「んーー! 美味いー!」
ほほが緩んで、思わず声がもれる。
「そっか、ならよかった」
と、優しく微笑む本宮さん。その笑顔にまたドキッとして、僕は反射的に本宮さんから視線をはずした。
「別に恥ずかしいことじゃねえだろ? 俺だって、美味いものは美味いって言うぜ?」
苦笑する本宮さんに、そうだけれどと反論しかけて言葉を飲み込んだ。本宮さんの笑顔にドキッとしたなんて、まだ恥ずかしくて言えない。『好き』という言葉ですら、いまだに言えていないのだ。
* * * *
パンケーキを堪能した僕たちは、食後のコーヒーで喉を潤していた。とは言っても、僕はブラックコーヒーが苦手だ。なので、角砂糖を2個ほど入れている。
「美味しかったー! 本当に来てよかったよ。ありがとう、本宮さん」
と、素直に感謝を伝えると、本宮さんはまた少年のような笑顔を浮かべた。
「そう言ってもらえると、誘ったこっちとしてもうれしいぜ。この後、他の店でも見てみるか?」
「うん! あ、でもその前に……」
そう言って、僕はショルダーバッグの中からラッピングされた小さな箱を取り出した。昨日買った、本宮さんへのプレゼントだ。
「はい、これ。誕生日おめでとう!」
と、シンプルなラッピングがされたプレゼントを差し出す。
「ありがとう……! まさか、もらえるとは思ってなかったから、すごくうれしいよ!」
そう言って受け取った本宮さんが、さっそく開けていいかとたずねた。
もちろんと、僕は大きくうなずいた。期待と不安が、心の中で渦巻いている。
本宮さんがラッピングを取ると、黒い箱が現れる。それを開けると、紫色と黒色のレザーが編み込まれたブレスレットが入っていた。
それを見た本宮さんはにんまりして、
「……いいじゃん」
と、一言だけつぶやいた。
その一言で、僕はものすごくホッとした。気に入ってもらえたようでよかった。
「優樹、ありがとな。でもこれ、高かったんじゃねえか?」
「ううん。予算内で収まる金額だったから大丈夫だよ。ただ、ぎりぎりだったから、ラッピングはシンプルになっちゃったけどね」
言い訳じみたことを言う僕の頭を、本宮さんが数回なでた。それがとても優しくて、ちょっとくすぐったかった。
本宮さんは、そのブレスレットをさっそく左手首につけた。落ち着いた色合いだけれど、シャツに負けないくらい存在感を放っている。
僕が選んだものをつけてくれている、ただそれだけのことが、とてもうれしかった。
ハニーノルンを出た僕たちは、モール内にある他の店を見て回ることにした。服屋に靴屋、バッグや帽子の専門店、アウトドア用品店、ペット用品店、雑貨屋と多種多様な店が立ち並んでいる。
その中でも、ファッション系の店に立ち寄った。いろいろな服を試着して、2人きりのファッションショ―を開催する。それで気がついた。本宮さんは、どんな服でも見事に着こなしてしまうのだ。カジュアルな服はもちろん、スーツっぽい服やストリート系の服も似合っていた。着替える度にかっこよくて、僕は終始見惚れていた。
「今度は優樹の番だ」
満足したのか、本宮さんはそう言って僕に試着を進めてくる。
僕はいいと遠慮したのだけれど、いつもと違う服を着ている僕を見てみたいと言われ、しぶしぶ承諾した。僕は、本宮さんみたいに何でも似合うわけではないのだけれど。
案の定、似合う服と似合わない服の差が激しかった。スーツっぽい服はどこか服に着られている感じがあったし、ストリート系はダサさが際立ってしまった。
やめておけばよかったと後悔していると、
「ごめんな。無理やり着せちまったみたいで」
と、本宮さんが謝る。
「本宮さんが悪いわけじゃないよ。似合うかどうかは、人それぞれだし。それに、これはこれで結構楽しかったし」
自分では絶対に選ばない服を着ることができたのだから、楽しかったのは本当だ。
それならいいのだけれどと言いながら、本宮さんは少ししょんぼりしている。何か悪いことをしちゃったかな。
「ねえ、本宮さん。他の店に行かない? 僕、ちょっと気になってるとこがあってさ」
僕は、気分を切り替えるように提案した。本宮さんを元気づけたいというのももちろんあるけれど、気になっている店があるのも本当だ。
「……ああ、そうだな」
うなずく本宮さんの笑顔は、まだ弱々しい。
本当は、本宮さんにこんな顔をさせたいわけではないのに。どうしたら元気になってもらえるのかと、僕は思考を巡らせる。今まで彼女がいたことなんてないし、友達も多くないからどうするのが正解なのかわからない。でも、何か行動しなきゃと思った。だから、本宮さんの腕に自分の腕をからませて強引に引っ張る。
