로그인午後10時15分。
私は夜のフェリーに乗っていた。
旅行というほど大げさなものではない。
翌朝には着く短い船旅。
ただ、船で眠ってみたかった。
それだけだ。
船内にはレストランも、大浴場も、小さな売店もある。
でも夕食を済ませた私は、さっさとお風呂に入り、部屋着に着替えてしまった。
あとは寝るだけ。
――のはずだった。
「揺れてる……」
ベッドに横になると、途端に船の揺れが気になった。
大きくはない。
ゆっくり。
右へ。
左へ。
右へ。
左へ。
眠れそうで、眠れない。
私は15分で諦めた。
パーカーを羽織り、船内を歩く。
展望ラウンジには、まだ何人か人がいた。
窓の外は真っ暗。
海なのか空なのかも分からない。
遠くに、小さな灯りがいくつか浮かんでいる。
私は自動販売機でココアを買った。
紙カップを両手で持ち、窓際のソファへ向かう。
そこで気づいた。
先客がいる。
男性が1人。
30代半ばくらい。
グレーのスウェットに黒いパンツ。
足元は、ホテルでもらうような薄いスリッパ。
かなり気が抜けている。
彼は窓の外を見ながら、カップラーメンを食べていた。
夜の海。
静かなラウンジ。
そして、カップラーメン。
雰囲気が全部台無しだった。
思わず見ていたら、彼と目が合った。
「食べます?」
「いりません」
即答した。
「すごく見てたから」
「海を見てたんです」
「僕、海側にいました?」
「かなり邪魔してます」
彼は笑った。
「すみません」
そう言って、カップラーメンを持ったまま少し横へずれる。
律儀だ。
私は2席離れた場所に座った。
ココアを1口。
甘い。
温かい。
ちょっと落ち着く。
「眠れないんですか?」
彼が聞いた。
「どうして分かるんですか」
「この時間に部屋着でココア飲んでる人、だいたいそうかなと」
「そっちは?」
「僕もです」
「船酔い?」
「いえ」
彼はカップラーメンを持ち上げた。
「お腹すいて」
健康だ。
「夜中にそれ食べたら、もっと眠れなくなりません?」
「大丈夫です。僕、食べたらすぐ寝られるタイプなので」
「うらやましい」
「どこでも寝られます」
「それも腹立つ」
「なんで」
また笑った。
くだらない会話なのに、ちょうどよかった。
知らない人だから、何も考えなくていい。
*
しばらくすると、彼が立ち上がった。
「外、行きません?」
「甲板?」
「今、月が出てます」
私は窓を見る。
確かに雲の隙間から月が見えている。
でも。
「寒くないですか?」
「寒いです」
「じゃあ行かない」
「即答だなあ」
彼が笑いながら、ラウンジの端に置いてあった貸し出し用の毛布を1枚取った。
「これありますよ」
「1枚しかないじゃないですか」
「半分どうぞ」
何をさらっと言っているんだ。
「知らない人と毛布を半分?」
「じゃあ僕が4分の1で」
そこじゃない。
でも月は少し見たい。
私は負けた。
「5分だけですよ」
「了解です」
甲板へ出た瞬間。
「寒っ」
思わず声が出た。
海風が強い。
髪が一気に乱れる。
「だから言ったじゃないですか」
「寒いって言ったのそっちです」
「毛布どうぞ」
彼が肩から毛布を広げる。
私は端を持った。
そのまま2人で1枚の毛布に入る。
近い。
思っていたより、かなり。
風を避けるためには仕方ない。
そう思うことにする。
「もっと入らないと意味ないですよ」
彼が言う。
「十分です」
「そっち、ほぼ出てます」
確かに。
毛布は私の肩に少しかかっているだけだった。
「風邪ひきますよ」
彼が毛布を引き寄せる。
その勢いで、私の体も少し彼のほうへ寄った。
肩が触れる。
腕も触れる。
厚手の服越しなのに、体温が分かる。
「……近いですね」
「毛布1枚なんで」
そうですね。
その通りです。
理屈は正しい。
