Masuk外は冷たい風が吹いていた。駅前のロータリーには、年末特有の慌ただしさが漂っている。
赤いテールランプが途切れることなく続き、人々はそれぞれの帰り道を急いでいた。「運転見合わせ、だと」
岡田がスマホの画面を眺めながら呟く。
晴臣は隣で同じ通知を確認した。「信号トラブルみたいですね。復旧の見込み、ありませんって」
「マジか…」
岡田は小さくため息をついて、首を鳴らした。
改札前の人混みは膨れ上がり、駅員の声がスピーカー越しに響く。「…もう帰るの面倒やろ。うち来い」
岡田が何気なく言った。
その声は疲れているのに、どこか柔らかかった。「泊まってけ」
晴臣は一瞬、返事を迷った。
けれど、外の風が冷たく、家までの距離を考えると素直に頷くしかなかった。「お言葉に甘えます」
「よし、決まり。…腹減ったな。弁当でも買うか」
二人は駅前のコンビニに入った。
明るい店内には、温かい惣菜の匂いと、年末特番のBGMが混ざっていた。岡田がカゴに唐揚げ弁当と缶ビールを放り込み、晴臣はサラダとお茶を入れる。レジを出るとき、岡田が何気なく言った。
「こういうときに限って、家近くないのがな」
「課長のせいですよ。転勤のとき、駅から遠いマンション選んだんですから」
「静かでええやろ」
「…ええですけど」
晴臣は苦笑しながら、その後ろを歩いた。
夜風に吹かれ、吐く息が白く伸びていく。歩道の街灯が二人の影を細長く伸ばしていた。岡田の部屋は、駅から徒歩十五分。
古いマンションの三階。玄関を開けると、暖房の入っていない空気が冷たく迎えた。「すぐ温める」
岡田がリモコンを押すと、エアコンの音が小さく鳴り始めた。
晴臣は買ってきた弁当をテーブルに並べ、コンビニ袋をまとめる。「悪いな。こんな年末に」
<カーテンの隙間から洩れる、淡い明かり。岡田の部屋の中は、荷造りの最中のまま、散らかったままだった。床には開きかけの段ボール、半分だけ詰められた調理器具、閉じたノートパソコン、そしてテーブルの端に置かれたペットボトルの水。シャワーの音が、奥の浴室から微かに聞こえていた。水が壁を叩く音が、ただの生活音なのに、妙に距離を感じさせる。岡田はゆっくりと窓辺に立ち、引き戸を開けた。夜風が顔に当たり、すっと首筋を撫でる。外は静かで、遠くの幹線道路から車の音がわずかに届く程度だった。冷たい空気に包まれたまま、岡田はベランダの柵に肘をかける。そのポケットから、小さな銀色の箱が現れた。蓋を指先で弾いて開け、一本を抜き取る。その動きに、一瞬だけ指が迷った。「……あかんな」自分でそう呟きながらも、火をつける動作は止まらなかった。カチリ、とライターの音が鳴る。細い炎が、紙巻きの先端を焼き、白い煙がすぐに夜気に溶けていく。唇にくわえたタバコの端から、煙がくすぶる。久々に味わう煙草の味は、昔よりも苦く、舌の奥を鈍く刺した。煙を肺に入れて吐き出すたび、頭の奥にこもった何かが少しずつ晴れていくような、しかし同時に濁っていくような感覚。「……なんで、今になって」岡田は煙の向こうに街の明かりを見ながら、独り言のように呟いた。自分でも、何に落ち着かないのか分からない。晴臣と同居する。それが現実になる。ただそれだけの話。何度も考えていた。何度も想像した。ベッドをふたりで使うようになって、洗濯物が一緒に干されて、冷蔵庫の中に好みの違う食材が並ぶ。それは、楽しみにしていたはずの未来だった。なのに、いざ“明日”がくるとなった瞬間、身体の芯に棘のようなものが刺さっている気がした。期待と、不安。安心と、自由の喪失。言葉にはできない感情が、胸の奥で煙のように渦を
