翌日。僕は、本宮さんからもらったブレスレットをバッグに忍び込ませて登校した。アクセサリー類は、基本的に着用禁止だ。でも、バッグの中にしまっておく分には何も言われない。抜き打ち検査で見つかる可能性もあるけれど、それは例外中の例外だ。
ブレスレットをバッグに入れたのは、本当になんとなくだ。無意識のうちに、本宮さんの存在を求めていたのかもしれない。 「優樹。何か、いいことあったろ?」 昼休み、持参した弁当を教室で食べていると、僕の対面で弁当を食べている茶髪の男子生徒にたずねられた。僕の親友である渋井(しぶい)遼(りょう)だ。遼は、何かを確信しているような口ぶりだった。 「何で?」 「いや、朝からずっとにやけてたからさ」 「え!? そんなに?」 僕は、慌てて自分のほほに手をあてる。赤くなっているのか、いつもより熱い。 「もしかして、昨日、本宮さんとデートにでも行ったとか?」 遼はそう言って、にまにまと笑みを浮かべる。 「何で知ってんの!?」 一発で当てられてしまい、僕は驚いてしまった。 1年前、本宮さんに告白された僕は、どうすればいいかわからなくて遼に相談した。結果的には、自分に正直になれと言われたけれど、一緒に悩んでくれた。そういうこともあって、遼は僕と本宮さんがつきあっていることを知っているのだ。 でも、昨日のデートのことはまったく話していない。どうして知っているのだろう。 「マジかよ。カマかけただけなのに。で? どこ行ったんだよ?」 さっさと白状してしまえとばかりに、遼が詰め寄ってくる。 「実は、隣町のアウトレットモールに……」 照れながらも、僕は正直に答えた。 洋服店に立ち寄っていろいろな服を試着したことや、本宮さんがどんな服でも似合うことなども話した。 「いいね、ショッピングデート! 俺も行きたいなー」 「遼が買いそうな服、何かあったかな?」 昨日行った店を思い出しつつ、遼が選びそうな商品があったか記憶を辿る。 「そうじゃなくて! 俺も恋人とデートしたいってこと!」 と、遼は力強く告げた。 「あ、なるほど。そっちね」 「ていうか、俺のことより優樹の話! どうだったんだよ?」 「どうって、楽しかったよ。昨日、本宮さんの誕生日でさ、一昨日買ったプレゼント渡したんだけど、かなり気に入ってもらえたんだ」 「そりゃよかったじゃん!」 「うん! それどころか、お礼にってブレスレット買ってもらっちゃった」 と、僕はバッグからブレスレットを取り出して遼に見せた。 遼は、それを手に取ってしげしげと眺める。 「シンプルなデザインだな。本宮さんが選んだのか?」 「ううん、選んだのは僕。自分で買おうと思ってたんだけど、本宮さんが『俺が買いたいから』って」 遼からブレスレットを受け取りながら、そう説明する。 「へえ、かっこいいことするじゃん」 「でしょ! それだけで、もう惚れ直したよね!」 かっこいい本宮さんの姿を思い出して、自然にほほが緩んでしまう。 「本当に本宮さんが好きなのな」 遼は微笑んで、しみじみと言った。 その言葉に力強くうなずいた僕は、 「でも、本人を前にすると、まだ緊張しちゃって素直に言えないんだよね」 と、小さく息をついた。 「緊張する必要なくね? 自分の気持ち言うだけじゃん」 きょとんとして、遼は当然のことを口にする。 「それはそうなんだけどさ。なんか、恥ずかしくて」 どうしても照れてしまって、言葉にすることができない。 「そういうもんかねー?」 言いながら、遼は卵焼きを口に放り込む。 「たぶん?」 あいまいに答えて、僕は首をかしげた。 今まで恋人がいなかったということもあって、自分のことながらよくわからないというのが本音だ。 「それよりさ、本宮さんのこと紹介してくれよ」 と、遼が瞳を輝かせながら言った。 どうやら、遼は、最近おしゃれに目覚めたらしい。なので、どんな服でも似合う本宮さんにアドバイスをもらいたいのだそうだ。 「もちろん、いいよ」 僕としてもそのうち紹介したいと思っていたので、その申し出は願ったり叶ったりだ。 僕は、その場で本宮さんにメッセージを送る。 僕たちが弁当を食べ終わった直後、本宮さんから返信が来た。 「次の日曜なら空いてるって」 「日曜日ね。