로그인午後9時58分。
新幹線のグリーン車は、思っていたより静かだった。
私は窓側の席に座り、コートを膝に置いた。
あと2時間。
家に着くころには、日付が変わっている。
今日はもう何もしたくない。
スマホも見たくない。
誰とも話したくない。
買ったばかりのペットボトルの水を1口飲んで、座席を少し倒した。
そのとき。
「すみません」
低い声がした。
顔を上げる。
隣の席に、男性が立っていた。
40代前半くらい。
濃紺のスーツ。
ネクタイは外して、シャツの1番上のボタンも開けている。
片手には薄い革のバッグ。
髪には少しだけ白いものが混じっていた。
いかにも仕事ができそうな人。
というか、
たぶん実際にできる。
そういう空気だった。
「隣、いいですか」
「もちろん」
私がバッグを寄せると、彼は短く会釈して座った。
それだけ。
会話は終わった。
よかった。
今夜は静かに帰れそう。
彼はノートパソコンも出さなかった。
スマホを1度確認しただけで、すぐポケットにしまう。
そのまま窓の外を見る。
意外だった。
こういう人は、新幹線でもずっとメールを返していそうなのに。
しばらくして、車内販売のワゴンが来た。
私は迷った末、缶のハイボールを買った。
隣の彼も同じものを頼んだ。
思わず見る。
彼もこちらを見る。
「同じですね」
私が言うと、
「真似したわけじゃない」
「そこまで言ってません」
彼の口元が少しだけ上がった。
「じゃあ、乾杯します?」
「何に」
「今日が終わったことに」
彼は一瞬だけ考えて、
缶を少し持ち上げた。
「それならいい」
小さく缶を合わせる。
カチン。
音はそれだけ。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
その言い方が妙に自然だった。
ハイボールを半分飲んだあたりで、眠気がきた。
まずい。
寝過ごす距離ではない。
終点まで行くわけでもない。
私はスマホでアラームを設定した。
それを隣の彼が見ていた。
「寝るの?」
「寝ません」
「アラームまでかけて?」
「念のためです」
「もう目が半分閉じてる」
失礼だ。
「閉じてません」
「じゃあ俺のネクタイの色、言える?」
見た。
ネクタイなんてしていない。
「してないじゃないですか」
「起きてるな」
「試したんですか?」
「一応」
腹が立つ。
でも、少し笑ってしまった。
「眠いなら寝ろ」
さらっと言われた。
「子どもじゃないんですけど」
「知ってる」
彼は缶を1口飲む。
「だから言ってる」
その意味を考えた。
よく分からない。
でも聞くのも悔しい。
私は窓の外を見る。
暗い。
たまに街の灯りが流れる。
たぶん5分くらいは頑張った。
そのあと。
記憶がない。
目が覚めたとき、
最初に感じたのは重さだった。
膝の上。
見る。
濃紺のジャケットが掛かっていた。
隣を見る。
彼はシャツ姿になっている。
腕を組んで、目を閉じていた。
「……すみません」
小声で言う。
彼が目を開ける。
起きていたのかもしれない。
「何が」
「これ」
ジャケットを持ち上げる。
「俺の」
「それは分かります」
「寒そうだったから」
確かに車内は少し冷えていた。
「起こしてくれればよかったのに」
「気持ちよさそうに寝てる人間を起こすほど、俺も性格悪くない」
「でも、そっち寒いでしょ」
「別に」
私はジャケットを返そうとした。
彼が片手で押し戻す。
「まだいい」
「でも」
「あと20分だろ」
私の降りる駅。
なんで知ってるんだろう。
顔に出たらしい。
「アラームの表示、見えた」
「ああ」
「心配しなくても、個人情報まで見てない」
「疑ってません」
「ちょっと疑った顔してた」
よく見ている。
私はジャケットをもう1度膝に掛けた。
ほんのり温かい。
少しだけ、彼の匂いがする。
香水というより、
シャツと石けんと、わずかにお酒。
大人の男の匂い。
――何を考えているんだ。
私はハイボールの残りを飲んだ。
ぬるい。
「寝癖」
彼が言った。
「え?」
「右」
自分の髪に触れる。
分からない。
「ここ」
彼が手を伸ばした。
