翌日。僕は、本宮さんからもらったブレスレットをバッグに忍び込ませて登校した。アクセサリー類は、基本的に着用禁止だ。でも、バッグの中にしまっておく分には何も言われない。抜き打ち検査で見つかる可能性もあるけれど、それは例外中の例外だ。
ブレスレットをバッグに入れたのは、本当になんとなくだ。無意識のうちに、本宮さんの存在を求めていたのかもしれない。 「優樹。何か、いいことあったろ?」 昼休み、持参した弁当を教室で食べていると、僕の対面で弁当を食べている茶髪の男子生徒にたずねられた。僕の親友である渋井《しぶい》遼《りょう》だ。遼は、何かを確信しているような口ぶりだった。 「何で?」 「いや、朝からずっとにやけてたからさ」 「え!? そんなに?」 僕は、慌てて自分のほほに手をあてる。赤くなっているのか、いつもより熱い。 「もしかして、昨日、本宮さんとデートにでも行ったとか?」 遼はそう言って、にまにまと笑みを浮かべる。 「何で知ってんの!?」 一発で当てられてしまい、僕は驚いてしまった。 1年前、本宮さんに告白された僕は、どうすればいいかわからなくて遼に相談した。結果的には、自分に正直になれと言われたけれど、一緒に悩んでくれた。そういうこともあって、遼は僕と本宮さんがつきあっていることを知っているのだ。 でも、昨日のデートのことはまったく話していない。どうして知っているのだろう。 「マジかよ。カマかけただけなのに。で? どこ行ったんだよ?」 さっさと白状してしまえとばかりに、遼が詰め寄ってくる。 「実は、隣町のアウトレットモールに……」 照れながらも、僕は正直に答えた。 洋服店に立ち寄っていろいろな服を試着したことや、本宮さんがどんな服でも似合うことなども話した。 「いいね、ショッピングデート! 俺も行きたいなー」 「遼が買いそうな服、何かあったかな?」 昨日行った店を思い出しつつ、遼が選びそうな商品があったか記憶を辿る。 「そうじゃなくて! 俺も恋人とデートしたいってこと!」 と、遼は力強く告げた。 「あ、なるほど。そっちね」 「ていうか、俺のことより優樹の話! どうだったんだよ?」 「どうって、楽しかったよ。昨日、本宮さんの誕生日でさ、一昨日買ったプレゼント渡したんだけど、かなり気に入ってもらえたんだ」 「そりゃよかったじゃん!」 「うん! それどころか、お礼にってブレスレット買ってもらっちゃった」 と、僕はバッグからブレスレットを取り出して遼に見せた。 遼は、それを手に取ってしげしげと眺める。 「シンプルなデザインだな。本宮さんが選んだのか?」 「ううん、選んだのは僕。自分で買おうと思ってたんだけど、本宮さんが『俺が買いたいから』って」 遼からブレスレットを受け取りながら、そう説明する。 「へえ、かっこいいことするじゃん」 「でしょ! それだけで、もう惚れ直したよね!」 かっこいい本宮さんの姿を思い出して、自然にほほが緩んでしまう。 「本当に本宮さんが好きなのな」 遼は微笑んで、しみじみと言った。 その言葉に力強くうなずいた僕は、 「でも、本人を前にすると、まだ緊張しちゃって素直に言えないんだよね」 と、小さく息をついた。 「緊張する必要なくね? 自分の気持ち言うだけじゃん」 きょとんとして、遼は当然のことを口にする。 「それはそうなんだけどさ。なんか、恥ずかしくて」 どうしても照れてしまって、言葉にすることができない。 「そういうもんかねー?」 言いながら、遼は卵焼きを口に放り込む。 「たぶん?」 あいまいに答えて、僕は首をかしげた。 今まで恋人がいなかったということもあって、自分のことながらよくわからないというのが本音だ。 「それよりさ、本宮さんのこと紹介してくれよ」 と、遼が瞳を輝かせながら言った。 どうやら、遼は、最近おしゃれに目覚めたらしい。なので、どんな服でも似合う本宮さんにアドバイスをもらいたいのだそうだ。 「もちろん、いいよ」 僕としてもそのうち紹介したいと思っていたので、その申し出は願ったり叶ったりだ。 