「――うわっ!?」
無防備だった本宮さんが、よろめいて声をあげた。
「……ね、行こう?」
本宮さんと出会ってからもこんなことをすることはなかったから、思った以上に声が小さくなってしまった。もしかしたら、顔が真っ赤になっているかもしれない。
僕の突然の行動に驚いていた本宮さんが、ふふっと微笑んだ気配がした。僕は、顔が熱くて本宮さんを正面から見られないけれど。
「じゃあ案内してもらおうかな。その、気になってる店に」
という、本宮さんの声が頭上から降ってくる。その声がどこか優しくて、でも少しいたずらっ子のような響きもあって。僕は、無意識ににやけてしまった。
にやけた顔をどうにかごく普通の笑顔に変えて、本宮さんを見た。先ほどまでのしょんぼりした表情はどこかに消えていて、いつものかっこいい彼がそこにいた。
「うん!」
弾けるようにうなずくと、僕は本宮さんを連れて店を出た。
日が傾き少し空気が冷たくなってきた頃、僕たちはアウトレットモールの中央エリアに戻ってきた。ここは、パンケーキを食べたハニーノルンがあるエリアだ。僕が気になっている店は、レストランエリアから少しはずれたところにある。小物やアクセサリー、民芸品のようなものまで雑多に置かれている雑貨屋だ。ハニーノルンを出た直後、ショーウインドーに飾られたブレスレットが気になった。けれど、人通りが多かったこともあって一旦は諦めた。でもどうしても、あのブレスレットが気になってしかたがなかった。
僕たちがその雑貨屋に入った時には、店内に客の姿はなかった。アップテンポのジャズが小さく流れ、商品が雑然と置かれた棚が所狭しと並んでいる。
「えっと……」
とつぶやいて、あのブレスレットが置かれている場所を探す。
それは、意外に早く見つかった。入り口から少し左横に進んだところにあった。
「あった……!」
「優樹が気になってたのって、これ?」
本宮さんにたずねられ、僕は素直にうなずいた。
それは、キャラメル色をした何の変哲もないレザーブレスレットだ。細めでシルバーのSカンがついているだけのデザインで、これといった特徴もない。普段、アクセサリーなんてしないから、なぜこれに惹かれたのかもわからない。
「へえ。優樹は、シンプルなデザインが好きなんだな」
どこか納得したように、本宮さんがつぶやく。
自分がどんなデザインが好きなのかなんて気にしたことがなかったから、本宮さんにそう言われてとっさにうなずくことができなかった。
(値段もお手頃だし、これなら手持ちで買えそうだ)
そんなことを考えていると、本宮さんがそれをひょいと手に取った。
「え、本宮さん?」
困惑してたずねると、
「そんなに高いものじゃねえし、買ってやるよ」
「いやいやいや、自分で買うよ。今日は、本宮さんの誕生日なわけだし、主役にお金出してもらうのはなんか違う気がするっていうか……」
と、僕は早口でまくし立てるけれど、本宮さんはそんなことはお構いなしとばかりに踵を返す。
「ちょっ……本宮さん!」
「俺が買いたいの。だから、気にすんな」
そう言って、さっさとレジに向かってしまった。
「そう言われても、気にしちゃうって……」
むくれ気味につぶやいてから、僕は本宮さんの背中を追った。でも、言葉とは裏腹に、内心では小躍りするほどうれしかった。
会計を済ませると、本宮さんは僕に向き直って、
「そろそろ帰ろうか」
と、言った。
うなずく僕は、にやけ顔を隠すことができなかった。でも、本宮さんは、何も言わないでいてくれた。
駐車場に戻ると、辺りは先ほどよりもオレンジ色が濃くなっていた。気温も低くなってきたのか、心なしか肌寒い。身震いをすると、僕は本宮さんの車の助手席に乗った。
運転席に乗った本宮さんが、先ほど買ったブレスレットの袋を差し出した。
「はい、これ。今日のお礼ってことで」
「お礼って……恋人の誕生日を祝うのは当然でしょ。でも、ありがとう」
僕は、それを受け取って封を開ける。中には、当然キャラメル色のブレスレットが入っている。
それを取り出すと、僕は慣れない手つきで自分の右手首につけた。
「えへへ。なんかさ、こうしてると、違うデザインなのにペア感あるよね」
本宮さんの左腕に自分の右腕を近づけて、思わずそんなことを口にした。
そんな僕の言葉を聞いた本宮さんは、目を見開いて驚いた表情を浮かべている。
(あれ? 僕、なんか変なこと――言ってた!)
