LOGIN「んーー! 美味いー!」
ほほが緩んで、思わず声がもれる。
「そっか、ならよかった」
と、優しく微笑む本宮さん。その笑顔にまたドキッとして、僕は反射的に本宮さんから視線をはずした。
「別に恥ずかしいことじゃねえだろ? 俺だって、美味いものは美味いって言うぜ?」
苦笑する本宮さんに、そうだけれどと反論しかけて言葉を飲み込んだ。本宮さんの笑顔にドキッとしたなんて、まだ恥ずかしくて言えない。『好き』という言葉ですら、いまだに言えていないのだ。
* * * *
パンケーキを堪能した僕たちは、食後のコーヒーで喉を潤していた。とは言っても、僕はブラックコーヒーが苦手だ。なので、角砂糖を2個ほど入れている。
「美味しかったー! 本当に来てよかったよ。ありがとう、本宮さん」
と、素直に感謝を伝えると、本宮さんはまた少年のような笑顔を浮かべた。
「そう言ってもらえると、誘ったこっちとしてもうれしいぜ。この後、他の店でも見てみるか?」
「うん! あ、でもその前に……」
そう言って、僕はショルダーバッグの中からラッピングされた小さな箱を取り出した。昨日買った、本宮さんへのプレゼントだ。
「はい、これ。誕生日おめでとう!」
と、シンプルなラッピングがされたプレゼントを差し出す。
「ありがとう……! まさか、もらえるとは思ってなかったから、すごくうれしいよ!」
そう言って受け取った本宮さんが、さっそく開けていいかとたずねた。
もちろんと、僕は大きくうなずいた。期待と不安が、心の中で渦巻いている。
本宮さんがラッピングを取ると、黒い箱が現れる。それを開けると、紫色と黒色のレザーが編み込まれたブレスレットが入っていた。
それを見た本宮さんはにんまりして、
「……いいじゃん」
と、一言だけつぶやいた。
その一言で、僕はものすごくホッとした。気に入ってもらえたようでよかった。
「優樹、ありがとな。でもこれ、高かったんじゃねえか?」
「ううん。予算内で収まる金額だったから大丈夫だよ。ただ、ぎりぎりだったから、ラッピングはシンプルになっちゃったけどね」
言い訳じみたことを言う僕の頭を、本宮さんが数回なでた。それがとても優しくて、ちょっとくすぐったかった。
本宮さんは、そのブレスレットをさっそく左手首につけた。落ち着いた色合いだけれど、シャツに負けないくらい存在感を放っている。
僕が選んだものをつけてくれている、ただそれだけのことが、とてもうれしかった。
ハニーノルンを出た僕たちは、モール内にある他の店を見て回ることにした。服屋に靴屋、バッグや帽子の専門店、アウトドア用品店、ペット用品店、雑貨屋と多種多様な店が立ち並んでいる。
その中でも、ファッション系の店に立ち寄った。いろいろな服を試着して、2人きりのファッションショ―を開催する。それで気がついた。本宮さんは、どんな服でも見事に着こなしてしまうのだ。カジュアルな服はもちろん、スーツっぽい服やストリート系の服も似合っていた。着替える度にかっこよくて、僕は終始見惚れていた。
「今度は優樹の番だ」
満足したのか、本宮さんはそう言って僕に試着を進めてくる。
僕はいいと遠慮したのだけれど、いつもと違う服を着ている僕を見てみたいと言われ、しぶしぶ承諾した。僕は、本宮さんみたいに何でも似合うわけではないのだけれど。
案の定、似合う服と似合わない服の差が激しかった。スーツっぽい服はどこか服に着られている感じがあったし、ストリート系はダサさが際立ってしまった。
やめておけばよかったと後悔していると、
「ごめんな。無理やり着せちまったみたいで」
と、本宮さんが謝る。
「本宮さんが悪いわけじゃないよ。似合うかどうかは、人それぞれだし。それに、これはこれで結構楽しかったし」
自分では絶対に選ばない服を着ることができたのだから、楽しかったのは本当だ。
それならいいのだけれどと言いながら、本宮さんは少ししょんぼりしている。何か悪いことをしちゃったかな。
「ねえ、本宮さん。他の店に行かない? 僕、ちょっと気になってるとこがあってさ」
僕は、気分を切り替えるように提案した。本宮さんを元気づけたいというのももちろんあるけれど、気になっている店があるのも本当だ。
「……ああ、そうだな」
うなずく本宮さんの笑顔は、まだ弱々しい。
本当は、本宮さんにこんな顔をさせたいわけではないのに。どうしたら元気になってもらえるのかと、僕は思考を巡らせる。今まで彼女がいたことなんてないし、友達も多くないからどうするのが正解なのかわからない。でも、何か行動しなきゃと思った。だから、本宮さんの腕に自分の腕をからませて強引に引っ張る。