僕は、その場で本宮さんにメッセージを送る。 僕たちが弁当を食べ終わった直後、本宮さんから返信が来た。 「次の日曜なら空いてるって」 「日曜日ね。……うん、こっちも空いてる」 と、遼はスマホで予定を確認する。 もちろん、僕も予定は入っていない。 「じゃあ、確定だね! 何しようか?」 「うーん……遊びに行くってなると、ボウリングかカラオケぐらいじゃね? あとは、ファミレスとか回転寿司とか?」 遼が考えながら答える。 たしかに、選択肢は限られるかもしれない。映画館や小さな水族館なんかもあるけれど、男3人で行くのはちょっと違う気がする。しかも、遼と本宮さんは初対面だ。話ができる場所の方がいいと思った。 「何するか決めるのは、本宮さんの意見も聞いてからにしねえ?」 2人だけで考えるよりもいいような気がすると、遼が言った。 「そうだね。僕たちより経験豊富そうだし、ちょっと相談してみる」 そう言って、ブレスレットをバッグにしまった時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。 午後の授業も何の問題もなく終わり、あっという間に放課後になった。遼は部活があるらしく、すぐに教室から出て行った。さすがバスケットボール部のホープだ。部活動推薦でこの高校に入学したのだから、相当に期待されているのだろう。 対する僕は、1年生の時からずっと帰宅部だ。まっすぐ家に帰り、本宮さんの到着を待つ。本宮さんが家庭教師をしてくれているおかげで、勉強が前よりも楽しいと思えるようになった。彼の教え方が上手いのもあるけれど、好きな人に教えてもらえるという状況がうれしかったりする。本宮さんを家庭教師として雇ってくれた母さんには、本当に感謝しかない。 「本宮さんは、ブラックのままでも大丈夫だったっけ」 つぶやきながら、コーヒーを淹れる。もちろん、コーヒーメーカーを使って、である。 前に一度だけ、父さんからコーヒーの淹れ方を教えてもらったことがある。けれど、お湯の温度は何度がいいとか、お湯は何回かに分けてゆっくり注いだ方がいいとかけっこう覚えることが多くてたいへんだった。なので、自分で飲む時は、たいていコーヒーメーカーに頼っている。 抽出されるコーヒーを眺めていると、来客を知らせるチャイムが鳴った。 「はーい!」 大声で返事をしながら玄関に向かう。 扉を開けると、白いシャツの上に黒いベスト、黒いスラックスを身にまとった本宮さんが立っていた。 「本宮さん、いらっしゃい。ナイスタイミング!」 「こんにちは。ナイスタイミングって、どういうことだ?」 と、不思議そうな本宮さんが、お邪魔しますと玄関に入る。 「今、コーヒー淹れてるとこなんだ。もう少ししたらできあがるから、先に部屋に行っててもらってもいい?」 僕がそう言うと、本宮さんはうなずいて階段に向かった。僕の自室が2階にあるからだ。 僕はキッチンに戻り、2人分のマグカップを準備する。そうこうしているうちに、コーヒーができあがった。片方にだけ砂糖を入れる。砂糖を入れた方が僕用だ。 トレーに乗せたマグカップを慎重に自室まで運び、テーブルに置く。 「勉強の前に、昼間、メッセで言ってたことなんだけど……」 本宮さんの対面に座って、僕は話を切り出した。遼のことを話しておかないと、気になって勉強に身が入らない。 「ああ、友達を紹介したいって言ってたよな」 「うん。渋井遼っていう男子で、僕の親友なんだ。本宮さんのこと話したら、会ってみたいって」 「なるほどな。それで、俺の休みの予定を聞いたわけか」 僕はうなずいて、次の日曜日は僕も遼も予定がないことを伝えた。 「それで、当日は何をしようかって話になってさ。カラオケとボウリングとファミレスと回転寿司が候補に挙がったんだ。本宮さんは、やりたいこととかあったりする?」 「やりたいこと、か……。ムーンリバーで話をするのは、だめなのか?」 