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第7話

Penulis: 雪八千
気がつけば空はどんよりと暮れはじめ、夜が街を覆っていた。

静まり返った車内で、玲は助手席に座り、秀一と共に高瀬家を後にした。

月の光が車の窓から差し込み、秀一の横顔を淡く照らす。その冷たい光が彼の持つ鋭さを際立たせ、どこか近寄りがたい雰囲気をまとわせた。

さっきまで高瀬家で強気を張っていた玲も、いつもの大人しさを取り戻し、礼儀正しく秀一に声をかける。

「あの……藤原さん、今日はありがとうございました」

先ほど大勢の前では思わず「秀一さん」と呼んでしまったが、冷静になって考えればあまりにも無礼だ。彼は弘樹と同じ、玲より六歳も年上で、しかも立場もある人間。軽々しく下の名前で呼んでいい相手ではない。

ハンドルを握る秀一の眉がわずかに動いた。玲の呼び方の変化に気づいたらしい。彼は短く視線を寄越したが、言葉はなかった。だがその沈黙が、かえって車内の空気を重くする。

自分の感謝に誠意が足りなかったと思い、玲は焦って言葉を継いだ。

「その……急に連絡してしまってすみません。もしかしたら大事なお仕事中だったかもしれないのに、勝手に頼ってしまって……

でも、もう二度と迷惑はかけません。今日が最後です。これから何があっても、絶対連絡したりしませんから」

玲は欲深い人間ではない。今回のことで借りを返してもらえたと思い、スマホを取り出して秀一の番号を削除しようとする。

そのとき、車が不意に停まった。

身じろぎした玲の耳に、低く落ち着いた声が落ちてきた。

「足と顔をどうした?高瀬に何をされたのか?」

――足と顔?

その言葉に意識を向けた途端、無理に忘れようとしていた痛みが一気に蘇った。

包帯で覆った足は血に染まり、唇は腫れてひりついている。

「足はこの前、ギャラリーで転んだんです。顔は……弘樹さんに、殴られて」

言葉にした瞬間、車内の空気が張り詰めた。秀一が横目で彼女を射抜くように見る。

白く繊細な肌に浮かぶ腫れ。血の気を失った顔――今の彼女は、触れれば砕けてしまいそうな人形のようだった。

「理由は?君は高瀬と付き合っているはずだが」

「っ……!」玲の耳が熱くなる。

衝撃で反応が遅れたが、慌てて声を上げる。

「ど、どうしてそれを……」

弘樹との関係は、ごく親しい友人にしか話していない。仕事で忙しい秀一が、知っているはずがないと思っていた。

秀一は前を向き直る。

「一度、俺を助けてくれた恩人だ。君の近況について、たまに情報が入る」

つまり、偶然の延長で、彼は彼女と弘樹の関係を知ったにすぎない。

玲は呆然としながら頷いた。たった一度助けただけの相手に、ここまで注目されていたとは夢にも思わなかった。

だが同時に、今日の出来事を知られてしまったことが、どうしようもなく恥ずかしかった。

三年も尽くしてきた相手が、他の女のために自分を殴るなんて……

だが冷静に考えれば、弘樹と綾の婚約は両家の利害だけではなく、もともと二人の気持ちが結びついていたのかもしれない。

玲ははっきり覚えている。庭を案内していたとき、綾は「仕事がきっかけで弘樹が好きになった」と微笑んで語っていた。

思い返せば、一年前。弘樹が高瀬グループの部長に昇進した日。

綾は彼を驚かせようと、一日がかりで料理を用意し、家で待っていた。だが退勤時刻が近づいた頃、弘樹は「忙しいから帰れない」と告げたのだ。

がっかりしながらも、玲はそれに慣れていた。ワインを飲みながら料理を口にし、次のサプライズを考えようと気持ちを切り替えていた。

けれどあの夜。ゴミを捨てに出たとき、月明かりの下で弘樹が細い影を抱き寄せている姿を見てしまった。

その女性は背伸びして彼に口づけようとし、弘樹は動かなかったが、それでも拒まず受け入れていた。

手にしていたゴミ袋が、鈍い音を立てて地面に落ちる。その気配に弘樹の肩が震えたが、玲が駆け寄ったときには、あの小さな影はもう消えていた。

「さっきの相手は誰?」と問うと、弘樹は玲の頭を撫で、柔らかな声で答えた。

「ただの同僚だよ。送ってくれただけで、挨拶して帰った。お前、飲みすぎて見間違えたんだろ」

酒で頭がぼんやりしていた玲は、幼い頃から彼を信じてきたこともあり、その言葉にすがりついた。本当に見間違えたのだと、自分を納得させた。

玲は疑わなかった。一番優しい弘樹が、裏切るはずがないと。

けれど実際には、あの瞬間から弘樹は玲を傷つけ始め、自らも堕ちていったのだ。裏切りには必ず兆しがある。

それでも玲は毒を蜜だと信じて飲み続け、血を流し、涙を流し、ついにはボロボロになった。

思い出の中から意識を戻し、玲は潤んだ瞳で秀一を見る。

「私と弘樹さんは……もう別れたんです」

「……本当か?」

秀一の声は深く、瞳は底の見えない海のようだった。

数分の沈黙ののち、彼はゆっくりと言葉を継いだ。

「綾と高瀬の婚約は、まだ三か月先だ。止めたければ間に合う」

確かにそうだ。両家の婚約は、弘樹と綾の意志だけで決まることではない。

秀一は綾の腹違いの兄にして、藤原家の本当の当主。

玲は八歳から高瀬家で暮らし、心の底から弘樹を愛してきた。だからこそ、認められなくても三年も彼と関係を続けてこられたのだ。

秀一には、この大切な恋を彼女がそう簡単に手放すとは思えなかった。

だが玲は小さく首を振り、微笑みさえ浮かべる。

「今日、高瀬家で騒ぎを起こしたのは、ただ頭に血が上っただけだと思われるかもしれません。でも、もう十分考えました。

私は弘樹さんを愛していたから、たくさん我慢してきました。でも今回、はっきりわかったんです。片方だけが必死にしがみつく恋なんて、意味がないって。

だから潔く終わりにします。弘樹さんとの関係は、もう完全に終わったんです」

恋だろうと家族だろうと……求められないなら、自ら手放すまで。

秀一に婚約を止めてもらう必要など、どこにもない。

玲は真剣な面持ちで続けた。

「藤原さん。私と高瀬家のことは、簡単に片付けられるものではありません。今日こうして私を連れ出してくださっただけで、十分恩を返していただきました。だから、どうか私のために、ご自身を巻き込んだりしないでください」

そもそも、子供の頃、玲が秀一を助けたのも、ほんの偶然にすぎなかったのだから。
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