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過ちの夜が明けて

過ちの夜が明けて

By:  福招き猫Completed
Language: Japanese
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特殊部隊の訓練基地にある病院。そこの最年少外科部長、長谷川美羽(はせがわ みう)は海外帰りの天才だ。その手は数えきれない大手術を成功させてきた、まさに神の手だった。 しかし今、彼女の手は、無情にも誰かの足元で踏みにじられていた。 それをするのは彼女の夫であり、訓練基地の責任者でもある長谷川竜也(はせがわ たつや)だ。 竜也は椅子に静かに腰かけ、きちっとした制服姿で、平然とした顔をしていた。 彼の背後にある部屋からは、美羽の妹・二宮紬(にのみや つむぎ)が男たちにベッドへ押し倒される音が聞こえる。助けを求める紬のか細い声が、美羽の心をえぐるように響いていた。 「美羽、さっさと楓のお母さんの手術をしろ。さもなければ、今すぐ紬の部屋のドアを開け放ってやる。あいつのみだらな姿を、街中の人たちに見せてやろう」 美羽は歯を食いしばり、血走った目で竜也を睨みつけた。 「竜也、どうして、私にこんなひどいことをするの?」

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Chapter 1

第1話

特殊部隊の訓練基地にある病院。そこの最年少外科部長、長谷川美羽(はせがわ みう)は海外帰りの天才だ。その手は数えきれない大手術を成功させてきた、まさに神の手だった。

しかし今、彼女の手は、無情にも誰かの足元で踏みにじられていた。

それをするのは彼女の夫であり、訓練基地の責任者でもある長谷川竜也(はせがわ たつや)だ。

竜也は椅子に静かに腰かけ、きちっとした制服姿で、平然とした顔をしていた。

彼の背後にある部屋からは、美羽の妹・二宮紬(にのみや つむぎ)が男たちにベッドへ押し倒される音が聞こえる。助けを求める紬のか細い声が、美羽の心をえぐるように響いていた。

「美羽、さっさと楓のお母さんの手術をしろ。さもなければ、今すぐ紬の部屋のドアを開け放ってやる。あいつのみだらな姿を、街中の人たちに見せてやろう」

美羽は歯を食いしばり、血走った目で竜也を睨みつけた。

「竜也、どうして、私にこんなひどいことをするの?

楓が母をひき殺したって、あなたも知ってるでしょ!彼女の母親が脳腫瘍になったなんて、当然の報いよ。それなのに、私に仇の母親の手術をしろって言うの?」

1ヶ月前、美羽の母親・二宮凛(にのみや りん)は商店街で買い物をしている最中、舞踊団に所属する中野楓(なかの かえで)の車にはねられて亡くなった。

美羽はすぐに彼女を告訴した。

しかし、3日と経たずに、身代わりの人物が出頭して罪を認めたのだ。

真犯人が罪を逃れるなんて、美羽には到底受け入れられない。高等裁判所に上訴しても繰り返し棄却され、挙句の果てには病院の部長職が解かれ、無期限の停職処分になってしまった。

美羽が絶望に打ちひしがれていた矢先、楓の母親・中野遥(なかの はるか)が病に倒れたのだ。

腫瘍ができた場所のせいで手術は極めて難しく、N市で執刀できるのは美羽をおいて他にいなかった。

その話を聞いた美羽は、即座に断った。殺人犯の母親を手術するなんて、死ぬよりも辛いことだったからだ。

だが、その直後、彼女は何者かに拉致され、あるホテルの一室に閉じ込められてしまった。

そこに現れた竜也の顔を見て、美羽はすべてを理解した。自分を命がけで愛してくれていると思っていた夫の心には、ずっと別の女性がいたのだ。

「美羽、もう時間がないんだ!」

竜也の声で、美羽はハッと我に返った。

「最後のチャンスだ。3分やる。それでもまだ楓のお母さんの手術を断るなら、部下に命じて紬の部屋のドアを開け放ってやる。あいつのみだらな姿を、街中の人たちに見せてやろう!

