LOGINそれを聞いた愛莉の顔から、期待の色がすっと消えた。代わりに浮かんだのは、はっきりとした失望だった。「……そっか」愛莉は不機嫌そうにそう答えた。こんなふうに母の反応を確かめれば、玲奈がまだ自分を気にかけているとわかるかもしれないと思っていた。けれど、玲奈はまるで自分のことなど気にしていないようだった。どうしてなのか、愛莉の胸の奥には、もやもやとした居心地の悪さが広がっていく。――前は、あんなに自分のことを大事にしてくれていたのに。……玲奈はタクシーで拓海の家へ向かう道すがら、彼にどう真実を伝えるべきか、何度も心の中で言葉を組み立てていた。こう言おうか。いや、それでは違う気がする。そんなふうに何度も考え直したが、どうにもすっきりとはまとまらなかった。けれど、よくよく考えれば、悪いのは自分ではない。彼女は最初から、何かを故意に隠していたわけではなかった。ならば、自分が必要以上に後ろめたさを感じることはない。そこまで考えて、玲奈はようやく頭の中の逡巡を止めた。こんなことで自分を責める必要はないのだと、言い聞かせるように。ほどなくして、タクシーは拓海の家の前に着いた。車を降りた玲奈は、門の前に人が集まっているのを見て足を止めた。近づいてみると、そこにいたのは見覚えのある顔ぶればかりだった。心晴に、明、颯真――その光景に、玲奈は戸惑いながら声を上げた。「……これは?」そう尋ねながら、彼女は無意識のうちに拓海のそばへ歩み寄っていた。彼は彼女が自分のほうへ寄ってくるのを見ると、口元にかすかな笑みを浮かべ、穏やかに説明した。「今日は天気がいいからな。みんなでキャンプに行こうって話になった」玲奈は少し考えた末、やはり断ろうとした。「私はやめておくわ」だが向かい側にいた心晴が、そのあまりにきっぱりした断り方を聞いて、すぐさま玲奈の手を取った。「玲奈、行こうよ。ね、お願い」ここ数日、心晴の様子はだいぶ落ち着いてきていた。少なくとも、表情には前よりずっと笑みが戻っている。そんな彼女にそう言われると、玲奈も強くは断れなかった。「……わかったわ」一行は二台の車に分かれて向かうことになり、運転を担当するのは明と颯真だった。玲奈は本来、颯真の車に乗るつもりでいた
拓海からのメッセージだとわかると、玲奈は反射的にラインを開いた。トーク画面を開いてみると、友だち推薦でつながった件には触れず、彼はただこう送ってきていた。【今どこだ?】その文面を見つめながら、玲奈はすぐには返す気になれなかった。拓海が自分に向けていた優しさは、もとはといえば一華が彼を助けたことから始まっていた。けれど彼は今も、本当に自分を救った相手が玲奈ではなく、一華だとは知らない。そう思うと、どうしても返信する気持ちになれなかった。それでも考え直した。このことを知る権利は、彼にもあるはずだと。結局、玲奈はこう返した。【あとで会って話せる?】拓海からはすぐに返事が来た。【俺に会いたくなったのか?】いつもの軽口だ。そんなふうに飄々とした調子には、もう慣れているはずだった。けれど今は、その文面を見ているだけで胸の奥が妙に空っぽになる。玲奈はただ、短く返した。【話したいことがあるの】すると拓海は、【じゃあ、こっちに来て】と送ってきた。玲奈は、【わかった。十時ごろ行くわ】と返した。真実は、きちんと伝えたほうがいい。彼女はそう思っていた。スマホをしまったちょうどそのとき、智也が二階から下りてきた。すでに身支度は整っていて、茶色のチェスターコートの下には黒のスーツをきっちり着込んでいる。背が高く、顔立ちも整っているせいで、何気ない装いでもどこか人目を引く。そんな姿を玲奈は一瞥しただけで、すぐに視線をそらした。昨日、彼が時間どおりに来なかったせいで、離婚届を出すのがまた先延ばしになった。そのことを思えば、彼に対してわだかまりがないわけではない。ただ、どれだけ不満を抱いたところで、何かが変わるわけでもなかった。だから玲奈は怒りをぶつけもせず、ただ淡々としていた。だが智也のほうは、階段を下りてくるあいだからずっと、沈んだ顔をしていた。近づいてきたその顔にも、笑みの気配は欠片もない。玲奈は彼を見ようともせず、そのまま脇を通って洗面所へ向かおうとした。するとすれ違いざまに、智也が声をかけた。「今日は会議がある。愛莉の習い事、代わりに連れて行ってくれ」玲奈はきっぱりと言った。「無理よ」智也は、その黒い瞳をじっと見つめた。「何か予定でもあるの
