LOGIN玲奈は直子を見て、短く説明した。「ちょっと出てくるね。すぐ戻るから」智也がいる前では言いづらいことがあるのだろう。直子は言葉にせず、視線で玲奈に合図を送った。玲奈はそれを察し、小さく頷く。「うん。すぐ戻るわ」それでも直子は心配そうで、手にしていたスマホを軽く振ってみせた。「電話、忘れないでね」「分かった」智也は直子の言葉を深読みしなかった。ただ、出際にふと思い立ったように口を開く。「義母さん、今日は時間がなくてすみません。今度ちゃんと顔を出しに来ますね。その時は、ゆっくりしましょう」そう言うと、智也はポケットから一枚のキャッシュカードを取り出し、直子の手に差し出した。「これ、ほんの気持ちです。受け取ってください」直子は戸惑い、反射的に玲奈を見た。玲奈は迷わず頷き、受け取るよう目で促した。今のこの局面で、智也から出るものを「いらない」と突っぱねる理由はない。玲奈が受け取らなければ、結局それは沙羅に回るだけだ。結婚して五年。離婚が目前なら――せめて、得るべきものは得ておく。そんな思いが、玲奈の胸の底に静かに沈んでいた。直子がカードを受け取ると、智也はようやく安堵したように息をついた。玲奈がどう思っていようと、少なくとも直子は自分の差し出したものを拒まなかった。それで少し、心が落ち着いたのだろう。最後に智也は愛莉を自分の前へ呼び寄せ、目線を落として言った。「愛莉、もう行くぞ。おばあちゃんにさようなら言って」愛莉は気乗りしない顔のまま、力のない声で言う。「......おばあちゃん、さようなら」どこか投げやりで、感情も薄い。それを聞いた玲奈は、智也に淡々と言った。「愛莉が嫌なら、無理に言わせなくていいわ」智也は怒らず、代わりに愛莉がふん、と鼻を鳴らした。「ふんっ」それだけ吐き捨てると、愛莉はさっさと春日部家の玄関を出ていった。智也は慌てて直子に向き直る。「義母さん、体にお気をつけて。今日はこれで。次は、またみんなで集まりましょう」直子は形だけ返事をした。「......うん」声は硬く、気持ちが乗っていないのが分かる。それは愛莉と同じで、どこか仕方なくの響きだった。智也の「次は」という言葉が
愛莉の言葉を聞き、そしてあれほど心配そうな顔を見て、智也は一瞬考え込んだ末、先に沙羅の様子を見に行くことに決めた。声を落として愛莉に言う。「分かった。今すぐ行こう」愛莉はこくりと頷く。「うん」そうして愛莉は、少し離れたところにいる玲奈へ視線を移した。その隣には拓海が立っている。二人の距離感は、ただの友達とは違う。愛莉にはその違いがうまく説明できない。けれど胸の奥がちくりとして、言いようのない不安が湧いた。――もし、ママにこの先ほかの子ができたら......そこまで考えかけて、愛莉は慌てて思考を止めた。怖くて、続きを想像できなかったのだ。かつて何より自分を優先してくれたあの頃のママは、もういない。その事実が、幼い胸に重くのしかかっていた。智也は考えを固めると、玲奈へ向き直った。「お前も一緒に来い」すると拓海が眉を寄せ、乾いた笑いを漏らす。「お前は愛する人に会いに行くんだろ?なら俺だって俺の愛する人のところに行く。そういう理屈じゃないのか?」智也は答えず、玲奈だけを見据えた。しばらく間を置いて、低く問いかける。「来るのか、来ないのか。どっちだ」拓海の中で、何かが弾けた。苛立ちを隠さず二歩で玲奈の前へ出て、智也に言い放つ。「消えるならさっさと消えろ。俺の愛する人を巻き込むな」だが智也は拓海を相手にしない。その無視が、拓海の怒りをさらに宙ぶらりんにした。そのとき、背後の玲奈がそっと拓海の背中をつついた。拓海が振り返り、声を潜めて訊く。「......まさか。あいつと一緒に行って、あいつの大事な女に会う気か?」玲奈は拓海を見上げ、淡々と答えた。「うん」拓海は反射的に拳を握った。けれど、すぐに奥歯を噛んでその怒りを飲み込む。玲奈は拓海の脇をすり抜け、智也の前に立った。そして短く言う。「行こう。私も一緒に行くわ」理由はひとつ。残りわずかな最後の数日をやり過ごすためだ。正式に離婚届が受理されれば、もう智也の顔色なんて見なくていい。だが今は違う。もし彼が機嫌を損ねて、土壇場で取り下げでもしたら――もうこれ以上待つなんて嫌だ。これ以上、彼と絡み続けるのは耐えられない。だから、ここは耐える