女の評判が地に落ちれば、どうなるか、わかるだろ」

紬の叫び声は、まるで無数の矢のように美羽の全身を貫き、耐え難い苦痛を与えた。

美羽は拳を固く握りしめた。唇を噛みしめすぎて、口の中に血の味が広がる。「竜也、結婚の時の約束、もう忘れたの?」

結婚式の日、竜也は美羽の前にこう誓ってくれたのだ。「美羽、今日からお前の家族は俺の家族だ。俺が永遠に守ってみせる」

しかし竜也は、美羽のかすれた声など聞こえていないかのように、ただ氷のように冷たい視線を向けるだけだ。

「美羽、残り1分だ。あいつの運命はお前の決断にかかっている!」

その瞬間、美羽の瞳から光が失われ、深い絶望だけが宿った。彼女は歯を食いしばり、竜也が満足するであろう言葉を口にした。

「わかった。手術、私がやるわ」

その返事を聞くと、竜也は満足げに美羽の頭を撫でた。

「それでいい、美羽。手術が終わったら、お詫びとして今一番流行っているアクセサリーをプレゼントしよう」

竜也の浮かべる笑みを見て、美羽は強烈な皮肉を感じるだけだ。

彼女はすぐに手術室へ送られた。限られた機材しかない状況で、腫瘍の摘出手術は実に12時間も続いた。

疲れ切った美羽が手術室から出ると、息つく暇もなく、一人の看護師が慌てて駆け寄ってきた。

「長谷川先生、大変です!妹さんが、ホテルで複数の男性と一緒にいたところを見られてしまいました。その時の写真が街中に広まって、彼女はショックで屋上から飛び降りようと……」

美羽の頭の中で、何かが崩れる音がした。足元がおぼつかないまま、彼女は震える声で叫びながら走り出した。

「どうしてこんなことに……竜也、あなたは約束したはずよ!私が手術をしたら、紬には手を出さないって!」

病院の屋上にたどり着くと、下にはすでに野次馬が人だかりを作っていた。紬は、屋上の縁にぽつんと座っている。まるで壊れてしまった人形のようだ。

美羽は恐怖に震えながら、紬に必死に語りかけた。「紬!お願いだから、早まらないで!大丈夫、きっと乗り越えられるから。私を信じて」

紬はゆっくりと顔を上げた。美羽の姿を見ると、その唇に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。「お姉さん、来てくれたんだね!」