明け方の三時を回ったころ、玲奈は喉の渇きで目を覚ました。目を開けた瞬間、頭の中はまだひどくぼんやりしていて、自分がどこにいるのかすぐにはわからなかった。しばらく呆然としたままいたあと、ようやく周囲を見回す。見慣れた室内を目にして、ここが小燕邸だと気づいた。けれど、自分がどうやってここへ戻ってきたのかは、まったく思い出せない。反射的にスマホを探ると、ちょうど枕元に置かれていた。手に取って画面を開くと、一華から何件もメッセージが届いていた。最初の一通には、【玲奈、もう着いた?】とあり、その次には、【お酒が抜けたら返信して。聞きたいことがあるの】と送られていた。さらに時間が飛んで、午前三時四分にはもう一通。【玲奈、須賀さんに何を言われていたのか知りたいの】そして七分前には、こんなメッセージも届いていた。【須賀さんの連絡先、持ってる?よければ教えてくれない?】スマホを握りしめたまま、玲奈はしばらく動けなかった。最初から、拓海が自分に向けていた優しさは、必ずしも純粋なものではないかもしれない――そんな予感はあった。それでも真実がこうして目の前に突きつけられると、簡単には受け止めきれなかった。どうしてあれほど自分に良くしてくれるのか、その理由を彼女は何度も考えてきた。けれど、まさかこんな形だったとは、一度も思わなかった。長いあいだぼんやりとしたままいたあと、玲奈はようやく一華に短く返信した。【うん】それから、そのまま拓海の連絡先を一華へ転送した。送り終えると、玲奈は再びソファに仰向けになり、天井を見つめた。けれど胸の奥には、言葉にできない重苦しさが残っている。思わず、ため息が二度こぼれた。その気配で、宮下がはっと目を覚ました。「奥様、起きられたんですね?」声をかけられ、玲奈は意外そうに顔を向けた。「宮下さん?」宮下は体を起こしながら答えた。「はい。旦那様に、奥様のお世話をするよう言われていたんです」それを聞いて、玲奈は戸惑うように訊いた。「じゃあ、私は……」宮下はすぐに言葉を継いだ。「旦那様が抱えてお連れになったんですよ」その言葉に、玲奈は黙り込んだ。返事がないのを見て、宮下はためらいがちに続ける。「奥様、旦那様は、本当は奥様のこと
智也は身をかがめたまま、薄暗い明かりの中にその顔を沈めていた。一方、玲奈は顔を上向かせ、灯りに照らされたその顔立ちがくっきりと浮かび上がっていた。彼女が拓海の名を呼ぶたびに、智也の胸には苛立ちが募っていく。目を細めたその眼差しは、暗く、冷えきっていた。涙で濡れた玲奈の顔を見ているうちに、怒りはさらに膨れ上がった。次の瞬間、智也は手を伸ばし、玲奈の顎をぐいとつかんだ。指先には容赦のない力がこもっていた。痛みに彼女が眉をひそめても、なお力を緩めようとしない。玲奈は激しい痛みに耐えきれず、彼の手を叩きながら叫んだ。「須賀君、離して……痛い、痛いよ……」またその名で呼ばれたことで、智也の表情がぴくりと強ばる。彼は不意に顔を寄せ、低く押し殺した声で言った。「玲奈、よく見ろ。俺は誰だ」その怒りは、今にも相手を呑み込みそうなほど激しかった。酒に酔っているはずなのに、玲奈の瞳は潤み、そこには濃い戸惑いと怯えがにじんでいた。智也は酔っ払い相手にこれ以上言い募る気にはなれなかった。彼女の手を振りほどき、乱暴に車のドアを閉めると、そのまま運転席へ回った。小燕邸へ戻る道すがら、玲奈はシートにもたれ、頭を傾けたまま眠ってしまっていた。眠っている間も、目尻からは涙がひと筋ずつこぼれ落ちていく。