LOGIN拓海は一歩踏み出し、そのまま玲奈の目の前に立った。そして彼女の手を取り、自分の前へ引き寄せる。見下ろすそのまなざしには、隠しようのない心配があふれていた。玲奈は首を振り、喉を詰まらせながら答えた。「違うの。悪いのは私だから」拓海は、彼女が明らかに落ち込んでいることに気づいていた。だからなおさら問い詰めた。「何があった?俺に隠すな」玲奈は顔を上げた。充血した目は痛々しいほどで、見ているだけで胸がざわつく。「夜に話すわ」そう言うと、彼女は軽く自分の手首をひねり、静かに続けた。「須賀君、もう放して」その声に、拓海は名残惜しそうにしながらも手を離した。自由になると、玲奈はそのまま心晴のところへ向かった。二人は小さな椅子に並んで腰かけ、野菜を摘んだり、串に刺したりしながら手を動かしていく。けれど玲奈が上の空なのは、誰の目にも明らかだった。心晴は気になって身を寄せ、小声で尋ねた。「どうしたの?」玲奈は手を止め、心晴のほうを振り向いた。「そんなに、ひどい顔してる?さっきからずっと心配してくれるから」心晴は力強くうなずいた。「うん。してる」玲奈は戸惑うように訊き返した。「そんなにわかりやすい?」心晴はさらに大きくうなずいた。「すごくわかりやすいよ」それを聞いて、玲奈は小さくため息をついた。「心晴、ほんとに大したことじゃないの」それでも心晴は納得していない様子だった。なおも何か聞こうとしたが、玲奈はそれより先に話題を変えた。「そういえば、心晴は?最近どう?長谷川さんとは、もしかして……」明の名が出ると、心晴の視線は自然とそちらへ向かった。明は陽の光の中に立っていた。橙がかった日差しが全身を包み、彼をいっそうやわらかく見せている。いい人だ。あたたかくて、思いやりがあって、相手への気配りも忘れない。濁りのない、まっすぐな人だった。光の中に立つその姿は、見ているだけで人を惹きつける。けれど心晴の胸には、どうしても越えられない壁が残っていた。目を伏せたまま、彼女は玲奈に言った。「過ぎたことは、過ぎたこととして置いていくべきだと思うの。私は今ある景色と、大事にしたい人を大切にしたいだけ。長谷川さんは本当に素敵な人だけど……私
明と颯真が車を走らせ、一行は山頂の小さな別荘へとたどり着いた。山の上からの景色は見事だった。眼下を見渡せば、久我山の街が半分以上、一望できる。まだ昼間だというのに、遠くに広がる街並みはどこか幻想的な魅力を放っていた。山の空気は澄みきっていて、大きく息を吸い込むと、胸の奥まで清々しさが満ちていく。車を降りた玲奈は、それだけで少し気分が軽くなった。昨夜酒を飲んだせいで、まだ体にはうっすらと酒の匂いが残っていた。それに気づいた拓海が、訝しげに声をかけた。「朝から酒びたりだったのか?」相変わらず、口調は軽くて締まりがない。けれど玲奈は、ときどき思うのだ。こういう人でも、根のところでは案外いい人なのかもしれないと。智也とは違う。口は悪いし、ふざけたような物言いも多い。それでも、嫌悪を覚えるようなことは一度もしてこなかったし、むしろ何度も自分を助けてくれた。けれど、その優しさは本来、望月晴子へ向けられるはずのものだったのだと思うと、胸の内に言いようのない落ち着かなさが広がった。玲奈の表情が、さっきまでの和らいだものから、次第に不安げなものへ変わっていくのを見て、拓海は眉をひそめた。「どうした?俺に怒ってるのか?」そう言いながら、彼はゆっくりと距離を詰め、玲奈の黒い瞳をのぞき込んだ。玲奈はそっと手を伸ばして彼を押し返した。「荷物を運ぶの、手伝ってくる」そう言うと、拓海に囲い込まれるような空気から逃げるように、すぐその場を離れた。車のほうへ向かって荷物を持とうとすると、明がそれを止めた。「玲奈さんはいいよ。俺と颯真で運ぶから、向こうでゆっくりしてて」玲奈はあたりを見回してから、また言った。「じゃあ、先にテントを立てるね」言い終わるより早く、拓海が先にテントの入ったバッグを取りにいった。袋からテントを出し、広げようとしたものの、組み立てにはどうしても両腕を大きく使わなければならない。その動きが傷に障るのではないかと、玲奈は思わず気になった。彼女はすぐに駆け寄り、拓海を止めた。「私がやるわ」そう言って、その手からテントを取り上げた。ちょうどそのとき、明が車から最後の荷物を下ろし終え、その言葉を耳にした。顔を上げてこちらを見ると、彼は半ば冗談めかして笑った。