美羽は、一歩一歩、ゆっくりと彼女に近づいた。

「紬、お願いだからそこから下りて!もう、あなたを失いたくないの!」

しかし紬の瞳は虚ろで、生きようとする意思はもう、どこにも見当たらなかった。

「お姉さん、ごめんね。でも私、もう生きていく勇気がないの」

そう言うと、彼女はゆっくりと立ち上がり、美羽に向かって寂しそうに微笑んだ。

「お姉さん、私、お母さんのところに行くね」

その言葉を最後に、紬はためらうことなく後ろ向きに倒れ込んだ。

美羽はすぐに駆け寄ったが、その指が紬に届けなかった。

「いや、紬、やめて!」

すぐに病院の警備員たちが駆けつけ、美羽を押さえつけた。

美羽は必死にもがいた。

「放して!私にはもう何もないの!家族はもう誰も……」

心臓が張り裂けそうな激痛と共に、美羽は血を吐いた。そして、目の前が真っ暗になった。

次に目を覚ました時、鼻にツンとくる消毒液の匂いがした。美羽は魂を抜かれたように、ゆっくりと体を起こした。

そしてナースステーションへ向かうと、5年もの間封印してきた番号へ電話をかけた。

「あなたの条件、飲むわ。その代わり、私の要求は一つだけ。竜也と楓に、相応の報いを受けさせることよ!」

電話の向こうはしばらく黙っていたが、やがて低く落ち着いた声が答えた。

「わかった。1ヶ月後、俺が直接迎えに行こう」

電話を切ると、美羽は弁護士の岡本正人(おかもと まさと)に電話をかけた。

「すぐに離婚届を用意してください」
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第1話
特殊部隊の訓練基地にある病院。そこの最年少外科部長、長谷川美羽(はせがわ みう)は海外帰りの天才だ。その手は数えきれない大手術を成功させてきた、まさに神の手だった。しかし今、彼女の手は、無情にも誰かの足元で踏みにじられていた。それをするのは彼女の夫であり、訓練基地の責任者でもある長谷川竜也(はせがわ たつや)だ。竜也は椅子に静かに腰かけ、きちっとした制服姿で、平然とした顔をしていた。彼の背後にある部屋からは、美羽の妹・二宮紬(にのみや つむぎ)が男たちにベッドへ押し倒される音が聞こえる。助けを求める紬のか細い声が、美羽の心をえぐるように響いていた。「美羽、さっさと楓のお母さんの手術をしろ。さもなければ、今すぐ紬の部屋のドアを開け放ってやる。あいつのみだらな姿を、街中の人たちに見せてやろう」美羽は歯を食いしばり、血走った目で竜也を睨みつけた。「竜也、どうして、私にこんなひどいことをするの?楓が母をひき殺したって、あなたも知ってるでしょ!彼女の母親が脳腫瘍になったなんて、当然の報いよ。それなのに、私に仇の母親の手術をしろって言うの?」1ヶ月前、美羽の母親・二宮凛(にのみや りん)は商店街で買い物をしている最中、舞踊団に所属する中野楓(なかの かえで)の車にはねられて亡くなった。美羽はすぐに彼女を告訴した。しかし、3日と経たずに、身代わりの人物が出頭して罪を認めたのだ。真犯人が罪を逃れるなんて、美羽には到底受け入れられない。高等裁判所に上訴しても繰り返し棄却され、挙句の果てには病院の部長職が解かれ、無期限の停職処分になってしまった。美羽が絶望に打ちひしがれていた矢先、楓の母親・中野遥(なかの はるか)が病に倒れたのだ。腫瘍ができた場所のせいで手術は極めて難しく、N市で執刀できるのは美羽をおいて他にいなかった。その話を聞いた美羽は、即座に断った。殺人犯の母親を手術するなんて、死ぬよりも辛いことだったからだ。だが、その直後、彼女は何者かに拉致され、あるホテルの一室に閉じ込められてしまった。そこに現れた竜也の顔を見て、美羽はすべてを理解した。自分を命がけで愛してくれていると思っていた夫の心には、ずっと別の女性がいたのだ。「美羽、もう時間がないんだ!」竜也の声で、美羽はハッと我に返った。「最後のチャン
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第2話
