Share

男の話

Author: すずき
last update Last Updated: 2025-07-20 21:15:36

「水、用意する」

 そう言ってキッチンに向かい、コップに水を入れた。それから女に渡す姿など昔の俺を知る人間が見たら惨めだと笑うだろうか。

「ありがと」

「おう」

 水を受け取った彼女の乱れたままの胸元に先ほどの余韻があった。俺が注いだ水を口に含んで、その胸元が上下する。俺は全然惨めじゃない。

「あの……エル」

「あ?」

 珍しくしおらしい声を出すから、謝る気かと思った。

「あなたは」

 彼女が口を離したコップを受け取って、残っていた水を飲んだ。

「私がここに一人で住んでる理由を、聞かないのね」

「今更だな」

 それに今かよ。

「前戯に過去の話なんて選ばねぇよ」

 記憶の蓋と体を開かせ方を同じにするほど、俺は幼くはない。

「まあ"言うことは聞く"が?」

 俺の言葉に、一拍キョトンとして、それから意味がわかったようで小さく笑った。揺れる肩から金色の髪が落ちる。

「そうね」

「そうだ」

 彼女は俺を助けた。そして別人のような穏やかな人生を与えた。

 俺の話はそこから始まって、それがすべてだ。山賊エルドルはただのエルになった。

「まだ、喉が乾いてるの。もうちょっとちょうだい」

「あ?」

 手の中のコップは空だ。キッチンに水を入れに行こうと背を向けようとしたら、彼女に手を掴まれた。

「………………馬鹿」

 なんだよ。

「今、よ」

「だから今、」

 緑色の瞳が俺を見た。その目は足りないと言っていた水分に濡れて光っていた。

 湿ったような唇の色と、乱れたままの胸元。

「……馬鹿はお前だ」

 言外の意味が分かって、そのまま押し倒してやることもできた。

 その手と欲望を振り払って背を向ける。

「水入れてくる。飲んだら部屋に戻って寝ろ。……次喉が渇いたっつったら、水なんて入れてやらねぇからな」

 いつもより早い時間に目が覚めた。朝日の色は彼女と同じ髪の色だから、もう眠れそうにはなかった。

 グリンが起きている気配もない。

 何をしようか、なんて考えるような余裕ができた自分に驚く。

 常に命の瀬戸際だった今までの生活に、そんな余暇はなかった。

 本でも読むといいと言っていた彼女の言葉を思い出して、部屋の隅にある本棚に手を伸ばした。

 どのタイトルも晦渋でよく分からなかったが、それでも一番短いタイトルの本を手に取った。詩集だった。

 小難しいことばかり書いてある。分かりきったことを嘆くように書いてある。

 紙を捲っていると部屋に近づいてくる足音が聞こえたが、そのまま手元の紙を捲った。

 部屋の入り口に彼女が現れた気配がした。

「ろ……」

 声をかけられて、俺は本を閉じる。

「あ?」

 イースは口元を手で覆っていた。本を読む俺の姿を、信じられないとでもいうように。

「本でも読めって言ったのはお前だろ」

 失礼だなと笑うと、そうね、とイースは俺から目を背けた。

「そうね、言ったのは、私だわ」

 俺たちの間に、みゃあ、と鳴き声が飛び込んできた。

「グリン」

 今日は屋敷のどこを寝床にしていたのか。足元に現れたグリンを彼女が抱き上げる。

「おはよう、グリン。……エル」

 自分と同じ目の色の色の子猫を撫でながら、彼女は朝を告げた。

 貴族の屋敷といえども田舎町のひっそりとした屋敷に、客人は来ない。一日は穏やかで、そんな日々を自分が送ることに、罪悪感と後ろめたさはあったが、もうこの日々を手放せなかった。

