LOGINセラフィナは名を持ってからというもの、成長が驚くほど早かった。 今では、人間でいえば二、三歳ほどの年頃に達している。 もっと上かもしれないが、アスイェは人間の時間概念はよく理解していない。 吸血鬼にとって歳はそんなに重要ではない、 セラフィナもいつれ同じように思うようになるだろう。 体格はまだ小さいものの、「ひとりで留守番ができる」ほどには成長した。 アスイェは部屋に入ると、セラフィナはもうおとなしくいすに座っていた。 手にカップを持って、何を待っていたようだった。 アスイェはその前に立ち、ふと視線を落とす。 カップのふちに、乾いた血の跡が残っていた。 「今日はお前はもう2回飲んだはずだ」アスイェは事実を淡々と告げる。 「これは正常の飲食ではない」 セラフィナは彼を見つめ、静かにカップをアスイェの前に推した。 アスイェは、押し出されたカップに目もくれず、静かに言葉を続けた。 「お前は飢えていないはずだ」 セラフィナは瞬くこともなく、ただアスイェを待っていた。 欲しいものを得るまでは動かない。 やがてアスイェはポットを取り、ミルクを注いだ。 セラフィナは一口だけ飲み、そこでぴたりと止まる。 「どうした?」 首を横に振るだけで、何も言わない。 「お前が飲みたいものだ」 セラフィナは俯き、考え込むように眉を寄せた。 かつてミルクを飲めなかったとき、一滴だけ血を混ぜてやったことがある。
炎はすでに消え、屋敷の中へと風が吹き込んでいた。 その風は灰と血の匂いをまとい、割れた窓から静かに部屋へ入り込む。 幼子はアスイェの腕の中に隠れたまま、顔を出さない。 アスイェはただその体を抱きとめ、離さずにいた。 やがて、彼の手が幼子の瞼にそっと触れる。 そのひとつの動きだけで、セラフィナの世界は静けさに包まれた。 ――眠っているように見えた。 だが、セラフィナの唇はわずかに動き、かすかな寝言をこぼしていた。 「……Sia……Sia……」 その声は軽く、夜の迷子になった雛が必死に羽を震わせるような響きだった。 「それは俺の名前じゃない。それは、ただの闇の中の音だ」 アスイェの声が部屋の奥に広がり、やがて闇の中へ溶けていく。 若い子供には意味など分からなくても、アスイェは静かに語りかけた。 セラフィナのまぶたがわずかに揺れ、目が開いた。 まだ夢の残滓を抱えたように、幼い瞳はぼんやりとアスイェを映している。 「お前は――自分の声で、俺を呼ぶんだ」 静かに告げられた言葉が、セラフィナの中に届いた。 彼女はゆっくりと口を開く。 最初に漏れたのは、ひとつの音。 「……ア……」 その発声は痛みを伴うようで、声の震えとともに涙が滲んだ。 「……ス……イェ……」 最後の音が出た瞬間、まるで幼い祝福のように、部屋の蝋燭の火が小さく揺れた。 セラフィナはようや
炎の手は屋敷の外側から上がった。 侵入者《しんにゅうしゃ》がどこから、どのように入り込んだのか。誰にも分からない。 「そのもの」は、風のように、夜の闇のように、どこからでも現れるかのようだった。 ノックはなかった。客ではないことだけは確かだった。 ――アスイェは家にいない。 侍女たちは彼にすぐ知らせる暇もなく、ただ手分けして守りに回った。 屋敷は広い。 セラフィナは屋敷の奥の部屋にいたが、濃い煙にむせて目を覚ます。 泣きはしなかった。ただ咳き込み続けた。 やがてその瞳は赤く染まっていく。 ――煙のせいなのか、吸血鬼の本能なのか。 セラフィナは床に座り続けた。 アスイェが出かけるとき言い残した。 「良い子にして待て」という言葉は、彼女にとって唯一の指令だった。 一人の侍女が幼子を抱き上げる。 悪意はなく、幼子も抗わなかった。 その侍女はセラフィナを抱え、長い廊下を駆け抜け、燃え盛る庭園を駆け抜け、壊れた天窓《てんまど》を越えた先で、侍女の喉は矢に貫かれた。 だが、そこで矢が喉を貫いた。 侍女は倒れ、血が飛び散り、幼子の身を静かに汚した。 幼子は転がり落ち、炎を見つめたまま、煉瓦と灰の中に崩れ落ちて動かない。 炎の光が夜を白昼《はくちゅう》のように照らし出していた。 そして、セラフィナは泣いた。 いつものように静かに涙をこぼすのではない。 体を震わせ、声を上げて泣いていた。