……うん、こっちも空いてる」 と、遼はスマホで予定を確認する。 もちろん、僕も予定は入っていない。 「じゃあ、確定だね! 何しようか?」 「うーん……遊びに行くってなると、ボウリングかカラオケぐらいじゃね? あとは、ファミレスとか回転寿司とか?」 遼が考えながら答える。 たしかに、選択肢は限られるかもしれない。映画館や小さな水族館なんかもあるけれど、男3人で行くのはちょっと違う気がする。しかも、遼と本宮さんは初対面だ。話ができる場所の方がいいと思った。 「何するか決めるのは、本宮さんの意見も聞いてからにしねえ?」 2人だけで考えるよりもいいような気がすると、遼が言った。 「そうだね。僕たちより経験豊富そうだし、ちょっと相談してみる」 そう言って、ブレスレットをバッグにしまった時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。 午後の授業も何の問題もなく終わり、あっという間に放課後になった。遼は部活があるらしく、すぐに教室から出て行った。さすがバスケットボール部のホープだ。部活動推薦でこの高校に入学したのだから、相当に期待されているのだろう。 対する僕は、1年生の時からずっと帰宅部だ。まっすぐ家に帰り、本宮さんの到着を待つ。本宮さんが家庭教師をしてくれているおかげで、勉強が前よりも楽しいと思えるようになった。彼の教え方が上手いのもあるけれど、好きな人に教えてもらえるという状況がうれしかったりする。本宮さんを家庭教師として雇ってくれた母さんには、本当に感謝しかない。 「本宮さんは、ブラックのままでも大丈夫だったっけ」 つぶやきながら、コーヒーを淹れる。もちろん、コーヒーメーカーを使って、である。 前に一度だけ、父さんからコーヒーの淹れ方を教えてもらったことがある。けれど、お湯の温度は何度がいいとか、お湯は何回かに分けてゆっくり注いだ方がいいとかけっこう覚えることが多くてたいへんだった。なので、自分で飲む時は、たいていコーヒーメーカーに頼っている。 抽出されるコーヒーを眺めていると、来客を知らせるチャイムが鳴った。 「はーい!」 大声で返事をしながら玄関に向かう。 扉を開けると、白いシャツの上に黒いベスト、黒いスラックスを身にまとった本宮さんが立っていた。 「本宮さん、いらっしゃい。ナイスタイミング!」 「こんにちは。ナイスタイミングって、どういうことだ?」 と、不思議そうな本宮さんが、お邪魔しますと玄関に入る。 「今、コーヒー淹れてるとこなんだ。もう少ししたらできあがるから、先に部屋に行っててもらってもいい?」 僕がそう言うと、本宮さんはうなずいて階段に向かった。僕の自室が2階にあるからだ。 僕はキッチンに戻り、2人分のマグカップを準備する。そうこうしているうちに、コーヒーができあがった。片方にだけ砂糖を入れる。砂糖を入れた方が僕用だ。 トレーに乗せたマグカップを慎重に自室まで運び、テーブルに置く。 「勉強の前に、昼間、メッセで言ってたことなんだけど……」 本宮さんの対面に座って、僕は話を切り出した。遼のことを話しておかないと、気になって勉強に身が入らない。 「ああ、友達を紹介したいって言ってたよな」 「うん。渋井遼っていう男子で、僕の親友なんだ。本宮さんのこと話したら、会ってみたいって」 「なるほどな。それで、俺の休みの予定を聞いたわけか」 僕はうなずいて、次の日曜日は僕も遼も予定がないことを伝えた。 「それで、当日は何をしようかって話になってさ。カラオケとボウリングとファミレスと回転寿司が候補に挙がったんだ。本宮さんは、やりたいこととかあったりする?」 「やりたいこと、か……。ムーンリバーで話をするのは、だめなのか?」 僕の口からこの名前が出ないことが不思議だと言わんばかりに、本宮さんは首をかしげる。 「あー……うん、ちょっと」 歯切れの悪い言い方で、僕はそれを却下した。 『ムーンリバー』は、僕の両親が営んでいるカフェの名前だ。自宅のすぐ隣に店がある。日曜日も営業しているし、落ち着いた雰囲気だから話をするのには最適だと思う。でも、両親の店だからこそ、あえて選択肢からはずした。自分もたまに店員として手伝うこともあって、客として利用するのはなんとなく気まずい。 