僕の口からこの名前が出ないことが不思議だと言わんばかりに、本宮さんは首をかしげる。 「あー……うん、ちょっと」 歯切れの悪い言い方で、僕はそれを却下した。 『ムーンリバー』は、僕の両親が営んでいるカフェの名前だ。自宅のすぐ隣に店がある。日曜日も営業しているし、落ち着いた雰囲気だから話をするのには最適だと思う。でも、両親の店だからこそ、あえて選択肢からはずした。自分もたまに店員として手伝うこともあって、客として利用するのはなんとなく気まずい。 「そうなると、候補に挙がった4つくらいじゃないか? デートで行くって言うなら、また話は別だけどな」 と、本宮さんが思案しながら言った。 たしかに、デートとして行くなら選択肢の幅は増えると思う。でも、今回は、遼と本宮さんの顔合わせという側面の方が大きい。 「日曜日で3人とも予定がないってことなら、カラオケでいいんじゃないか? 久しぶりに歌いたいし、優樹の歌声も聞いてみたいしな」 ある程度騒いでも、他の人の迷惑になることはそうそうないだろうしと、本宮さんが提案する。 「わかった、カラオケだね。でも、僕、そんなに歌上手くないよ?」 そう言いながら、僕は遼にメッセージを送った。今は部活中だろうから、後で確認してくれるだろう。 「別に上手くなくても平気だよ。メインはそこじゃないだろ?」 「そうだけどさ。それで、どこのカラオケ行く?」 「そうだな……。この近くだと『ワンのすけ』かな」 『ワンのすけ』は、僕が通う高校の近くにあるカラオケ店だ。同じ高校の生徒がよく利用している印象がある。かくいう僕も、たまに遼と一緒に行ったりしている。 「そこなら、僕もたまに行くよ」 「そっか。なら、ちょうどいいな。……うん、美味い」 本宮さんはコーヒーに口をつけると、そう言って笑みを浮かべた。 僕は、思わずにやけてしまった。こだわりを持って淹れたわけではないけれど、それでも褒められるとやっぱりうれしい。 「現地集合ってことにして――」 「ムーンリバーに集まるってことでもいいぜ?」 僕の言葉をさえぎった本宮さんは、いたずらっ子のような顔でそう言った。 「本宮さん!」 嫌だとは言えず、むくれながら彼の名前を呼ぶ。 「そう、むくれるなって。冗談だよ」 苦笑しながら、本宮さんは悪かったと謝った。 「それで、集合時間なんだけど、何時頃がいいかな?」 気を取り直して、時間について相談する。 「優樹たちの都合がいい時間でいいよ」 自分はそれに合わせるからと、本宮さんが言った。 僕はうなずくと、場所と集合時間のことを遼に連絡した。 「後は、遼と相談かな」 「決まったら教えてくれ」 「もちろん!」 とりあえず、気がかりなことはなくなったので、僕は机から勉強道具一式を取り出した。 それを見た本宮さんも、仕事モードに切り替えたようで、キリッとした表情をしている。それがまたかっこよくて、僕は見惚れてしまった。 「優樹? どうした?」 「え!? あ……ううん、何でもない」 急に現実の引き戻されて、僕はとっさにそう言った。 本宮さんに見惚れていたなんて、恥ずかしくて言えない。言ったら、確実に喜んでくれるとは思う。でも、僕の方が勉強どころではなくなってしまいそうだった。 「それじゃあ、お願いします」 気持ちを切り替えるようにそう言って、僕は教科書とノートを開いた。* * * *
「――というわけで、ここはこの公式を使って解いた方がいいということになる。ここまではいいな?」 本宮さんの言葉に、僕はうなずいた。 本宮さんの授業が始まり、解説を聞きながら解いていく。ちなみに、1日1教科のみで、今日は数学だ。本当に、学校で習うよりもわかりやすい。学校の先生の教え方が、すべて本宮さんみたいにわかりやすかったならいいのにと思ってしまう。 「優樹、ちゃんと聞いてるか?」 「――っ! あ……うん、ごめんなさい!」 ちょっと違うことを考えていたら、注意されてしまった。