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第631話

Auteur: ルーシー
智也が二階へ上がっていったあとも、玲奈はしばらく食堂に一人で座っていた。

どれほど時間が過ぎたのか、自分でもよくわからない。

ただ、身体がすっかりこわばってしまっているのに気づいて、ようやく立ち上がる気になった。

どうにもできないのなら、受け入れるしかない。

いくら考えたところで、何ひとつ変わらないのだから。

玲奈はゆっくり立ち上がり、軽く身体を動かしてから二階へ向かった。

愛莉の部屋の前を通りかかると、扉が少しだけ開いているのが目に入った。

以前なら、ためらいなくその扉を押し開けていた。

あの頃は、何も怖くなかった。

けれど今は違う。

心の中には、ためらいばかりが増えていた。

愛莉が入ってほしくないと思っているかもしれない。

顔を見た瞬間に泣き出してしまうかもしれない。

あるいは、自分の娘が自分を責める言葉を投げつけてくるかもしれない――

そう思うと、どうしても中へ入る勇気が出なかった。

玲奈は唇を噛み、そのままゲストルームへ向かおうとした。

だが、二歩ほど進んだそのとき、半開きの扉の隙間から、愛莉の甘えるような声が聞こえてきた。

「パパ、ララちゃん
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    智也にはわかっていた。玲奈がもう二階へ上がってきていることを。少し迷った末に、彼は隣のゲストルームの扉を叩いた。さっき階下で言い争ったばかりだった。それでも、今はどうしても扉を叩きたかった。玲奈は扉を開けると、智也をひと目見て、黙って身を引いた。「どうぞ」智也は中へ入った。ゆっくりと部屋を見回して、ようやく気づく。玲奈はこの部屋をきちんと整えていた。清潔で、無駄がなく、それでいてどこかやわらかな温もりがある。まだ数日しか使っていないはずなのに、すでにこの空間は、玲奈らしい居心地のよさを帯びていた。それを見ているうちに、智也はふと昔のことを思い出した。玲奈は昔から、小さな雑貨を買っては部屋に飾るのが好きだった。だがその頃の彼は、そんなものを好まなかったし、安っぽいとまで言っていた。今思えば、自分のほうが思いやりを欠いていたのかもしれない。玲奈は扉を閉め、智也のそばまで歩み寄った。そして顔を上げて言った。「追い出しに来たなら、わざわざ言わなくて結構よ。私のほうから出ていくから」どうせ、彼女はもう一刻だって小燕邸にいたくなかった。その言い方を聞き、智也は探るように問い返した。「……愛莉の言葉を聞いたのか?」玲奈は意に介さないように言った。「それが何か問題?」「問題だ」智也はきっぱりと言った。けれど玲奈は答えない。ただじっと彼を見つめるばかりだった。長い沈黙のあと、智也はようやく低い声で口を開いた。「追い出すつもりはない。ここへ来たのは……シャツを二枚、アイロンがけしてほしかっただけだ」その言葉に、玲奈は少し意外そうな顔をした。「でしたら、宮下さんを呼んでくるわ」そう言って、そのまま部屋を出ようとする。だが智也の脇を通り過ぎようとした瞬間、彼の手が伸び、玲奈の細い腕をつかんだ。次の瞬間、ぐっと引き寄せられる。玲奈の身体はあっけなく智也の腕の中へ引き込まれ、その厚い胸に閉じ込められた。玲奈は身をよじって逃れようとしたが、びくともしない。「智也、何をするつもり?」声を荒げると、智也の胸がひやりとした玲奈の背にぴたりと触れた。彼の唇は耳もとをかすめるように滑り、そのまま低く囁いた。「二人目はだめになった。だった

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    智也が二階へ上がっていったあとも、玲奈はしばらく食堂に一人で座っていた。どれほど時間が過ぎたのか、自分でもよくわからない。ただ、身体がすっかりこわばってしまっているのに気づいて、ようやく立ち上がる気になった。どうにもできないのなら、受け入れるしかない。いくら考えたところで、何ひとつ変わらないのだから。玲奈はゆっくり立ち上がり、軽く身体を動かしてから二階へ向かった。愛莉の部屋の前を通りかかると、扉が少しだけ開いているのが目に入った。以前なら、ためらいなくその扉を押し開けていた。あの頃は、何も怖くなかった。けれど今は違う。心の中には、ためらいばかりが増えていた。愛莉が入ってほしくないと思っているかもしれない。顔を見た瞬間に泣き出してしまうかもしれない。あるいは、自分の娘が自分を責める言葉を投げつけてくるかもしれない――そう思うと、どうしても中へ入る勇気が出なかった。玲奈は唇を噛み、そのままゲストルームへ向かおうとした。だが、二歩ほど進んだそのとき、半開きの扉の隙間から、愛莉の甘えるような声が聞こえてきた。「パパ、ララちゃんに会いたい。迎えに行こうよ」智也は一瞬黙ったようだった。そしてしばらくしてから、短く言う。「もう寝ろ」その声音にどんな感情が混じっていたのか、玲奈にははっきりわからなかった。けれど、ほんのわずかな沈黙があっただけで十分だった。あの「寝ろ」という言葉を口にする前に、智也が心の中で何かに迷っていたことだけは、はっきり伝わってきた。すると今度は、愛莉の泣き声まじりの声が響く。「全部ママのせいだもん。ママが小燕邸にいるから、ララちゃんが来なくなったんだもん」智也は冷えた顔で愛莉を見つめ、低く問うた。「それで?愛莉はどうしたいんだ」愛莉の返事は、驚くほどはっきりしていた。「パパ、ママを追い出して。ひとりでおばあちゃんの家に帰らせて。みんなに嫌われてる、あの家に帰せばいい」娘の口から、自分の家族へのあからさまな嫌悪を聞かされて、玲奈の胸はひどく痛んだ。これ以上は聞いていられなかった。玲奈はその場を離れ、そのままゲストルームへ入っていった。玲奈が部屋に入ったその直後、今度は智也の、叱りつけるような声が響いた。「愛

