LOGIN智也は顔を冷たくし、声をかけてくる連中を次々追い払った。待てば待つほど、苛立ちが募る。だが、我慢が尽きかけた頃になって、ようやく玲奈が昂輝と一緒に店から出てきた。玲奈の姿を見た途端、智也の顔に笑みが浮かんだ。手にしていた煙草を捨て、ゆっくり歩いて玲奈の前まで行った。昂輝の存在は無視し、玲奈にだけ微笑みかける。「食べ終わったか?」玲奈は顔を上げた。「うん」智也は大きな手を差し出す。「じゃあ帰ろう」玲奈は伸ばされた手を見つめたまま、なかなか握ろうとしない。しばらくして、玲奈は昂輝に向き直った。「先輩、今日はごちそうさま。明日の院試、頑張るわ。自分がなりたい自分になれるって、信じてる」昂輝は玲奈の自信に満ちた顔を見て、思わず笑った。「よし。吉報、待ってる」玲奈も口元を緩める。それから言った。「じゃあ、帰るわね」昂輝は名残惜しく感じた。だが変えられないものがあることも、わかっている。だから、仕方なく頷いた。「うん。家に着いたら、連絡して」玲奈も頷く。「うん」そう言って、玲奈は智也の車へ向かった。智也は助手席のドアを開ける。玲奈が身をかがめて乗り込むと、窓を下ろして昂輝に言った。「先輩も早く帰って。じゃあ、また」昂輝は手を振る。「うん。またな」挨拶が終わると、智也も運転席に乗り込んだ。走り出してから、智也が口を開く。「今夜は楽しかったか?」玲奈は遠慮なく答えた。「うん。楽しかった」智也は怒らなかった。むしろ真剣に言った。「じゃあ明日、俺が送ろうか?」玲奈は考える間もなく拒んだ。「結構よ」それきり智也は何も言わなかった。車は悦園に着いて停まった。智也は素早く降り、玲奈のドアを開けようとする。智也はいつも動きが早い。なのに、いつも一歩遅い。ドアに手をかける前に、玲奈が先に降りてしまうのだ。玲奈がここまで自分の世話を拒むのを見て、智也の胸はざわついた。二人は時間差で小燕邸へ戻った。玲奈がホールに入る前から、愛莉と沙羅のはしゃぐ声が聞こえてくる。「ララちゃん、ちがうよ。そこ、置き方ちがう」「どこがちがうの?もうすぐ私が勝つよ」「ララちゃん、子ど
車内で昂輝がそう口にした途端、空気がすっと静まった。玲奈は横を向き、車窓の外の人波を眺めた。昂輝の言葉を反芻し、智也のことを思った。智也は確かに変わった。最近は、昔なら絶対にしなかったことをいくつもしている。以前の玲奈なら、そういう変化を望んでいた。けれど今は、その変化が玲奈の重荷になっている。玲奈が答えず、思い詰めた顔をしているのを見て、昂輝が心配そうに尋ねた。「どうした?」玲奈はそこで我に返り、さっきの話題に答えた。「……そうかもしれない。でも、もう大事じゃないわ」玲奈が何に答えているのか、昂輝にはわかっていた。昂輝は口元を引いた。けれど心は晴れない。玲奈が智也を気にしていないことは、昂輝にも見えている。だが途中から、拓海という男が入り込んできた。昂輝は怖かった。自分に、智也ほどの重みがあるとも思えない。拓海みたいに、しつこく食らいつくこともできない。自分にあるのは、ただの不器用な勇気と優しさだけだ。玲奈が欲しいのは、そういうものではないのかもしれない。昂輝の気持ちは、ふっと沈んだ。玲奈は道中ずっと、離婚のことを考えていた。離婚の手続きも、もうすぐ終わる。なのに、なぜか胸騒ぎがする。一つは、最近の智也の態度の変化。また余計なことをしでかしそうで怖い。もう一つは、愛莉だ。最近、幼稚園にも行っていない。その二つを思うだけで、玲奈の心は乱れた。車が繁華街で停まると、昂輝は玲奈を連れて、人混みの中を歩いた。店は予約していない。歩きながら眺め、入る店を決めるつもりらしい。食べ歩きの通りを一周してから、昂輝はしゃぶしゃぶに決めた。二人なのに、昂輝は料理をたくさん頼んだ。食事中は医学の話をし、二人ともよく笑った。気づけば、二時間が過ぎていた。玲奈はまだ話し足りなく感じた。だがその時、携帯が鳴った。画面を見る。智也だ。出たくない。それでも切れる前に、渋々通話に出た。電話の向こうで、智也の低い声がする。「終わりそうか?」玲奈は少し考えてから答えた。「まだ」智也は怒らなかった。声を落として言った。「じゃあ、ゆっくり食え。外で待ってる」その言葉を聞き、玲奈は慌てて外を見た。智
