夏休みに入り、適当に課題をやったり、たまに窪田たちと遊んだりと、だらだらした日々を過ごしていた。 小夜からの手紙はまだ見ていない。見たい気持ちよりも、目を逸らしていたい気持ちのほうが強くて……本当にどうしようもない。 明後日は彼女の誕生日だが、誰となにをして過ごすのだろう。 自分の部屋のベッドに横になってぼんやり考えていると、ドアがコンコンとノックされた。「はい?」「よぉ、律」 ガチャリとドアを開け笑顔で入ってきたのは、兄である越だ。俺の体調を心配して、社会人になった今も一緒に暮らしている。「あれ、今日仕事休み?」「代休になった。だからすっかり出無精になっちまった弟を誘い出してやろうかと思ってさ」 テーブルの上に置いたままのマンガを持ち上げ、越はいたずらっぽく口角を上げた。しかし、ベッドから動こうとしない俺に小さなため息をつく。「家にこもってると身体なまるぞ」「……外暑い」「夏なんだから当たり前だ」 呆れた調子で言い、越は脱力した。以前の俺なら、今の自分に向かって兄貴と同じことを言っているだろうな。 昔は暑かろうが寒かろうが、関係なく外で遊んでいたのに。今は運動する時間を決めているから、それ以外の時は引きこもりがちになってしまう。 重い身体をなんとか起こすと、越はクッションに腰を下ろし、意気揚々と提案してくる。「久々に釣りでもしに行くか? 今の時期、アジが釣れるんだよー。それかバーベキューするのもいいな」 子供を誘う父親か。と、心の中でツッコんでくすっと笑い、懐かしい記憶を蘇らせる。「昔、よくバーベキューやったよな。皆で集まって……」 小夜やキョウの家族も一緒にわいわいやっていたあの頃は、本当に楽しかった。 遠い日へと目線をさ迷わせる俺に、越は優しい口調で問いかける。「戻りたいか? あの頃に」 ……戻れるものなら戻りたい。大好きな仲間と、難しいことは考えず、ただただその時を目一杯楽しんでいた子供の頃に戻れるものなら。 そんな俺の心を見抜いたかのごとく、越は穏やかに微笑む。「いつでも戻れるんじゃないか? 変わらない仲間がいるんだから。あとは、お前が甘えることができれば」「甘える?」 その意味がいまいちわからず、首をかしげた。 俺と向き合った越は、少しだけ切なげな表情をする。「お前はなんでも我慢しすぎだ。我慢しなきゃいけないことのほうが多いだろうけど、甘えたほうがい
連れてこられた海は、つい先日小夜とも来た思い出の場所だ。暑くて怠いけれど、不思議と気分は清々しい。 防波堤に腰を下ろして、水面に垂らされた釣竿を眺めながら、ぼんやりと思いを巡らせる。 俺はずいぶん変わったけど、この海は変わらないな……。 キョウも外見は男らしくカッコよくなったけれど、中身は変わらない。綺麗で純粋な小夜の心も昔のままで、本当に真っ白な雪みたいだ。 でも、彼女の昔のイメージは花だったっけ。いつも明るくて、笑顔がものすごく可愛くて。それを見ればこちらまで元気になれる。 当たり前のように一緒にいた彼女に、俺は必然的に恋をしていた。甘い蜜に惹かれたミツバチみたいなもんだな。俺も、キョウも。 ふたりといると、昔に戻ったような感覚に陥る。そういう意味では、タイムトリップは案外簡単にできるのかもしれない。さっき越が言った意味がわかったよ。 サニーサイドに行った時も、本当に楽しかったんだ。友達と遊園地に行くことなんて、こんな身体になってから一度もなかったから。 不調が出ないだろうかという不安もあったけど、それよりもワクワクした気持ちのほうが大きかった。 小夜とふたりでいる時も、どうしても愛しい気持ちが湧いてきて、普通のカップルみたいなことをしてしまうし。