「そうなると、候補に挙がった4つくらいじゃないか? デートで行くって言うなら、また話は別だけどな」 と、本宮さんが思案しながら言った。 たしかに、デートとして行くなら選択肢の幅は増えると思う。でも、今回は、遼と本宮さんの顔合わせという側面の方が大きい。 「日曜日で3人とも予定がないってことなら、カラオケでいいんじゃないか? 久しぶりに歌いたいし、優樹の歌声も聞いてみたいしな」 ある程度騒いでも、他の人の迷惑になることはそうそうないだろうしと、本宮さんが提案する。 「わかった、カラオケだね。でも、僕、そんなに歌上手くないよ?」 そう言いながら、僕は遼にメッセージを送った。今は部活中だろうから、後で確認してくれるだろう。 「別に上手くなくても平気だよ。メインはそこじゃないだろ?」 「そうだけどさ。それで、どこのカラオケ行く?」 「そうだな……。この近くだと『ワンのすけ』かな」 『ワンのすけ』は、僕が通う高校の近くにあるカラオケ店だ。同じ高校の生徒がよく利用している印象がある。かくいう僕も、たまに遼と一緒に行ったりしている。 「そこなら、僕もたまに行くよ」 「そっか。なら、ちょうどいいな。……うん、美味い」 本宮さんはコーヒーに口をつけると、そう言って笑みを浮かべた。 僕は、思わずにやけてしまった。こだわりを持って淹れたわけではないけれど、それでも褒められるとやっぱりうれしい。 「現地集合ってことにして――」 「ムーンリバーに集まるってことでもいいぜ?」 僕の言葉をさえぎった本宮さんは、いたずらっ子のような顔でそう言った。 「本宮さん!」 嫌だとは言えず、むくれながら彼の名前を呼ぶ。 「そう、むくれるなって。冗談だよ」 苦笑しながら、本宮さんは悪かったと謝った。 「それで、集合時間なんだけど、何時頃がいいかな?」 気を取り直して、時間について相談する。 「優樹たちの都合がいい時間でいいよ」 自分はそれに合わせるからと、本宮さんが言った。 僕はうなずくと、場所と集合時間のことを遼に連絡した。 「後は、遼と相談かな」 「決まったら教えてくれ」 「もちろん!」 とりあえず、気がかりなことはなくなったので、僕は机から勉強道具一式を取り出した。 それを見た本宮さんも、仕事モードに切り替えたようで、キリッとした表情をしている。それがまたかっこよくて、僕は見惚れてしまった。 「優樹? どうした?」 「え!? あ……ううん、何でもない」 急に現実の引き戻されて、僕はとっさにそう言った。 本宮さんに見惚れていたなんて、恥ずかしくて言えない。言ったら、確実に喜んでくれるとは思う。でも、僕の方が勉強どころではなくなってしまいそうだった。 「それじゃあ、お願いします」 気持ちを切り替えるようにそう言って、僕は教科書とノートを開いた。* * * *
「――というわけで、ここはこの公式を使って解いた方がいいということになる。ここまではいいな?」 本宮さんの言葉に、僕はうなずいた。 本宮さんの授業が始まり、解説を聞きながら解いていく。ちなみに、1日1教科のみで、今日は数学だ。本当に、学校で習うよりもわかりやすい。学校の先生の教え方が、すべて本宮さんみたいにわかりやすかったならいいのにと思ってしまう。 「優樹、ちゃんと聞いてるか?」 「――っ! あ……うん、ごめんなさい!」 ちょっと違うことを考えていたら、注意されてしまった。表情に出ていたのかな? それとも、本宮さんだからこそ、僕が集中していないことに気づいたのかな? どちらにしても、彼が僕を見てくれていることに変わりはない。うれしい反面、ちゃんとしなきゃと思った。 本宮さんの授業は、1日につき2時間程度だ。でも、今日は勉強を始める前に休日の予定を話していたので、いつもより少しだけ延長した。少しでも、いつもより長く彼と一緒にいられることがうれしかった。 「よし! 今日は、ここまでだな。明日、今日の振り返りとしてテストするから、ちゃんと覚えとけよ」 と、本宮さんに釘をさされてしまった。もし、明日のテストで赤点を取ってしまったら、きついお仕置きが待っているに違いない。さずがに、それは嫌だった。