表情に出ていたのかな? それとも、本宮さんだからこそ、僕が集中していないことに気づいたのかな? どちらにしても、彼が僕を見てくれていることに変わりはない。うれしい反面、ちゃんとしなきゃと思った。 本宮さんの授業は、1日につき2時間程度だ。でも、今日は勉強を始める前に休日の予定を話していたので、いつもより少しだけ延長した。少しでも、いつもより長く彼と一緒にいられることがうれしかった。 「よし! 今日は、ここまでだな。明日、今日の振り返りとしてテストするから、ちゃんと覚えとけよ」 と、本宮さんに釘をさされてしまった。もし、明日のテストで赤点を取ってしまったら、きついお仕置きが待っているに違いない。さずがに、それは嫌だった。
(後で、ちょっと復習しておこう) 僕は、密かにそう思った。気がつくと、僕の視界には見知った天井が広がっていた。(あれ? 僕、学校にいたはずだよな?)不思議に思って周囲を確認する。間違いなく、ここは僕の部屋だ。「優樹! よかった、気がついたか!」僕のベッドのすぐ横で、本宮さんの声が聞こえた。「昌義、さん……?」問いかけながら、僕は顔を右側へと向けた。そこには、ほっとした表情を浮かべる本宮さんがいた。少し涙ぐんでいるのか、目もとがきらりと輝いている。いまいち状況が飲み込めていない僕は、本宮さんにどうしてここにいるのかたずねた。「昼休みに教室で倒れたって聞いたんだけど、覚えてないのか?」と、本宮さんが心配そうにたずねる。「えっと……」と、僕は本宮さんから視線をはずし、今日一日のことを思い返す。いつも通り学校に行って、授業を受けて、遼と話をして……。「そういえば、ちゃんと寝ろって、遼に言われたっけ。……あれ?」心配そうな遼の姿を思い出した僕は、その後の記憶がないことに気がついた。本宮さんにそのことを告げると、「倒れたのは、たぶん、その時だろうな」「それじゃあ、昌義さんが僕を?」家に連れてきたのかと聞いてみた。けれど、本宮さんは静かに首を横に振った。「いや、優樹を迎えに行ったのは、亜紀先輩だよ。俺は、亜紀先輩から連絡もらって、優樹の看病をしてただけだ」「そっか、ありがと。それと、ごめんなさい」しょんぼりと僕が謝ると、本宮さんはきょとんとした顔をした。「あ、いや……今日、金曜日だし、昌義さんの授業ないじゃん? なのに、来てもらっちゃったから」と、僕は弁解するように言った。「そんなこと気にすんな。恋人の一大事なんだ、飛んでくるのは当たり前だろ」本宮さんは、優しく微笑んでそう告げた。何をどう言えばいいのかわからなくて、僕は小さくうなずくことしかできなかった。「俺の方こそごめんな
僕よりも本条刑事を知っている本宮さんが言うのだから、おそらく間違いないのだろう。「それでも気になるなら、俺が本条先輩を味方につけるぜ?」「本当!?」「ああ。まかせろ!」本宮さんの心強い言葉に、僕は素直にお願いする。そういうわけで、母さんを攻略する前に、僕は父さんを、本宮さんは本条刑事を味方につけることにした。交渉の方法は、個人の判断に任せることになった。「今日のところは、ここまでかな」と、本宮さんが言った。窓の外を見ると、もうすっかり暗くなっている。「じゃあ、続きは明日ってことで」と、僕がノートを閉じると、本宮さんは僕から離れて帰り支度を始めた。それが、少しだけ寂しく思えた。でも、口にも態度にも出さない。ただのわがままなのは、充分に理解しているからだ。「それじゃあ帰るけど、今日やったとこ、忘れるなよ?」「大丈夫だよ、復習しておくから」心配そうな本宮さんに、僕はそう言って笑顔を返す。苦手な分野は、復習しておかないと忘れてしまう。今日は、とくにその傾向が強い。なんたって、色気倍増の本宮さんとのキスで、ほとんど覚えていないのだから。「じゃあ、また明日な」と、さわやかな笑顔を浮かべる本宮さんを、僕は玄関まで見送った。* * * *いつも通り、家族揃って食卓を囲んでいた夕食時。(さて、どうしたものか……)僕は、卒業後の進路について両親にどう切り出せばいいか考えていた。もちろん、本宮さんとのことは伏せるつもりだ。そこまでオープンにする覚悟は、僕にはまだない。タイミング的にも、今ではない気がする。その反面、店を継ぐ意思があることは、早めに伝えた方がいいと思った。(でも、何て言えばいいんだろ?)下手なことを口走ると、それこそ母さんにツッコまれるおそれがある。それは、色々と面倒くさい。「どうした、優樹? そんなに難しい顔をして」と、父さんに声
