Masuk妻の幼なじみが、子どもを連れて帰国した。 彼の体面と、その子の将来を守るために、妻は自分がその子の母親だと言い張った。 その代わりに、僕たちの子どもは、僕が外で女を作ってもうけた、ろくでもない私生児だと蔑まれることになった。 取り乱して、問いただす僕に、彼女はどこまでも冷静だった。 「恒一(こういち)は、ずっと家族に恵まれずに生きてきたの。 彼の子には、母親が必要よ。 だから私が、あの二人を支えなきゃいけないの」 その言葉を聞いた瞬間、七年間愛し続けた女の姿が、ひどく遠く感じられた。 そして僕は、もう二度と彼女を愛すまいと心に決めた。
Lihat lebih banyakどこか引っかかるものがあった。そう遠くないうちに、もう言い訳しなくて済む?それは、どういう意味だろう。探るように彼女を見ると、彩乃の耳はもう赤く染まっていた。あそこまでわかりやすく態度に出てしまっては、言葉にされなくても、何を意味しているのかくらいわかる。「待ってるわ。あなたが離婚する、その日まで。そのあいだ、何度でも私の気持ちを確かめて。あなたを好きだって気持ちは、絶対に変わらないから」そのとき僕は、ようやく知った。愛されるというのが、どういうことなのかを。彩乃が気持ちを打ち明けてから、彼女の僕への想いは、もう隠されることがなくなった。まっすぐで、惜しげもなく、誰の目にもわかるほどあからさまに向けられるようになった。文香との離婚訴訟のあいだも、彼女は一度や二度ではなく僕のもとへやって来た。けれどそのたびに彩乃は、まるで厄介払いでもするかのように、きっぱりと彼女を遠ざけた。挙げ句の果てには、僕の家の隣の部屋まで借りた。うちで何か物音がすれば、すぐさま彼女がドアを叩きに来る。家の中に監視カメラでも仕掛けたのではと、本気で疑いたくなるほどだった。けれど彼女はただ笑って言う。本当に大切に思っている相手のことは、意識しなくても自然と目で追ってしまうものだと。そんなこと、僕もわかっていた。七年前、文香を追いかけていたころの僕は、ちょうど彩乃と同じように、まっすぐで、熱烈でしていた。そのなかにある切なさも、甘さも、片想いをしたことのある人間にしかわからない。やがて文香は、もう僕を訪ねてこなくなった。どれだけ足掻いたところで、もう僕の心を取り戻せないことを、彼女もわかってしまったのだろう。何より、僕の隣にはもう、彼女よりふさわしい人がいた。愛とは、手に入れたいと願うことでもあり、同時に手放すことでもある。結局、恋は片方だけの想いで成り立つものではない。二か月後、文香から書類が届いた。中に入っていたのは、すでに彼女が署名を済ませた離婚届だった。裁判を迎える前に、彼女はせめてもの体裁を保つ形で、最初からあるべきではなかった二人の結婚に終止符を打つことを選んだのだ。身を切るように寒い冬から、陽射しの眩しい夏まで。僕はあまりにも長く、待たされていた。離婚届を手にしたまま、僕は自分から隣の部屋の扉を叩い
「わざわざここまで来てくれたんだ。おかげで、こっちも裁判手続きまで進まずに済みそうだ」それが、僕が彼女と向かい合って座ることを受け入れた、いちばん大きな理由だった。去ってから、もう半年が過ぎ、これ以上引き延ばす気はなかった。ただ、一刻も早く終わらせたかった。僕の言葉を聞いた途端、彼女の目に残っていたわずかな光が、すっと消えた。けれど僕にとって、彼女と話すことなど、離婚以外にもう何もなかった。「私は離婚しない。今日ここへ来たのは、あなたに子どもを連れて一緒に帰ってほしいからよ」一緒に帰る?冗談もいいところだった。僕は、そんなに都合のいい人間に見えるのだろうか。呼べば来て、要らなくなれば捨てられるような。ようやく檻の中から抜け出したのだ。どうして自分から、もう一度奈落へ戻らなければならないのか。それに、僕がいなければ、彼女と恒一はもっと堂々と一緒にいられる。そして形だけ残っている僕という夫の存在に、気を遣う必要もない。恒一の子どもを、名実ともに彼女の長男にすることだってできる。「わざわざ来て、寒い冗談を言いに来ただけなら。悪いけど、付き合っている暇はない。この先は、法廷で会おう」ひとつ息をつき、席を立とうとした。だが彼女のほうが一瞬早く、僕の手をつかんだ。その掌の冷たさに、僕は反射的に手を引いた。「直哉、あなたとちゃんと暮らしていくって、私は約束した。戻ってきたの。だからお願い、もう離れていかないで」それはたぶん、彼女が唯一果たそうとした約束だった。けれど、遅すぎた。時間は、立ち止まったままの人間を待ってはくれない。機会だって、大切にしなかった人のために残されているわけではない。彼女が僕に屈辱も汚名も押しつけたあのとき。そして、僕がいちばん孤独で、いちばん苦しかったあのとき、彼女は別の男のそばにいて、よその子どもの面倒を見ていた。あのとき彼女は、僕の気持ちを一瞬でも考えただろうか。心はとっくに擦り切れ、愛ももう残っていない。今さらの引き留めなど、僕には何の価値もなかった。去ろうとする僕と、引き留めようとする彼女。文香はなおも僕の腕をつかみ、立ち去るのを許さなかった。そうして膠着したその瞬間、やわらかな手が伸びてきて、彼女の手を外した。僕と彼女のあいだに立ったのは、彩乃だった。彼女は僕