電話を切った直後、病室のドアが勢いよく開けられた。美羽は、誰が来たのか確かめる前に、慣れた腕の中に引き寄せられた。「美羽、紬のことは本当にすまなかった。でも、あれは事故だったんだ。誰かが間違って入り込んでしまっただけで……」竜也の優しい声が耳元で響いたが、美羽は言いようのない嫌悪感を覚えた。彼女は無表情で竜也を突き放した。瞳から愛は消え去り、そこには憎しみだけが渦巻いていた。美羽の冷たい態度に、竜也は彼女の手を握った。まるで何もなかったかのように、優しい眼差しを向ける。「美羽、仕事に復帰したいんだろう?病院にはもう話を通してある。お前がずっと望んでいた海外研修のチャンスも一緒にやるから、な?」美羽は鼻で笑うと、竜也の手を振り払った。「これが私への償いのつもり?家族の命と引き換えの『償い』だって?」まさか二人がこんな関係になってしまうなんて、美羽は夢にも思っていなかった。昔、竜也が特殊任務中に撃たれ、弾丸が肋骨の間に挟まってしまったことがあった。どの医師も、この難しい手術をやりたがらなかった。そんな中、彼女は迷わず名乗り出た。そして大きなプレッシャーをはねのけ、竜也の命を救った。それが、彼の心を掴んだきっかけだった。それからというもの、竜也は美羽に猛アタックを始めた。花やアクセサリーをひっきりなしに病院へ送り、結婚前には資産の半分を彼女名義にして、安心させたのだ。誰もが美羽のことを、この街で一番の幸せ者だと言った。彼女自身も、以前はそう信じていた。でも、竜也の初恋の人が戻ってきて、舞踊団に入団した。自分と半分ほども似ている楓の顔を見て、美羽はすべてを悟った。自分は、哀れな替え玉に過ぎなかったのだと。その時、正人が書類を持って入ってきた。美羽ははっと我に返った。竜也は弁護士の姿を見ると、みるみる顔をこわばらせた。美羽を見る目つきは、鋭いものに変わっていた。「まだ諦めてなかったのか?楓を訴えるつもりか?」美羽は正人から離婚届を受け取ると、それを数回折り畳み、サインする部分だけが見えるようにし、あざけるように竜也を見つめた。「アクセサリーで償ってくれるんじゃなかった?ほら、遠洋宝飾店の最新作が欲しい。サインしてちょうだい」竜也はただの慰謝料の請求だと聞いて、ほっと息をついた。書類を開いて確認
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第3話
割れた花瓶の破片が床一面に散らばり、美羽の額からは真っ赤な血がゆっくりと流れ落ちていた。遥は、鬼のような形相で彼女を睨みつけていた。「あんた!手術の時に何か変なことしたんでしょ?なんでこんなに胸が痛むのよ!」美羽は、ぎゅっと拳を握りしめ、ベッドに横たわる女を冷たい目で見つめた。妹を失い、12時間かけて手術をして助けた相手から、目覚めて一番最初に浴びせられたのが、まさかその言葉だったとは。「術後の痛みは正常な反応ですよ。それに、そんなに元気に人を罵れるんですから、もう心配ないでしょう!」美羽がそう言って立ち去ろうとすると、楓がその行く手を阻んだ。「長谷川先生、母を診てくれないなんてことになったら、竜也さんになんて報告しましょうか?」美羽は離婚を前にして、これ以上事を荒立てたくはなかった。胸に込み上げる怒りをなんとか抑え、ベッドへ歩み寄った。彼女が聴診器を取り出した瞬間、遥が突然手を振り上げ、その頬を強く打ちつけた。「本当に診る気あるわけ?留学帰りの天才だかなんだか知らないけど、聴診器ひとつでごまかそうだなんて、馬鹿にしてるの?」赤く腫れあがった頬を押さえながら、美羽は怒りを露わにしてベッドの女を睨んだ。「私の腕が信用できないのなら、担当医を変えてもらってください。でも、こう何度も暴力を振るわれるのは、さすがに看過できません」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、乾いた音が響いた。遥が、再び彼女の頬を打ちつけていた。「私があなたを叩いて何が悪いの?訴えるつもり?あなたの妹がどうして死んだか、もう忘れたのかしら?次はあなたがホテルで男とみだらなことをして、死ぬ番かもしれないわね」遥は、勝ち誇ったような笑みを浮かべて美羽を見つめた。「そうよね。あなたの母は当たり屋だし、車に轢かれて死んで当然。あなたの妹は恥知らずにも体を売っていたし!きっとあなたもろくな人間じゃないんでしょ!」家族を死に追いやった元凶である遥にそこまで侮辱され、美羽は我を忘れて遥の首に手をかけた。「母と妹を殺したのはあなたたちのくせに、二人を侮辱する資格なんて、あなたたちにあるはずがないでしょう。​私があなたを生かしてあげたんだから、殺すことだってできます!」その言葉を言い終えるか否か、強い力で突き飛ばされた。美羽はベッドサイ
