさらに声を落とした。「そういえば、ご両親はあの襲撃事件で亡くなられたとか。あれほど警護の厳しい屋敷が襲われるなんて、よほど恨みを買っていたんでしょうね」芽里の足が止まった。銃声。炎。母の声。4歳のあの夜の記憶が、不意に胸を締めつける。「……両親のことを、そんなふうに言わないでください」「お気を悪くされましたか? 昔の事件について、少し感想を述べただけですよ」男は悪びれる様子もない。芽里は言い返そうとしたが、喉が詰まった。父も母も、どんな思いで自分を守ろうとしたのか。この男は何も知らない。周囲にはほかの招待客もいた。誰かが気づいているはずなのに、誰も口を挟まない。相手は大手グループの跡取りで、今夜の宴席では有力な客の1人だった。芽里は父と母の顔を思い出そうとした。けれど記憶の中の2人は、いつも遠い。どうして、知らない人にまで大切な思い出を踏みにじられなければならないのだろう。悔しさに視界が滲んだ、そのとき。「今、何と言った?」背後から低い声が響いた。****直哉が振り向くと、凌司が立っていた。「ひ、広瀬社長……!」「芽里に何と言ったのか、聞いている」凌司の視線が芽里に移る。彼女は慌てて目元を拭ったが、赤くなった目を隠すことはできなかった。「凌司さん、何でもないの。私なら大丈夫だから」