(後で、ちょっと復習しておこう) 僕は、密かにそう思った。僕の誕生日も無事に終わり、日曜日を迎えた。僕は、目覚ましが鳴る少し前に起きた。今日は、本宮さんと水族館デートに行く日だ。昨夜は早めに寝たので、すっきり起きることができた。眠気もないし、朝食もしっかり食べた。翌日が楽しみすぎて寝られず、朝食もまともに食べられなかった過去の自分とは大違いだ。食器の片づけを終えて支度を整えた直後、呼び鈴が来客を告げた。「はーい!」大声で返事をしながら、玄関に向かう。ドアを開けると、チョコレートブラウンのジャケットと黒のデニムパンツに身を包んだ本宮さんが立っていた。相変わらず、かっこいい。「おはよう、優樹」「本宮さん! おはよう。ちょっと待ってて」僕は言い置いて、自室から荷物を持ってくる。「行ってきまーす!」と、室内に向けて声をかけた僕は家を出た。本宮さんの車で水族館に向かう。「いつも以上に機嫌いいじゃねえか。そんなに楽しみだったのか?」道中の車内で、本宮さんにたずねられた。「そりゃ、もちろん! 大好きな人と水族館デートだよ? テンション上がんないわけないよ」と、僕は満面の笑みで告げた。「そりゃそうか」と、本宮さんも笑顔になる。僕の家から水族館までは、車で1時間ほどかかる。その間に、どう見て回るかをある程度、話し合っておくことにした。「イルカとかのショーって、1日3回あるんだね」スマホで水族館のホームページを見ながら、僕が言う。「そうなんだ。見るか?」本宮さんにそう聞かれ、僕は少し思案する。本当なら、あれもこれもと欲張りたいところだけれど、水族館に丸一日いるわけではない。でも、エリア全部を見て回りたいという気持ちもある。そうなると、何かを諦めることになるわけで。「ショーは、また今度でいいかな。毎日やってるみたいだし」僕がそう言うと、「じゃあ、今回のメインは?」と、たずねられる。「そうだなー……やっぱり、くらげかな」「くらげ?」「うん。くらげがいっぱい泳いでる、巨大な水槽があるんだって。なんか、『幻想的な空間をご覧ください』って書いてあるよ」と、僕はスマホの画面を見ながら告げた。「へえ? それは、さぞかしきれいなんだろうな。優樹は、くらげが好きなのか?」「うん! 昔から好きでさ。ゆらゆら揺れてる感じが、なんかいいんだよね。癒やされるっていうかさ。ずっと見てても飽きないもん。本宮
夕食の途中で、電子レンジが、クッキーが焼き上がったことを知らせた。本当は、すぐにでも天板を引き出した方がいいのかもしれない。けれど、本宮さんお手製の回鍋肉を食べる手が止まらなかった。「美味しかったー! ごちそうさまでした!」と、僕が言うと、本宮さんが笑顔でうなずいた。「そうだ! クッキー、そのままなんだった!」焼き上がったクッキーの存在を思い出し、僕は食器を片づけがてらキッチンに向かう。電子レンジを開けると、シナモンの甘い香りが広がった。いい感じにきつね色に焼き上がっている。僕は、天板に乗っているクッキングシートごと取り出して、1回目に焼いたクッキーが乗っている大皿に入れた。焼き色は、2回目に焼いた方が濃いような気がする。それを持って、僕はリビングに戻った。「いい感じに焼けたよ」と、声をかける。「美味そうだな」と、本宮さんが顔をほころばせる。2人分のインスタントコーヒーを淹れて、クッキーに手を伸ばした。まだ温かい方はしっとりしていて、ほどよく冷めている方はサクッとした食感だった。どちらも、シナモンの味と香りが口の中いっぱいに広がり、とても美味しい。たしかに、以前作ったクッキーよりも美味しく出来上がっている気がする。「うん。マジでいい感じ」と、僕が満足気につぶやくと、「これ、店で出せるんじゃねえか?」と、本宮さんが言い出した。「いや、まだまだだよ。もっとクオリティ上げなきゃ。今のままじゃ、母さんの足もとにも及ばないし」僕は、そう言って肩をすくめた。「へえ? 亜紀先輩って、そんなにお菓子作りうまいのか」と、本宮さんは意外そうに言った。母さんは、仮にも夫婦で営んでいるカフェのスイーツ担当だ。お菓子作りは、それなりに上手だと言っていいと思う。それに、母さんが作るケーキ目当てで来店する客も少なくない。かくいう僕も、母さんが作ったケーキが一番美味いと思っているうちの1人だ。「でも、クオリティーを上げなきゃと思ってるってことは、優樹は亜紀先輩を越えるつもりなんだな?」「まあね。いつになるかは、わかんないけどさ。越えなきゃいけない相手だと思ってる」と、僕は静かに闘志を燃やす。「そういうことなら、協力は惜しまないぜ」と、本宮さんが言ってくれた。彼が味方になってくれるのなら、俄然やる気が出てくるというもの。何より、僕自身が、本宮さ