「――うわっ!?」
無防備だった本宮さんが、よろめいて声をあげた。
「……ね、行こう?」
本宮さんと出会ってからもこんなことをすることはなかったから、思った以上に声が小さくなってしまった。もしかしたら、顔が真っ赤になっているかもしれない。
僕の突然の行動に驚いていた本宮さんが、ふふっと微笑んだ気配がした。僕は、顔が熱くて本宮さんを正面から見られないけれど。
「じゃあ案内してもらおうかな。その、気になってる店に」
という、本宮さんの声が頭上から降ってくる。その声がどこか優しくて、でも少しいたずらっ子のような響きもあって。僕は、無意識ににやけてしまった。
にやけた顔をどうにかごく普通の笑顔に変えて、本宮さんを見た。先ほどまでのしょんぼりした表情はどこかに消えていて、いつものかっこいい彼がそこにいた。
「うん!」
弾けるようにうなずくと、僕は本宮さんを連れて店を出た。
日が傾き少し空気が冷たくなってきた頃、僕たちはアウトレットモールの中央エリアに戻ってきた。ここは、パンケーキを食べたハニーノルンがあるエリアだ。僕が気になっている店は、レストランエリアから少しはずれたところにある。小物やアクセサリー、民芸品のようなものまで雑多に置かれている雑貨屋だ。ハニーノルンを出た直後、ショーウインドーに飾られたブレスレットが気になった。けれど、人通りが多かったこともあって一旦は諦めた。でもどうしても、あのブレスレットが気になってしかたがなかった。
僕たちがその雑貨屋に入った時には、店内に客の姿はなかった。アップテンポのジャズが小さく流れ、商品が雑然と置かれた棚が所狭しと並んでいる。
「えっと……」
とつぶやいて、あのブレスレットが置かれている場所を探す。
それは、意外に早く見つかった。入り口から少し左横に進んだところにあった。
「あった……!」
「優樹が気になってたのって、これ?」
本宮さんにたずねられ、僕は素直にうなずいた。
それは、キャラメル色をした何の変哲もないレザーブレスレットだ。細めでシルバーのSカンがついているだけのデザインで、これといった特徴もない。普段、アクセサリーなんてしないから、なぜこれに惹かれたのかもわからない。
「へえ。優樹は、シンプルなデザインが好きなんだな」
どこか納得したように、本宮さんがつぶやく。
自分がどんなデザインが好きなのかなんて気にしたことがなかったから、本宮さんにそう言われてとっさにうなずくことができなかった。
(値段もお手頃だし、これなら手持ちで買えそうだ)
そんなことを考えていると、本宮さんがそれをひょいと手に取った。
「え、本宮さん?」
困惑してたずねると、
「そんなに高いものじゃねえし、買ってやるよ」
「いやいやいや、自分で買うよ。今日は、本宮さんの誕生日なわけだし、主役にお金出してもらうのはなんか違う気がするっていうか……」
と、僕は早口でまくし立てるけれど、本宮さんはそんなことはお構いなしとばかりに踵を返す。
「ちょっ……本宮さん!」
「俺が買いたいの。だから、気にすんな」
そう言って、さっさとレジに向かってしまった。
「そう言われても、気にしちゃうって……」
むくれ気味につぶやいてから、僕は本宮さんの背中を追った。でも、言葉とは裏腹に、内心では小躍りするほどうれしかった。
会計を済ませると、本宮さんは僕に向き直って、
「そろそろ帰ろうか」
と、言った。
うなずく僕は、にやけ顔を隠すことができなかった。でも、本宮さんは、何も言わないでいてくれた。
駐車場に戻ると、辺りは先ほどよりもオレンジ色が濃くなっていた。気温も低くなってきたのか、心なしか肌寒い。身震いをすると、僕は本宮さんの車の助手席に乗った。
運転席に乗った本宮さんが、先ほど買ったブレスレットの袋を差し出した。
「はい、これ。今日のお礼ってことで」
「お礼って……恋人の誕生日を祝うのは当然でしょ。でも、ありがとう」
僕は、それを受け取って封を開ける。中には、当然キャラメル色のブレスレットが入っている。
それを取り出すと、僕は慣れない手つきで自分の右手首につけた。
「えへへ。なんかさ、こうしてると、違うデザインなのにペア感あるよね」
本宮さんの左腕に自分の右腕を近づけて、思わずそんなことを口にした。
そんな僕の言葉を聞いた本宮さんは、目を見開いて驚いた表情を浮かべている。
(あれ? 僕、なんか変なこと――言ってた!)