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    その言葉が落ちた瞬間、智也の腕が玲奈の腰に回された。二人はそのまま並んで門の中へ入っていく。その光景を見た明人は、しばらく呆然としていた。だが門をくぐった途端、玲奈はごく自然な動作で、智也の手を払いのけた。智也は腹を立てるどころか、むしろかすかに唇の端を上げた。二人が小燕邸の中へ入るころには、宮下もちょうどご飯を食卓へ運んできたところだった。湯気の立つご飯を前に、智也の目には甘やかなやさしさがにじむ。「お腹が空いただろう。早く食べろ」玲奈は答えこそしなかったが、そのまま食卓へ向かった。ご飯を一口食べてから、ようやく顔を上げて宮下に尋ねる。「宮下さん、愛莉は?」宮下はエプロンで手を拭きながら、にこやかに答えた。「奥様、愛莉ちゃんは二階へ上がりましたよ」「そう」玲奈はひとこと返しただけで、それ以上は何も言わなかった。ご飯を食べ終えたころになって、智也がようやくそばへ来た。「今日、沙羅にも連絡した。だが、幼稚園の行事には付き添えないそうだ」その言葉に、玲奈は一瞬だけ意外そうな顔をした。あれほど望んでいたはずのことだったのに。けれど今は、少しも心が動かない。もし自分が愛莉の行事に付き添えば、あの子はきっと自分をますます憎むだろう。だから玲奈は、やはりその件を引き受けようとは思わなかった。ただ淡々と返した。「そうなの?」そのあまりに無関心な反応に、智也は焦れたように問い詰めた。「じゃあ、玲奈はどうする。行くのか?」玲奈は紙ナプキンを一枚取り、ゆっくりと口元を拭った。それから顔を上げて智也を見て言った。「行かないわ。正月の前日には実家へ帰る。年越しの食事の支度をしなきゃいけないから」今年の正月は、春日部家の家族みんなで穏やかに過ごしたかった。だから自分で台所に立ち、料理を並べ、一家そろって食卓を囲みたい。玲奈はそう考えていた。その答えを聞いて、智也の眉がわずかに寄る。玲奈を見つめるその目には、いつの間にか鋭さが差していた。声も低く沈んだ。「つまり、新垣家へ行くつもりもなければ、愛莉の幼稚園行事にも行かない。そういうことか?」そう問われて、玲奈の身体はかすかにこわばった。それでも視線を逸らさず、まっすぐに答えた

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    「じゃあ、待ってますね」智也はそう言った。明人は空々しく二度ほど笑ってみせてから、ようやくスマホを玲奈へ返した。受け取った玲奈は智也に短く言った。「切るわ」「わかった。何かあったらメッセージをくれ」智也のその言葉に、玲奈は答えなかった。そしてそのまま通話を切った。電話が切れた瞬間、明人は痺れた頬の内側を舌先で押し、歯噛みするように吐き捨てた。「いい度胸してるな」玲奈はまっすぐ彼を見返し、皮肉っぽく笑った。「自分の口にしたことには、それなりの代償が伴うものよ。何を言っても許されるわけじゃないから」明人は、それ以上言い争う気はなかった。黙って車のロックを外し、苛立ちを隠さぬまま言う。「乗らないのか」玲奈はジャッキや工具をトランクへ戻し、車に鍵をかけてから、明人の車へ向かった。ただし助手席ではなく、後部座席に座る。車が走り出してからも、明人の機嫌はずっと悪かった。だが、いら立ちが募るほど、逆におかしくなったのか、ふいに彼は笑い出した。ルームミラー越しに後部座席の玲奈を見ながら言う。「智也はもう、うちの妹の男だ。いっそ俺のところに来たらどうだ?」玲奈はミラー越しに彼の視線をまっすぐ受け止め、冷たく鼻で笑った。「あなたに何ができるの。どうして私が、智也より劣る男を選ぶと思うの?」その返しに、明人はかえって面白そうに笑った。「俺が劣る?それは、お前がまだ知らないからだ。知らないものは、そりゃ悪く見えるだろうな」玲奈が何を言っているのか、彼にはわかっていた。それでもわざと、下品な意味へねじ曲げて返している。けれど玲奈は、即座に切り捨てた。「お断りよ」その尊大な態度が、明人には癪に障った。腹立たしさを抑えきれずに言う。「智也に捨てられたら、そのときは俺が慰めてやるよ」慰めるの一言だけ、ことさらに含みを持たせた言い方だった。玲奈も皮肉のひとつくらい返そうかと思った。だが、相手にするだけ無駄だとすぐに思い直した。そのとき、またスマホが鳴った。目を落とすと、智也からの着信だった。玲奈が電話を取ると、向こうからすぐに声が届く。「今どこだ?」車内は静かで、前の席にいる明人にも智也の声ははっきり聞こえていた。玲奈

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