動画配信サイトでホラー映画を観始めた僕たち。何の変哲もない日常風景から始まったそれを、僕は侮っていた。心霊的な怖さもヒトコワ的な怖さもなかったからだ。不気味な雰囲気を纏(まと)いながら、映画は無慈悲に進んでいく。途中から、僕は本宮さんの腕にしがみついていた。びっくり系のいわゆるジャンプスケアが多様されていたわけではない。得体の知れない恐怖に、小刻みな震えが止まらなかった。「優樹? 大丈夫か?」観終わった後、本宮さんに本気で心配された。僕は、ふるふると首を横に振ることしかできない。視界は、涙で滲んでいた。「ごめんな。まさか、優樹がホラー苦手だとは思ってなかったんだ」謝る本宮さんが、僕の頭をなでる。「こんな、怖いと思ってなかった……」と、僕は涙声で告げる。僕は怖がりな方だけれど、自分でもこんなに耐性がないとは思っていなかった。本宮さんが隣にいなかったら、たぶん途中でギブアップしていただろう。いや、そもそも観ていなかったかもしれない。「ちょっと待ってな」本宮さんは、何を思ったのか、そう言い置いてキッチンに向かった。しばらくして戻ってきた彼の手には、新たなマグカップが1つあった。「これ飲んだら、落ち着くと思うぜ」と、差し出される。素直に受け取った僕は、ふうふうと冷ましながら口にした。マグカップの中身は、温めたミルクセーキだった。卵のコクと牛乳の甘味が、口の中に広がる。その優しい甘さのおかげで、僕の心を支配していた恐怖は次第に消えていった。「本当にごめんな」と、本宮さんがしょんぼりしている。「本宮さんのせいじゃないよ。僕が、ホラー苦手だってことがわかったんだし。それに、美味しいミルクセーキも飲めたことだしね」と、僕が言うと、本宮さんはホッとしたように微笑んだ。時計を見ると、午後3時30分だった。そろそろ夕食のメニューを考える時間だ。「夕飯、何食べたい?」当然のように
(つい……じゃないよ。しんどいって、これ……)息を整えながら、そんなことを思う。体が、妙に熱い。自分の弱点を知られてしまったことだけが原因ではない。確実に、本宮さんの妖艶で甘い声音のせいだ。抗議しようとしたけれど、後ろを振り向くことができない。本宮さんに抱きしめられているからというのもあるけれど、あれだけで昂ってしまった自分が恥ずかしすぎるからだ。今、本宮さんの顔を見たら、確実に彼を求めてしまう。でもそれは、彼の『優樹を大切にしたい』という言葉を蔑(ないがし)ろにしてしまう気がした。「俺な、優樹がうちに泊まりに来てくれるなんて、思ってなかったんだ」と、本宮さんが突然、そんなことを話しだした。甘い声音だけれど、先ほどの妖艶さは鳴りを潜めている。「じゃあ、どうして誘ったの?」平静を装いながら僕がたずねると、本宮さんは軽く笑った。「どうしてだろうな? ……優樹に呼び出されて、一緒にいた男は誰だって聞かれた時、別れ話を切り出されるんじゃねえかって……正直、怖かった。優樹がそれを望むんだったら、大人しく身を引こうとまで考えてた」「そんな、別れるだなんて――! たしかに、あの時は嫉妬したし、本宮さんにイラッとしたのも事実だけど。でも、だからって別れたいなんて思ったことないよ!」僕は、反射的に本宮さんの方に体ごと向き直って言った。いつの間にか、体の妙な熱さは消えている。「そっか。ありがとな」と、本宮さんは優しく微笑んだ。僕たちは、どちらからともなく口づける。触れるだけの軽いキス。それだけで、心が満たされる。「ねえ。本当に、僕が本宮さんのベッド使っていいの?」僕がそうたずねると、本宮さんはもちろんと言うようにうなずいた。「でも、じゃあ本宮さんは?」「俺は、床で寝るから大丈夫だよ。使ってない布団もあるしな」「そんなの悪いよ! 僕が布団で寝る!」そう言った