海を見る。
真っ暗な水面に、月の光が細く揺れている。
船が進むたび、光も少しずつ形を変える。
「きれい」
思わず言った。
「でしょう?」
なぜか彼が得意そうだ。
「あなたの月じゃないですよ」
「でも僕が誘ったので」
「はいはい」
風が吹く。
髪が顔にかかる。
払おうとしたら、彼の手のほうが先だった。
「あ」
指先が頬の横をかすめる。
乱れた髪を1本、そっと外へよけた。
「ごめん」
「……いえ」
一瞬だけ。
本当にそれだけだった。
彼も何事もなかったように海を見る。
私も海を見る。
でも、さっきより毛布の中が暑い。
「寒くなくなりました?」
「……まあ」
「よかった」
少しだけ腹が立つ。
この人、たぶん分かってる。
5分のはずが、10分くらい経った。
誰もいない甲板。
エンジンの低い音。
風。
月。
1枚の毛布。
彼が紙カップを持っているのに気づいた。
「それ何ですか?」
「コーヒー」
「いつ買ったの?」
「あなたが甲板行くか悩んでる間」
全然気づかなかった。
「冷めません?」
「もう冷めてます」
「じゃあ意味ないじゃないですか」
「でも手が温かい」
そう言って、彼がカップを持つ手を少し上げる。
「触ります?」
「何を」
「カップ」
「ああ」
一瞬、別の意味かと思った自分が嫌になる。
私はカップに触れた。
確かに温かい。
そのとき。
彼の指が、私の指の上に重なった。
カップを落とさないように。
たぶん。
「熱くないですか?」
「大丈夫」
答えたのに、彼は手をどけない。
私も、どけなかった。
2人でひとつの紙カップを持ったまま、海を見る。
何をしてるんだろう。
でも、不思議と嫌じゃない。
むしろ。
この変な時間が、もう少し続けばいいと思った。
「こういうの、いいですね」
私が言う。
「何が?」
「知らない人と夜中に船の上で月見るの」
彼が少し笑った。
「知らない人だからいいんじゃないですか」
「それもあるかも」
「明日の朝には、普通に戻れるし」
その言葉が妙に心地よかった。
普通に戻れる。
だから今だけ、
少し変でもいい。
彼が毛布を少し持ち上げた。
風が入らないように、私の肩まできちんとかけ直す。
その拍子に、彼の顔が近くなる。
かなり近い。
私が少し動けば、もっと近くなる距離。
彼も動かなかった。
数秒。
目が合った。
「……寒いですか?」
彼が聞いた。
「今それ聞く?」
「一応」
「寒くないです」
「よかった」
それだけ。
彼は少し離れた。
私は海へ目を戻した。
たぶん、それでよかった。
これ以上は、
今夜には少しもったいない。
部屋へ戻る前。
ラウンジの前で、毛布を返した。
「じゃあ」
彼が言う。
「今度こそ寝られるといいですね」
「そっちも」
「僕は大丈夫」
「どこでも寝られるんでしたね」
「はい」
「腹立つ」
彼が笑った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
名前は聞かなかった。
連絡先も聞かなかった。
部屋へ戻る。
ベッドに入る。
船は相変わらず、ゆっくり揺れていた。
右へ。
左へ。
でも今度は、それが少し心地いい。
毛布の中の温度。
冷めかけたコーヒー。
月の光。
それだけ思い出した。
明日の朝には、
普通に戻る。
だから今夜は、
このままでいい。
目を閉じる。
船の揺れに任せていたら、
今度はちゃんと眠れそうだった。
****
今夜くらい、何も決めずに余韻だけ持って帰ろう。