それを聞いた愛莉の顔から、期待の色がすっと消えた。代わりに浮かんだのは、はっきりとした失望だった。「……そっか」愛莉は不機嫌そうにそう答えた。こんなふうに母の反応を確かめれば、玲奈がまだ自分を気にかけているとわかるかもしれないと思っていた。けれど、玲奈はまるで自分のことなど気にしていないようだった。どうしてなのか、愛莉の胸の奥には、もやもやとした居心地の悪さが広がっていく。――前は、あんなに自分のことを大事にしてくれていたのに。……玲奈はタクシーで拓海の家へ向かう道すがら、彼にどう真実を伝えるべきか、何度も心の中で言葉を組み立てていた。こう言おうか。いや、それでは違う気がする。そんなふうに何度も考え直したが、どうにもすっきりとはまとまらなかった。けれど、よくよく考えれば、悪いのは自分ではない。彼女は最初から、何かを故意に隠していたわけではなかった。ならば、自分が必要以上に後ろめたさを感じることはない。そこまで考えて、玲奈はようやく頭の中の逡巡を止めた。こんなことで自分を責める必要はないのだと、言い聞かせるように。ほどなくして、タクシーは拓海の家の前に着いた。車を降りた玲奈は、門の前に人が集まっているのを見て足を止めた。近づいてみると、そこにいたのは見覚えのある顔ぶればかりだった。心晴に、明、颯真――その光景に、玲奈は戸惑いながら声を上げた。「……これは?」そう尋ねながら、彼女は無意識のうちに拓海のそばへ歩み寄っていた。彼は彼女が自分のほうへ寄ってくるのを見ると、口元にかすかな笑みを浮かべ、穏やかに説明した。「今日は天気がいいからな。みんなでキャンプに行こうって話になった」玲奈は少し考えた末、やはり断ろうとした。「私はやめておくわ」だが向かい側にいた心晴が、そのあまりにきっぱりした断り方を聞いて、すぐさま玲奈の手を取った。「玲奈、行こうよ。ね、お願い」ここ数日、心晴の様子はだいぶ落ち着いてきていた。少なくとも、表情には前よりずっと笑みが戻っている。そんな彼女にそう言われると、玲奈も強くは断れなかった。「……わかったわ」一行は二台の車に分かれて向かうことになり、運転を担当するのは明と颯真だった。玲奈は本来、颯真の車に乗るつもりでいた
拓海からのメッセージだとわかると、玲奈は反射的にラインを開いた。トーク画面を開いてみると、友だち推薦でつながった件には触れず、彼はただこう送ってきていた。【今どこだ?】その文面を見つめながら、玲奈はすぐには返す気になれなかった。拓海が自分に向けていた優しさは、もとはといえば一華が彼を助けたことから始まっていた。けれど彼は今も、本当に自分を救った相手が玲奈ではなく、一華だとは知らない。そう思うと、どうしても返信する気持ちになれなかった。それでも考え直した。このことを知る権利は、彼にもあるはずだと。結局、玲奈はこう返した。【あとで会って話せる?】拓海からはすぐに返事が来た。【俺に会いたくなったのか?】いつもの軽口だ。そんなふうに飄々とした調子には、もう慣れているはずだった。けれど今は、その文面を見ているだけで胸の奥が妙に空っぽになる。玲奈はただ、短く返した。【話したいことがあるの】すると拓海は、【じゃあ、こっちに来て】と送ってきた。玲奈は、【わかった。十時ごろ行くわ】と返した。真実は、きちんと伝えたほうがいい。彼女はそう思っていた。スマホをしまったちょうどそのとき、智也が二階から下りてきた。すでに身支度は整っていて、茶色のチェスターコートの下には黒のスーツをきっちり着込んでいる。