智也に腕を掴まれたまま、玲奈は力を抜いた。けれど、さっきの「人の心はあるのか」という言葉が胸に刺さって、思わず可笑しくなってしまう。玲奈はふっと笑い、首を横に振った。傷ついた目のまま、静かに言う。「あるわよ。だけど、智也......私の心は傷だらけなの」智也は玲奈を自分のほうへ引き寄せ、腰に腕を回した。そして、さらに追い打ちをかけるように問う。「昔みたいに、もう一度だけ頭を下げられないのか?」玲奈は相手にする気も起きない。手で押し返しながら言った。「智也、放して。休みたいの」しかし智也は離さない。むしろ抱き込もうとする気配さえあった。そのとき――玲奈の寝室のドアが、内側から唐突に開いた。音に反射して振り返った玲奈は、拓海の姿を見た瞬間、全身の血がすっと冷えるのを感じた。陽葵を送って戻ってきたのに、どうしてまだここにいるの――拓海はドアを開けて出てくると、止めに入るでもなく、気だるげにドア枠にもたれた。腕を組み、眉を上げて智也を見下ろす。一言も発しないのに、表情だけで嘲りが溢れている。智也も、拓海の姿を認めた途端に硬直した。寝室にいるだけでも十分なのに、拓海は薄いグレーのシルクのパジャマ姿だった。ボタンは二つ外れ、鍛えた胸元があらわになっている。髪は乱れ、眠たげな目つきで、まるで今まで寝ていたかのようだ。――偶然ここに来たわけではない。その事実を、ありありと見せつける格好だった。智也の声が低く沈む。「......なぜ、ここにいる?」拓海は眉をひょいと上げ、当然だろうと言わんばかりに返す。「ここ、俺の家だけど?いるのに理由が必要なのか?」智也はその含みを聞き取り、とうとう堪えきれなくなった。怒りに任せて玲奈へ向き直り、吐き捨てる。「玲奈、まだ離婚もしてないのに、もう男を家に上げるのか?そんなに急いで、別の男を家に入れたいのか!」玲奈は眉を寄せ、必死に言い訳をしようとする。「智也、違う。私、そんな......彼は――」最後まで言い切る前に、拓海が体を起こし、冷えた顔で智也へ向けて言った。「彼女が俺を家に入れたんじゃない。俺が自分で入ったんだ。お前が大事にしないなら、代わりに大事にしたい奴なんて山ほどいる。
陽葵を幼稚園へ送って着いたのは、ちょうど八時二十八分だった。遅いわけではないのに、陽葵は不安でたまらない様子で、門をくぐると小走りになる。遅刻したくないのだ。その背中を見て、玲奈はふっと口元を緩めた。道すがら、同じ年頃の女の子たちが陽葵と一緒に走っていく。みんな彼女の周りに集まっていて、好かれているのが一目で分かった。それに比べて愛莉は、こんなふうに友だちに囲まれているところを、玲奈は見たことがない。愛莉の傍若無人な振る舞いを思い出し、学校でも嫌われているのでは――そんな考えがよぎる。陽葵が教室へ入ったのを見届けると、玲奈は踵を返し、道端でタクシーを拾った。タクシーで春日部家へ戻る途中、玲奈は智也と愛莉はもう帰っているだろうと思っていた。ところが玄関を抜けてリビングに入った瞬間、ソファに座ったままの二人が視界に入る。玲奈が戻ってきたのを見ると、智也は軽く顔を向け、わずかに頷いて挨拶を済ませた。玲奈は腑に落ちず、近づいて問いかける。「......まだいたの?どうして帰らないの」智也は玲奈を見上げ、淡々と答える。「お前を待ってた」幼稚園から戻ってきた今、もう九時近い。その言葉に玲奈は一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに冷たく言い返した。「勝手にすれば。