反射的に体が止まる。
指先が、こめかみの少し上に触れた。
髪をゆっくり押さえる。
「……ひどいですか?」
「結構」
「最悪」
「誰も見てない」
「あなたが見てるでしょ」
「俺は別に気にしない」
指が髪をすくう。
少し絡まっていたらしい。
耳の上を通って、後ろへ流される。
私は動けなかった。
さっきまで眠かったのに、
完全に目が覚めている。
「動くな」
低い声。
「絡んでる」
まただ。
こういう言い方。
命令されるのは好きじゃない。
普段ならたぶん、
自分でやります、
と言う。
なのに今は、
なぜかそのまま座っていた。
彼の指が髪をほどく。
ゆっくり。
急がない。
耳に触れそうで、触れない。
その距離が妙に落ち着かない。
「取れた」
「……ありがとうございます」
彼は手を離した。
私はすぐ窓を見る。
顔が熱い。
お酒のせいにしていいだろうか。
たぶん無理だ。
「赤いな」
「ハイボールです」
「半分しか飲んでない」
「弱いんです」
「そういうことにしとく」
その言い方がずるい。
しばらくして、私はジャケットを返した。
「もう大丈夫です」
彼は受け取る。
そのまま着ようとして、少し止まった。
「これ」
「?」
私のコートの襟を指す。
片側だけ内側に折れていた。
「ああ」
自分で直そうと手を上げる。
彼のほうが早かった。
「動くな」
また。
今度は、首元。
彼が身を寄せる。
近い。
コートの襟を指先でつまんで、ゆっくり外へ返す。
それだけの動作なのに、
顔が近すぎる。
シャツの襟元が見える。
首筋も。
年齢のせいか、
若い男性とは違う落ち着きがあった。
変に力が入っていない。
私が意識しているのも、
たぶん分かっている。
でも急がない。
「これでいい」
指が最後に首元の布を軽く整えた。
その瞬間、
ほんの少しだけ肌に触れた。
私は息を止める。
彼の目が私を見る。
「……何」
「いえ」
「何か言いたそうだけど」
「近いなと思って」
言ってしまった。
彼は少しだけ笑った。
でも、すぐには離れない。
「今さら?」
低い声だった。
一瞬。
何も言えなかった。
そのあと彼は普通に席へ戻った。
何事もなかったみたいに。
ずるい。
絶対に分かってる。
「慣れてますね」
私が言う。
「何が」
「こういうの」
「どういうの」
「女性を困らせるの」
彼が少し考える。
「困ってる?」
「少し」
「じゃあ、やめる」
あっさり。
「……そこは否定しないんですね」
「嫌がってるならやめる。それだけだろ」
その答えに、
少しだけ拍子抜けした。
同時に、
少し安心した。
「嫌ではないです」
言ってから、
しまったと思った。
彼がこちらを見る。
目が合う。
しばらく。
「それ」
彼が言う。
「俺に言って大丈夫?」
低い。
さっきより少しだけ声が近い。
「……大丈夫じゃないかも」
「なら、もう言うな」
「はい」
素直に返事をしてしまった。
彼が笑った。
ほんの少し。
「いい子」
それは反則だと思う。
私はもう1度窓を見る。
絶対に顔を見られたくなかった。
*
到着を知らせるアナウンスが流れた。
私はバッグを持つ。
彼はまだ先まで乗るらしい。
「じゃあ」
立ち上がる。
「ジャケット、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「あと……髪も」
「襟も?」
「それも」
彼が少し笑った。
「今日はよく寝ろよ」
「もう寝ました」
「足りない」
「分かるんですか」
「顔に出てる」
本当に失礼な人だ。
でも、
嫌いじゃない。
「そっちも」
私が言う。
「何が?」
「ちゃんと寝てください」
一瞬、
彼が目を細めた。
「俺?」
「はい」
「珍しいな」
「何が」
「今日初めて言われた」
それ以上は聞かなかった。
扉の前へ向かう。
降りる直前、
後ろから声がした。
「おやすみ」
振り返る。
彼はもうジャケットを着ていた。
さっきまで私の膝にあったもの。
「……おやすみなさい」
ホームへ降りる。
新幹線が動き出す。
窓の向こうに彼がいる。
でも、もう見ないことにした。
今日はこれくらいでいい。
家に帰って、