そう言われ、玲奈は顔を上げて、訝しげに智也を見た。本当は訊きたかった。彼は本当に心配しているのか。それとも、監視したいだけなのか。けれど玲奈は訊かなかった。そして、ただ智也に言った。「先輩と食事するだけよ。心配しなくていい」智也は、自分の変化に気づいたのだろう。一瞬、言葉に詰まり、それから短く答えた。「……うん」そして付け足す。「食べ終わったら、迎えに行く」玲奈は頷いた。「うん」それきり二人は黙り込み、無言で下へ降りた。モールの入口に着くと、玲奈が少し待っただけで、昂輝の車が着いた。智也もそれを目にした。黒いアウディ。派手さはないが、普通の人にとっては安い車ではない。昂輝の収入は、世間で言えば十分に上位だ。ただ――玲奈のそばには、智也と拓海がいる。昂輝はどうしても霞んでしまう。昂輝が車を降りてきた。今日は珍しく正装だ。黒いコートの内側はスーツ。応援飯というより、どこか見合いに来たみたいだった。なぜだろう。その姿を見た瞬間、智也は玲奈を行かせたくない気持ちが湧いた。だがもう許可している。歯を食いしばり、黙っているしかない。昂輝は大股で玲奈の方へ近づく。コートの裾が風に揺れ、前髪も整えられて額が見える。整った顔立ちに、そのコートがよく似合い、まるで絵から抜け出したようだった。玲奈は近づいてくる昂輝を見ながら、智也に言った。「帰っていいよ。私、先輩とご飯に行くから」その言葉に、智也の胸が痛んだ。拒みたい。けれど無理に飲み込み、頷いた。「……うん」昂輝が目の前まで来ると、智也は彼に視線を向け、笑みを浮かべた。「東さん。妻にご馳走してくれて、ありがとう。妻のこと、お願いするよ。あとで迎えに来るから、東さんが送る必要はないよ」軽い口調なのに、言いたいことは全部入っている。玲奈は自分の妻だ。迎えは自分が行く。その短い言葉で、昂輝の芽を摘む。昂輝は智也の意図を汲んだ。返事もしない。智也のほうも見ない。玲奈は智也の言葉を気にせず、階段を下りて昂輝のほうへ向かった。だが数歩進んだところで、また智也の声が飛んだ。「玲奈、ちょっと待って」その声を聞いた瞬間、玲奈は思わ
地下駐車場から慌ててモールの上階へ上がると、玲奈の背中には汗がうっすら滲んでいた。冬だというのに、身体じゅうがべたつく感じがする。さっき見ていた店の前まで来たとき、玲奈は智也の声を聞いた。智也が店員に尋ねている。「俺の妻は?」その言葉に、店員たちは顔を見合わせた。すると、責任者らしき女性が出てきて、智也に説明した。「お客様、奥様はお手洗いに行かれました」その女性は一切ためらわず、平然と言い切った。玲奈は入口に立ったまま、その返答をはっきり聞いた。智也は眉間に皺を寄せ、強い口調で迫った。「そうか?」店員が答える前に、玲奈が自分から歩み寄った。「どうして来たの?」玲奈の目には、疑問だけが浮かんでいる。玲奈の姿を見て、智也はようやく薄く笑った。「疲れたかと思って。迎えに来た」玲奈は表情を変えずに言った。「うん。見終わったから、帰ろう」本気で探せば、ここにも気に入る服はある。けれど今は、買い物を続ける気分ではなかった。玲奈が手ぶらで出ようとすると、智也は目を細くした。「一つも買わないのか?」玲奈は頷いた。「うん。気に入るのがなかった」智也はすぐに言った。「じゃあ別の店も見よう。俺が付き合う」玲奈は疲れていた。もう歩き回りたくない。「いい」智也は玲奈を見つめ、そこで初めて気づいた。玲奈の唇が、赤い。服の話は追わず、訝しげに訊いた。