言うことはもう伝えたわよ」そう言い捨てて、玲奈は二階へ上がろうとした。ソファでは愛莉が毛布をかけられ、眠っている。玲奈が去ろうとすると、智也が慌てて声を投げた。「愛莉、また熱が上がった」その一言に、玲奈の足が一瞬止まる。けれどすぐに息を整え、心を硬くして言った。「智也、熱が出たなら病院に連れて行って。私が医者でも、ここには設備がない。私にできることは限られてるわ。本当にこの子のためを思うなら、今すぐ病院へ」智也はズボンの縫い目のあたりで指をきゅっと握り込んだ。何も言わない。玲奈もそれ以上は言わず、二階へ上がった。――が、二階に着くなり、智也が素早く追ってくる。玲奈が部屋へ入ろうとした、その手前で、智也が彼女の手を掴んだ。玲奈は立ち止まった。振りほどかない。怒鳴りもしない。彼を不用意に刺激する余裕はない。短い沈黙ののち、智也の低い声が落ちる。「......どうであれ
その瞬間、愛莉の胸に「駆け寄って、玲奈に抱き上げてもらいたい」という衝動が湧いた。けれど結局、愛莉は必死にそれを押し殺した。――もう、ずいぶん長いこと。ママは自分を抱いてくれない。昨夜、高熱で朦朧としていたとき、愛莉は昔の玲奈を思い出していた。でも今のママは、あの頃とはまるで違う。愛莉は唇を動かし、やっとの思いで呼んだ。「......ママ」玲奈もずっと険しい顔のままではなく、短く返す。「うん」愛莉の視線が、陽葵へ移る。通園バッグを持ち、幼稚園の制服を着て、きちんとしていて可愛らしい。その姿が、胸にちくりと刺さった。思わず愛莉は言い訳のように口を開く。「今日、まだ熱あるの。だからパパが幼稚園はお休みって......」玲奈は意外そうでもなく、淡々と頷くだけだった。「うん」その冷たさに、愛莉は焦って続ける。「じゃあ......ママ、私のこと連れて遊びに行ってくれる?」外で遊ぶのなんて、もうずっとしていない。智也は仕事で忙しく、沙羅は研究で手が離せない。このところ愛莉は家の中だけで過ごしていた。おもちゃなんてとっくに飽きた。けれど玲奈の返事は冷ややかだった。「具合が悪いなら家で休むべきでしょ。遊ぶことばかり考えないの」そのとき直子が、麺の入った器を持って台所から出てきた。出てきた途端、玲奈の言い方がきついのを聞いて、器を置きながら咎める。「もう、愛莉は子どもよ。そんな怖い言い方しなくてもいいでしょう」玲奈は唇を軽く噛み、反論しなかった。直子は器をテーブルに置き、愛莉の前にしゃがんでにこやかに言う。「愛莉、見て。おばあちゃんが作った麺よ」「上にお肉も乗せてあるの。ほら、食べてごらん。ちゃんと食べたら、元気も出るからね」愛莉は器をちらりと見た。つやのある麺に、肉そぼろも美味しそうで、思わず唾を飲み込む。「うん」と言いかけて――ふと気づく。一杯だけだ。パパの分がない。それに気づいた瞬間、愛莉は顔をむっとさせた。どれだけ食べたくても、意地が勝つ。直子は戸惑って尋ねる。「愛莉、どうしたの?」愛莉は顔を背け、苛立った声で言い放つ。「いらない。麺なんかじゃなくて、ピザがいい!」直子の顔が困っ
拓海が部屋に入ったのを見届け、玲奈はようやく胸のつかえが下りた。智也に拓海の存在を見られたら、間違いなく荒れる。そうなれば火の粉は家族にまで飛ぶ――それだけは避けたかった。自分のことはどうでもいい。けれど家族だけは、今でも大切だ。階下へ目をやると、智也は愛莉の手を引いてソファのそばに座らせていた。秋良と綾乃と健一郎はすでに出かけており、家に残っているのは直子だけ。直子も玄関から入ってきた二人に気づいて、呆然と立ち尽くしていた。すると智也が、ふいに声をかける。「......義母さん」その「義母さん」が、直子の胸に素直に落ちることはなかった。むしろ薄ら寒い。返す気にもならない。けれど愛莉がいる。見本にならなければと、直子は浅く頷いた。「......ええ」智也はそれで満足したのか、すぐに尋ねた。「玲奈は?」直子は二階をちらりと見上げ、できるだけ平静を装って答える。