普段なら言わないような台詞を言っていたと自覚した僕は、顔が熱くなる感覚を覚えた。初めての恋人からのプレゼントで、浮かれていたのだと思う。本日2回目の赤面は、大好きな人に真正面から見られてしまった。ごまかそうにも、上手く言葉が出てこなくて。一人であわあわしていると、いきなり本宮さんに引き寄せられた。次の瞬間、僕の口は彼の唇によって塞がれた。僕のファーストキスは、ほんのり甘い味がした。
帰りの車中、僕はずっとふわふわした感覚に陥っていた。本宮さんとのキスが、心地よかったというのももちろんある。けれど、それ以上に、なんだか夢の中にいるみたいでしかたがなかった。
「やけに静かだけど、どうした?」
運転しながら、本宮さんがたずねてくる。
「あ、いや……なんか夢みたいで」
正直な気持ちを伝えると、本宮さんはくすっと笑って、
「夢の方がよかったか?」
なんて聞いてくる。
「そんなことない! 本宮さんは、夢の方がよかったって思ってるの?」
ちょっと拗ねたように聞いてみる。
「まさか! 優樹がかわいいこと言うから、ちょっと意地悪してみたくなっちまったんだ。ごめんな」
と言って、本宮さんは僕の頭を軽くなでる。うれしいけれど、運転に集中してほしい。
でも、そのおかげで、自分が本宮さんの恋人なんだとようやく実感できた。つきあい出してから1年ほど経ってはいるけれど、今まで恋人らしいことといえば、手を繋いで歩くくらいしかしていなかったのだ。
(失望されないようにしなくちゃ!)
僕は、密かにそう心に決めた。そのための方法は、よくわからない。でも、本宮さんに好きでいてもらえるなら、苦手なことでもやってやろうという気持ちになる。
(あれ? こんなこと思ったことなかったのに……)
ふと、そんなことを思う。以前の僕なら、苦手なことはできるだけ回避していた。
(もしかして、恋人ができたおかげなのかな?)
そう思った瞬間、僕はくすっと笑ってしまった。
「どうした? 何か面白いものでもあったか?」
と、本宮さんにたずねられる。
前を見ているはずなのに、僕のささいな変化に気づいてくれるのが、とてもうれしい。
「ううん、何でもないよ」
うれしさ半分照れ隠し半分で、僕はそう答えた。この気持ちは、今はまだ僕の中だけに留めておきたいから。
アウトレットモールからの道のりは意外に短くて、あっという間に自宅に着いてしまった。
「ほら、着いたぞ」
本宮さんにうながされて、僕は力なくうなずいた。
本当は、もう少し一緒にいたい。でも、それを口にする勇気はなかった。言葉にしてしまったら、確実に本宮さんを困らせてしまう。それは嫌だった。
(……本宮さんには、明日も会えるもんね)
と、自分に言い聞かせる。毎週月、火、水の3日間が、本宮さんが家庭教師として家に来る日なのだ。
「本宮さん、ありがとう。今日は楽しかった!」
明るく振る舞って告げると、
「こっちこそありがとうだよ。俺も楽しかったし、何より、プレゼントまでもらっちまったしな」
と、本宮さんがさわやかな笑顔で言った。
『プレゼント』という言葉に、どこか含みがあるような気がしたけれど、気のせいということにしておこう。変に意識すると、また顔が赤くなってしまう気がする。
「じゃあ、また明日」
と、僕は車を降りる。
そのまま家に入ってもよかったのだけれど、何となく名残惜しくて、本宮さんの車が見えなくなるまで見送った。