彼女は、自分の家を取り戻したかった。何しろそこは、僕と彼女が三年暮らした家だったからだ。もう僕の物は何ひとつ残っていなかったとしても、そこにはかつての幸せな記憶だけは、まだ残っているはずだった。「母さん、あと何日かしたら、文香を説得して別荘を俺の名義に変えさせるよ。自分の夫も子どもも放って、俺と、しかもよその子どもの世話ばかりしてるんだからさ。あんな間抜けな金づる、もう二度と見つからないかもしれない。だったら今のうちに、少しでも多く搾り取っておかないとな」別荘に入る前から、文香の耳には、恒一とその両親のそんな会話が届いていた。結局、すべては彼女の金目当てだったのだ。「弟のことも忘れるんじゃないよ。あの子にも家を一軒用意してやらなきゃ。それが無理なら、この別荘をあの子の新居にしたっていいわ」文香が幼いころから恒一を特別扱いしてきたのは、彼の家がずっと弟ばかりを優先していたと知っていたからだった。だから彼女は彼に優しくした。十数年にわたる縁があったからこそ、親から与えられなかった愛情を、せめて自分が倍にして返してやりたいと思っていた。残念なことに、人は一度何かを捧げようと決めてしまうと、その先に待っているのは、終わりのない一方的な奉仕だったりするものだ。根深く染みついた思い込みと、恒一に向けるほとんど執着に近い甘さが、いつの間にか彼とその家族を結託させ、彼女の情も金も食い物にするところまで増長させていた。「心配いらないよ、母さん。あの気の弱いやつはもう出て行ったし、子どもだって置いていかなかった。子どもが彼女の実の子じゃなかろうと関係ない。あの女の夫になるのは俺だ。この先、彼女の金は全部俺のものになる」文香は目を真っ赤にし、勢いよく扉を押し開けた。それは、彼女が初めて恒一と激しく言い争った日だった。そして同時に、この男と最後に決着をつけると決めた日でもあった。三人を家から追い出したあと、彼女はすっかり無残な姿になった家を前に立ち尽くした。何ひとつ変わっていないはずなのに、そこにはもう、僕の気配だけがどこにも残っていなかった。「直哉……私が悪かったわ。戻ってきて……お願い……」彼女は壁にもたれるように床へ座り込み、ひとりきりのまま、気づかぬうちに涙を流していた。いまの彼女には、本当にもう何
最初のころこそ、少しばかり戸惑いもあったが、ベビーシッターを雇って子どもの世話を任せ、僕は仕事を見つけた。人づき合いの苦手な僕が周囲に馴染めるようになるまで、一か月かかった。けれどその一か月で、たくさんの友人を得た。昔の僕は、文香との関係にばかり心を注いでいた。七年間、友人もおらず、人づき合いもほとんどなかった。ただひとりの人間に、心も時間も何もかも注ぎ込み、そのせいで、自分自身をすっかり見失っていたのだ。「江口さん、今日ずいぶん雰囲気違うね。もしかして……」同僚の西野(にしの)が、いたずらっぽい笑みを浮かべる。その視線の先にいるのは、僕の隣に立つ女性だった。数か月前、僕は小さな会社に就職した。彼女の名前は篠原彩乃(しのはら あやの)。うちの会社の社長だ。若くて綺麗で、気さくで話しやすい。社長と部下という距離を、いつの間にか友人のような近さに変えてしまう人だった。そのせいか、西野もいつも遠慮なく、僕と彩乃をからかう。きっかけは、数日前の大雨だった。傘を持っておらず、配車アプリでも車がつかまらない。雨がやむまで会社で残業するしかないかと思っていたところへ、オフィスから出てきた彩乃が声をかけてきた。「傘ないの?車もつかまらない?送ろうか?」返事をする暇もないまま、彼女は立て続けに三つも聞いてきた。「……はい」僕は最初の問いに答えただけだった。なのに彼女は、残業しようとしていた僕のパソコンをさっさと閉じてしまった。「行こう」あの日、僕を送るためだけに、彼らは一時間も渋滞に巻き込まれた。その途中で、彼女のお腹が小さく鳴る音がした。彼女は気まずそうに頭をかきながら、昼にあまり食べていないのだと笑った。送ってもらったうえに待たせてしまったお詫びも兼ねて、僕は家の近くで彼女に食事をご馳走した。ただそれだけだ。あくまで礼を返した、それだけの食事だった。けれど、ちょうどその場を西野に見られてしまった。それ以来、彼は毎日のように妙な勘ぐりをして、僕と彩乃のあいだに何かあると決めつけたがる。そもそも、ひとつの関係から抜け出してまだ数か月しか経っていない。それに、僕が文香に渡した離婚協議書には、いまだ彼女の署名もない。彩乃とは、ただの仕事場での関係。そのときも西野は、期待に満ちた目で彼らを見