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夜11時のココア
温泉旅館の夜11時。
私は、完全に目が冴えていた。
せっかく1人で温泉に来たのに。
露天風呂には2回入った。
夕食では、普段なら頼まない地酒まで飲んだ。
ふかふかの布団も敷いてある。
あとは気持ちよく眠るだけ。
――なのに、眠れない。
「こういうところだけ、期待を裏切らないんだよね……」
天井に向かって呟いた。
旅行先では、だいたい眠れない。
枕が違う。
時計の音が気になる。 廊下を誰かが歩くだけで目を開ける。そのくせ帰りの電車では爆睡する。
我ながら面倒くさい。
もう一度温泉に行こうかと思ったけれど、3回目はさすがに茹で上がりそうだった。
私は浴衣の上に羽織を着て、部屋を出た。
1階に小さなラウンジがあったはずだ。
水でも飲もう。
廊下は静かだった。
古い旅館だから、歩くたび床が小さく鳴る。
窓の向こうは真っ暗な山。
ちょっと怖い。
私は自然と早足になった。
ラウンジまで来ると、明かりがついていた。
そして、
「……あ」
男の人がいた。
チェックインのとき、フロントで見かけた人だ。
たぶん従業員。
30代くらい。
昼間はきちんとジャケットを着ていたのに、今は白いシャツの袖を肘までまくっている。
ネクタイもない。
シャツの一番上のボタンも外れている。
昼間よりずっと無防備に見えた。
その人が、ものすごく真剣な顔でコーヒーマシンを見つめていた。
私に気づくと、少し気まずそうに笑う。
「眠れません?」
いきなり当てられた。
「なんで分かったんですか」
「夜11時に浴衣でラウンジへ来る人は、だいたい眠れない人です」
「温泉マニアかもしれません」
「それなら大浴場へ行きます」
正論だった。
「……眠れません」
「ですよね」
彼はまたコーヒーマシンへ目を戻した。
「そちらは?」
「戦ってます」
「何と?」
「これと」
マシンの横には、ココアの粉と牛乳。
「ココア?」
「飲みたくなったんですけど、牛乳の温め方が分からなくて」
私は思わず彼を見る。
「旅館の人ですよね?」
「夜番なんですけど、今日が3日目で」
「新人さん」
「34歳の新人です」
ちょっと笑ってしまった。
「笑いましたね」
「ごめんなさい」
「いいです。自分でも若干面白いので」
彼も笑った。
「飲みます?」
「何を?」
「成功するか分からないココア」
怪しい。
でも、飲みたい。
「成功したら」
「厳しいなあ」
彼が説明書を広げた。
「これ、読めます?」
「貸してください」
横から覗き込む。
その瞬間、彼も同じように顔を寄せた。
近い。
思わず息を止めた。
湯上がりなのか、石けんに混じって少しだけ甘い香りがした。
さっきまで離れて見ていたときには気づかなかった。
首元も、腕も、思ったより男っぽい。
――何を見てるんだ、私は。
慌てて説明書に視線を落とす。
「……スチームじゃないですか?」
「どこです?」
「ここ」
指を差したところへ、彼の手が重なった。
ほんの一瞬。
「あ」
「あ、すみません」
彼はすぐ手を離した。
なのに私は、その場所だけ妙に意識してしまう。
温泉に入りすぎたせい。
地酒のせい。
そういうことにしておこう。
「押しますよ」
「どうぞ」
ボタンを押した瞬間、
ブシュッ。
白い蒸気が勢いよく噴き出した。
「わっ」
驚いて後ろへ下がろうとした私の腰に、彼の手が触れた。
転ばないよう支えただけ。
分かっている。
分かっているけれど。
「危ない」
耳のすぐ近くで声がした。
背中に彼の胸がかすかに触れている。
腰に添えられた手は大きくて、思ったより熱かった。
1秒。
たぶん、それくらい。
彼はすぐ離れた。
「すみません」
「……いえ」
こっちを見ないでほしい。
たぶん今、顔が赤い。
「暑いですか?」
「え?」
「顔、赤いから」