「遼君とここで待ち合わせなんて、珍しいんじゃないかい?」と言う母さんに、僕はうなずいた。以前、僕は遼をここに連れてきたことがある。遼と知り合って、わりとすぐの頃だったと思う。両親が喫茶店を営んでいると話したとたん、連れて行けとせがまれたからだ。他の客に混ざって座席にいることが、当時はなんとなく気まずかった。それ以来、遼と待ち合わせをする時には、ムーンリバーを選択肢からはずしていた。「遼が、ここがいいって指定したんだ。そういうわけだからさ、遼が来たら、ここにいるって伝えてもらっていい?」「わかった。で、注文はどうする? 遼君が来てからにするかい?」母さんの問いに、僕はそうしてもらえると助かると答えた。「じゃあ、遼君が来たら案内するよ」そう言って、母さんは仕事に戻っていった。母さんがカウンター席の方に行ったのを確認した僕は、大きく息をついた。「昌義さん。僕、変じゃなかったよね?」本宮さんにたずねると、「ああ、いつも通りだったぜ」と、にこやかに言ってくれた。「よかったー。あの話のあとだったから、変に緊張しちゃったよ」と、僕はほっとして言った。あの話とは、もちろん母さん攻略作戦のことだ。母さんには、まだ内緒にしておかないといけない。でも、隠し事をしていることが、僕の表情に出てしまう可能性があった。できる限り普段通りにしていたけれど、内心はひやひやものだった。どうやら、いつも通りに振る舞えていたみたいなので、とりあえずはよしとする。「お疲れ」と、隣に座る本宮さんが僕の頭をなでる。それだけで、全身に重くのしかかっていた疲労感がきれいさっぱり消えた。照れ笑いを浮かべた僕は、テーブルに置かれているメニュー表を広げた。それには、コーヒーなどのドリンクメニューの他、ケーキなどのデザートメニューが掲載されている。「遼君が来てから、注文するんだろ?」と、本宮さんにたずねられた。「それはそうなんだけど、かなり悩むからさ。今のうちに決めておこ
翌日、僕と本宮さんは、遅めの朝食を食べていた。もちろん、リビングにいるのは、僕たち2人だけだ。日曜日とはいえ、ムーンリバーは開店している。以前、聞いた話だと、日曜日にしか来られない客もいるらしい。そういうわけで、両親は今日も仕事に勤しんでいる。「それにしても、香川さん、大丈夫なのか? 昨夜は、かなり酔ってたみたいだけど」と、本宮さんが心配している。昨夜、父さんと本宮さんは晩酌をしていた。はちみつ酒でかなり酔っぱらった父さんは、呆れ顔の母さんに介抱される始末だった。普段からあまり飲酒をしない父さんだけれど、本宮さんがいるおかげで浮かれてしまっていたようだ。「それは、大丈夫じゃないかな? 母さんが何とかしてくれてるよ、きっと」僕が希望的観測で言うと、「まあ、それもそうか。あの亜紀先輩がついてるんだもんな」と、本宮さんも思い直したようにうなずいた。どうやら、本宮さんにとって母さんは、本当に頼れる存在らしい。(それにしても……)と、僕はサンドイッチを食べながら、本宮さんを盗み見る。僕の対面に座る本宮さんは、本当に美味しそうにサンドイッチを食べている。昨夜のことは夢だったのかと思えるほど、いつも通りの彼だった。本宮さんも酔ってはいたから、もしかしたら覚えていないのかもしれない。(でも、それはそれで、ちょっと嫌だな)なんて思うけれど、確認する勇気はない。もし、本当に忘れられていたらと思うと、胸が苦しくなる。だって、あの時、あの瞬間、一世一代の大きな覚悟をしたのだから。これは、僕だけのものだ。だから、胸の奥にしまっておく。本宮さんにだって、言うつもりはなかった。たぶん、彼は気づいていると思うけれど。「優樹? どうした?」僕の心の内なんか知らないだろう本宮さんが、いつも通りの口調でたずねる。「ううん、どうもしないよ。ちょっと、昌義さんに見惚れてただけ」と、僕が言うと、本宮さんは目を丸くしていた。「どうしたの?」と、今度は僕が首をかしげる。「あ、いや……なんか、優樹がいつもと違うっていうか……」本宮さんは、言葉に詰まっているようだ。「えー? いつも通りだよ?」僕自身は、変わったなんてこれっぽっちも思っていない。今だって、サンドイッチを食べているだけで絵になっている本宮さんに、見惚れていただけで。それを、素直に言葉にしただけなのだ。「自
