LOGIN「っ、帰る!帰ればいいんでしょ!」
彼女の叫び声が、空気を震わせた。「気をつけて帰れよ」優しさなのか、形式的な言葉なのか。けれどその言葉が、かえって彼女の心を切り裂いたようだった。そんなことを言うから、貴方のことを忘れられないんだよ。「…思ってもないくせに」彼女の声は、かすれていた。その言葉に、私は胸が痛んだ。私には、胸を痛める資格なんてない。けれど、それでも痛かった。「莉沙」その声には、わずかな感情がにじんでいた。それが何なのかは分からない。けれど彼の中にも、何かしらの思いがあるのだと感じた。それが、彼女への未練なのか、罪悪感なのか、それともただの責任感なのか。私には、分からなかった。「そ「え…?」耳に飛び込んできた莉沙さんの言葉に、思わず声が漏れた。恐怖に似たざわめきが同時に広がっていく。「どうしてあんたなんかにかずくんを譲らないといけないのよ」「全部嘘…」さっき私にかけてくれた優しい言葉も、壱馬さんを諦めると言ったことも、全部。信じかけていた心が一瞬で崩れ落ちる。「当たり前でしょ。むしろあんただから諦められないの」私の存在そのものが彼女の執着を強めてしまったのだ。彼女の目に宿る光は狂気に近く、逃げ場を失ったような圧迫感に押し潰されそうになる。「そんな、」心の中では、彼女がそう思っているだろうと分かっていた。私が壱馬さんの隣にいることを、決して認められないのだろうと。けれど、それでも諦めると言った彼女の言葉を信じたくなった。それなのに、嘘だった。「今すぐ別れて」突きつけられた命令に、胸が締め付けられる。「不釣り合いなことくらい、分かってます」必死に絞り出した言葉。自分でも痛いほど分かっている。けれど、それでも壱馬さんの隣にいたい。声は震え、指先は冷たくなっていた。「でも、私は─────」胸の奥で燃える想いが、言葉になる前に押し潰される。「でもとかいらないから。さっさと別れて…!」その叫びと同時に、莉沙さんの手が乱暴にカップを振り上げた。次の瞬間、コーヒーが宙に舞い、茶色の液体が光を反射して飛び散る。熱い液体が迫ってくる瞬間、世界がスローモーションになったように感じた。時間が止まり、音が遠のき、心臓が凍りつく。恐怖で体は硬直し、逃げることも防ぐこともできない。ただ目を閉じて、いたみを受け入れるしかなかった。けれど、いつまで経っても熱さは訪れなかった。恐る恐るまぶたを開けると、「…こんな事だと思った」
「まさか莉沙さんからそんな風に言ってもらえるなんて、思っていなかったので…」正直、耳を疑った。あの莉沙さんが、こんなふうに柔らかい言葉を私に向けてくれるなんて。驚きが胸を突き上げるけれど、それ以上に心の奥がじんわり温かくなる。これまで彼女から浴びた言葉は鋭くて、どこか拒絶の壁を感じていた。だからこそ、今の一言は私にとって信じられないほど大きな意味を持っていた。「初印象最悪でしたよね。すみません」その言葉に胸が少し痛んだ。確かに最初は…。"あんたみたいな女が、かずくんと"あの記憶は鮮明に残っている。でも、事実だから。私はまだ壱馬さんの隣に並べるほど、素敵な人じゃない。今思えば、それも彼女なりの不器用な防衛だったのだろう。謝罪の言葉を口にする莉沙さんの姿に胸が締め付けられるような思いを抱いた。「い、いえ。謝らないでください」慌てて首を振った。謝る必要なんてない。彼女の言葉に込められた不安や後悔を感じ取りながら、少しでもその重さを軽くしてあげたいと願った。「私が、一方的に好きだったんです。それなのに、勝手に勘違いして」その声は震えていた。自分の想いが一方通行だったことを認めるのは、どれほど苦しいことだろう。「…誰かを好きになる気持ちは、決して間違いじゃないです。むしろ、真っ直ぐで素敵だと思います」静かに言葉を紡ぐ。私にこんな事を言う資格があるかは分からないけれど、彼女の痛みを少しでも和らげたい一心で、私は優しく微笑みながらその言葉を伝えた。誰かを好きになる気持ちは、純粋で尊いものだと思うから。「ずっと、自分の気持ちが重くて迷惑なんじゃないかって思ってたんです」その告白は、長い間抱えてきた不安の吐露だった。「それだけ真剣だったってことですから」「どれだけ努力しても、結局一度も振り向いてもらえなかった」