段ボールの山ができていた。リビングの床に広がるガムテープの切れ端、丸められた新聞紙、埃をかぶった本の束。照明の黄色い光がそのすべてを淡く照らしている。岡田の部屋は、これまで見たどんな時よりも“過去”の匂いをまとっていた。晴臣は床に膝をつき、衣類をたたみながら、横目で岡田の方を見た。岡田は古い段ボール箱の中身をひとつひとつ取り出しては、分別していた。古い雑誌、CD、何年もの間開けなかった引き出しの奥のメモ。動きは雑なのに、どこか慎重で、触れるものひとつひとつに思い出の重さを確かめているようだった。「課長、これはどうします?」晴臣が手にしていたのは、大学の卒業アルバムだった。表紙の角がすり切れていて、まるで長い間、開くのを拒んでいたような風格があった。岡田が振り向き、目を丸くする。「うわ、それ…まだあったんか」「捨てます?」「……いや、それはちょっと待って」岡田が歩み寄って手を伸ばした。指先がアルバムの端に触れた瞬間、彼の顔に一瞬だけ懐かしさと気恥ずかしさが同時に浮かんだ。晴臣は、ほんの少しだけ意地悪な気持ちになった。「見てもいいですか」「やめとけ、黒歴史や」「ますます見たくなりますね」晴臣がページを開くと、黄ばんだ紙の上に若い岡田がいた。制服姿、無造作に伸びた前髪、今よりもずっと痩せていて、けれど目元の柔らかさは変わらない。「……この頃からすでにモテそうですね」「は?どこがや」「この、目の線の優しさ。隣の女子も距離近いですし」「いや、それはクラスで席が近かっただけや。お前、ほんま見立てが偏ってるな」「嫉妬ですよ」晴臣の声は冗談めいていたが、岡田は一瞬だけ動きを止めた。その沈黙に、自分の言葉が少しだけ重たく響いた気がして、晴臣は軽く息を吐いた。「冗談です」
小さなテーブルの上に、いくつもの物件資料とノートパソコンが広げられていた。明るさを落とした間接照明の下、紙とデジタルが交差するその風景は、まるでふたりの新しい生活の縮図のようだった。リビングにはテレビもつけず、食器も洗い終えた後の静寂が漂っている。窓の外は完全に夜。ビルの向こうに黒く沈んだ空が広がり、街灯が細く路地を照らしていた。晴臣は、膝の上の資料を順に見返していた。各物件の間取り、家賃、アクセス、条件…そのすべてに赤や青の蛍光ペンで書き込みがなされている。几帳面な性格がそのまま現れた資料だった。その横で岡田は、ソファに背を預け、緩く伸びをしながら缶ビールを手にしていた。ラベルの端に指を引っかけながら、ゆっくりと飲む仕草には、どこか覚悟にも似た静けさがあった。「……なあ」岡田がぽつりと声を上げた。晴臣は、目を資料から上げる。「ん?」「こういうの、ちゃんと決めて動くっての、俺には新鮮やわ」「悪い意味ですか?」「いや。ええ意味や。……お前とおったら、先のこと、見ようって思える」晴臣は、その言葉に少しだけ呼吸を止めた。心の奥に、熱がひとつ灯る。岡田の目は、遠くを見ていた。けれどその焦点は、確かに、ふたりの未来に向いているように見えた。「決めるって、簡単やないな」「だからこそ、こうして確認し合う必要があるんです」「せやな」岡田が缶を置き、テーブルに手を伸ばした。無造作に転がっていた自分の鍵束を手に取り、掌の上にそっと乗せる。小さな金属の束。ジャラ、と控えめに音が鳴った。見慣れたはずのそれを、岡田はじっと見つめている。「俺、この鍵な。何年も変わらん生活の出入り口みたいなもんやって思ってたんやけど」「……はい」「でも今は、ちょっとだけちゃうねん」晴臣は黙って聞いていた。岡田の横顔に、ふだん見ないほどの静けさが宿っていた。「この鍵
ノートパソコンの画面に、ずらりと物件のサムネイルが並んでいた。白い間取り図、フローリングの室内写真、築年数と駅からの距離――そのひとつひとつが、まだ見ぬ生活を象徴しているように思えた。晴臣と岡田は、肩を並べてテーブルに向かっていた。窓際のカーテンからは淡い昼下がりの光が差し込み、ふたりの手元とディスプレイを優しく照らしている。「このへん、静かそうやな」岡田が画面を指差す。そこにはやや郊外のファミリー向け物件が表示されていた。緑の多い住宅地で、広めの2LDK。リビングの写真には陽の光が溢れている。「でも駅から徒歩18分です。バスも便数が少ないですし」「そんな歩く?って感じやな。帰宅中に干からびそうや」「夏場は確実に後悔すると思います」「せやな、俺、汗かきやしな」岡田は苦笑し、マグカップに口をつけた。中のコーヒーはすでに冷めかけていたが、飲む仕草はどこか落ち着いている。彼のすぐ隣にいるというだけで、晴臣は不思議と胸の奥に柔らかい熱を感じていた。「じゃあこれ。駅徒歩7分、築浅、1LDK」晴臣がマウスを動かして別の物件を示す。壁は白く清潔感があり、キッチンも広めだ。「内装ええな。収納も多そう」「ただ……リビングが狭めですね。ベッドルームに大型の家具は厳しいかと」「つまり俺のソファは持ってけん、と」「断捨離の好機です」「ひどい」岡田は笑いながら肘で軽く晴臣の腕をつついた。その仕草にふっと体温が走る。距離は近い。けれど、その近さが心地よい。「じゃあ、次。ここは?」「うーん……築年数は10年超え、駅からの距離は理想的ですが……防音が心配ですね」「お前、音に敏感やもんな」「岡田さんがテレビの音量を上げすぎるんです」「耳が遠いんや」「三十代でそれは言い訳です」小さな応酬の中に、どこか微笑みがこぼれる
