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第201話

Author: ルーシー
会計を済ませた智也は、振り返って沙羅に声をかけた。

「沙羅、行こう」

その呼びかけ――沙羅という響きは、玲奈の耳にも届いていた。

だが彼女は振り返らず、ただコップを手に取り、水をひと口含んだだけだった。

智也に呼ばれた沙羅は、すぐに歩み寄って彼の腕に手を添えた。

「ええ」

二人がレストランを出ようとしたとき、智也の視線は自然にホールの一角へ流れた。

そこに座っていた昂輝と学、そして背を向けているひとりの女性――

その姿を一目見ただけで、智也はそれが玲奈だと分かった。

わずかに足が止まる。

その微細な変化を、沙羅は見逃さなかった。

「智也、どうしたの?」

彼女は身を寄せ、彼の注意を自分に向けさせようとする。

彼の目に、他の女を映したくなかった。

智也は視線を収め、沙羅を見下ろして静かに答える。

「何でもない、行こう」

沙羅は彼の腕をさらに強く抱きしめ、体を寄せて歩みをそろえた。

数人が去った後も、玲奈は昂輝と学とともに医学の話題に花を咲かせていた。

しかし、広いガラス窓の外に映る街並みに視線をやれば、そこには沙羅の腕に手をかけた智也の姿があった。

二人は肩を並べ、歩調も揃っており、いかにも睦まじく見える。

玲奈は唇をかすかに噛み、苦い思いを胸にしまいこんで再び前を向いた。

食事を終えると、玲奈は会計へ向かおうとしたが、昂輝が先に立ち、支払いを済ませてしまった。

外に出ると、雨が小降りながら降っていた。

昂輝は学に向かい言う。

「学先生、車でお送りします」

学は首を振って笑った。

「いい、バスで帰る。

仕事の合間に、こういう時間を楽しむのも悪くない」

学の性格をよく知る昂輝は、無理強いはしなかった。

ちょうど来たバスに乗り込む学を、二人は路傍で手を振って見送った。

やがて雨脚が強まる。

昂輝は店に戻って傘を借り、玲奈と二人、ひとつの傘を分け合って歩き出した。

車道を駆け抜ける車が跳ね上げた水しぶきが、ちょうど玲奈の方へと迫る。

咄嗟に、昂輝が腕を回して彼女の腰を引き寄せ、自分の側に抱き寄せた。

しぶきは昂輝の背にまともに降りかかり、上着は瞬く間に濡れてしまった。

それでも玲奈の体には、一滴の水も触れなかった。

「ありがとう。

でも、ごめんなさい」

玲奈は小声で礼を言い、すぐに申し訳なさそうに付け
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