隣の女がどうなろうと構うまい――そう思っていたはずなのに、信号で車が止まるたび、智也はつい横顔を見てしまうのだった。車が小燕邸の門前に着くと、智也は車を降り、助手席側へ回った。身をかがめて玲奈を抱き上げ、そのまま屋敷の中へ運ぶ。だが、玄関ホールの手前まで来たところで、揺れに刺激されたのか、玲奈が急に吐き気をもよおした。「うっ……」次の瞬間、そのまま智也の胸元に吐いてしまった。濃い酒の匂いと、胃の中のものが発酵したようなむっとする臭いが、一気に智也の鼻を突く。彼の顔色はますます険しくなった。そのまま大股でホールへ入ると、玲奈を容赦なくソファへ放り出した。倒れ込んだ拍子に、彼女の頭が背もたれにぶつかる。痛みに、玲奈はかすかに眉を寄せた。だが次の瞬間には、また吐き気がこみ上げてきた。床に広がる吐しゃ物を見下ろしながら、智也は苛立ちを抑えきれず怒鳴った。「宮下」声を聞きつけて駆けつけ
夜十一時を回るころには、テーブルを囲んでいた面々のうち、一華を除く全員がほろ酔いになっていた。会計を済ませた一華は、一人を送り届けては店へ戻り、また別の一人を送り出した。玲奈だけは個室に残し、最後に送るつもりだった。戻ってきた一華は、玲奈に拓海のことを聞こうと思っていた。けれど、テーブルに突っ伏したまま眠ってしまっている様子を見て、結局何も聞けなかった。玲奈を支えながら店の入口まで来て、暖簾を上げて外へ出ようとしたそのとき――「篠原さん」後ろから声がかかった。そのころの玲奈は、もうまともに立ってもいられず、今にも崩れ落ちそうになりながら一華に身を預けていた。口ではまだ、わけのわからないことを言っている。「飲もうよ……紗奈、最近お酒弱くなったんじゃない?全然空けないじゃん……」一華が振り返ると、こちらへ歩いてくる智也の姿があった。二人の関係を知っているだけに、一華は思わず目を見張った。近づいてきた智也は、まず玲奈に視線を落とし、それから一華に言った。「玲奈は俺が連れて帰るよ」一華は一瞬ためらったが、やがて頷いた。「……わかりました」智也はかすかに笑みを浮かべた。「ありがとう」そう言って一歩踏み出すと、彼は一華の腕の中から玲奈を受け取った。抱きかかえる腕が変わると、玲奈はそのほうが心地よかったのか、さらに智也の胸元へ身を寄せた。全身から酒の匂いが漂ってくるのを感じ、智也はわずかに眉をひそめた。そして声を潜めて尋ねた。「歩けるか?」その声が一華のものではないと気づいたのか、玲奈はふいに顔を上げた。濁った目で智也の顔をじっと見つめ、次の瞬間、ぽつりと名前を呼んだ。「……須賀君?」その名前が耳に入った途端、智也の表情はみるみる険しく沈んだ。彼はもう何も言わず、身をかがめて玲奈を横抱きにすると、そのまま大股で店の外へ出ていった。背後に立ち尽くした一華は、たしかに今の声を聞いていた。――須賀君。その瞬間、なぜだかわからないまま、一華の胸に後悔がよぎった。あのとき、拓海に嘘をついたこと。自分の本当の名前を告げなかったこと。もし、あの場で名乗っていたのが自分の名前だったなら――今、拓海が優しくしている相手は、自分だったのではないか。もしかした
三人に気遣われ、玲奈は赤くなった鼻をこすりながら首を振った。「ううん、大丈夫。何でもないから」そう答えてはみたものの、皆の視線にはなお心配がにじんでいた。ただ一人、一華だけは、玲奈を見る目に複雑な色を浮かべていた。あの年、橋の上で事故が起きたときのことだった。「お医者さんはいませんか。誰か助けてください、お願いします!」泣き叫ぶような声が聞こえてきた。医学生だった一華は、もともと首を突っ込むつもりはなかった。けれど、その必死な声を聞いた瞬間、見て見ぬふりができなくなった。彼女はマスクをつけて車を降り、人だかりの中へ入っていった。その場にしゃがみ込み、傷者の状態を確かめると、すぐに心肺蘇生を始めた。地面に横たわる男は、顔じゅう血まみれで、顔立ちはかろうじてわかる程度だった。