背が高く、顔立ちも整っているせいで、何気ない装いでもどこか人目を引く。そんな姿を玲奈は一瞥しただけで、すぐに視線をそらした。昨日、彼が時間どおりに来なかったせいで、離婚届を出すのがまた先延ばしになった。そのことを思えば、彼に対してわだかまりがないわけではない。ただ、どれだけ不満を抱いたところで、何かが変わるわけでもなかった。だから玲奈は怒りをぶつけもせず、ただ淡々としていた。だが智也のほうは、階段を下りてくるあいだからずっと、沈んだ顔をしていた。近づいてきたその顔にも、笑みの気配は欠片もない。玲奈は彼を見ようともせず、そのまま脇を通って洗面所へ向かおうとした。するとすれ違いざまに、智也が声をかけた。「今日は会議がある。愛莉の習い事、代わりに連れて行ってくれ」玲奈はきっぱりと言った。「無理よ」智也は、その黒い瞳をじっと見つめた。「何か予定でもあるの
明け方の三時を回ったころ、玲奈は喉の渇きで目を覚ました。目を開けた瞬間、頭の中はまだひどくぼんやりしていて、自分がどこにいるのかすぐにはわからなかった。しばらく呆然としたままいたあと、ようやく周囲を見回す。見慣れた室内を目にして、ここが小燕邸だと気づいた。けれど、自分がどうやってここへ戻ってきたのかは、まったく思い出せない。反射的にスマホを探ると、ちょうど枕元に置かれていた。手に取って画面を開くと、一華から何件もメッセージが届いていた。最初の一通には、【玲奈、もう着いた?】とあり、その次には、【お酒が抜けたら返信して。聞きたいことがあるの】と送られていた。さらに時間が飛んで、午前三時四分にはもう一通。【玲奈、須賀さんに何を言われていたのか知りたいの】そして七分前には、こんなメッセージも届いていた。【須賀さんの連絡先、持ってる?よければ教えてくれない?】スマホを握りしめたまま、玲奈はしばらく動けなかった。最初から、拓海が自分に向けていた優しさは、必ずしも純粋なものではないかもしれない――そんな予感はあった。それでも真実がこうして目の前に突きつけられると、簡単には受け止めきれなかった。どうしてあれほど自分に良くしてくれるのか、その理由を彼女は何度も考えてきた。けれど、まさかこんな形だったとは、一度も思わなかった。長いあいだぼんやりとしたままいたあと、玲奈はようやく一華に短く返信した。【うん】それから、そのまま拓海の連絡先を一華へ転送した。送り終えると、玲奈は再びソファに仰向けになり、天井を見つめた。けれど胸の奥には、言葉にできない重苦しさが残っている。思わず、ため息が二度こぼれた。その気配で、宮下がはっと目を覚ました。「奥様、起きられたんですね?」声をかけられ、玲奈は意外そうに顔を向けた。「宮下さん?」宮下は体を起こしながら答えた。「はい。旦那様に、奥様のお世話をするよう言われていたんです」それを聞いて、玲奈は戸惑うように訊いた。「じゃあ、私は……」宮下はすぐに言葉を継いだ。「旦那様が抱えてお連れになったんですよ」その言葉に、玲奈は黙り込んだ。返事がないのを見て、宮下はためらいがちに続ける。「奥様、旦那様は、本当は奥様のこと
智也は身をかがめたまま、薄暗い明かりの中にその顔を沈めていた。一方、玲奈は顔を上向かせ、灯りに照らされたその顔立ちがくっきりと浮かび上がっていた。彼女が拓海の名を呼ぶたびに、智也の胸には苛立ちが募っていく。目を細めたその眼差しは、暗く、冷えきっていた。涙で濡れた玲奈の顔を見ているうちに、怒りはさらに膨れ上がった。次の瞬間、智也は手を伸ばし、玲奈の顎をぐいとつかんだ。指先には容赦のない力がこもっていた。痛みに彼女が眉をひそめても、なお力を緩めようとしない。玲奈は激しい痛みに耐えきれず、彼の手を叩きながら叫んだ。「須賀君、離して……痛い、痛いよ……」またその名で呼ばれたことで、智也の表情がぴくりと強ばる。彼は不意に顔を寄せ、低く押し殺した声で言った。「玲奈、よく見ろ。俺は誰だ」その怒りは、今にも相手を呑み込みそうなほど激しかった。