冬の朝の光は、どこか柔らかく鈍い。カーテンの隙間から差し込む淡い陽が、テーブルの上に置かれた湯気立つマグカップをぼんやり照らしていた。コーヒーの香ばしい匂いが部屋中に広がり、静かな音だけが漂っている。トースターのチーンという音が、ようやくその沈黙を破った。晴臣はパソコンの前に座り、マウスを慎重に動かしていた。ディスプレイの上には「同棲生活ルール一覧」という文字。画面の右端で点滅するカーソルが、どこか緊張を象徴しているように見える。「……これでいいかな」プリンターの音がカタカタと鳴り始める。紙が一枚、また一枚と出てくるたび、晴臣の胸の奥で鼓動が重なる。印刷が終わると、彼はゆっくりと息を吐き、整った書類をクリップで留めた。タイトルの下に自分の名前と岡田の名前が並ぶのを見て、一瞬だけ指先が止まった。振り返ると、キッチンでは岡田がゆるく寝癖のついた髪のまま、トーストを皿にのせていた。グレーのスウェットに古びたパーカー。休日の気の抜けた姿が、妙に絵になっている。どんな格好をしていても、彼の動作には不思議と温かさがあった。「課長、少しお時間いいですか」「ん?なんや朝から改まって」「これを」晴臣が書類を差し出すと、岡田はトーストを持ったまま受け取った。目を走らせる岡田の眉が、わずかに上がる。「……なにこれ、“ルームシェア誓約書”?」「“同棲ルール一覧”です」「こっわ…表題からして堅苦しすぎるわ」晴臣は微かに眉をひそめながらも、真面目な口調を崩さなかった。「同棲は生活です。ルールがなければ破綻します」「はあ…なるほどな。まるで会社の規定書みたいやな」岡田はソファに腰を下ろし、ページをめくった。そこには整然とした箇条書きが並んでいた。『1.食費・光熱費は折半』『2.掃除は週に一度、交代制とする』『3.家
玄関の扉が閉まる音とともに、今日という一日がそっと幕を下ろす。岡田の部屋に戻ったふたりは、言葉を交わさず、コートを脱ぎ、靴を揃えた。沈黙は、もう重たくはなかった。ただ、必要なものとしてそこにあった。リビングに入ると、岡田がまっすぐキッチンの冷蔵庫へ向かい、缶ビールを二本取り出す。片方を持ったまま、振り返る。「飲むか?」晴臣は頷きながらソファに腰を下ろした。深く沈むクッションに体を預けると、ふわりと柔らかな疲労感が全身を包む。岡田がソファの反対側に腰を下ろし、二人は小さな乾杯を交わした。「おつかれ」「……おつかれさまです」プシュ、と静かに弾けた炭酸の音と、テレビから流れるバラエティの笑い声が重なる。けれど、ふたりのあいだには、それを遮るような空気はなかった。晴臣は缶の冷たさを掌で転がしながら、岡田の横顔をちらと盗み見た。照明の加減で頬がやわらかく照らされていて、まるで別人のように静かだった。岡田は、缶を口元に運びながらぽつりと呟いた。「なんか、今日、変なこと言うたな。悪かったな」その言葉に、晴臣は心の奥が小さく波打つのを感じた。「……いえ」「別に、プレッシャーかけるつもりちゃうかってん。なんとなく、ああいう店行くと…その、想像するやん。もし一緒に住んだら、みたいな」晴臣はすぐに答えられなかった。けれど、岡田の声は急かさなかった。ふたりの間に流れる時間は、ゆるやかで、ほどけた毛布のようだった。「晴臣」呼ばれて、彼はゆっくりと視線を上げた。岡田は遠くを見ているような目で、淡々と続けた。「俺さ、これまで誰かと住むとか、考えたこともなかったんよ」「……そうなんですか?」「うん。自分のペースでしか動けんし、だれかと居ると気ぃ遣い過ぎてしんどくなるやろって思ってた。でも、お前とおると…なんやろな」そこまで言って、岡田は