セラフィナの瞳に赤が宿った。 それが涙によるものなのか、吸血鬼としての本能なのか――分からなかった。 幼い彼女は赤い目を開き、牙《きば》をのぞかせ、長い爪までもが伸びていた。 恐れを知らぬはずの幼子が、その名を叫んでいた。 「……Sia――!」 返事はない。 呼びかけに応える声は、どこにもなかった。 危機も、まだ去っていない。 足音が、近づいてくる。 泣いていたセラフィナは、顔を上げた。 視界の向こう、見知らぬ人影が現れる。 彼らは小声で何かを言い交わし、一人が手を伸ばした。 幼子を連れ去ろうとした、 その瞬間――幼子の瞳が鮮やかに赤く光った。 吸血鬼の本能だった。
幼子の牙はわずかにのぞいていた。 それでも、最後まで噛みつくことはなかった。 視線を落とすと、少ししか口にしていない幼子はようやく静まっていた。 だがアスイェは知っている。 セラフィナの腹はまだ空いている。 その食欲の本能を抑えすぎれば、いずれ害となる。 アスイェはカーペットに捨てられた瓶を拾い上げた。 血はまだ温もりを残している。 瓶を握り、口をセラフィナの唇に近づけた。 「……もう少し、飲め」 そう言うと、彼女はゆっくりと首を振った。 セラフィナは他の幼い吸血鬼とは違っていた。 人間のように繊細で、自分の抑えられない本能を嫌っていた。 アスイェは手を伸ばす。 小さな花を撫でるように。 冷たい掌で、セラフィナの目を覆った。幼子の牙はわずかにのぞいていたが、最後赤子は噛みつくことはなかった。 アスイェが視線を落とす、少ししか食べていない幼子はやっと静かになった。 しかしアスイェは知っている。 セラフィナの腹は空いている。食べる本能をこの抑えすぎるとよくない。 アスイェはカーペットに捨てられた瓶を取った。 血はまだ温もりを保っている。 瓶を持ち直し、彼女に近づけた。 「……もう少し、飲め」 そう言うと、彼女は首をゆっくり振った。 セラフィナは他の幼い吸血鬼と違う――セラフィナは人間のように繊細だった。自分の抑えられない本能を好きではない。まるで小さな花を撫でているようにアスイェは手を伸ばし、 アスイェは冷たい掌でセラフィナの目を覆った。「……目を閉じろ。我慢しなくていい」 アスイェはそう告げ、ゆっくりと慰める。 セラフィナの体は一瞬こわばったが、暴れることはなかった。 瓶を手に取り、子をあやす声で静かに囁く。 「……ほら、口を開けろ」 セラフィナはためらいながらも、やがてゆっくりと口を開いた。 血の甘い味が喉を通る。 アスイェは片手で瓶を支え、もう一方の手でその瞳《ひとみ》を覆いながら、幼子の口に運んでいく。 今はまだ陽の光が眩しい。 だが彼は、セラフィ
アスイェが目を覚ましたとき、最初に耳に入ったのは、衣擦れが石の床に触れるかすかな音だった。 何かがそっと近づいてくる。 彼は本を読みながら、いつの間にか眠りに落ちていた。 目を開けずに、指先で静かにページを閉じる。 ――とてとて、と。 小さな足音が続いていた。 その足取りはどこか急いているようで、次の瞬間には腕の中に飛び込んできてもおかしくない気配さえあった。 アスイェは動かず、ただ待った。 子供のわがままかもしれない、そう思いながら。 やがてセラフィナは、彼の傍らで足を止めた。 大きすぎる服を羽織り、膝には赤い痕が残っている。 何かを堪え、あがきながら、ようやくここに辿り着いたのだろう。 顔に表情はなく、ただ瞳の奥に一瞬、どこか怪しい赤が揺らいだ。 その輝きは、澄んだ柘榴石《ガーネット》にも似ていた。 セラフィナは音も立てず、ただアスイェを見つめる。 涙はとめどなくあふれ落ち、止まる気配さえなかった。牙《きば》がのぞいていた。 まだ生えそろってはいないが、痛みは確かに伴う。 アスイェは静かに息を吐き、身を起こした。 その動きを追うように、セラフィナの瞳だけが揺れる。 命令を待っているのか、考えを巡らせているのか、わからない。 小さく口が開き、唇が震えた。 それでも彼女は動かない。 アスイェはただ見つめ、待った。 彼の時間だけが、余っていた。 幼い子供に「待つ」ことを教えるように。 しばらくして、ようやく声が落ちた。 「……おいで」 その言葉は、セラフィナにとってご褒美だった。 彼女はアスイェの腕に飛び込む。 子供の手は小さく、まだ彼を抱きしめることはできない。 ただ頭を肩に押しつけ、止められない涙を流した。 涙はぽたり、ぽたりと落ち、 真珠のように静かにあふれていく。 アスイェはセラフィナを受け止めた。 その腕の中で、上着のボタンを噛む幼子がいた。 彼はまだ姿勢を変えず、ただその重みを支えていた。 やがて本を読むときの姿勢に戻り、セラフィナのうなじを軽く押さえ、胸に伏せさせた。 「……痛むのか」