よりによって見るんだ。
「温泉に2回入ったので」
「2回?」
「はい」
「それは入りすぎですね」
「そうですよね」
うん。
全部、温泉のせいだ。
それでいこう。
やがてラウンジに甘い匂いが広がった。
「できた」
彼が少し嬉しそうに言う。
大人2人でココア1杯に喜んでいるのが、なんだかおかしかった。
彼はカップを2つ用意して、温めた牛乳を分ける。
「はい。夜更かし仲間に」
渡されたカップを受け取る。
また指先が触れた。
今度は、お互いすぐには離さなかった。
ほんの一瞬長かった気がした。
気のせいかもしれない。
たぶん、気のせい。
そのくらいがちょうどいい。
窓際のソファに並んで座った。
外は真っ暗。
遠くで川の音だけがしている。
一口飲む。
「あ、おいしい」
「ほんとですか?」
彼も飲んで、眉を寄せた。
「甘すぎた」
「私はこれくらい好きです」
「じゃあ成功ですね」
少し沈黙した。
でも、不思議と気まずくない。
旅館の夜は静かで、暖房の音までゆっくり聞こえる。
「1人旅ですか?」
「はい」
「いいですね」
普通なら、
寂しくないですか、と聞かれそうなところだった。
でも彼は、それ以上何も言わなかった。
「1人旅、好きなんですか?」
「好きです。誰にも合わせなくていいから」
「分かります」
「本当に?」
「僕も1人でご飯食べるの好きなので」
規模が違う。
思わず笑うと、彼も笑った。
「夜の旅館って、いいですよ」
彼は窓の外を見た。
「みんな寝てるから、何も起きないんです」
「何も起きないのが好きなんですか?」
「はい」
即答だった。
「何も起きない夜って、贅沢じゃないですか」
私はカップを両手で包んだ。
確かに。
誰からも呼ばれない。
何かを決めなくていい。
誰かに合わせなくていい。
ただ温泉に入って、浴衣を着て、知らない人と甘いココアを飲んでいる。
「……いいですね」
「でしょう?」
彼がこちらを向いた。
目が合う。
近い距離で見ると、思っていたよりまつ毛が長い。
私が先に視線を逸らした。
なんとなく、悔しい。
カップが空になったころ、私は立ち上がった。
「そろそろ戻ります」
「眠れそうですか?」
「たぶん」
「眠れなかったら、また来ます?」
一瞬、返事に困った。
彼はすぐに笑う。
「ココアくらいなら作れるようになったので」
「じゃあ考えておきます」
「お待ちしてます」
部屋へ戻る廊下で、さっき腰に触れた手を思い出した。
ほんの一瞬だったのに。
こういうのは困る。
34歳の新人さん。
ココアの作り方も知らないくせに。
変なところだけ、妙に慣れて見えた。
部屋に戻り、布団へ潜る。
さっきまで気になっていた枕も、時計の音も、もうどうでもよかった。
眠れなかったら、また1階へ行けばいい。
そう思った。
でも。
できれば今夜は、もう行かないほうがいい気もした。
次に会ったら、
ココアだけでは済まず、もう少し眠れなくなりそうだから。
そんなことを考えているうちに、
私はいつの間にか眠っていた。
何も起きない夜もいい。
でも、
ほんの少しくらいなら。
何か起きても悪くない。
****
はいはい、今「もう1回ラウンジ行けばいいのに」って思ったでしょ。私も思いました。
でも今夜はここまで。続きは勝手に妄想しながら、いい子で寝ようね。おやすみ。そのネックレス、外れそうですホテルのバーで、1人でケーキを食べる。32歳になって初めてやってみたけれど、かなりいい。午後10時半。窓の向こうには、雨に濡れた街の灯りが広がっている。私はカウンターの端で、チョコレートケーキをひと口食べた。濃い。甘い。最高。誰にも一口あげなくていい。これだけでも、1人でホテルに泊まった価値がある。今夜は、自分のためだけに取った部屋だった。大きなベッド。夜景。バスタブ。そして、ちょっと高いケーキ。完璧。――だったのだけれど。「それ、かなりおいしいですか?」