 本は意外と悪くなかった。字は読めるとはいえ、今までは読めるような環境もなければ、読む必要もなかった。

 この日の夜は紙の文字を照らし出すのに十分な月明かりだったから、俺は窓辺に置かれたソファで本を読んでいた。

 部屋の入り口に現れた気配には気付いていたが、話しかけられなかったので話しかけなかった。

 衣擦れの音とページを捲る音が重なって、俺から声をかけた。

「イース」

「気付いていたの?」

 気付かないわけがないだろう。どんな環境で生きてきたと思ってるんだ。

「寝れないわ」

「あ? 襲うぞ」

 歩み寄ってくる姿は、子猫に手を伸ばすようにに無防備だ。

「なんか言えよ」

「馬鹿」

 馬鹿なのはお前だろ。

 そう言う代わりに手を引いた。

 引いた勢いで俺の上に座らせると、腕の中から見上げてきた。

「ちょっと」

「あ?」

 少し不服そうな顔だが、抵抗はなかった。

「言えよ」

 文句があるなら。

 言えよ。抜け出せよ。止めないから。

 もう、と言うから逃げ出すかと思ったのに、彼女は腕の中に収まり直した。

「話しに来たのよ……あなたと」

 緑色の目に、金髪の俺が映った。赤髪は夕闇に紛れやすかったのに、金色はそれを許してくれない。

「そうか」

「本、面白い?」

「ああ」

 彼女の髪は、昼間嗅いだ花の同じ匂いがした。

「面白いな。どんな奴がどんな顔で書いてんのかと想像すると」

「何それ」

 俺の言葉に、華奢な体が腕の中で小さく揺れた。

「どんな顔なの?」

「小難しいヤツが澄まし顔で書いてんだろ」

「もう、馬鹿ね」

 そう言う声は楽しそうだ。

「私、この本だったらこれが好きよ」

 そう言いながら、俺の腕の中で本のページを捲る。何度も読んだのだろう。本の後ろの方を開いて一枚、二枚と捲ると、すぐにそのページを見つけたようだった。

「あった。ここの……」

 嬉しそうに振り向いた顔が、俺と目が合うと固まった。

 腕の中でそんな顔をされたら、もうたまらなかった。喉が渇いて仕方なくて、欲望を飲み込みたかった。

「喉、渇かねぇ?」

「…………渇いたって言ったら、どうするの?」

 そんなの決まってる。

 頷かれたらもう、溺れさせることを決めていた。

「私、」

 もう何も言わせたくなかった。

 顎を掴んで顔を上げさせると、白い喉が緊張を飲み込んだ。

「イース」

 名前を呼ぶ。それから、その唇で喉の渇きを癒そうとした。

その時に──足元から小さな声が聞こえた。

「…………グリン」

 彼女の顎から手を離し、足元を見るとそこには子猫のグリンの姿があった。

 俺が名前を呼ぶと、返事をするように鳴いた。

「起きちゃったの?」

 彼女が伸ばした腕の中に、グリンが飛び込んだ。

 水を差された。

「部屋に戻るか?」

「え?」

 グリンを撫でる彼女の手が止まった。

「もうちょっと……ここにいる」

「そうかよ」

 なら俺が言うことはない。

 俺は黙って、彼女が子猫を撫でる様を見ていた。月明かりに、目を閉じることができなかった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • その男は、愛した男と同じ顔をしていた──Beautiful Bandit──   ある男の話

    「心配いたしました!」 屋敷の外にでると、数人の男たちが駆け寄ってきた。 ああと頷いて体に付いた煤を払う。 「大丈夫だったか?」 歩み寄ってきたのは父だった。 「ほら、ジャケット」 渡されたのは、自分のものではないジャケット。 「え?」 渡してきたの顔を見ると、お前のだろうと言ってきた。 「ロイ。お前が渡してきたんじゃないか」 そんな心当たりはない。 「我々が外に出たのを見て──彼女はどこだと言ってジャケットを脱いで屋敷の方に飛び出したじゃないか」 一体どうやって、二階の窓から飛び込んだのだろう。──僕と同じ顔をしたあの男は。 「そのあとまたお前が現れて、同じことを聞いてきた時には火事の恐怖で狂ったのかとおもったぞ」 「は」 笑ってしまう。 僕のものではない、薄汚れたジャケットを見て笑ってしまった。僕のふりをして会場に入ろうとしていたのか? もう分からない。 「はははは!」 同じ顔でも、中身はまったく違うと思った。 笑ってしまう。笑いが止まらない。 「どうした? ロイ? ……イースは?」 ずっと笑い続ける僕を見て、悲しみで狂ったのだと誰も彼女のことを聞いてこなかった。 笑い続けると喉が渇いた。 炎の中に消える彼女の姿は、今までで一番美しい姿だった。 fin.