普段なら言わないような台詞を言っていたと自覚した僕は、顔が熱くなる感覚を覚えた。初めての恋人からのプレゼントで、浮かれていたのだと思う。本日2回目の赤面は、大好きな人に真正面から見られてしまった。ごまかそうにも、上手く言葉が出てこなくて。一人であわあわしていると、いきなり本宮さんに引き寄せられた。次の瞬間、僕の口は彼の唇によって塞がれた。僕のファーストキスは、ほんのり甘い味がした。
帰りの車中、僕はずっとふわふわした感覚に陥っていた。本宮さんとのキスが、心地よかったというのももちろんある。けれど、それ以上に、なんだか夢の中にいるみたいでしかたがなかった。
「やけに静かだけど、どうした?」
運転しながら、本宮さんがたずねてくる。
「あ、いや……なんか夢みたいで」
正直な気持ちを伝えると、本宮さんはくすっと笑って、
「夢の方がよかったか?」
なんて聞いてくる。
「そんなことない! 本宮さんは、夢の方がよかったって思ってるの?」
ちょっと拗ねたように聞いてみる。
「まさか! 優樹がかわいいこと言うから、ちょっと意地悪してみたくなっちまったんだ。ごめんな」
と言って、本宮さんは僕の頭を軽くなでる。うれしいけれど、運転に集中してほしい。
でも、そのおかげで、自分が本宮さんの恋人なんだとようやく実感できた。つきあい出してから1年ほど経ってはいるけれど、今まで恋人らしいことといえば、手を繋いで歩くくらいしかしていなかったのだ。
(失望されないようにしなくちゃ!)
僕は、密かにそう心に決めた。そのための方法は、よくわからない。でも、本宮さんに好きでいてもらえるなら、苦手なことでもやってやろうという気持ちになる。
(あれ? こんなこと思ったことなかったのに……)
ふと、そんなことを思う。以前の僕なら、苦手なことはできるだけ回避していた。
(もしかして、恋人ができたおかげなのかな?)
そう思った瞬間、僕はくすっと笑ってしまった。
「どうした? 何か面白いものでもあったか?」
と、本宮さんにたずねられる。
前を見ているはずなのに、僕のささいな変化に気づいてくれるのが、とてもうれしい。
「ううん、何でもないよ」
うれしさ半分照れ隠し半分で、僕はそう答えた。この気持ちは、今はまだ僕の中だけに留めておきたいから。
アウトレットモールからの道のりは意外に短くて、あっという間に自宅に着いてしまった。
「ほら、着いたぞ」
本宮さんにうながされて、僕は力なくうなずいた。
本当は、もう少し一緒にいたい。でも、それを口にする勇気はなかった。言葉にしてしまったら、確実に本宮さんを困らせてしまう。それは嫌だった。
(……本宮さんには、明日も会えるもんね)
と、自分に言い聞かせる。毎週月、火、水の3日間が、本宮さんが家庭教師として家に来る日なのだ。
「本宮さん、ありがとう。今日は楽しかった!」
明るく振る舞って告げると、
「こっちこそありがとうだよ。俺も楽しかったし、何より、プレゼントまでもらっちまったしな」
と、本宮さんがさわやかな笑顔で言った。
『プレゼント』という言葉に、どこか含みがあるような気がしたけれど、気のせいということにしておこう。変に意識すると、また顔が赤くなってしまう気がする。
「じゃあ、また明日」
と、僕は車を降りる。
そのまま家に入ってもよかったのだけれど、何となく名残惜しくて、本宮さんの車が見えなくなるまで見送った。
僕の誕生日も無事に終わり、日曜日を迎えた。僕は、目覚ましが鳴る少し前に起きた。今日は、本宮さんと水族館デートに行く日だ。昨夜は早めに寝たので、すっきり起きることができた。眠気もないし、朝食もしっかり食べた。翌日が楽しみすぎて寝られず、朝食もまともに食べられなかった過去の自分とは大違いだ。食器の片づけを終えて支度を整えた直後、呼び鈴が来客を告げた。「はーい!」大声で返事をしながら、玄関に向かう。ドアを開けると、チョコレートブラウンのジャケットと黒のデニムパンツに身を包んだ本宮さんが立っていた。相変わらず、かっこいい。