「唇、どうした?なんでそんなに赤い」玲奈は一瞬、言葉に詰まった。赤いのは、拓海に口づけされたせいだ。もちろん、そんなことは言えない。玲奈は目を泳がせ、すぐに理由を作った。「口元に産毛があって。剃ったから赤くなったの」苦しい言い訳だ。智也は半信半疑の顔をした。「……そうか?」玲奈は迷いなく言い切った。「そう」玲奈があまりに断言するので、智也はそれ以上は追及しなかった。ただ言った。「行くぞ。もう少し見よう」智也が譲らないので、玲奈も断らなかった。「……うん」智也は玲奈を連れて上の階へ行き、靴とバッグを見せた。そして最後に玲奈は、かなり高価なバッグを一つ選んだ。小ぶりなのに、値段は八桁。買い物を終えて店を出ると、智也が玲奈の顔
拓海は俯いたまま、笑みを含んだ声で言った。「誰かと別れたい時ってさ。相手の金、全部使い切りたくなるだろ」言いたいことがあまりに露骨で、玲奈はなぜか腹が立った。顔を上げて睨みつけ、きつい口調で言い返す。「でたらめもいい加減にして」拓海は身を屈め、視線を玲奈の高さに合わせた。探るように見つめ、しばらくしてから言った。「図星だろ?」玲奈は手を上げて拓海を叩こうとした。けれど力が入っていない。その様子が、拓海には甘えているように見えたらしい。拓海は笑った。目の中には甘さと優しさが滲んでいる。玲奈は目を合わせられない。拓海の視線が、熱すぎた。静まり返った空間に、鋭い着信音が響いた。その音は、玲奈にとって救いだった。いつからだろう。玲奈は拓海の目が、少し怖くなっていた。いつも深く思い詰めたような顔で見てくるから、引きずり込まれそうになる。そしてまた、別の深みに落ちてしまいそうで。着信は鳴りやまない。画面を見ると、昂輝からだった。玲奈は迷わず背を向け、そのまま通話に出た。電話口で、昂輝の澄んだ声が弾む。「玲奈。今夜、ご飯でも行かない?」玲奈は首をかしげる。「先輩、どうしたの?」反射的に、誕生日なのだろうかと思った。そういえば昂輝の誕生日がいつか、玲奈は知らない。昂輝は言った。「応援の気持ちを込めて、奢りたいんだ」「応援」という言葉で、玲奈はすぐにわかった。明日は院試の日だ。昂輝は、励ましたいのだ。少し考えてから、玲奈は断らなかった。「……わかった。お願いするわ」玲奈の返事を聞き、昂輝はようやく笑う。「じゃあ、仕事終わったら迎えに行く。住所を送って」「わかった」玲奈は考える間もなく答えた。通話を切ったあと、まだ携帯をしまいきらないうちに、拓海が寄ってくる。口元をわずかに上げ、痞っぽい笑いを浮かべた。「なあ、玲奈。俺だって応援くらいできるけど?」玲奈は、ろくなことを言わない気がして、どういう応援かは訊かなかった。声を沈めて言った。「いらないわ」拓海を避けて立ち去ろうとした。だが拓海はふいに玲奈の耳元へ寄った。、熱い息が耳たぶにかかる。「腹は満たしてもさ。別のとこが腹ペ
拓海の口づけは強引で、それでいてどこか優しい。彼はキスがうまい。ほんの数回で、玲奈の身体はすっかり力が抜けてしまった。押し返したいのに、指先にすら力が入らない。玲奈はただ、少しずつ息を奪われていくのを受け入れていた。拓海は力の抜けた玲奈を抱きとめ、手を伸ばして胸元のボタンを外しにかかった。だが一つ外したところで、拓海は動きを止めた。拓海は俯き、口づけで赤く熱を帯びた玲奈の頬を見つめる。胸は高鳴り、衝動も抑えきれない。今すぐにでも、玲奈を自分のものにしたかった。けれど玲奈は、まだ離婚していない。そう思った瞬間、拓海は衝動に歯止めをかけた。玲奈の前で、すんでのところで踏みとどまったのは一度や二度ではない。身体の奥が張り裂けそうなのに。それでも彼女の名誉のために、拓海は諦めることを選んだ。玲奈はぼんやりしていて、頭の中はぐちゃぐちゃだった。拓海は彼女を抱き寄せ、掠れた声を耳元に落とした。「ごめん。