「ん? そうなのか?」と、僕の方を見る本宮さん。いつも以上に色っぽい彼に、僕は思わず息を飲んだ。まさか、こんなにも色気が増すなんて思ってもみなかった。小首をかしげる本宮さんから視線をはずして、僕はうなずいた。さすがに、妖艶な彼を直視するなんて勇気は、今の僕にはない。「普段、ほとんど飲まないからね。たまに飲むと、さすがに酔っぱらうみたいだよ。それに、今日は本宮もいるからね。浮かれてるんじゃないかい?」と、母さんがキッチンから戻ってきた。その手には、真新しいグラスが2つほどある。「はい」と、そのうちの1つを僕の前に置いた。「これは?」僕がお礼を言ってたずねると、「はちみつレモンだよ」微炭酸のねと、母さんが答えた。その言葉に、僕は面食らってしまった。今まで、食後――それも風呂上がりに作ってもらったことなんてない。早く寝なさいとどやされるのが、日常だった。(これも、昌義さんのおかげかな)そんなことを密かに思いながら、はちみつレモンに口をつけた。はちみつの甘さと爽やかなレモンの香りが、口の中で広がる。ほどよい微炭酸の刺激もあって、風呂上がりのほてった体に染み渡るようだった。「ほら! 修吾さんは、これ飲んで」と、母さんは父さんに水を勧めている。「……甲斐甲斐しい亜紀先輩、初めて見た」本宮さんが、ぽつりとつぶやいた。「そうなの? うちじゃあ、わりとこんな感じだけど」と、僕は両親を見ながら言った。父さんは、まだはちみつ酒を飲むと駄々をこねている。そんな父さんをあしらいながら、母さんははちみつ酒がまだ残っているグラスを水入りのグラスにすり替えて飲ませていた。たしかに、ここまで父さんの世話を焼くのは、珍しいかもしれない。でも、母さんは、基本的に誰かの世話を焼くのが好きなタイプだと思う。口では文句を言いながらも、母さん自身が楽しんでいるように見えたからだ。「たしかに、姉御肌で面倒見がいい人だよな。でも、俺が知
「しばらく、そうさせてあげな。だいぶ、気に病んでたみたいだから」と、母さんが優しく言った。そんなことを言われてしまったら、何も言えなくなってしまう。僕は、もう一度ごめんと言って、父さんの気が済むまで抱きしめられていることにした。母さんがリビングに行くのを、横目で確認する。「本宮、今日はありがとね」「いえ。俺も心配だったんで」という母さんと本宮さんの会話が聞こえた。その短いやり取りだけで、僕がどれほど2人に――もちろん、父さんにもだけれど――愛されているのかを感じた。母さんと本宮さんの声音が、いつもより優しいものだったからだ。(もう、無理はしないでおこう)僕は、密かにそう心に誓う。僕が大切に思っている人たちを、もう悲しませたくないから。「そういえば、夕飯はもうできてるって言ってたよな?」気が済んだのか、父さんは僕から離れてそんな疑問を口にした。僕はうなずいて、すぐに準備するからと告げた。父さんが手伝うと言ってくれたけれど、笑顔で断った。病み上がりとはいえ、動けないわけではない。何よりこれは、心配をかけてしまったことへのお詫びみたいなものだからだ。全員分のカレーとスープを配膳して、食卓につく。「えっと……ご心配をおかけしました。これは、僕からのお詫びってことで」召し上がれと言うと、母さんがいきなり笑い出した。「何を改まってるんだい、この子は。心配するのは、当たり前だろ? でもまあ、せっかく作ってくれたんだし、いただこうかね」と、カレーに手をつける。母さんに続いて、僕たちもいただきますと言って食べ始めた。ほどよい辛さのカレーは、思ったよりもコクが増していた。隠し味に入れたチョコレートのおかげだろう。鼻から抜けるほんのりと甘い香りが、チョコレートの存在をアピールしている。「美味い!」と、本宮さんが顔をほころばせる。「よかったな、優樹」と、にこやかな父さんに言われ、僕は満面の笑みでうなずいた。