「おはよう、優樹」「本宮さん! おはよう。ちょっと待ってて」僕は言い置いて、自室から荷物を持ってくる。「行ってきまーす!」と、室内に向けて声をかけた僕は家を出た。本宮さんの車で水族館に向かう。「いつも以上に機嫌いいじゃねえか。そんなに楽しみだったのか?」道中の車内で、本宮さんにたずねられた。「そりゃ、もちろん! 大好きな人と水族館デートだよ? テンション上がんないわけないよ」と、僕は満面の笑みで告げた。「そりゃそうか」と、本宮さんも笑顔になる。僕の家から水族館までは、車で1時間ほどかかる。その間に、どう見て回るかをある程度、話し合っておくことにした。「イルカとかのショーって、1日3回あるんだね」スマホで水族館のホームページを見ながら、僕が言う。「そうなんだ。見るか?」本宮さんにそう聞かれ、僕は少し思案する。本当なら、あれもこれもと欲張りたいところだけれど、水族館に丸一日いるわけではない。でも、エリア全部を見て回りたいという気持ちもある。そうなると、何かを諦めることになるわけで。「ショーは、また今度でいいかな。毎日やってるみたいだし」僕がそう言うと、「じゃあ、今回のメインは?」と、たずねられる。「そうだなー……やっぱり、くらげかな」「くらげ?」「うん。くらげがいっぱい泳いでる、巨大な水槽があるんだって。なんか、『幻想的な空間をご覧ください』って書いてあるよ」と、僕はスマホの画面を見ながら告げた。「へえ? それは、さぞかしきれいなんだろうな。優樹は、くらげが好きなのか?」「うん! 昔から好きでさ。ゆらゆら揺れてる感じが、なんかいいんだよね。癒やされるっていうかさ。ずっと見てても飽きないもん。本宮
夕食の途中で、電子レンジが、クッキーが焼き上がったことを知らせた。本当は、すぐにでも天板を引き出した方がいいのかもしれない。けれど、本宮さんお手製の回鍋肉を食べる手が止まらなかった。「美味しかったー! ごちそうさまでした!」と、僕が言うと、本宮さんが笑顔でうなずいた。「そうだ! クッキー、そのままなんだった!」焼き上がったクッキーの存在を思い出し、僕は食器を片づけがてらキッチンに向かう。電子レンジを開けると、シナモンの甘い香りが広がった。いい感じにきつね色に焼き上がっている。僕は、天板に乗っているクッキングシートごと取り出して、1回目に焼いたクッキーが乗っている大皿に入れた。焼き色は、2回目に焼いた方が濃いような気がする。それを持って、僕はリビングに戻った。「いい感じに焼けたよ」と、声をかける。「美味そうだな」と、本宮さんが顔をほころばせる。2人分のインスタントコーヒーを淹れて、クッキーに手を伸ばした。まだ温かい方はしっとりしていて、ほどよく冷めている方はサクッとした食感だった。どちらも、シナモンの味と香りが口の中いっぱいに広がり、とても美味しい。たしかに、以前作ったクッキーよりも美味しく出来上がっている気がする。「うん。マジでいい感じ」と、僕が満足気につぶやくと、「これ、店で出せるんじゃねえか?」と、本宮さんが言い出した。「いや、まだまだだよ。もっとクオリティ上げなきゃ。今のままじゃ、母さんの足もとにも及ばないし」僕は、そう言って肩をすくめた。「へえ? 亜紀先輩って、そんなにお菓子作りうまいのか」と、本宮さんは意外そうに言った。母さんは、仮にも夫婦で営んでいるカフェのスイーツ担当だ。お菓子作りは、それなりに上手だと言っていいと思う。それに、母さんが作るケーキ目当てで来店する客も少なくない。かくいう僕も、母さんが作ったケーキが一番美味いと思っているうちの1人だ。「でも、クオリティーを上げなきゃと思ってるってことは、優樹は亜紀先輩を越えるつもりなんだな?」「まあね。いつになるかは、わかんないけどさ。越えなきゃいけない相手だと思ってる」と、僕は静かに闘志を燃やす。「そういうことなら、協力は惜しまないぜ」と、本宮さんが言ってくれた。彼が味方になってくれるのなら、俄然やる気が出てくるというもの。何より、僕自身が、本宮さ