俺はまだ、お前を手に入れられない」その声に呼び戻され、玲奈ははっとして目を見開いた。濁っていた視界が、一瞬で澄んでいく。玲奈は身体を起こし、勢いよく拓海を突き放った。同時に胸元のボタンを留め直し、怒りに任せて言い放つ。「須賀君、あなた、恥知らず」玲奈の怒りを見て、拓海は整った顔に笑みを滲ませた。そして静かに、逆に問い返した。「なあ、玲奈。こういうの、刺激的だと思わないか?」玲奈は答えなかった。背を向けてドアを開け、そのまま車を降りた。拓海も慌てて降りる。少し大きな声で追った。「怒った?」玲奈は足を止めない。答える気配もない。自分が怒っているのかどうか、玲奈自身にもわからなかった。胸の奥には、いろいろな感情が渦を巻いていた。玲奈は拓海が嫌いなはずだった。なのにさっきは、折れてもいいと思ってしまった。さっきのキスが、あまりにも心地よくて。このまま続けたいとさえ――けれど冷静になった途端、玲奈は自分が情けなくなった。まだ離婚もしていないのに、別の男と寝たいと思ってしまったのだ。そう思えば思うほど、足は速くなる。拓海は玲奈が自分を無視するのを見ると、数歩で追いつき、手を掴んだ。「本当に怒ってるのか?」玲奈は
沙羅は視線を落とし、頬はみるみるうちに真っ赤に染まっていった。その一部始終を、玲奈は戸口の外から見ていた。夫と娘は、沙羅を好きなあまり、その母親である雅子にまで情を移していた。だが、彼らが玲奈の家族に同じような心遣いを見せたことは一度もない。結婚してからというもの、智也は一度たりとも春日部家の敷居をまたいだことがない。それどころか、両親や兄夫婦の顔さえ覚えていないだろう。それに、愛莉の態度は玲奈の胸をさらに締めつける。直子が心を込めて用意した夕食は、愛莉にとっては難癖をつける対象でしかなかった。だが、雅子が作ったジャガイモの炊き込みご飯は、何日も恋しがって忘れな
博士課程に進んだ以上、沙羅がすべきことは研究だった。だが彼女には、肝心の研究テーマが定まっていなかった。いくら文献を漁っても、手掛かりとなる課題は見つからない。同じ学年の仲間たちが次々と研究に没頭していく中、自分だけが足踏みしている――その現実は、学問の歩みを大きく遅らせていた。だから沙羅は、学のもとを訪ねる決意をした。学は厳格で、笑うことも滅多にない。学生たちからは「近寄りがたい先生」として畏れられている。沙羅にとっても同じだった。単身では訪ねる勇気が出せず、智也と薫を伴ってここへ来たのだ。沙羅の問いを聞いた学は、表情一つ変えずに言い放った。「医学を学
玲奈は拓海が女にだらしないことは知っていたが、ここまで強引で手に負えないとは思っていなかった。一瞬、言葉を失い、どう反応していいかわからなくなる。その時、ふと昂輝の上着が袋に入ったまま汚れているのを思い出し、話題をそらした。「須賀君、私これを洗ってくるわ。あなたもそろそろ出て行って」「洗う?」と彼の笑みがすっと消える。「なにを洗うって?」玲奈は眉をひそめて答えた。「あなたに関係ないでしょ」そう言ってソファに置いてあった昂輝の上着を手に取ろうとした。玲奈が振り向いた途端、拓海が目の前に現れ、彼女の手から強引に服を奪い取る。「お前の手は、くだらねぇ男の汚
智也は洗面所の壁にもたれかかっていた。言葉を最後まで言い切る前に、玲奈は電話を切ってしまった。暗くなった画面を見つめながら、胸の奥が妙にざわつく。ポケットから煙草を取り出し、火をつける。炎が立ち上がった瞬間、薫が洗面所から出てきて、興味ありげに声を掛けた。「誰と電話してたんだ?そんなにこそこそと」智也は深く煙を吸い込み、吐き出すと同時に目を細めた。「妻だ」「妻?」薫は一瞬ぽかんとし、それからようやく気づいた。玲奈のことだ。「どうしたんだ?お前、今まで自分から電話なんてしたことなかったろ」智也自身、最近の自分は変わったと思う。最近はふと