「陽葵の支度をしてるんじゃないかしら。洗面所のあたりで」わざと少し大きめの声だった。――玲奈への合図でもある。愛莉はソファに小さく身を沈めた。まだ本調子ではなく、体がふわふわと力の入らない様子だ。元気ならきっと、玲奈に「ママなんか嫌い」「私のこといらないんだ」と言い立てただろう。だが玲奈がいないと、言う気も起きないらしい。直子は愛莉を見た。会う機会は少なくても、この孫娘のことは好きだった。愛莉が自分を嫌っていようと、そっと近づいて声をかける。「愛莉、朝ごはんは食べたの?」愛莉は直子を一瞥して首を振った。言葉はない。直子は胸が痛み、そっと頭を撫でる。「何が食べたい?おばあちゃん、すぐ作るから言ってごらん」愛莉は少し考えたが、食欲がない。「いら......」言い切る前に、智也が口を挟んだ。「義母さん、麺系なら何でもいいですよ。うどんでも、そばでも」直子は迷わず頷く。「分かったわ。今すぐ作るね」二階にいる玲奈は、そのやり取りをすべて見ていた。そして、智也が直子を「義母さん」と呼んだ瞬間、頭が真っ白になった。――今まで一度だって、あの人は直子をそう呼ばなかった。それがさっきだけで、もう四、五回。離婚が目前のこのタイミングで、どうして。
拓海は青い寝具に身を沈め、布団の端を握りしめては、そこに染みついた玲奈の匂いを何度も吸い込んでいた。まるで、いくら嗅いでも足りないかのように。玲奈は眉をひそめ、灯りの下で小さな顔をきつく歪める。「須賀君、兄は隣の部屋にいて、一声あげればすぐに来るわ。だから来た道で帰りなさい。そうじゃなきゃ、不法侵入で訴えるわよ」拓海はごろりと横を向き、やさぐれた笑みを浮かべて言う。「ベイビーはそんなに冷たいのか?せっかく来たんだ。お前の温度を感じてから帰らせてくれよ」波を湛えた瞳には、からかうような深い光が揺れていた。開け放たれた窓から十月末の夜風が吹き込み、玲奈の
玲奈の胸は重く沈んでいた。「先輩は私にたくさんしてくれた......私も、何かで応えたいの」言い換えれば、借りを積み重ねてはいけない――そう思ったのだ。昂輝は、彼女の言葉に込められた距離を置こうとする響きをすぐに察した。笑みを浮かべていた唇が一瞬こわばったが、それでも優しく微笑み直す。「それじゃ、君の言うとおりにしよう」そう言って、彼は濡れた上着を脱いで彼女に差し出した。玲奈はそれを受け取り、助手席に置くと小さく頷いた。「先輩も早く帰ってね」昂輝はうなずき、さらに声をかける。「週末、時間があれば一緒に食事をしないか?」玲奈は少し考えた末に答えた。
昂輝の慎重な様子からして、玲奈は「きっととても大物が来るのだろう」と推測した。十分ほど待ったころ、レストランの入口から一人の男が入ってきた。昂輝が立ち上がり、玲奈もつられて立ち上がる。姿を現したのは学だった。ブリーフケースを手にし、端正な顔に微笑を浮かべ、店員が暖簾を上げると丁寧に礼を言って入ってくる。立ち居振る舞いの一つ一つに、自然な気品が漂っていた。だが学は彼らに視線を向けることなく、店員に案内されそのまま奥の個室へと歩いて行った。すれ違いざま、昂輝は思わず「まな――」と声をかけたが、最後まで言い切る前に、彼は別の方向へ進んでしまう。しかも振り返ることもなく
会計を済ませた智也は、振り返って沙羅に声をかけた。「沙羅、行こう」その呼びかけ――沙羅という響きは、玲奈の耳にも届いていた。だが彼女は振り返らず、ただコップを手に取り、水をひと口含んだだけだった。智也に呼ばれた沙羅は、すぐに歩み寄って彼の腕に手を添えた。「ええ」二人がレストランを出ようとしたとき、智也の視線は自然にホールの一角へ流れた。そこに座っていた昂輝と学、そして背を向けているひとりの女性――その姿を一目見ただけで、智也はそれが玲奈だと分かった。わずかに足が止まる。その微細な変化を、沙羅は見逃さなかった。「智也、どうしたの?」彼女は身を寄せ、