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第4話
次に目を覚ましたとき、美羽は見慣れた病室にいた。手に、骨を砕かれるような激痛が走り、美羽は自分の手がまったく上がらないことに気づいた。慌てて起き上がったが、右手は痛むだけで、まったく力が入らなかった。「どうしてこんなことに……」美羽の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。そして、パニックになり、ベッドから降りようともがく。その物音に気づいた竜也が、ソファから駆け寄り、彼女を痛ましそうに抱きしめた。「美羽、すまない。お前の手は、犬に腱を噛み切られて……もうメスは握れないんだ!」美羽は自分の手を見下ろし、口を開いたが、言葉にならなかった。彼女が最も誇りにしていた手。医師として生きていくための、かけがえのない手が、もう使い物にならなくなってしまったのだ。こんな現実、どうやって受け入れろというのか。受け入れられるはずがない。それからの数日間、竜也は美羽のそばに付きっきりで、身の回りのことをかいがいしく世話した。美羽は丸一週間入院し、ようやく退院することができた。家に帰る車の中で、美羽は黙って窓の外を眺めていた。竜也は優しい表情で、彼女の手に自分の手を重ねた。「美羽、明日、お前の家族のために葬式を開くことにする。盛大に見送ってあげよう」葬式、という言葉を聞いて、美羽の表情が少し和らいだ。彼女が口を開こうとしたその時、竜也のポケベルが鳴った。電話口から聞こえてきたのは、楓の声だ。「竜也さん、母の胸がまた痛みだしたの。どうしたらいいか分からなくて……そばにきてもらえないの?」竜也は急ブレーキを踏むと、険しい顔つきで美羽を見た。「美羽、ここから一人で帰れ。楓は一人じゃだめなんだ!」美羽は鼻で笑った。「あなた、医者なの?彼女の母親を治せるってわけ?」竜也の顔が、みるみるうちに曇っていった。「美羽、楓のお母さんに重い後遺症が残ったのは、お前の手術のせいだろうが。俺は、お前のためにやってんだから!」そう言うと、竜也は車から降りて、美羽が座る助手席のドアを乱暴に開けた。「降りろ!」目の前の男を見て、美羽は馬鹿馬鹿しくなった。愛情なんて、いくらでも偽れるものだったのだ。美羽が車を降りるやいなや、竜也は待っていたとばかりに車を急発進させて走り去った。彼女は一人、人気のない通りに取り残された。ここは郊
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第5話
美羽が再び目を開けると、そこは長谷川家の屋敷だった。彼女が起き上がろうとした時、リビングから大きな物音が聞こえてきた。竜也が、手に持っていた花瓶を床に叩きつけた音だった。「どんな手を使ってでも、必ずあの連中を探し出せ。俺の妻が辱められたんだぞ。この件を誰かが漏らしたら、タダじゃ済まないぞ!」楓は竜也の肩に寄り添い、優しく彼の背中を撫でた。「竜也さん、もしかしたら長谷川先生も被害者なのかもしれないわ」美羽の名前が出た途端、竜也の顔は恐ろしいほど険しくなり、ガラスのテーブルに力いっぱい拳を叩きつけた。「あいつが被害者だろうが関係ない。事が起きてしまった以上、俺が、汚れた妻を受け入れることなどありえない。今のあいつは、紬と何が違う?」部屋の隅に立っていた美羽は、ぎゅっと手を握りしめた。竜也の言葉は鋭い刃物のように、心をえぐり、血を流させた。息もできないほどの苦しみに、彼女は打ちのめされていた。この男は、自分に何があったかすら聞こうともせず、汚されたと決めつけている。翌朝、美羽は、竜也が彼女の家族のために開いてくれた葬式へ向かった。ホールの正面には、二人の遺影が飾られていた。ほんの1ヶ月前までは、すぐ目の前で笑っていたのに。美羽は祭壇の前に立ち尽くし、固く目を閉じ、ひたすら合掌を続けた。そうでもしないと、心が張り裂けそうだったから。朝の8時から昼の12時まで、弔問に訪れる人は誰一人いなかった。二人を盛大に見送ると約束してくれたはずの竜也さえ、姿を見せなかった。