  • その男は、愛した男と同じ顔をしていた──Beautiful Bandit──   女の話

     正式な婚約披露パーティーというわけではないが、客人は多く、華やかなパーティーになった。 私の視線の先では楽団が音楽を奏で、広間の中央では煌びやかなドレスを纏った客人たちが踊っている。 ドリンクをテーブルに置いて、隣に立つロイの顔を見上げた。 私の視線に気付いたロイが、口を付けていたグラスを離す。「どうしたんだい?」 灰色の瞳から目を背ける。広間で踊る人たちは花のようだ。「少し、踊りたくなってしまって」「イース」 どうしたんだい、と彼が眉を下げた。「今までだって、僕はこうしていたじゃないか」 そうね。そうよ。 私はどんな場所でも、ロイの横に立っているだけで幸せだったのに。 なのに、その声のせいで、どうしても望みを言いたくなってしまう。 その声は、望みを叶えてくれると思ってるから。「……戻ってきてからの、きみは少し変わったね」「え?」「一体、きみは僕みたいな男と、どんな風に過ごして、何を言わせていたんだい?」 声に不穏があった。嫌な空気になると思って、緊張で肌がピリついた。 顎を引いた私に、ロイは穏やかさを取り戻して笑いかけた。「きみはあんまり、家から離れてた時のとこを話さないから」「……あなたと離れていた時期のことなんて、忘れてしまったから」 嘘よ。忘れてなんかいない。 目の前の顔を見る限り、忘れられるわけがない。 パーティーの喧騒が、どこか遠く聞こえる。 分かったよ、とロイが頷いた。「……たまには、踊るのも悪くないかな?」 そう言ったロイが、私に手を伸ばした。 伸ばされた手に、私が──。 その瞬間、いくつもの混じった悲鳴が、パーティー会場を切り裂いた。「なんだ!?」 悲鳴は広間の奥からだった。他の空間に続くその扉の奥から転がるように現れたメイドが会場中に叫んだ。 その服の裾には、煤《すす》がついていた。「お逃げください!」 尋常でないその様子に、音楽が止まり人々が騒然とする。「火が! 火が上がっております──火事です!」 途端に会場中はパニックになった。 緊張が伝播して悲鳴が飛び交い、食器が割れる音がする。 そんな客人たちを前に、ロイが高らかに言った。「落ち着いてください。出口はすぐ、あちらです!」 この場全員の命を慮るその言葉の横で、私はたった一つの命のことしか考えられなかった。「

  • その男は、愛した男と同じ顔をしていた──Beautiful Bandit──   男の話

    「奪ってほしいと言ってくれ」 言ってくれたらその通りにするつもりだった。 俺に願いを叶えさせてほしかった。 俺の言葉に笑ってくれると思ったのに、彼女は傷ついた顔をした。「言えないわ」 その言葉に耳を疑った。「行けないわ、私……」「イース」「あなたとは、行けない」「イース……!」 断られてしまえば、名前を呼ぶしかできなかった。 俺が呼ぶたびに、泣きそうな顔をするのに──どうして。どうしてお前は。「私はあなたの傍にいる資格がないわ」「そんなの」 そんなの俺が悩まなかったと思うのか。 どんな思いでここに来たと思ってる。 どうしてお前がそんなことを言うんだ。 彼女の金髪は蝋燭の弱い明かりでも光って見えた。「……あなたと彼が違うことを、私はよく分かったの」「…………それは」 それはどういうことだと、聞こうとして飲み込んだ。 拒絶の後では、もう聞きたくはなかった。 拳を握りしめた俺に、彼女はゆっくりと言った。「けれど、願いを叶えてくれるなら、一つだけ」 お願いさせてと俺に言った。 いくらだって叶えるのに。「あ?」 言われれば何個だって、叶えてやるのに。「ふふ……ねえ、やっぱり私、寂しいの」 なら俺に、出会ったときと同じことを言えばいいのに。 彼女は俺の目を見ずにこう言った。「だから、今更だけどグリンを引き取ってもいい?」「勝手だな」「そうね」 俺の嫌味などまったく刺さっていなさそうだった。彼女に撫でられて、グリンが喉を鳴らしている。「けどいつも、付き合ってくれたわね」「言われたからな。言ったのはお前だろ」 傍にいてと。俺に望んだのはお前だろ。 俺の言葉に、悲しい顔で笑った。「ごめんなさい」 悲しいなら泣いてくれたらいいのに、涙の一滴も流しやしなかった。「謝られたら、俺が許さないわけがないだろ」 彼女は、許しも、俺のことも求めなかった。「どうか私みたいな女は忘れて、自由に生きて。縛り付けて、ごめんなさい」 俺を見上げて彼女が言った。「エル。あなたは私の光よ」 眩しさで目をくらませて、そのまま奪って窓の外に飛び出してしまいたかった。「あなたが作ってくれた影の中で、私は生きていくわ」