シャワーを浴びて、
ベッドに入った。
目を閉じる。
眠い。
ちゃんと眠い。
なのに、
「眠いなら寝ろ」
あの低い声だけが、
なぜかもう1度聞こえた気がした。
私は布団を少しだけ引き上げた。
まあいい。
今夜くらい、
素直に言うことを聞いておこう。
****
今日くらいは、誰かに「もう休め」って言われたことにしていいよ。
ちゃんと布団に入ったら、あとは何も考えずに。おやすみ。午後9時25分。木曜の夜。駅裏のビル3階にある、小さなダンスバーへ来た。看板には、〈初心者歓迎 サルサナイト〉友達に送られてきた動画を見て、なぜか気になった。木曜。あと1日。少しくらい変なことをしてもいい。最初の30分は初心者レッスン。「初めてですか?」声をかけてきたのは30代前半くらいの男性。黒いTシャツ。細身だけど肩はしっかりしている。「見れば分かる?」「かなり」「まだ踊ってないのに」「出口確認してる顔」ばれている。「帰らないです」「安心しました」彼はスタッフではなく、毎週来ているらしい。「先生?」「先生じゃないです。でも初心者の相手はできます」「お願いします」最初は足だけ。前。戻る。後ろ。戻る。簡単そうなのに、音楽が入ると急に分からない。「逆です」「分かってる」「分かってて逆?」「体が」彼が笑う。次は手。「軽く」「どれくらい?」「握手より弱く」指が触れる。「これくらい」「逃げそう」「逃げないです」音楽。1、2、3。5、6、7。彼がリードする。思ったより近い。「下見ない」「足見たい」「僕見て」「それが一番難しい」「何で?」「知らない人だから」「じゃあ名前聞きます?」名乗る。彼も。「これで知らない人じゃない」「雑」次は回転。彼の
午後9時40分。水曜の夜。駅前のアロママッサージ店に入った。今週はまだ水曜。なのに肩が重い。首も固い。たぶん、座りすぎ。見すぎ。考えすぎ。受付で60分コースを選ぶ。担当は30代くらいの女性。髪を低い位置でまとめ、声が静か。「今日はどこがお疲れですか?」「全部」正直に答える。彼女が少し笑う。「では、特に気になるところは?」「肩と首」個室へ案内される。暗い照明。静かな音楽。少し甘い香り。着替えて、うつ伏せになる。「失礼します」肩にタオル。その上から、ゆっくり圧がかかる。「……硬いですね」「そんなに?」「かなり」最近何でもかなり。「痛かったら言ってください」肩甲骨のあたり。痛い。でも気持ちいい。「そこ」思わず声が出る。「ここですか?」「そこ」圧が少し深くなる。「あー……」変な声。でももうどうでもいい。「かなり溜まってますね」「何が?」「疲れが」「よかった。悪いものかと思った」彼女が笑う。「悪いものも少しあります」「何?」「力」「力?」「ずっと入ってます」言われて気づく。肩。指。顎。全部少し力が入っている。「抜いてください」「抜いてるつもり」「まだ」肩を軽く揺らされる。「もう少し」息を吐
午後8時55分。祝日の最後。私は1人焼肉の店に入った。友達と出かける予定は、子どもの発熱で中止。午後は家でだらだらして、気づけば夕方。冷蔵庫には卵とヨーグルトしかない。だったら肉でいい。店は1人用の半個室。隣とは低い仕切り。カルビ。ハラミ。ご飯。わかめスープ。少し頼みすぎた気もする。でも祝日だからいい。1枚目を焼く。じゅう。裏返す。少し焦げる。「あ」隣から声。「それ、もういいと思います」仕切りの向こうに30代半ばくらいの男性。黒いニット。彼も1人。「見てたんですか」「煙がすごかったので」「失敗?」「ぎりぎり」慌てて肉を取る。食べる。「……おいしい」「なら成功」彼が笑う。「そっちも1人?」「はい」「祝日に?」「そっちも」またこの返し。「家で食べるの面倒になって」「同じ」「じゃあ正解ですね」少し安心する。彼は焼くのがうまい。肉を並べすぎない。ちゃんと待つ。「上手ですね」「何が?」「焼くの」「そこ褒められたの初めてです」「私、全部焦がすから」「見れば分かります」失礼。「じゃあ教えて」「今、返していいです」ハラミを裏返す。「あと20秒くらい」「数える?」「感覚」「じゃあ分からない」「待って。言います」本当に20秒後、