聖堂の外は荒れていた。 風が途切れず吹き抜け、重い雲が空を覆っている。 アスイェはこの空を知っていた。 ――神罰が下る前に広がる、あの色。 彼は眠らない。 石の座に身を預け、腕の中でセラフィナを抱いていた。 幼きその身は温かい。 だが、もはや人ではない。 この熱は病の残滓ではなく、生そのものの証だった。 脈がある。 皮膚の下で確かに打ち、ドクン、ドクンと響く。 アスイェには、それが音楽のように、美しかった。 セラフィナはまだ眠る。 けれど血は、すでに目覚めている。 言葉でも、仕草でもなく、さらに深い次元で。 その応えは、皮膚に浮かぶ契印とは異なる。 形もなく、色もなく。 ただ気配の底に沈み込み、共鳴として広がっていた。 アスイェは目を閉じる。 初めての感覚が、胸を満たしていた。 彼は誰とも契約を結んだことはない。 吸血鬼にとって、それは命と同じ重みを持つ認定だからだ。 血は器。思いは鍵。 一方が認め、一方が受け入れる。 その瞬間にだけ、証が結ばれる。 幼い彼女は、何も知らない。ただ、彼に身を預け、深く眠った。 ただ信頼するアスイェに身を任せ、深い眠りについた。 この信頼の深さが、儀式も呪文もなく、契約を結ばせた。 儀式はなく、呪文なして成立する契約より深い何かを。 アスイェはセラフィナのうなじにそっと指を添える。 セラフィナは感じ――わずかに身をすくめた。 * アスイェはセラフィナを抱いた時はまるで霧を手にしている様だった。 セラフィナは元々体重があまり感じない。起きている時は少し動いて、アスイェにとってそんなセラフィナは子猫と同じだった。
アスイェが目を覚ましたとき、朝はまだ訪れていなかった。聖堂の壁の隙間から差し込んでくるのは、月光ではなく、湿り気を含んだ冷たい空気だった。石の床には夜の気配が染み込み、冬の気配はまだ遠のかない。誰かが傍にいる。――感じるまでもなく。赤子はアスイェのすぐそば、触れるほどの距離に身を寄せていた。アスイェは、最も古く、気高き吸血鬼だ。これほどまでに近づく者は、ただ死を迎えるのみであるはずだった。それだけではない。幼い女の子は、アスイェを「見つめて」いた。いや、正確には「見てい
子には、まだ名がなかった。 必要とされなかったからだ。 捨てられた名は、捨てられた子とともに消えた。 それ以前、この子はもとより生け贄だった。呼ぶときは、番号で足りた。アスイェが初めてその幼い女を見たとき、 救うつもりなど、決してなかった。 ――そのはずだった。だが、この小さな命は、今ここにある。「……セラフィナ」冷ややかに、彼は呼ぶ。
冬の朝の光が、高い窓から聖堂に差し込み、石の座は変わらず冷たい輝きを返していた。 アスイェは神座に腰を下ろし、マントの裾を床に垂らしたまま、長靴を無造作《むぞうさ》に組み、肘《ひじ》掛けに片手を預《あず》けている。 その目は閉ざされ、まるで、終わりの見えない長い休眠に、ただ黙って耐えているかのようだった。赤子はアスイェにしがみついていた。 まるで、自分の小さな巣から這《は》い出したくない、小動物《しょうどうぶつ》のように。赤子の髪は少しずつ伸びてきて、その輪郭《りんかく》から、ようやく性別が見えてきた。 このか細い命は、女の子だった。女の子
アスイェは、ただ一言、低く呟いた。「俺は、出かける」そのとき、彼のマントは、小さな手に掴まれていた。 幼い指はまだ未熟で、力も足りず、それでも必死に布の端を握っている。「お前を、連れては行かない」 冷えた声音だった。その子は足も短く、小さな体はまだ自分を支えきれず、傾けばすぐ転びそうだった。 アスイェは一瞬、その様子を見下ろし、無言で片手を添えた。 ごく僅かに押し戻すように支えると、子の身体はようやく安定し、その場に座った。







