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9話

مؤلف: Amy
last update تاريخ النشر: 2026-11-01 13:36:59

「ママ、待って!」

伸ばした手は、誰にも届かなかった。

炎が廊下を赤く染めている。遠くでガラスが割れ、誰かが自分の名を叫んだ。母の白い服が扉の向こうへ消える。追いかけようとしても足が動かず、代わりに近づいてきたのは、黒い服の男たちだった。

次の瞬間、身体がふわりと浮いた。

『目を閉じていてください』

聞き覚えのある声。雨の冷たさ。耳元で乱れる息遣い。自分を抱いた少年の頬から、赤いものが落ちてくる。

『お兄ちゃん、血が……』

彼は答えず、ただ走り続ける。やがてその腕から力が抜け、芽里は暗い地面へ落ちていった。

「凌司さん!」

自分の声で目が覚めた。

見慣れた別邸の寝室だった。ベッド脇の時計は午前2時を少し回っている。窓の外は静かで、廊下から物音ひとつ聞こえない。

芽里は胸元を押さえた。夢だと分かっているのに、心臓が激しく脈打ち、指先の震えが止まらなかった。

帰国してから、昔の屋敷や庭を見て、懐かしい気持ちになった。その分、遠ざかっていた夜の記憶まで呼び戻してしまったらしい。

母の最後の顔は思い出せない。それなのに、血に濡れた凌司の手だけは、夢の中でもはっきり見えた。

枕元の携帯を取る。画面にある「凌司さん」の名前を見つめ、芽里はためらった。

今は深夜だ。彼は今日も仕事をしていた。自分はもう22歳で、怖い夢くらい1人でやり過ごせるはずなのに。

それでも、あの手が離れていく感触が消えない。

芽里は通話ボタンを押した。

呼び出し音は、1回も鳴り終わらなかった。

「芽里? どうした」

眠そうな声ではない。いつもと変わらない、落ち着いた声だった。

「……起こしちゃった?」

「起きていた。何があった?」

その優しさに触れた途端、こらえていたものが溢れた。

「怖い夢を見たの。昔の……あの夜の夢」

電話の向こうで、短い沈黙があった。

「怪我はしていないな? 今は部屋にいるんだな?」

「うん。私、大丈夫。でも、凌司さんが……」

最後まで言えなかった。再び涙がこぼれ、声が詰まった。

「分かった。今から行く」

「えっ? 待って、こんな時間に――」

「無理に話さなくていい。電話は切らなくてもいいから」

凌司はそう言い、上着をつかんだ。

****

広瀬邸の書斎では、青いマグカップがまだ机の中央に置かれていた。

凌司は通話をつないだまま廊下へ出る。警備責任者に車の準備を告げると、玄関で待っていた職員が驚いた顔をした。

「社長、何か緊急の――」

「芽里が悪夢を見た」

それだけで、職員は黙って車の扉を開けた。

大企業の社長が夜中に駆けつける理由としては、あまりに些細に聞こえるだろう。だが凌司にとっては違った。18年前、あの子がどれほど震えていたかを知っている。今夜も同じ恐怖の中にいるなら、1分でも早くそばへ行きたかった。

車内では電話から芽里の小さな呼吸が聞こえていた。

「凌司さん、本当に来なくても平気だよ。声を聞いたら、もう落ち着いてきたから」

「俺が行きたいんだ。気にするな」

「……いつもそう言うよね」

「ああ。昔から、そうだろう」

芽里がかすかに笑った。それを聞いて、ようやく凌司も息をつく。

間もなく別邸に着くと、彼は玄関で待っていた家政婦に事情を伝えた。芽里を驚かせないよう静かに階段を上がり、寝室の扉をノックする。

「芽里、俺だ」

「入って」

ベッドの上で膝を抱えた芽里は、目元を赤くしていた。

凌司はその姿を見た瞬間、胸が締めつけられた。4歳の頃、長椅子の陰から自分を見上げた少女と、同じ目をしていた。

「遅くなった。怖かったな」

芽里は首を振った。

「来てくれただけで、もう平気」

彼がベッドの脇に椅子を寄せると、芽里はそっと手を差し出した。

「昔みたいに、握っていてくれる?」

凌司の視線が、その手に落ちる。

小さかった指はすらりと伸びていた。あの夜、必死に握り返してきた子供の手とは違う。芽里はもう、自分で未来を選べる大人だ。

なぜか、その手を取ることにためらいを覚えた。

芽里は心細そうに笑った。

「……駄目?」

「そんなわけないだろう」

凌司はようやく手を伸ばし、彼女の指を包んだ。

温かい。

その感触に芽里の肩から力が抜けたのを見て、凌司は自分を戒めた。何をためらっている。お前は、芽里を安心させるためにここへ来たんだろう。

「もう大丈夫だ。ここにいる」

芽里は枕に頬を埋め、彼の手を握ったまま目を閉じた。

****

しばらくして、芽里が小さく尋ねた。

「凌司さん、あの夜のこと、怖くなかった?」

凌司は窓の外を見た。

「怖いと思う暇がなかった」

「私ね、夢の中で凌司さんが倒れたの。何度呼んでも起きてくれなくて……」

再び指先に力がこもる。

「起きてるだろう。ほら、ちゃんとここにいる」

「うん……」

「お前が大きくなるまで死なないと、約束したからな」

芽里は薄く目を開けた。

「もう大きくなっちゃったよ」

凌司は返す言葉を失った。

あの約束を果たした今、自分は何のために生きるのか。以前なら、迷わず芽里を守り続けると答えられた。だが彼女は少しずつ、自分の力で歩こうとしている。

「……そうだな。立派になった」

彼は微笑んだ。芽里はその表情を見て安心したように目を閉じ、間もなく静かな寝息を立て始めた。

凌司は手を離そうとしたが、指がわずかに握り返された。眠っていても、彼女は手を離したくないらしい。

ならば朝までここにいよう。

いつもどおり、そう決めたはずだった。

なのに、眠る芽里の顔を見ていると、胸の奥に説明できないものが残った。安らかな寝顔を守りたい。その気持ちは18年前から変わらない。けれど、今夜の自分は、手を握っていてほしいと頼まれたことを、どこか嬉しいとも感じていた。

彼女に必要とされることが、こんなにも嬉しい。

護衛として当然の役目のはずなのに。

凌司はそっと視線を落とした。彼女の手を握る自分の指が、いつもより慎重に見えた。

****

朝の光がカーテン越しに差し込んでいた。

芽里は目を覚まし、ベッドの脇に凌司がいることに気づいた。椅子に身体を預けたまま、浅く眠っている。

昨夜、手を握ってくれた姿勢から、ほとんど動いていない。

「……凌司さん」

小声で呼んでも、返事はなかった。

芽里は繋がれた手を見つめた。長い指、手の甲に残る古い傷。自分を抱いて銃声の中を走った手が、今も変わらずそばにある。

けれど、この手は昔からこんなに大きかっただろうか。

芽里は初めて、その手を守ってくれる人の手ではなく、1人の男性の手として意識した。

胸が、思いがけず大きく鳴った。

目の前で凌司がゆっくり瞼を開く。

「……起きたのか。もう怖くないか?」

芽里は慌てて視線を上げ、笑顔を作った。

「うん。凌司さんのおかげ」

彼はいつもどおり優しく笑った。

その笑顔を見た芽里の胸が、また小さく高鳴った。

昨夜の夢はもう怖くなかった。けれど今朝、彼女の中には、まだ名前のつけられない新しい戸惑いが生まれていた。

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