「あ、いや、それは大丈夫! 僕の方こそごめん!」僕が頭を下げると、「どうして、優樹が謝るんだ?」と、本宮さんがきょとんとしながらたずねた。「いや、えっと……僕が、起こしちゃったかなって。昌義さんの髪、なでてたから」と、僕はしどろもどろに答える。「別に、気にする必要ねえよ。遠慮せずに、もっとなでてもいいんだぜ?」なんて言って、本宮さんは微笑んでいる。その笑顔がとてもかっこよく見えて、僕はときめいてしまった。顔が真っ赤になっているだろうから、すぐにでもベッドに潜り込みたい。けれど、さすがに許してはくれないだろう。「そ、それじゃあ……失礼して」と、意を決した僕はおずおずと彼の頭をなでる。うっとりと目を細める本宮さんは、とても無防備で。普段はなかなか見られない彼の一面に、ドキドキする。とろけるような笑みを見せる彼を、とてもかわいいと思ってしまった。(大人の男の人に、『かわいい』は、おかしいかな?)ふと、そんな疑問が浮かび、僕は手を止めた。「どうした?」と、本宮さんが小首をかしげる。「あ……いや、何でもない!」唐突に恥ずかしくなった僕は、取り繕うように言ってそっぽを向いた。「何でもないって態度じゃねえな?」と、本宮さんが僕の顔をのぞき込もうとする。僕は、それを阻止するように彼に背中を向けた。「優樹? こっち向いてくれよ」本宮さんはそう言いながら、僕を後ろから抱きしめた。彼のぬくもりが心地よくて、身を委ねたくなってしまう。それを知ってか知らずか、本宮さんは、僕のうなじに何度もキスを落とす。その感触に、変な声が出そうになった。どうにか我慢していると、「なあ、優樹。何か思ってることがあるなら、お前の言葉で教えてくれないか?」と、本宮さんが僕の耳もとでささやいた。「――っ!」一瞬、心臓が止まるかと思った。い
(どうして、そんなこと……)涙がほほを伝い、2人の楽しかった思い出が走馬灯のように脳裏に浮かぶ。「どうして……? 僕のこと、嫌いにでもなったの?」どうにかそれだけを口にすると、本宮さんは鼻で笑った。「お前とは遊びだったんだよ、最初っからな。なのにお前、本気なんだもん。マジでウケるぜ」嘲るような笑顔を浮かべながら、本宮さんはそう言った。けれど、彼の焦げ茶色の瞳は、一切、笑ってはいなかった。「じゃあ……あのリングネックレスも、プロポーズの言葉も、うそだったのかよ?」悲しみと怒りがごちゃ混ぜになって、そう告げる僕の声は震えている。「ああ、うそだよ。ちょーっと、からかっただけ。まさか、お前みたいなガキに、本気になるとでも思ったのか?」本宮さんは、小馬鹿にするように言って、くぐもった笑い声を上げる。彼の言葉を、信じていたのに。彼に愛されていると、実感していたのに。『遊びだった』たったその一言だけで、僕の心は引き裂かれていた。それでも、初めて恋をした人に縋《すが》りたくて。「昌義さん……」僕は、わずかな希望を抱いて彼の名を呼んだ。薄ら笑いを浮かべていた本宮さんは、いきなり冷めた表情をすると、「気安く呼ぶな」と、冷たく言い放った。ほんの少しでいいから、過去形でもいいから、好きだと言ってほしかった。ただ、それだけだったのに。無残にも一蹴されてしまった。たぶん、僕は涙を流したまま怯えた表情を浮かべていたのだと思う。それほど、本宮さんの本気の拒絶に恐怖を感じた。そんな僕を興味なさそうにちらりと見ると、「じゃあな」と、短く別れを告げて本宮さんは席を立った。「あ……」呼び止めようとしたけれど、言葉が出ない。あれだけのことを言われたのに、僕の心はまだ、彼に囚われたままだ。(これは、夢だ。本物の昌義さんに、直接言われたわけじゃない!)自分にそう言い