あとはゆっくり目を閉じて。おやすみ。午後9時25分。木曜の夜。駅裏のビル3階にある、小さなダンスバーへ来た。看板には、〈初心者歓迎 サルサナイト〉友達に送られてきた動画を見て、なぜか気になった。木曜。あと1日。少しくらい変なことをしてもいい。最初の30分は初心者レッスン。「初めてですか?」声をかけてきたのは30代前半くらいの男性。黒いTシャツ。細身だけど肩はしっかりしている。「見れば分かる?」「かなり」「まだ踊ってないのに」「出口確認してる顔」ばれている。「帰らないです」「安心しました」彼はスタッフではなく、毎週来ているらしい。「先生?」「先生じゃないです。でも初心者の相手はできます」「お願いします」最初は足だけ。前。戻る。後ろ。戻る。簡単そうなのに、音楽が入ると急に分からない。「逆です」「分かってる」「分かってて逆?」「体が」彼が笑う。次は手。「軽く」「どれくらい?」「握手より弱く」指が触れる。「これくらい」「逃げそう」「逃げないです」音楽。1、2、3。5、6、7。彼がリードする。思ったより近い。「下見ない」「足見たい」「僕見て」「それが一番難しい」「何で?」「知らない人だから」「じゃあ名前聞きます?」名乗る。彼も。「これで知らない人じゃない」「雑」次は回転。彼の
午後9時40分。水曜の夜。駅前のアロママッサージ店に入った。今週はまだ水曜。なのに肩が重い。首も固い。たぶん、座りすぎ。見すぎ。考えすぎ。受付で60分コースを選ぶ。担当は30代くらいの女性。髪を低い位置でまとめ、声が静か。「今日はどこがお疲れですか?」「全部」正直に答える。彼女が少し笑う。「では、特に気になるところは?」「肩と首」個室へ案内される。暗い照明。静かな音楽。少し甘い香り。着替えて、うつ伏せになる。「失礼します」肩にタオル。その上から、ゆっくり圧がかかる。「……硬いですね」「そんなに?」「かなり」最近何でもかなり。「痛かったら言ってください」肩甲骨のあたり。痛い。でも気持ちいい。「そこ」思わず声が出る。「ここですか?」「そこ」圧が少し深くなる。「あー……」変な声。でももうどうでもいい。「かなり溜まってますね」「何が?」「疲れが」「よかった。悪いものかと思った」彼女が笑う。「悪いものも少しあります」「何?」「力」「力?」「ずっと入ってます」言われて気づく。肩。指。顎。全部少し力が入っている。「抜いてください」「抜いてるつもり」「まだ」肩を軽く揺らされる。「もう少し」息を吐
午後8時55分。祝日の最後。私は1人焼肉の店に入った。友達と出かける予定は、子どもの発熱で中止。午後は家でだらだらして、気づけば夕方。冷蔵庫には卵とヨーグルトしかない。だったら肉でいい。店は1人用の半個室。隣とは低い仕切り。カルビ。ハラミ。ご飯。わかめスープ。少し頼みすぎた気もする。でも祝日だからいい。1枚目を焼く。じゅう。裏返す。少し焦げる。「あ」隣から声。「それ、もういいと思います」仕切りの向こうに30代半ばくらいの男性。黒いニット。彼も1人。「見てたんですか」「煙がすごかったので」「失敗?」「ぎりぎり」慌てて肉を取る。食べる。「……おいしい」「なら成功」彼が笑う。「そっちも1人?」「はい」「祝日に?」「そっちも」またこの返し。「家で食べるの面倒になって」「同じ」「じゃあ正解ですね」少し安心する。彼は焼くのがうまい。肉を並べすぎない。ちゃんと待つ。「上手ですね」「何が?」「焼くの」「そこ褒められたの初めてです」「私、全部焦がすから」「見れば分かります」失礼。「じゃあ教えて」「今、返していいです」ハラミを裏返す。「あと20秒くらい」「数える?」「感覚」「じゃあ分からない」「待って。言います」本当に20秒後、