  • その男は、愛した男と同じ顔をしていた──Beautiful Bandit──   女の話

     私とロイの婚約を祝って開催されるパーティーはもう明日に迫っている。 隅々まで管理の行き届いたロイの家の庭は、あの屋敷の咲きっぱなしの花たちとは全然違う。「父がお気に入りのワインを取り寄せてたよ」「まあ、そうなの」 隣を歩くロイのエスコートは紳士的だ。「ねえ……ロイ」「ん?」 聞き返す時だって、ガラの悪い言葉はない。「どうしたんだい?」 眼差しは柔らかで、口調には貴族らしい品がある。「パーティーに備えて、ダンスの練習とかしなくていいかしら?」 そう聞くと、ああと相槌をして視線を逸らされる。「僕たちは主役なんだし、むしろ座って見ている方がいいだろう」「踊らないの?」「それより挨拶回りとかの方が大事だ」 とても彼らしい返事だった。「そうね……」「そうとも」 ロイが頷く。「事業に集中して家名を大きくしたいんだ」 わかってくれるね? とロイは言った。「わかってくれるだろう? 僕をずっと、見てきてくれたきみなら」 ええそうよ。 私はずっとあなたを見てきた。 だから間違えてしまったの。もう間違えない。 次に手を取る相手を、私はきっと間違えない。 月がない夜。明日はパーティーだというのにまったく眠れなかった。 招待しているという客人のリストを父から渡されていた。蝋燭の明かりでそれを眺める。 殆どが姉の繋がりと、ロイの事業に興味がある客人ばかりのようだ。 私は誰の名を呼ぶでもなく、壁の花であればいいのだろう。 それを望んでいたはずだ。 ロイと結ばれることだけを、願っていたはずだ。 蝋燭の明かりに手元の紙を眺めていると、窓の方からカタンと物音がして顔を上げた。 閉めていたはずなカーテンが夜の風に静かに揺れている。 変だな、と立ち上がったその時。それが聞こえた。「不用心だな」 昼間に聞いた声と同じ。 なのに──闇と共に窓から現れたその声は、まったく違う。 エル。 今日同じ顔を見た。いや、全然違う。ロイはそんな表情《カオ》をしない。「なん、エ」「静かにしろ」 現れたその窓から室内に押し入ると、私の肩を掴んだ。 その手が熱くて強くて、痛い。「俺は山賊だ」 エルが私の顎を持ち上げた。 山の中で蝋燭の明かりに照らされて、その髪色は赤く見えた。「奪いにきたんだ」 エルが続けた。「俺は俺らしく──お