動画配信サイトでホラー映画を観始めた僕たち。何の変哲もない日常風景から始まったそれを、僕は侮っていた。心霊的な怖さもヒトコワ的な怖さもなかったからだ。不気味な雰囲気を纏(まと)いながら、映画は無慈悲に進んでいく。途中から、僕は本宮さんの腕にしがみついていた。びっくり系のいわゆるジャンプスケアが多様されていたわけではない。得体の知れない恐怖に、小刻みな震えが止まらなかった。「優樹? 大丈夫か?」観終わった後、本宮さんに本気で心配された。僕は、ふるふると首を横に振ることしかできない。視界は、涙で滲んでいた。「ごめんな。まさか、優樹がホラー苦手だとは思ってなかったんだ」謝る本宮さんが、僕の頭をなでる。「こんな、怖いと思ってなかった……」と、僕は涙声で告げる。僕は怖がりな方だけれど、自分でもこんなに耐性がないとは思っていなかった。本宮さんが隣にいなかったら、たぶん途中でギブアップしていただろう。いや、そもそも観ていなかったかもしれない。「ちょっと待ってな」本宮さんは、何を思ったのか、そう言い置いてキッチンに向かった。しばらくして戻ってきた彼の手には、新たなマグカップが1つあった。「これ飲んだら、落ち着くと思うぜ」と、差し出される。素直に受け取った僕は、ふうふうと冷ましながら口にした。マグカップの中身は、温めたミルクセーキだった。卵のコクと牛乳の甘味が、口の中に広がる。その優しい甘さのおかげで、僕の心を支配していた恐怖は次第に消えていった。「本当にごめんな」と、本宮さんがしょんぼりしている。「本宮さんのせいじゃないよ。僕が、ホラー苦手だってことがわかったんだし。それに、美味しいミルクセーキも飲めたことだしね」と、僕が言うと、本宮さんはホッとしたように微笑んだ。時計を見ると、午後3時30分だった。そろそろ夕食のメニューを考える時間だ。「夕飯、何食べたい?」当然のように
(つい……じゃないよ。しんどいって、これ……)息を整えながら、そんなことを思う。体が、妙に熱い。自分の弱点を知られてしまったことだけが原因ではない。確実に、本宮さんの妖艶で甘い声音のせいだ。抗議しようとしたけれど、後ろを振り向くことができない。本宮さんに抱きしめられているからというのもあるけれど、あれだけで昂ってしまった自分が恥ずかしすぎるからだ。今、本宮さんの顔を見たら、確実に彼を求めてしまう。でもそれは、彼の『優樹を大切にしたい』という言葉を蔑(ないがし)ろにしてしまう気がした。「俺な、優樹がうちに泊まりに来てくれるなんて、思ってなかったんだ」と、本宮さんが突然、そんなことを話しだした。甘い声音だけれど、先ほどの妖艶さは鳴りを潜めている。「じゃあ、どうして誘ったの?」平静を装いながら僕がたずねると、本宮さんは軽く笑った。「どうしてだろうな? ……優樹に呼び出されて、一緒にいた男は誰だって聞かれた時、別れ話を切り出されるんじゃねえかって……正直、怖かった。優樹がそれを望むんだったら、大人しく身を引こうとまで考えてた」「そんな、別れるだなんて――! たしかに、あの時は嫉妬したし、本宮さんにイラッとしたのも事実だけど。でも、だからって別れたいなんて思ったことないよ!」僕は、反射的に本宮さんの方に体ごと向き直って言った。いつの間にか、体の妙な熱さは消えている。「そっか。ありがとな」と、本宮さんは優しく微笑んだ。僕たちは、どちらからともなく口づける。触れるだけの軽いキス。それだけで、心が満たされる。「ねえ。本当に、僕が本宮さんのベッド使っていいの?」僕がそうたずねると、本宮さんはもちろんと言うようにうなずいた。「でも、じゃあ本宮さんは?」「俺は、床で寝るから大丈夫だよ。使ってない布団もあるしな」「そんなの悪いよ! 僕が布団で寝る!」そう言った