午後10時05分。月曜の夜。駅から少し離れた場所に、深夜まで開いている古い喫茶店がある。木の扉。真鍮の取っ手。橙色の照明。家に帰れば洗濯物も、明日の準備もある。でも今夜は、まっすぐ帰りたくなかった。私は窓際へ座り、カフェオレを頼んだ。スマホを伏せる。何もしない。それがしたかった。数分後。「……え?」斜め前の席から声。顔を上げると、30代半ばの男性がこちらを見ていた。紺色のニット。眼鏡。見覚えがある。「もしかして、彩?」その瞬間、分かった。「修平?」大学時代、同じ店でアルバイトしていた人。私はホール、彼はキッチン。週3回くらいシフトが重なった。閉店後の賄いも何度も一緒に食べた。「久しぶり」「卒業以来?」「途中で1回駅で会った」「それ何年前?」「8年くらい」「じゃあほぼ卒業以来」彼が笑う。昔より落ち着いているのに、話し方は変わらない。「1人?」「うん」「俺も」私のカフェオレが来る。彼の前にはブラックコーヒー。「まだブラック?」「まだカフェオレ?」「覚えてるんだ」「毎回ミルク多めって言ってたじゃん」「そっちが勝手に増やしてくれたんでしょ」「店長に怒られた」思い出して笑う。あの店はもう閉店した。卒業後、連絡も自然に途切れた。仕事や住む場所の話を少ししたあと、彼がふいに言った。「昔さ」「何?」「俺のこと避けてた時期あったよね」カップを置く。「避けてない」
午後9時15分。出張で泊まっているホテルの部屋に戻る前、私は最上階のルーフトップテラスへ上がった。部屋に入れば、シャワーを浴びて寝るだけ。だからあと10分だけ、夜風に当たりたかった。客は2組。私は端の席で炭酸水を頼んだ。昼間は暖かかったのに、夜は少し冷える。肩の開いた黒いワンピースを選んだことを後悔した。「寒くないですか?」隣のテーブルから声。30代後半くらいの男性。白いシャツ。ネクタイは外し、ジャケットを椅子にかけている。「少しだけ」「それ、少しの顔じゃないです」「そんな顔してます?」「かなり」知らない人なのに言い方が自然で、私は笑った。そのとき強い風が吹いた。髪が顔にかかり、肩のストールがずれる。同時に、ワンピースの細い肩紐まで少し落ちた。「あ」直そうとした瞬間、彼の視線が一度だけ私の肩へ落ちる。すぐ戻った。見た。でも、いやらしいというより、気づいたという感じ。「ずれてます」「分かってます」髪とストールとバッグで手がうまく回らない。彼が一瞬迷った。「直していいですか?」胸が少し跳ねる。「……お願いします」彼が立って隣へ来る。夜風と、少しだけ香水。肩の近くに指。細い紐をつまみ、そっと内側へ戻す。「ここ?」「もう少し」「こう?」「うん」指が一瞬、肩に触れた。ほんの少し。それなのに、そこだけ熱い。彼は離れると思った。でも、紐を直したあとも一瞬だけ指が残った。「……もう大丈夫?」「大丈夫です」やっと離れる。私はストールをかけ直した
午後10時40分。土曜の夜。友達の結婚式が終わった。披露宴。二次会。写真。乾杯。笑いすぎて、頬が少し疲れている。私は会場を出る前に、テラスへ出た。ホテルの高層階。夜景。少し冷たい風。室内はまだ音楽と話し声。外は静か。「やっぱりここにいた」後ろから声がした。振り返る。大学時代の男友達。同じゼミ。同じ飲み会。同じグループ。でも、一度も付き合わなかった人。昔はよく2人で帰った。夜中まで電話した。旅行の写真もたくさんある。そして10年前。大学最後の夏。花火大会の帰り。キスしそうになったことが一度だけある。本当に、あと少しだった。でも私のスマホが鳴って。2人とも笑って誤魔化して。それきり。「何で分かったの?」私が聞く。「昔から人多いと外逃げるじゃん」「覚えてるんだ」「そっちこそ、俺が来ると思ってた顔」「思ってない」「じゃあ残念」昔と同じ軽口。でもスーツ姿の彼は、学生のころと少し違う。肩幅も。声も。笑い方は同じ。「今日、格好よかったね」私が言う。「新郎じゃないけど」「スピーチ」「噛んだ」「1回だけ」「数えてた?」「みんな聞いてたから」彼が笑う。私のドレスを見る。視線が一瞬下がって、すぐ戻る。「そっちも」「何?」「きれいだった」普通に言われると困る