本宮さんからの無言の圧力が消えて、僕は小さく息をついた。名前で呼ばれたいからといって、そんな圧力をかけるなんて、大人気《おとなげ》ないと思う。名前呼びをしてほしいと言われたのが、昨日のことなのだ。そんなにかんたんに慣れるとは思えない。もしかしたら、僕にそれを意識させるために、先に『ここからプライベートの時間』なんて言ったのかもしれない。そんなことを考えていると、首筋に何か柔らかい感触が当たった。「ひゃっ!」驚いた僕は、思わず声を上げてしまった。肩越しに後ろを見ると、本宮さんが意地悪そうな顔でにやけていた。「昌義さん。何で、そういうことするかなー?」と、僕はむくれつつ問いかける。「優樹の反応がいいからさ、つい、いたずらしたくなるんだよ」と、本宮さんは悪びれる様子なく言ってのけた。「好きな子には意地悪したくなるっていう、あれ?」男子特有と言われる現象を僕が口にすると、肯定するように本宮さんがニッと笑った。「優樹も、小さい時にしたことあるのか?」「いや、僕はないよ。小学生の時に、クラスメイトがやってるのを見たことがあるだけ」と、僕は当時を思い出して言った。「まあ、昌義さんは、僕のこと好きだもんね」なんて、僕がからかい半分で言うと、「ああ、大好きだぜ。他の誰よりもな。それに、優樹の特別な存在になりたいんだ」と、本宮さんは真摯な表情を浮かべる。「……とっくに、特別だっての」僕は、そうつぶやいて顔を背ける。顔だけずっと後ろを向いていて疲れてしまった、というのもある。けれど、それ以上に、真っ赤になっている顔を見られるのが恥ずかしかった。「わかってねえな」ぽつりと低くつぶやかれた言葉は、僕の心を抉るには充分すぎるものだった。(え……わかってないって、どういうこと? 本宮さんは、僕のことが好きなんじゃないの?)そんな不安が頭をもたげる。「俺は、お
翌日、僕は遼へのおみやげを持って登校した。いつものように授業を受けて、昼休みが訪れる。僕は、遼を誘って屋上に向かった。晴れているからというのもあるけれど、他の人に聞かれたくない話があるからだ。屋上のドアを開けると、冷たい風が全身をなでていく。「寒っ!」僕は、思わずそうつぶやいた。「教室、戻ろうぜ?」と、遼が提案するけれど、僕はごめんと言って屋上に出る。「マジかよ……」そう言いながらも、遼は僕についてきてくれた。本当に、遼はいい奴だ。僕のわがままにつき合ってくれるのだから。誰もいない屋上のベンチに座り、弁当を広げる。「っと、そうだ。これ、遼にあげる」と、持ってきていた袋を遼に渡す。昨日、水族館で買ったキーホルダーだ。「別にいいって言ったのに……。でも、ありがとな」そう言いながらも、遼は受け取ってくれた。さっそく、袋を開けて中身を確認している。「くらげだ! かわいいじゃん!」「よくキーホルダー持ってるからさ。遼にぴったりかなって」「ちょうど、新しいの欲しいと思ってたとこなんだよ。サンキュー!」と、遼は満面の笑みを浮かべる。そこまで喜んでもらえるなんて、本当に買ってきてよかったと思う。どういたしましてと言って、僕は弁当を食べ始めた。「で、本題は? この寒い中、水族館みやげを渡すためだけに、俺をここに連れてきたわけじゃねえだろ?」と、隣に座る遼が、持参したパンを食べながらたずねてきた。「うん、実は……」と、僕は本宮さんにプロポーズされたことを告げた。「は……? プロポーズ……? え、結婚すんの!?」遼が大きな声をあげる。驚くのも無理もない。僕だって、本宮さんにプロポーズされた時には驚いたし戸惑った。「正確には、卒業した後にってことなんだけどね」と、僕が言うものの、遼は聞いていないようだった。「え、
