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第16話

Author: 昔の昔
千佳は秀樹が用意した読書リストを手に、多くの専門書を買い込んだ。

まるで取り憑かれたように読み漁り、その速さには秀樹さえも驚かされた。

彼の紹介で何人かの心理学者と知り合い、大学での講義に招かれることも増えた。

最初、千佳は自信が持てなかった。「私は勉強したことがないし、大学の授業なんて理解できるか不安です」

けれども秀樹は力強く励ます。「今のレベルは普通の学部生より高い。恐れずに挑戦してみなさい」

彼女は試しにいくつかの講義に潜り込み、得るものが多かった。

やがて聴講生の資格を取り、昼は大学で授業を受け、夜は灯りの下で本に没頭する毎日となった。

再びの催眠、千佳は睨みつける野犬たちを前に、もう恐れはなかった。

傍らの刀を手に取り、自分の力で振り下ろす。

目を覚ますと、秀樹が手を差し伸べていた。

「おめでとう。打ち勝ったね」

千佳は感極まって涙をあふれさせ、思わず彼を抱きしめる。

「本当にありがとう、神谷先生。今はすごく気分がいい!」

彼女の吐息とバラのような香りがすぐそばで感じられ、秀樹は思わず息を止める。

だが千佳は幸せに浸ったまま、その変化に気づかなかった。

「千佳、新しい人生を始めたいと思わないか」

「もちろん。私は今まさに新しく始めているんです」

秀樹は咳払いをし、赤くなった顔で言葉を続けた。

「いや……新しい恋を始めるという意味で」

千佳は一瞬固まり、思わず二歩ほど後ずさる。

六年前の結婚生活を思い出す。最初は熱烈に求め合っていたのに、あっという間に嫌悪と倦怠に変わった。

再び同じ道を歩む勇気も気力も残っていなかった。

彼女は俯いて息を吐き出し、か細い声で言う。「ごめんなさい、神谷先生。私は……」

秀樹は慌てて手を振った。「このことで謝る必要なんてない。悪いのは私だ。軽率すぎた。私たちは……友達でいよう」

千佳は胸のつかえを下ろし、安堵の笑みを浮かべた。「もちろん友達です。あなたは私がここで出会った最初の友達ですから」

二人は顔を見合わせて笑った。

肩を並べて街を歩くのは、千佳にとって久しぶりの安らぎだった。

秀樹が心理学への興味を尋ねると、千佳は答える。「はい。短い間しか触れていないけれど、本当に大好きです」

秀樹は心理相談士の資格を取ることを勧めた。「勉強の成果を確かめられるし、将来の進路にも役
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