美羽は時間を確認した。もうすぐ納骨の時間だ。誰もいないホールを見渡し、彼女は一人で母親と妹の骨壷を抱えて外へ出た。式場の外へ出た途端、大勢の記者たちが現れて、あっという間に美羽を取り囲んだ。「長谷川先生!昨日、路地裏で数人の男に襲われたって聞きましたけど、長谷川隊長はこのことをご存知なんですか?」「無理やりだったんですか?それとも合意の上で?長谷川先生の方から誘ったって話も聞きましたけど。もしかして、亡くなった妹さんみたいに、元々そういう奔放な方なんですか?」「まずはお母さんが当たり屋をして事故死、次に妹さんが男遊びの末に自殺、そして今度はあなたが男を誘うなんて、あなたたち家族は、揃いも揃ってみんなそうなんですか?」棘のある言葉が、無数
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第6話
美羽が病院のベッドから体を起こそうとすると、ちょうど院長が病室に入ってきた。「君のスキャンダルは、病院の名誉をひどく傷つけた。よって、君を解雇することにする。今後の身の振り方は、よく考えることだね」美羽は、去っていく院長の背中を見つめ、フンと鼻で笑った。利用価値がある時はあれだけちやほやしておいて、用が済んだらゴミみたいに捨てるんだから。美羽が病院で過ごした3日間、竜也が顔を見せることは一度もなかった。退院して家に帰りついた美羽は、ドアノブに手をかけた。でも、その動きをぴたりと止めた。「美羽とは離婚しない!二度とその話はしないでくれ!」竜也が怒りにまかせてテーブルを殴りつけると、ガラスの天板が粉々に砕け散った。彼の母親の長谷川和子(はせがわ かずこ)は、苦虫を噛み潰したような顔でソファに座っている。その目には、美羽への嫌悪感と不満が満ち溢れていた。「美羽が不倫したという噂は、もう街中に広まってるのよ。それでも離婚しないって言うの?彼女がどこの馬の骨とも分からない子供を産んで、それを長谷川家の跡継ぎにするつもりなの?」竜也は、目の前に置かれた離婚届を粉々に引き裂いた。その顔は、恐ろしいほど険しい。「あいつを見つけ出した日、すぐにピルを飲ませた。もう二度とあいつには触れない。だから、子供ができるはずもない。長谷川家の跡継ぎは……楓に産んでもらう」ドアの外で聞いていた美羽は、ドアノブを強く握りしめた。手の甲には、血管がくっきりと浮き上がっている。これが、竜也の言う「愛」だなんて。あまりに馬鹿げていて、吐き気がする。その夜、外は凍えるように寒かった。美羽はデスクに向かい、正人に電話をかけた。「私名義になっている長谷川家の資産は、すべて処分してください」電話の向こうの正人は、腑に落ちない様子だった。でも、何も聞いてこなかった。「かしこまりました。長谷川隊長との離婚手続きも最終段階です」美羽は静かにうなずいた。「できるだけ急いでください。10日後には、私は絶対にここを出ますから!」美羽が言い終わると同時に、部屋のドアが勢いよく開けられた。そこには、険しい顔の竜也が立っていた。「どこへ行く気だ?」美羽は、ぎゅっと電話を握りしめた。何か言おうとした時、階下で誰かがドアをノックする音がした。竜
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第7話
美羽は、信じられないものを見るように竜也を見つめた。その眼差しは、氷のように冷たい。「私が一番後悔したは、あの女を助けたことだっていうの!」竜也の表情が、みるみるうちに険しくなった。「美羽、いつからそんなに根性が悪く、話の通じない女になったんだ?」そう言うと彼は、部下に二つの木箱を持ってこさせた。「この前、お前の家族の遺骨を、残さず集めさせておいた。これを持って帰れるかどうかは、お前の態度次第だ!」美羽の瞳から涙が溢れ、彼女は唇をきつく噛みしめながら竜也を見つめた。「楓の母親の具合が悪いとしても、病院には先生も看護師もいるじゃない。国内で一番いい検査設備だってあるわ。それなのにあなたが、楓の言う薬草なんて伝説のものを信じるの?竜也、おかしいと思わないの?」しかし、竜也の態度は冷たいままだった。「美羽、同じことを二度も言わせるな」美羽は絶望しながら竜也を見つめ、諦めたように頷いた。「わかったわ。