「本宮さんってさ、キスはしてくれるけど、それ以上のことはしないじゃん。もしかしたら、そういうお相手がいるのかなって思ってさ」言葉を濁しながら話すけれど、彼にはそれで充分に伝わったらしい。「それで、優樹の他にふさわしい人がいるんじゃねえかって考えたわけだ?」確認するように問いかける本宮さんに、僕は素直にうなずいた。「残念ながら、そういう相手はいねえよ。俺は、一目ぼれしてからずっと、優樹一筋だ」「え!? それじゃあ……!」反射的に本宮さんを見る。真摯で真っ直ぐな瞳に絡め取られ、僕は金縛りにでもあったかのように動けなくなった。自分の鼓動がうるさい。心臓が爆発してしまうのではと思うほど、胸が苦しい。「ごめんな。今は、それ以上はしないって決めてんだ」表情を変えずに、本宮さんはそう断言した。期待に胸を弾ませていたのに、一気にどん底に叩き落される。「どうして……?」視界がぐにゃりと歪んだ気がした。本宮さんのかっこいい顔が、次第に滲んでいく。「泣くなって。ネガティブな理由じゃねえんだ」慌てた本宮さんにそう言われるけれど、僕の涙は止まらない。でも、彼の言葉はきちんと聞いておきたいから、声を出して泣くのはどうにか我慢する。「優樹を本気で愛してるから、大切にしたいんだ。一時の欲情で抱いちまったら、優樹を傷つけることになるし、俺も後悔すると思う」本宮さんは一旦、言葉を切った。本宮さんの言葉が、僕のことを想ってのものだというのは理解できる。でも、僕の心の中のもやもやは、一向に消えてくれない。(本宮さんになら、傷つけられてもいいのに……)そんなことを思うけれど、言葉にするには勇気が足りなかった。「それに、俺の歳で高校生に手を出したら、捕まっちまうからな」と、おどけたように告げる本宮さん。いたずらっ子のような笑みを浮かべている。たしかに、もしそれが世間に知られたら、たとえ合意だったとしても本宮さんが逮捕されてしまう。それは、さすがに嫌だ。
たしかに、本宮さんから弱音を聞いたことがない。どんなことも前向きにとらえようとしているのかと思っていたけれど、実際にはそうではないらしい。「かっこつけたがり……」僕がその言葉をくり返してつぶやくと、「片桐! 何、勝手なこと言ってんだよ!」慌てたように、本宮さんが言った。「だって、本当のことだろ?」片桐さんがそう言うと、図星なのか、本宮さんは黙ってしまった。「まったく、誰かと思ったら片桐が来るとはね」と、母さんが3人分のカフェオレを持ってやってきた。片桐さんが、「どうも」と会釈をしている。「亜紀先輩。俺たち、まだ何も頼んでないんですけど……」本宮さんが言うと、「長くなりそうだからね、サービスだよ」と、母さんが珍しいことを言っている。店内で飲食する場合は、身内だろうが容赦なくお代をいただくというのが、母さんのモットーだったはずだ。「ああでも、後で本宮に支払う分から引いとこうかね」と、思い出したように言い置いて、母さんは仕事に戻っていった。「それじゃあ、サービスじゃないじゃん」母さんの足音が聞こえなくなってから僕がぽつりとつぶやくと、本宮さんが小さくため息をついた。片桐さんだけが、よくわからないといった表情をしている。僕は、本宮さんが僕の家庭教師をしていることを話した。「なるほど。それで恋仲にもなった、と」納得したらしい片桐さん。そんな片桐さんを横目に見ながら、面白くなさそうな顔で本宮さんがカフェオレを飲む。どうせ、自分に支払われる金額から引かれるのなら、飲まなければ損だと思ったのかもしれない。「あの、本宮さんがかっこつけたがりで、相手との関係性がこじれがちだっていうのはわかったんですけど、それと片桐さんがここにいる理由って、何か関係あるんですか?」つい、きつい言い方になってしまった。でも、片桐さんがどうして関わってくるのか、本当にわからない。本宮さんがデートのことで相談したからといって、今ここにいる必要はないはずだ。「そう睨まないでくれよ。俺は、君たちの仲を壊したいわけじゃない。むしろ、このままずっと続いてほしいと思ってるんだ」と、片桐さんが苦笑しながら言った。僕が疑いのまなざしで見つめていると、「信じられないのも無理ないか。でもね、俺は、こいつに恋愛感情なんて持ってないんだ。友達としては、つき合いやすい奴だけ