「お待たせいたしました」店員の声が耳に届いた瞬間、張り詰めていた空気が少し緩んだ。テーブルに置かれたタルトと、コーヒーの香りがふわりと広がる。「ありがとうございます」礼儀正しく声を添え、軽く会釈する。自分の緊張を誤魔化すために、丁寧な仕草を意識する。「美味しそう!」莉沙さんの明るい声に、場の空気が一気に華やぐ。その笑顔に少し羨ましさを覚えながらも、私は同じように微笑みを返した。「そうですね」短い返事をしながら、私はタルトの鮮やかな色合いに視線を落とした。表面にきらめく果実の艶やかさと、ふわりと漂う甘い香りが、ほんの一瞬だけ心を和らげてくれる。けれど、その安らぎはすぐに消えてしまう。彼女のように素直に「美味しそう!」と言えたなら…。私は、素直になることが怖い。何をしても否定される世界で生きてきたから、心の奥に染みついた恐れが、言葉を閉ざしてしまう。「ところで花澄さんは、かずくんといつ結婚するんですか?」思いもよらぬ言葉に、心臓が喉までせり上がるような感覚が走り、呼吸が乱れる。「ゴホッ…、ゴホッ、」驚きでコーヒーを飲み込むタイミングを誤り、咳き込んでしまう。頬が熱くなり、視線を合わせられずに俯く。自分の反応があまりに露骨で、恥ずかしさが込み上げる。「花澄さん、大丈夫ですか!?」莉沙さんの慌てる声が聞こえ、私は咳き込みながらも顔を上げた。視線の先には心配そうに眉を寄せた彼女がいて、その手にはおしぼりが握られていた。差し出されたおしぼりを受け取ると、指先にひんやりとした感触が伝わり、胸の奥のざわめきが少し落ち着く。私は慌てて口元を覆い、軽く押さえるようにして拭った。「すみません、大丈夫です」声はまだ少し震えていたが、必死に笑みを添える。「そんなに驚かなくても」莉沙さんはそう言
「今日は私の我儘に付き合ってくれて、ありがとうございます」莉沙さんの言葉に、胸が少し温かくなる。自分から誘ったことに対して我儘と表現するその姿勢に、彼女の気遣いが感じられた。私は両手を膝の上で重ね、少し背筋を伸ばした。緊張はまだ残っているけれど、こうして感謝を伝えてくれることで、場の空気が柔らかくなる。「そんな。私もこうやって外に出てゆっくり話すなんて久しぶりなので、嬉しいです」実家にいた頃は環境がそうさせていた。家族の目や生活のリズムに縛られて、自由に自分の時間を持つことが難しかった。樹と付き合っていた時さえ、デートなんてほとんど出来なかった。そして、壱馬さんの家に来てからも…。壱馬さんは働いているのに、自分だけが休んでいることが許されないように感じてしまう。彼の家に身を寄せている以上、少しでも役に立ちたい、負担を減らしたいという思いが常に胸にあった。「それなら良かったです。かずくんは元気ですか?」壱馬さんの名前が出た瞬間、胸がきゅっと締め付けられる。彼のことを聞かれるのは当然なのに、どこかで心がざわめく。「あ、はい」言葉を探そうとした結果、短い返事になってしまった。もっと自然に話せばいいのに、緊張で声が硬くなる。「昔は週一で会いに行ってたな〜」その言葉に胸が痛む。彼女と壱馬の過去の時間が、鮮やかに浮かび上がる。私は笑顔を保とうとするが、罪悪感が広がる。「そう…なんですね」声は小さく、少し間が空いた。無理に笑みを添えながら、相手を否定しないように気をつけた。「家で映画見たりして」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さなざわめきが広がった。壱馬さんの家で見たロマンス映画がふと頭に浮かぶ。あの時、壱馬さんがこんなDVD持ってたかなって言っていたから、もしかするとそれは莉沙さんのものだったのかもしれない。彼女が壱馬さんの家に通っていた頃に置いていったのか、
「まさか男?」壱馬さんの声が低く落ちた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。どう答えれば安心してもらえるのか、頭の中で必死に言葉を探しながらも、喉が乾いて声が出にくい。心臓の鼓動が早まり、呼吸が浅くなるのを自覚しながら、ただ必死に否定しようとした。「違います!女の子です」ようやく絞り出した声は少し震えていた。必死に否定しながらも、壱馬さんの表情を伺う勇気はなく、視線は床に落ちたまま。「本当に?」疑いがまだ消えていないことが伝わり、唇を噛みしめる。どうすれば安心してもらえるだろうか。「本当です」壱馬さんを安心させたい一心で、勇気を振り絞って顔を上げた。彼の目をまっすぐ見つめる。そこに込めたのは、嘘じゃない、誠実な気持ちだという必死の訴えだった。「二人で?」「はい」「そっか。カフェまで送ろうか?」意外な言葉に、思わず目を見開いた。「明日お仕事じゃ…」平日だし、壱馬さんは忙しいはず。なのに私のために送ろうとしてくれるなんて、嬉しいけど胸が苦しくなる。「…休む」その一言に、心臓が跳ねた。休む?私をカフェに送るためだけに?驚きと、ほんの少しの嬉しさが同時に押し寄せる。でもすぐに罪悪感が勝った。壱馬さんの大事な仕事を休ませてまで、私のために時間を使わせるなんて間違ってる。「だ、駄目です。お仕事はちゃんと行ってください」慌てて声を上げる。壱馬の優しさを否定したいわけじゃない。むしろ、彼を思っての言葉だった。そもそも、会社を休んでまですることじゃない。「でも…」壱馬さんの声には迷いがあった。最初は軽い冗談だと思っていたのに、その響きは次第に真剣さを帯びていく。胸の奥がざわついて、嫌な予感が広がった。もしこのままでは、本当に会社を休んで