「本宮さんってさ、キスはしてくれるけど、それ以上のことはしないじゃん。もしかしたら、そういうお相手がいるのかなって思ってさ」言葉を濁しながら話すけれど、彼にはそれで充分に伝わったらしい。「それで、優樹の他にふさわしい人がいるんじゃねえかって考えたわけだ?」確認するように問いかける本宮さんに、僕は素直にうなずいた。「残念ながら、そういう相手はいねえよ。俺は、一目ぼれしてからずっと、優樹一筋だ」「え!? それじゃあ……!」反射的に本宮さんを見る。真摯で真っ直ぐな瞳に絡め取られ、僕は金縛りにでもあったかのように動けなくなった。自分の鼓動がうるさい。心臓が爆発してしまうのではと思うほど、胸が苦しい。「ごめんな。今は、それ以上はしないって決めてんだ」表情を変えずに、本宮さんはそう断言した。期待に胸を弾ませていたのに、一気にどん底に叩き落される。「どうして……?」視界がぐにゃりと歪んだ気がした。本宮さんのかっこいい顔が、次第に滲んでいく。「泣くなって。ネガティブな理由じゃねえんだ」慌てた本宮さんにそう言われるけれど、僕の涙は止まらない。でも、彼の言葉はきちんと聞いておきたいから、声を出して泣くのはどうにか我慢する。「優樹を本気で愛してるから、大切にしたいんだ。一時の欲情で抱いちまったら、優樹を傷つけることになるし、俺も後悔すると思う」本宮さんは一旦、言葉を切った。本宮さんの言葉が、僕のことを想ってのものだというのは理解できる。でも、僕の心の中のもやもやは、一向に消えてくれない。(本宮さんになら、傷つけられてもいいのに……)そんなことを思うけれど、言葉にするには勇気が足りなかった。「それに、俺の歳で高校生に手を出したら、捕まっちまうからな」と、おどけたように告げる本宮さん。いたずらっ子のような笑みを浮かべている。たしかに、もしそれが世間に知られたら、たとえ合意だったとしても本宮さんが逮捕されてしまう。それは、さすがに嫌だ。
たしかに、本宮さんから弱音を聞いたことがない。どんなことも前向きにとらえようとしているのかと思っていたけれど、実際にはそうではないらしい。「かっこつけたがり……」僕がその言葉をくり返してつぶやくと、「片桐! 何、勝手なこと言ってんだよ!」慌てたように、本宮さんが言った。「だって、本当のことだろ?」片桐さんがそう言うと、図星なのか、本宮さんは黙ってしまった。「まったく、誰かと思ったら片桐が来るとはね」と、母さんが3人分のカフェオレを持ってやってきた。片桐さんが、「どうも」と会釈をしている。「亜紀先輩。俺たち、まだ何も頼んでないんですけど……」本宮さんが言うと、「長くなりそうだからね、サービスだよ」と、母さんが珍しいことを言っている。店内で飲食する場合は、身内だろうが容赦なくお代をいただくというのが、母さんのモットーだったはずだ。「ああでも、後で本宮に支払う分から引いとこうかね」と、思い出したように言い置いて、母さんは仕事に戻っていった。「それじゃあ、サービスじゃないじゃん」母さんの足音が聞こえなくなってから僕がぽつりとつぶやくと、本宮さんが小さくため息をついた。片桐さんだけが、よくわからないといった表情をしている。僕は、本宮さんが僕の家庭教師をしていることを話した。「なるほど。それで恋仲にもなった、と」納得したらしい片桐さん。そんな片桐さんを横目に見ながら、面白くなさそうな顔で本宮さんがカフェオレを飲む。どうせ、自分に支払われる金額から引かれるのなら、飲まなければ損だと思ったのかもしれない。「あの、本宮さんがかっこつけたがりで、相手との関係性がこじれがちだっていうのはわかったんですけど、それと片桐さんがここにいる理由って、何か関係あるんですか?」つい、きつい言い方になってしまった。でも、片桐さんがどうして関わってくるのか、本当にわからない。本宮さんがデートのことで相談したからといって、今ここにいる必要はないはずだ。「そう睨まないでくれよ。俺は、君たちの仲を壊したいわけじゃない。むしろ、このままずっと続いてほしいと思ってるんだ」と、片桐さんが苦笑しながら言った。僕が疑いのまなざしで見つめていると、「信じられないのも無理ないか。でもね、俺は、こいつに恋愛感情なんて持ってないんだ。友達としては、つき合いやすい奴だけ