隣から声がした。見ると、ひとつ席を空けたところに男性が座っていた。30代半ばくらい。黒いシャツ。ジャケットは椅子の背に掛けてある。グラスにはウイスキーらしき琥珀色。「……なんで分かるんですか」「さっきから、食べるたびに目を閉じてるので」恥ずかしい。全然気づいていなかった。「そんなに?」「3回確認しました」「見すぎじゃないですか?」「すみません」彼は笑った。謝る気は、あまりなさそうだった。私はフォークを置く。「そんなに気になるなら頼めばいいじゃないですか」「甘いもの、そんなに得意じゃなくて」「じゃあ見ないでください」「でも、おいしそうに食べる人を見るのは好きです」さらっと言われた。これは、あれだ。ちょっと調子のいい人だ。私は知っている。こういう男性の言葉を真面目に受け取ってはいけない。「普段からそういうこと言ってるんですか?」「何を?」「女性をちょっと喜ばせるようなこと」彼は少し考えた。「今日は初めてです」「今日は?」「普段はもっと感じ悪いです」思わず笑ってしまった。「そこ、普通は否定するところですよ」「嘘つくよりいいかなと思って」そのあと、なぜか少しだけ話した。彼もこのホテルに1人で泊まっているらしい。理由は聞かなかった。私の理由も聞かれなかった。それがよかった。名前も仕事も知らない。好きなケーキと、お酒の好みだけ。こういう会話は楽だ。明日の自分に何も持ち越さなくていい。「もう1個食べようかな」私がケーキのメニューを開くと、「それは止めたほうがいいです」「どうして」「さっき、これで最後って言ってました」「聞いてたんですか」「3回目のひと口のあとに」
夜11時のココア温泉旅館の夜11時。私は、完全に目が冴えていた。せっかく1人で温泉に来たのに。露天風呂には2回入った。夕食では、普段なら頼まない地酒まで飲んだ。ふかふかの布団も敷いてある。あとは気持ちよく眠るだけ。――なのに、眠れない。「こういうところだけ、期待を裏切らないんだよね……」天井に向かって呟いた。旅行先では、だいたい眠れない。枕が違う。時計の音が気になる。廊下を誰かが歩くだけで目を開ける。そのくせ帰りの電車では爆睡する。我ながら面倒くさい。もう一度温泉に行こうかと思ったけれど、3回目はさすがに茹で上がりそうだった。私は浴衣の上に羽織を着て、部屋を出た。1階に小さなラウンジがあったはずだ。水でも飲もう。廊下は静かだった。古い旅館だから、歩くたび床が小さく鳴る。窓の向こうは真っ暗な山。ちょっと怖い。私は自然と早足になった。ラウンジまで来ると、明かりがついていた。そして、「……あ」男の人がいた。チェックインのとき、フロントで見かけた人だ。たぶん従業員。30代くらい。昼間はきちんとジャケットを着ていたのに、今は白いシャツの袖を肘までまくっている。ネクタイもない。シャツの一番上のボタンも外れている。昼間よりずっと無防備に見えた。その人が、ものすごく真剣な顔でコーヒーマシンを見つめていた。私に気づくと、少し気まずそうに笑う。「眠れません?」いきなり当てられた。「なんで分かったんですか」「夜11時に浴衣でラウンジへ来る人は、だいたい眠れない人です」「温泉マニアかもしれません」「それなら大浴場へ行きます」正論だった。「……眠れません」「ですよね」彼はまたコーヒーマシンへ目を戻した。「そちらは?」「戦ってます」「何と?」「これと」マシンの横には、ココアの粉と牛乳。「ココア?」「飲みたくなったんですけど、牛乳の温め方が分からなくて」私は思わず彼を見る。「旅館の人ですよね?」「夜番なんですけど、今日が3日目で」「新人さん」「34歳の新人です」ちょっと笑ってしまった。「笑いましたね」「ごめんなさい」「いいです。自分でも若干面白いので」彼も笑った。「飲みます?」「何を?」「成功するか分からないココア」怪しい。でも、飲みたい。「成功したら」