酒に酔っているはずなのに、玲奈の瞳は潤み、そこには濃い戸惑いと怯えがにじんでいた。智也は酔っ払い相手にこれ以上言い募る気にはなれなかった。彼女の手を振りほどき、乱暴に車のドアを閉めると、そのまま運転席へ回った。小燕邸へ戻る道すがら、玲奈はシートにもたれ、頭を傾けたまま眠ってしまっていた。眠っている間も、目尻からは涙がひと筋ずつこぼれ落ちていく。隣の女がどうなろうと構うまい――そう思っていたはずなのに、信号で車が止まるたび、智也はつい横顔を見てしまうのだった。車が小燕邸の門前に着くと、智也は車を降り、助手席側へ回った。身をかがめて玲奈を抱き上げ、そのまま屋敷の中へ運ぶ。だが、玄関ホールの手前まで来たところで、揺れに刺激されたのか、玲奈が急に吐き気をもよおした。「うっ……」次の瞬間、そのまま智也の胸元に吐いてしまった。濃い酒の匂いと、胃の中のものが発酵したようなむっとする臭いが、一気に智也の鼻を突く。彼の顔色はますます険しくなった。そのまま大股でホールへ入ると、玲奈を容赦なくソファへ放り出した。倒れ込んだ拍子に、彼女の頭が背もたれにぶつかる。痛みに、玲奈はかすかに眉を寄せた。だが次の瞬間には、また吐き気がこみ上げてきた。床に広がる吐しゃ物を見下ろしながら、智也は苛立ちを抑えきれず怒鳴った。「宮下」声を聞きつけて駆けつけ
ワインを一口飲むと、玲奈の目から涙がこぼれ落ちた。鼓動が早い胸を押さえ、不安と混乱でいっぱいになる。そのとき、電話の着信音が鳴った。画面を見ると、表示されたのは兄の秋良の名前だった。まだ時間は早い。時刻は夜の十一時を少し過ぎたころだ。兄に気づかれまいと、玲奈は慌てて涙を拭い、気持ちを整えてから電話に出た。「兄さん」できるだけ平静を装ったつもりだったが、声にはかすかに不自然さが滲んでしまう。秋良はそれを指摘することなく、静かに言った。「もうこんな時間なのに、どうしてまだ帰ってこない?陽葵がずっと君を呼んでいるぞ」その言葉に、玲奈の胸がまた痛んだ。自
涼真は新垣家の末っ子であり、一番寵愛を受けて育ったため、性格もどうしてもわがままで横柄になりがちだった。そのせいで遠慮というものがなく、家の中で彼が恐れる相手は兄の智也ただ一人だ。だから清花に蹴られてもまるで気に留めず、顔を見ようともしなかった。おじいさんは孫の態度に眉をひそめ、杖で床を突きながら言い放った。「涼真、台所へ行って料理を運んできなさい」涼真はすぐさま言い返した。「じいちゃん、俺は召使いじゃないよ。義姉さんに運ばせればいいじゃん」「君の義姉も召使いではない!」おじいさんは声を荒げた。その剣幕に、さすがの涼真もようやく姿勢を正した。涼真は祖父が
沙羅は智也の視線を追い、その先に玲奈と拓海の姿を見つけた。その瞬間、笑顔を浮かべていた沙羅の口角がわずかに下がった。周囲には大勢の人がいて、あからさまな反応はできない。何事もないかのように智也の腕を軽く揺らし、「智也、何を考えていたの?」と問いかける。智也はようやく我に返り、沙羅に振り返り尋ねた。「......弾き終わったのか?」「ええ」「じゃあ、帰ろう」そう言って足を踏み出そうとしたが、沙羅が慌てて腕をつかむ。「智也、まだ撮影があるわ」智也は数秒沈黙してから頷いた。「ああ」会もここまでくれば、進行はほぼ終盤に差しかかっていた。一方、玲奈と拓
六時きっかりに、拓海は現れた。スタイリストに付き添われ、玲奈は実家を後にする。まだ時間が早く、兄たちは帰宅していなかったため、使用人だけが出発を見送った。家族を心配させまいと、玲奈は使用人に伝言をあずけた。「兄さんたちが帰ってきて私のことを聞いたら、図書館で勉強してるって伝えて。院試の準備中だって」使用人たちは笑みを浮かべながら、了承した。外へ出ると、すぐに拓海の車が目に入った。ランボルギーニで、ひときわ存在感を放っていた。秋の夕暮れ、橙色の夕陽が街を染める中、拓海は車体に斜めにもたれて腕を軽く組んでいた。風になびく前あきのトレンチコートは、どこか絵になる姿