「最近新しくできたカフェに行きませんか?」突然の電話に驚き、受話器を握る手が少し汗ばんだ。莉沙さんの明るい声は、私の心を一瞬で揺らす。誘いは唐突で、心の準備もないまま返事を迫られる状況に、胸の奥がざわめいた。「カフェですか?」思わず聞き返す。「はい!」莉沙さんの即答は弾むように明るく、断りづらい空気を一気に作り出す。「えっと、明日でも大丈夫ですか?」少し間を置いて答えたのは、心の中で迷いが渦を巻いていたからだ。断りたい気持ちが一瞬よぎったものの、今度お茶しようと言われた時に、ぜひと答えてしまった記憶が頭をよぎった。その約束を反故にするのは嘘になるし、莉沙さんを傷つけることにもなる。「もちろん」即答され、予定があっという間に決まってしまう。その後も着々と明日の予定が決められ、今更やっぱりやめましょうなんて言える空気でもなかった。心の中で小さな不安が芽生える。壱馬さんにどう伝えるべきか、想像するだけで胸が苦しくなる。「ただいま」その声が玄関から響いた瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。壱馬は靴を脱ぎながら、肩にかけていた鞄を軽く下ろした。「おかえりなさい。…あ、あの」声が少し震える。言い出すタイミングを探しながら、勇気を振り絞る。「ん?」壱馬さんの返事に、心臓が跳ねる。その声は穏やかだったけれど、緊張をさらに高めた。「明日、少し出かけてきてもいいですか?」ようやく言葉にする。両手を前で組み、指先が落ち着かず動く。「お出かけ?」「はい。お昼に少しだけ」短く答え、なるべく自然に振る舞おうとする。けれど声は少し硬く、心の不安が隠しきれない。「いいけど、どこに?」穏やかな声に、少し安心しながらも心臓の鼓動は速い。
まるで冗談の延長のように、深刻さの欠片もなく放たれた一言。 けれど、その軽さがかえって鋭く、心の柔らかい部分に触れてくる。私は、ゆっくりと息を吸い込む。 胸の奥が少しだけ痛む。 呼吸をするたびに、その痛みが広がっていく。「そう…なんでしょうか」まるで、触れられたくない部分を指先で軽く押されたような、そんな感覚。否定したい気持ちは確かにあるのに、言葉にして返す勇気が喉の奥で固まってしまう。私はただ、空気を震わせる程度の声で返すしかなかった。問いかけでも
「俺はお前の世話係じゃない」その言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに震えた。莉沙さんは、ほんの一瞬だけ目を瞬かせた。その表情は驚きとも不満ともつかず、ただ思い通りにならなかったという幼い戸惑いが滲んでいた。「どうして花澄さんはよくて、私は駄目なの」その言葉は、まるで私が特別扱いされていることを責めるようで、同時に、私自身がその理由を知らないことを突きつけてくる。私は、視線を皿に落とした。「花澄は俺の婚約者だ。扱いが違うのは当然だろ」そ
「花澄さんもそう言ってることだし、遠慮なく!」その言葉が明るく響いた瞬間、胸の奥で小さな痛みが走った。私は、グラスの脚を指先でぎゅっと握りしめ、冷たさを感じながら自分の弱さを噛みしめる。店員が気を利かせ、すぐに椅子を準備し始めた。カーペットの敷かれた床に、椅子の脚が軽く擦れる音が響く。その丁寧な動作が、まるでこの場の流れが最初から決まっていたかのように感じられて、胸の奥がさらに重くなる。テーブルの配置が少し整えられ、自然に莉沙さんのスペースが作られていく。彼女は何の迷い
「悪いが、そんなやつとは一緒にいられない」その言葉が壱馬様の口から放たれた瞬間、空気が一変した。「…この前は酷いこと言っちゃってごめんなさい。私のかずくんを取られた気になって、」その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。私のかずくん…か。その響きが、謝罪の言葉よりも強く心に残る。私が彼を奪ったという前提で語られていて、それが事実であるかのように響いた。まぁ、事実ではあるのだろう。私自身、ぽっと出の人間に好きな人を奪われる悲し