午後10時05分。月曜の夜。駅から少し離れた場所に、深夜まで開いている古い喫茶店がある。木の扉。真鍮の取っ手。橙色の照明。家に帰れば洗濯物も、明日の準備もある。でも今夜は、まっすぐ帰りたくなかった。私は窓際へ座り、カフェオレを頼んだ。スマホを伏せる。何もしない。それがしたかった。数分後。「……え?」斜め前の席から声。顔を上げると、30代半ばの男性がこちらを見ていた。紺色のニット。眼鏡。見覚えがある。「もしかして、彩?」その瞬間、分かった。「修平?」大学時代、同じ店でアルバイトしていた人。私はホール、彼はキッチン。週3回くらいシフトが重なった。閉店後の賄いも何度も一緒に食べた。「久しぶり」「卒業以来?」「途中で1回駅で会った」「それ何年前?」「8年くらい」「じゃあほぼ卒業以来」彼が笑う。昔より落ち着いているのに、話し方は変わらない。「1人?」「うん」「俺も」私のカフェオレが来る。彼の前にはブラックコーヒー。「まだブラック?」「まだカフェオレ?」「覚えてるんだ」「毎回ミルク多めって言ってたじゃん」「そっちが勝手に増やしてくれたんでしょ」「店長に怒られた」思い出して笑う。あの店はもう閉店した。卒業後、連絡も自然に途切れた。仕事や住む場所の話を少ししたあと、彼がふいに言った。「昔さ」「何?」「俺のこと避けてた時期あったよね」カップを置く。「避けてない」
午後9時15分。出張で泊まっているホテルの部屋に戻る前、私は最上階のルーフトップテラスへ上がった。部屋に入れば、シャワーを浴びて寝るだけ。だからあと10分だけ、夜風に当たりたかった。客は2組。私は端の席で炭酸水を頼んだ。昼間は暖かかったのに、夜は少し冷える。肩の開いた黒いワンピースを選んだことを後悔した。「寒くないですか?」隣のテーブルから声。30代後半くらいの男性。白いシャツ。ネクタイは外し、ジャケットを椅子にかけている。「少しだけ」「それ、少しの顔じゃないです」「そんな顔してます?」「かなり」知らない人なのに言い方が自然で、私は笑った。そのとき強い風が吹いた。髪が顔にかかり、肩のストールがずれる。同時に、ワンピースの細い肩紐まで少し落ちた。「あ」直そうとした瞬間、彼の視線が一度だけ私の肩へ落ちる。すぐ戻った。見た。でも、いやらしいというより、気づいたという感じ。「ずれてます」「分かってます」髪とストールとバッグで手がうまく回らない。彼が一瞬迷った。「直していいですか?」胸が少し跳ねる。「……お願いします」彼が立って隣へ来る。夜風と、少しだけ香水。肩の近くに指。細い紐をつまみ、そっと内側へ戻す。「ここ?」「もう少し」「こう?」「うん」指が一瞬、肩に触れた。ほんの少し。それなのに、そこだけ熱い。彼は離れると思った。でも、紐を直したあとも一瞬だけ指が残った。「……もう大丈夫?」「大丈夫です」やっと離れる。私はストールをかけ直した
午後10時40分。土曜の夜。友達の結婚式が終わった。披露宴。二次会。写真。乾杯。笑いすぎて、頬が少し疲れている。私は会場を出る前に、テラスへ出た。ホテルの高層階。夜景。少し冷たい風。室内はまだ音楽と話し声。外は静か。「やっぱりここにいた」後ろから声がした。振り返る。大学時代の男友達。同じゼミ。同じ飲み会。同じグループ。でも、一度も付き合わなかった人。昔はよく2人で帰った。夜中まで電話した。旅行の写真もたくさんある。そして10年前。大学最後の夏。花火大会の帰り。キスしそうになったことが一度だけある。本当に、あと少しだった。でも私のスマホが鳴って。2人とも笑って誤魔化して。それきり。「何で分かったの?」私が聞く。「昔から人多いと外逃げるじゃん」「覚えてるんだ」「そっちこそ、俺が来ると思ってた顔」「思ってない」「じゃあ残念」昔と同じ軽口。でもスーツ姿の彼は、学生のころと少し違う。肩幅も。声も。笑い方は同じ。「今日、格好よかったね」私が言う。「新郎じゃないけど」「スピーチ」「噛んだ」「1回だけ」「数えてた?」「みんな聞いてたから」彼が笑う。私のドレスを見る。視線が一瞬下がって、すぐ戻る。「そっちも」「何?」「きれいだった」普通に言われると困る