どんな容姿なのかまでは判別できなかった。ただ、体つきや身につけていた上着の質から見て、かなり裕福な身なりであることだけはわかった。そのときの一華は、そんなことを深く考える余裕はなかった。ただ、この人を助けたい――それだけだった。ところが、蘇生を続けているうちに、男が意識を取り戻した。指先がわずかに動き、それから、かすれた声が聞こえた。「痛い……押すの、痛い」一華は慌てて手を離し、すぐに謝った。「すみません、私、まだ学生で、ちゃんとは――」だが最後まで言い終える前に、拓海のさらにかすれた声が重なった。「美しい声だ。きっと本人も美人なんだろ?」一華は思わず面食らった。死にかけているような状況で、そんなことを尋ねる人がいるだろうか。それでも、反射的に答えてしまった。「きれいじゃないですよ」すると拓海は笑った。顔じゅうを鮮血が覆い、笑うと白い歯だけが浮かび上がった。それでも、その顔立ちにはどこか端正な面影があった。やがて彼はまた訊いた。「俺、死ぬ?」一華はきっぱりと言った。「死なないです。私が助けますから」拓海は笑みを浮かべたまま、こう言った。「助かったら、責任取ってよ」一華は戸惑った。「せ、責任って……どうやってです?」拓海は答えた。「俺と結婚して」もう考えている暇はなかった。一華はとっさに口にした。「わかりました。助かったら、結婚しますよ
玲奈は、ティッシュで拓海の指の血を止めていた。彼の問いを聞いた瞬間、ほんのわずかだが、身体が強張った。短い沈黙のあと、彼女は静かに答えた。「......私たちは、もともと住む世界が違うの」俯いたまま、長い睫毛が影を落とす。笑顔はなく、声はひどく真剣だった。その言葉に、拓海の胸はざらついた。声を低く沈め、重く問い返す。「玲奈。俺は、君に近づこうとしてきた。何歩も、何歩も。なのに、どうして君は、一歩もこっちに来ようとしない?どうしてだ」玲奈は彼の指を押さえたまま、顔を上げた。視線がぶつかった瞬間、彼の目に渦巻く、激しい怒りと苛立ちが映り込む。
玲奈の手が下りた瞬間、指先が震えているのを感じた。感覚が戻ると、彼女は再び手を上げ、自分の唇を力いっぱい擦った。赤くなっても。皮が切れても。それでも、やめようとしなかった。その様子を見て、拓海の胸は無数の針で突き刺されるように痛んだ。玲奈は拓海を睨みつけ、涙をこぼしながら嗚咽混じりに言った。「須賀君......最低。汚れてるくせに、どうして私に触るの?」彼女は多くの言葉を吐いた。だが、拓海の耳に残ったのは、ただ一つ――「汚れてる」という言葉だけだった。彼は呆然と立ち尽くし、しばらくしてから、信じられないといった口調で笑った。「......俺が
拓海は顔を伏せ、女優の額に軽く口づけたようだった。そして、低く囁く。「もう一回、聞きたい。ほら、呼んで」女優は体を起こし、彼の耳元でそっと囁いた。「......旦那様」その声を聞くと、拓海は女優の腰をもう一度つねり、満足そうに言った。「いい声だ。可愛いな」そう言って、彼は箸を取り、女優に料理を食べさせた。その仕草は丁寧で、甘やかしきっている。店内には多くの客がいるというのに、拓海は周囲の視線など意に介さない。一方、玲奈は、二人のあからさまな戯れをすべて目にしていた。だが、ただ淡く笑うだけで、それ以上の感情は湧かなかった。食事もほぼ終わり、
智也がまだ何も言わないうちに、邦夫から電話がかかってきた。通話を取ると、受話口から不満げな声が飛んでくる。「この馬鹿者、ちゃんとお嫁さんを迎えたんだろうな?」智也は短く答える。「ああ」「なら早く戻ってこい。みんな待ってるぞ」祖父の言葉に頷き、電話を切った。携帯をしまうと、智也は玲奈へ視線を向けて告げる。「離婚協議書ができたら連絡する。署名はその時に」玲奈も、この件は急かしても無意味だと分かっていた。まして新垣家のような家庭で、しかも子どもが絡むのだから、手続きには時間がかかる。「分かったわ」彼女が承諾すると、智也は続ける。「それじゃ、