玄関には、鍵がかかっていた。当然だ。両親はまだ、隣のカフェで仕事をしているのだから。「まあ、出迎えられるよりはいいか」鍵を開けながら、僕はそんなことをつぶやいた。『帰宅した時に、家族が玄関で出迎える』なんて習慣はない。でも、ネックレスをしている今は、両親に会いたくなかった。鉢合わせしてしまったら、とても気まずい。本宮さんからのプロポーズの言葉が頭の片隅にあるから、余計にそう思うのかもしれない。静寂の中、自室に戻った僕は、荷物整理もそこそこにベッドに倒れ込んだ。「結婚、か……」見慣れた天井を見ながら、その2文字を口にする。けれど、実感はない。僕がまだ、高校生だからなのだろうか。それでも、本宮さんとずっと一緒にいられると思うと、自然とほほが緩んでくる。ふいに、真剣な表情をした本宮さんの姿が脳裏に浮かび、『俺と結婚してくれませんか?』という彼の声が耳の奥に響く。瞬間、僕の顔は一気に熱くなった。「〜〜〜〜っ!」イルカのぬいぐるみを引き寄せ、それに顔を埋めて悶える。ごろごろとベッドの上を転がる度に、胸もとのリングが存在を主張した。それに気がついた僕は、転がるのをやめてネックレスをはずす。このままつけていてもいいのだけれど、壊してしまったら目も当てられない。まあ、そこまでかんたんに壊れるようなものではないと思うけれど。「それにしても、きれいだよな」つぶやいて、僕はピンクゴールドのリングを眺める。デザインは本当にシンプルで、凝った紋様などは一切ない。にもかかわらず、高級感漂う存在感があるのは、ピンクゴールドの輝きのせいなのだろうか。「……これって、普通の指輪だよな?」ふと、そんな疑問が口をついて出た。シルバーのリングホルダーで、チェーンとリングが繋がっている。でも、両方とも固定されているわけではなさそうだった。(どうにかすれば、はずせるかも……?)そう思って、リングホルダーをはずせないか探っていく。チェーン側に繋ぎ目があり、そこからかんたんに開
会計を済ませて店を出ると、外は思った以上にひんやりとしていた。街並みは、西日で黄金色に染まっていて、雨の予感なんてみじんも感じさせない。それなのに、背筋が伸びるくらいに冷たい空気を感じた。本宮さんも同じように感じたのか、「寒っ!」なんてつぶやいている。「今日、こんな寒かったっけ?」眉をひそめる本宮さんに、「本屋の中が、暖かすぎたんだと思う。人、多かったじゃん」と、僕は自分なりの推測を言った。室温を計ったり、店員さんに聞いたわけではないから、実際のところはわからない。でも、ほどよく暖められているだろう店内に大勢の人がいたのだから、想定以上の暖かさになっていたとしてもおかしくない。そういうわけで、外の空気が思った以上に冷たく感じるのは、しかたがないことだった。「たしかに多かったよな。本屋であんなに多いの、初めてだぜ」「僕も初めてだよ。もうちょっと落ち着くと思ったんだけどな」なんて会話をしながら、僕たちは駐車場を歩いていく。車に到着して乗り込むと、本宮さんは後部座席のドアを開けて、何やらごそごそとやっている。気になって後ろを見ると、「本、後ろに置いておくな」と、イルカのぬいぐるみが入っている袋に本を入れているところだった。「ありがとう。あれ? 本宮さんのは?」本宮さんの本もあったはずなのにと不思議に思い、僕はそうたずねた。「すでに避けてあるから、心配すんな」と、本宮さんは穏やかな笑みを浮かべて、後部座席のドアを閉めた。安堵した僕は、正面を向いて座り直す。その直後、本宮さんが運転席のドアを開けた。彼は運転席に乗り込むと、「まだ慣れねえか? 名前呼び」と、苦笑する。そう言われて、僕はまた『本宮さん』と呼んでいたことに気がついた。「うん、まだ……」僕が口ごもると、本宮さんはふっと微笑んで、「まあ、急には無理だし、ゆっくりでいいよ」