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2話

作者: Amy
last update 公開日: 2026-09-13 14:43:22

そのネックレス、外れそうです

ホテルのバーで、1人でケーキを食べる。

32歳になって初めてやってみたけれど、かなりいい。

午後10時半。

窓の向こうには、雨に濡れた街の灯りが広がっている。

私はカウンターの端で、チョコレートケーキをひと口食べた。

濃い。

甘い。

最高。

誰にも一口あげなくていい。

これだけでも、1人でホテルに泊まった価値がある。

今夜は、自分のためだけに取った部屋だった。

大きなベッド。

夜景。

バスタブ。

そして、ちょっと高いケーキ。

完璧。

――だったのだけれど。

「それ、かなりおいしいですか?」

隣から声がした。

見ると、ひとつ席を空けたところに男性が座っていた。

30代半ばくらい。

黒いシャツ。

ジャケットは椅子の背に掛けてある。

グラスにはウイスキーらしき琥珀色。

「……なんで分かるんですか」

「さっきから、食べるたびに目を閉じてるので」

恥ずかしい。

全然気づいていなかった。

「そんなに?」

「3回確認しました」

「見すぎじゃないですか?」

「すみません」

彼は笑った。

謝る気は、あまりなさそうだった。

私はフォークを置く。

「そんなに気になるなら頼めばいいじゃないですか」

「甘いもの、そんなに得意じゃなくて」

「じゃあ見ないでください」

「でも、おいしそうに食べる人を見るのは好きです」

さらっと言われた。

これは、あれだ。

ちょっと調子のいい人だ。

私は知っている。

こういう男性の言葉を真面目に受け取ってはいけない。

「普段からそういうこと言ってるんですか?」

「何を?」

「女性をちょっと喜ばせるようなこと」

彼は少し考えた。

「今日は初めてです」

「今日は?」

「普段はもっと感じ悪いです」

思わず笑ってしまった。

「そこ、普通は否定するところですよ」

「嘘つくよりいいかなと思って」

そのあと、なぜか少しだけ話した。

彼もこのホテルに1人で泊まっているらしい。

理由は聞かなかった。

私の理由も聞かれなかった。

それがよかった。

名前も仕事も知らない。

好きなケーキと、お酒の好みだけ。

こういう会話は楽だ。

明日の自分に何も持ち越さなくていい。

「もう1個食べようかな」

私がケーキのメニューを開くと、

「それは止めたほうがいいです」

「どうして」

「さっき、これで最後って言ってました」

「聞いてたんですか」

「3回目のひと口のあとに」

本当に見すぎだ。

結局、2個目はやめた。

悔しい。

11時を過ぎて、私たちはほぼ同時に席を立った。

偶然、エレベーターも一緒だった。

彼は15階。

私は16階。

「惜しい」

彼が言った。

「何が?」

「同じ階なら、もう少し偶然っぽかったのに」

「何を企んでるんですか」

「何も」

絶対に何か企んでいる顔だった。

でも、不快ではなかった。

むしろ少し楽しい。

エレベーターの鏡に自分が映る。

ワンピースの襟元に、小さなネックレス。

今日は少しだけいい服を着た。

誰に見せるわけでもなかったけれど、自分のために。

そのとき。

「待って」

彼が急に言った。

「え?」

「動かないで」

さっきまでの軽い声とは違った。

私は反射的に止まる。

彼が1歩近づいた。

「ネックレス」

「え?」

「留め具、外れかけてます」

首元を見る。

見えない。

「たぶん、このままだと落ちます」

「ほんと?」

「取ります?」

私は一瞬迷って、髪を片側へ寄せた。

「……お願いします」

彼が私の後ろに立つ。

急に、距離が近くなった。

鏡越しに彼の顔が見えた。

さっきまで何でも軽く言っていたくせに、今は妙に真剣だ。

「触りますね」

低い声が、すぐ後ろから聞こえた。

指先が首の後ろに触れた。

ほんの少し。

それだけなのに、肩がぴくっと動いた。

「すみません。冷たかった?」

「……大丈夫」

本当は逆だった。

触れたところだけ熱い。

彼の指が、髪をそっと避ける。

うなじに空気が触れた。

そのあとを追うように、彼の指先がもう一度触れる。

近い。

すごく近い。

背中に彼の体温があるのが分かる。

直接触れてはいない。

なのに、触れているより困る。

「絡まってるな」

小さく呟く声が、耳のすぐ近くに落ちた。

私は前だけを見ることにした。

鏡を見たら、たぶん目が合う。

それはまずい。

理由は分からないけれど、まずい。

「痛かったら言って」

「はい」

彼の指が、首筋をかすめた。

ぞくっとした。

今度は隠せなかった。

「寒い?」

「……エアコンが」

苦しい言い訳だった。

彼が鏡越しに私を見る。

口元が、少し笑っている。

絶対に気づいてる。

でも何も言わなかった。

数秒後。

「取れた」

首元からネックレスが離れる。

彼が私の前へ手を出した。

掌の上に、小さなチェーン。

「危なかったですね」

「ありがとう」

受け取ろうとして手を伸ばす。

彼はすぐには渡さなかった。

「落とさないで」

「落としません」

「さっき落としかけてました」

「私じゃなくて留め具のせいです」

「じゃあ」

彼は私の手を取った。

驚く間もなく、ネックレスを掌に乗せる。

そして、私の指をゆっくり閉じさせた。

最後に親指が、手の甲を一度だけ撫でた。

ほんの一瞬。

わざとなのか。

偶然なのか。

その境目が、一番困る。

チン。

15階。

扉が開いた。

彼は手を離した。

「じゃあ、僕ここなので」

「あ……はい」

急に普通に戻るの、ずるくない?

彼がエレベーターを降りる。

そして振り返った。

「ケーキ」

「?」

「2個目、食べなくて正解でしたね」

「なんで?」

「眠れなくなるから」

私は思わず笑った。

「もう十分眠れなさそうですけど」

口に出してから、

しまった、

と思った。

彼が一瞬止まった。

それから、かなり楽しそうに笑った。

「それ、僕のせいなら嬉しいです」

扉が閉まった。

私は1人になった。

16階まで、あと数秒。

鏡を見る。

顔が赤い。

エアコンのせいではない。

部屋に戻り、ネックレスをテーブルに置いた。

お風呂に入って。

大きなベッドに潜って。

電気を消した。

目を閉じる。

首の後ろに、指先の感触がまだ残っている気がした。

別に、何もなかった。

名前も知らない。

連絡先も知らない。

キスだってしていない。

ただネックレスを外してもらっただけ。

それだけなのに。

私は布団を鼻まで引き上げた。

「……こういうのでいいんだよね」

誰に言うでもなく呟く。

明日になれば、また普通の日。

でも今夜くらい、

知らない誰かの指先を思い出しながら眠るのも悪くない。

もう一度、首の後ろに手を当てる。

ちょっとだけ笑った。

今夜はいい夢が見られそうだった。

****

はい、今日は「うなじ」です。こういうの、下手なキスより困るんだよね。

思い出すのは今夜だけにして、おやすみ。

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