行く」まもなく、美羽は船に乗せられ、沖合へと連れて行かれた。このあたりの海は、一番深い場所でも数十メートルほどしかない。それでも、プロのダイバーにとっても限界に近い深さだ。ダイビングスーツを身につけた美羽は、船室で楓とワイングラスを傾ける竜也を見て、絶望的な気持ちになった。楓は、自分が口をつけたグラスを竜也の唇へと差し出した。「竜也さん、こんな寒い日に長谷川先生を海に潜らせて、本当に大丈夫なの?」竜也は差し出されたグラスを呷ると、嘲るように口の端を上げた。「美羽は、海外にいた頃、ストレスがたまるとダイビングをしていたらしい。大会記録を出したこともあるそうだから、心配いらないさ」冷たい潮風が頬を打ち、美羽は無意識に右手を握りしめた。竜也は忘れているようだ。自分の右手の腱は、もう切れてしまっているということを。船のライトが海面を照らすなか、美羽は海へ飛び込んだ。冷たい海水が、一瞬にして彼女の体を包み込む。夜の海の中は、ライトで照らしても視界が1メートルもない。美羽は、ひたすら海底を目指して泳いだ。一刻も早く目的の物を手に入れなければ、自分の命が危ない。水深数十メートルの海底に着いた途端、前方に魚の群れが猛スピードでこちらに向かってくるのが見えた。美羽が何事かと身構えるよりも早く、巨大なマ
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第8話
長谷川家に戻ったその日の晩、美羽は高熱を出した。何日も熱が続き、やっと少しうどんが食べられるようになったくらいだ。この日、美羽は自分の荷物をざっとまとめ、スーツケースに詰め込もうとしていた。すると突然、ドアが勢いよく開けられた。竜也が血相を変えて部屋に入ってきて、力任せに美羽の腕を掴んだ。「お前は薬草に何をしたんだ?どうして楓のお母さんはあれを飲んでから吐いたり下したりして、容体が悪化してるんだ?」美羽は竜也の手を振り払おうとしたけれど、病み上がりでまったく力が入らない。「薬草を持って行ったのはあなたじゃない。なのに、私のせいにするっていうの?」竜也は鋭い目つきで彼女を睨みつけた。「美羽、お前は本当にやり方が汚いな。何事もないように祈ってろ。もしものことがあったら、ただじゃ済まさないからな」美羽の体はこわばった。竜也の嫌悪に満ちた眼差しは、鋭いナイフのように彼女の心をズタズタに引き裂いた。竜也が手を上げると、すぐに部下が二人部屋に入ってきた。彼は冷え切った目で美羽を見つめた。「反省の色もないようだな。だったら、病院前で土下座してろ。楓のお母さんが峠を越すまで、ずっとだ!」美羽は顔を上げ、信じられない目で竜也を見つめた。「竜也、あなたは人殺しの母親に土下座しろって言うの?」竜也の表情は、氷のように冷たかった。「自分の犯した過ちの償いは、自分でしなくちゃな!」美羽は、ぎゅっと拳を握りしめた。「私が犯した一番の間違いは、あなたと結婚したことだわ!」竜也はきょとんとしたが、すぐにその顔を曇らせた。「こいつを連れていけ。俺が許すまで、立たせるな!」美羽は罪人のように病院の前まで引きずられていった。ひざまずくのを拒むと、部下の一人が容赦なく彼女のふくらはぎを蹴りつけた。ガクンと膝が折れ、美羽は集まってきた人々の嘲笑を浴びながら、病院の前にひざまずかされた。「あれ、有名な天才外科医の長谷川先生じゃない?どうして罪人みたいに土下座してるのかしら」「不倫してたって噂よ。それに、自分の立場を利用して、患者さんの術後の経過をわざと悪くしたんだって。ひどい話よね!」行き交う人々の嘲るような視線が、刃物のように美羽の心をじわじわと切りつけていく。美羽が朝から晩までひざまずき続けていると、ようや
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第9話