  • その男は、愛した男と同じ顔をしていた──Beautiful Bandit──   男の話

     一人でのんびりと月を眺める余裕もなかった。「……おい」 ずっと聞こえるその声に、さすがに抱き寄せることを決める。「鳴くなよ」 見送りもさせてもらえなかったなんて。 みゃあみゃあと、ずっと聞こえるその声はグリンだった。いつも彼女が座ってた椅子の上に座って鳴いている。 昼間は彼女の部屋にいて、馬車の走り去る音を聞いてからもうずっと、彼女を求めるように鳴いていた。 抱き寄せると俺の顔を見上げた子猫の目は緑色。彼女と同じ目の色。 昨日の出来事を思い出す。突然の来訪。彼女の父親と、共に現れた俺と同じ顔をした男。 俺は、純粋な金髪のあの男の代わりだった。 似ていたから、俺を傍にいさせただけ。彼女が俺に言った願いは一つだった。 ──私の傍にいてほしいの。 あの願いは、本当はあの男に言いたかった言葉なのだ。 俺ではないあの男に、叶えられたかった願いなのだ。 その願いが叶えられた今、俺の役目は終わった。 愛されていたと思うほど、おめでたいわけじゃない。自分が今までしてきたことを忘れているわけじゃない。 彼女と俺がしていたのは、愛の真似事。 なるほど。「詩をつくるようなヤツの気持ちがわかった気がするな」 けれどなにも、歌えない。 燻った想いの名前を知らないから、俺は何も歌えない。「お前ももう一人前なんだろ、泣くなよ」 俺はそう言ってグリンを撫でて、そのままソファで眠った。 商店の賑わう広場に出ると、いつもフルーツを買っている店のやつから声をかけられた。「今日は一人? 買って行かないの?」 どちらも返事は同じだ。「……ああ」 うるせえ。 どいつもこいつも。彼女と過ごしたこの町が、俺を一人だと思い知らせる。 揺れる木々の葉一枚でさえ、俺に彼女を思い出させる。緑の目は若葉の色をしていた。 何も買わずに屋敷に戻る。 庭は花が咲いていて、その匂いに彼女の髪を思い出したから、もうどうしようもない。 屋敷に入ってソファに座る。 今更一人で、どうやって過ごせばいいのか分からない。 足元でグリンが鳴いて俺を呼んだ。「あ?」 見ると、そこには捕まえたであろうネズミの体があった。「ははは」 元気出せってことか? これを俺に? いや。「あいつにか? もう、ここには居ないんだ」 だから分かれよ。諦めろよ。「山賊が与えられてど

  • その男は、愛した男と同じ顔をしていた──Beautiful Bandit──   女の話

    「イース」 私の名前を呼ぶ声は、愛した男の声。 月明かりのせいでその顔がよく見える。──愛した男の顔だ。 顎を掴まれているせいで、その顔から目が背けられない。 名前を呼ばれてるのに、呼び返せない。「グリン」 足元に現れた存在のおかげで手が離されて、起きちゃったの、と声をかけた。 腕を伸ばすとグリンはすぐに飛び込んできた。 境界線を飛び越える気持ちで彼の元に来たのに、その顔を見たら何もかも分からなくなってしまった。 話そうと思ったのに。「起きちゃったの?」 猫に話すしかできなくなってしまった。「部屋に戻るか?」「え?」 彼の言葉の意味を考えて、それが思いやりだと気がついた。「もうちょっと」 私はあなたと。「ここにいる」「そうかよ」 日付と体の輪郭の境界線を越えたかった。けれど本を捲り始めた彼に、もうその気はなさそうだった。 もう一度彼の傷に触れたかった。 触れた指先を今度こそ離さず、ここまでの経緯すべてを話したかった。 私とあなたが出会う前の。 そしてあなたに手を伸ばした理由と、今もあなたを手放せないその理由を。 聞いてくれたらいいのに。 出会ったばかりの頃、訳ありかと聞かれて頷いただけだった。それが退路を塞いだ気がする。 話したい。話せない。 離したくない。「眠いか?」「そうね、ちょっと」 嘘をついて目を閉じた。「俺もだ」 彼の言葉が、嘘か本当かわからない。 彼は本を置くと、私を背中から抱きしめた。 それにグリンが驚いて、私の膝から飛び降りた。「よく眠れそうだ」「そうなのね」 背中から心臓の鼓動が伝わる。耳元にかかった息のせいで私の心臓が跳ねた。「私もよ」 嘘ばっかりだった。 出会った時から、隠匿と欺瞞しかない。 このまま夜よ明けないで。 姿を見なければ、彼を彼だと思わずに済む。 朝よ来ないでと思うのに、明日も明後日もあることが希望だった。 だからゆっくり伝えていけばいいと決めて、腕の中で眠った。 窓から差し込む太陽の光で明るい部屋の中で、彼の顔が間近にあった。「起きてたの」「起きてたよ」 ソファの上で横たわる私の身体は、彼の腕の中に閉じ込められていた。「起こしてよ」「言わなかっただろ」 鼻先が触れそうな位置で言われる。もう、と息を吐くと、耳元に手が伸びた。 私

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status