竜也は一瞬、きょとんとした。だがすぐに胸に激痛が走り、苦しそうに胸を押さえた。そして部屋を出ながら、裕也に命じた。「どんな手を使ってもいい。すぐに美羽を探し出せ。父の手術のために、彼女を病院に連れてくるんだ!」竜也が病院に駆けつけると、和子は顔面蒼白で、立つ力もないようだ。「竜也、どうしよう……院長先生が全国の名医に連絡してくれたけど、誰も手が付けられないって。あなたのお父さんの手術は、美羽じゃなきゃ無理だってみんなが言うのよ!」竜也は和子の手を強く握りしめ、手術室のランプが放つ、目に突き刺さるような赤い光をただじっと見つめていた。「もう美羽を探すよう、部下には言ってある。彼女は必ず来てくれるはずだ」和子は目を真っ赤に泣き腫らし、心配そうに竜也を見た。「でも、美羽の手はもう……あんな状態で、どうやってあなたのお父さんの手術をするっていうの?」彼女は竜也を責めるように、彼の肩を激しく叩いた。「あなたがあの親子なんかを庇ったりしなければ、美羽の手があんなことになるはずなかった!そうすれば、お父さんが今こうして手術室で、たった一人で助けを待つことにもならなかったのよ」竜也は苛立ちを隠せず、腕時計に目を落とした。もう30分も経つのに、何の連絡もなかった。彼はナースステーションに行くと、自分の部下に電話をかけ、怒りに任せて怒鳴りつけた。「なぜまだ美羽が見つからないんだ!N市がそんなに広いわけでもないだろう!たった一人を探し出すこともできないのか!」「隊長、奥さんはご自宅を出られた後、まるで姿を消してしまったかのようです。我々もどこへ行かれたのか、まったく掴めていません!」電話の向こうから聞こえてくる裕也の煮え切らない声に、竜也は胸騒ぎを覚えた。電話のやり取りを聞いていた和子は、ついに崩れ落ちるようにその場にへたり込んでしまった。「これからどうするのよ?美羽がいないなんて……あなたはお父さんを死なせるつもりなのね!」竜也は固く拳を握りしめると、今度は美羽が結婚前に住んでいたマンションに電話をかけた。そこは美羽が独身の時に買った部屋で、結婚してからは彼女の母親と妹が住んでいたはずだ。電話はすぐにつながった。しかし、聞こえてきたのは知らない男の声だ。「もしもし!」竜也は一瞬言葉を失ったが、すぐに怒りを爆
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第10話
N市の港。美羽は窓のそばに座っていた。彼女は窓の外に広がる海を、複雑な表情で見つめている。その時、突然、彼女の目の前に一枚の書類が差し出された。「これは、以前約束したものだ」美羽はその資料に書かれた【利益の50%】という文字を見て、少し驚いた。「私たちの間の取引は、もう竜也への復讐にすり替わったものだと思ってたわ」遠藤啓太(えんどう けいた)は口の端を上げてかすかに微笑むと、美羽の向かいに腰を下ろした。「協力すると決めたからには、最大限の誠意を見せるのは当然さ。なにしろ、君は俺が5年もかけて口説き落とした人だからな!」5年前、遠藤家の当主である啓太が美羽を訪ねてきた。新型のインフルエンザ治療薬を共同開発しないかと、誘いに来たのだ。しかし、彼の研究所はB市にあった。当時の美羽は竜也から離れたくなくて、啓太の誘いをためらうことなく断ったのだ。美羽は資料を手に取ると、啓太に向けて自分の右手を少し持ち上げて見せた。「私のことはもう知っているでしょ。私の右手は、もう使いものにならないのよ」啓太は美羽の手を見つめた。その目には残念そうな色だけでなく、彼女には読み取れない感情が混じっていた。「美羽さん、わかるだろ。俺が評価しているのは、君の手じゃない。君の能力そのものだ!」そう言うと、啓太は美羽に手を差し伸べた。「美羽さん、ようこそ、俺たちのチームへ」美羽は差し出された啓太の手を見つめ、吹っ切れたような笑みを浮かべた。そして、その手を強く握り返した。「こちらこそ、よろしく」啓太は続いて、一枚の写真を美羽の目の前に広げた。「3時間前、長谷川の父親が交通事故に遭った。長谷川家は街中で君の行方を捜している」写真には、手術室の前で深刻な表情で立つ竜也の姿が写っていた。隣では楓がうつむいて顔を覆っており、辛そうな様子だ。美羽はその写真を受け取ると、ためらうことなくゴミ箱に投げ捨てた。「私の手はもう使いものにならない。私を見つけたところで、どうにもならないわ」啓太はゴミ箱の写真を一瞥し、口元に笑みを浮かべた。そして、すっかり機嫌を良くして、そばにいたスタッフの方を向いた。「出航だ!」窓の外でだんだんと遠ざかっていく港を眺めながら、美羽は固く握りしめていた拳を、ようやく緩めた。竜也、あなたの
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