難しいことは忘れて、ずっとこの幸せに浸っていたいと願ってしまった。 でもそうしていると、必ず思い知らされる瞬間があるんだ。俺は、自分の意志を押し殺して生きていくしかない身体なんだ、と。 病気になってから、そうやって諦めなきゃいけないことばかりだ。そのたびものすごく悔しくて、苦しい思いをするのに、いつの間にかそれが当たり前になっていた。けれど……。『どんな理由があっても、私ちゃんと受け入れるから』『どうしても納得できないからだよ』 ふたりは決して俺から逃げようとしない。いつもまっすぐぶつかってきてくれる。 越の言う通り、ありのままをさらけ出してそれに応えるのが、本当に相手を思いやることなのかもしれない。 どこまでも広く青い、海のような存在のふたり。ちっぽけな俺は、そこに飛び込むことを恐れていたんだ。きっと、優しく受け止めてくれるはずなのに。「……綺麗だな」 水平線を眺めてぽつりと呟くと、こちらを振り向いた越は、驚いたように目を見開く。そしてふっと微笑み、「ああ」と頷いて俺の頭をぽんぽんと撫でた。 なぜだかわからない
家に帰り、俺はすぐに机の引き出しにしまったドット柄の封筒を取り出した。 小夜が書いたという、出せなかった手紙。 ベッドに腰かけて、一度軽く深呼吸してからゆっくり封を開けた。 * * * 逢坂 律さま 久しぶり。元気? 毎日暑いけど、体調崩してませんか? 夏になると、よく律の家でえっちゃんにかき氷を作ってもらったよね。ブルーハワイのシロップで舌を真っ青にして、キョウも一緒に大笑いしたっけ。 秋は集めた落ち葉を投げ合ったりして。今思えば、くだらないことが楽しかった。 冬は雪で遊んでかじかんだ手を、律が握って温めようとしてくれた。律の手だって同じくらい冷たかったのに、私にはあったかく感じたんだよ。不思議だね。 ねえ、律。やっぱりダメだよ。 えっちゃんに〝律のことは忘れてほしい〟って言われたけど、こんなにたくさんの思い出をくれた律を、 忘れることなんてできないよ。 私たちは、人生の半分以上一緒にいたんだから。 他に好きな人ができた? 私のこと、嫌いになった? もしそうなら、はっきり言って。どんな理由でもちゃんと受け止める。律を思い出にできるように頑張るから。 お願いだから、ひとりで終わりにしないで。 ひとりで、離れていかないで。 * * * 手紙の後半の文字は、点々と落ちた水のようなもので所々滲んでいる。その最後の一文を見た途端、俺の瞳からも熱いものが溢れた。 彼女はすがるような気持ちで書いたのかもしれない。でも今の俺には、逃げてばかりいる自分を引き留めてくれる言葉のようにも思える。 彼女の一言一句が、胸の奥深くまで届いた。「小夜……」 ぽたりと落ちた雫が、また新たな染みを作って文字を滲ませる。彼女も泣きながら想いを書き綴ったのかもしれないと思うと、胸が痛くて切り裂かれそうだ。 小夜はずっと、俺に手を伸ばしてくれていた。どんな理由も受け止める覚悟で。 でも俺はそれを拒み続けて、結局彼女を傷つけていたんだ。 バカだ。バカすぎる。今頃になって気づくなんて……。『お前が考える小夜の幸せと、あいつが考える幸せとでは、きっとズレてんだと思うよ。そこを一緒にするのが最良なんじゃねーかな』 ふいにキョウの言葉が蘇り、うなだれた頭を持ち上げた。 今からでも遅くないだろうか。俺の事情のすべてを、隠していた本当の想いを伝えたい──。
翌週の、小夜の誕生日当日。俺は初めて花屋に足を踏み入れていた。 プレゼントを贈りたいが、今の小夜にはなにをあげたら喜ぶのかわからない。とりあえず、プレゼントといえば……と考えて、真っ先に思い浮かんだ花を探しにやってきたというわけだ。 かと言って、花束はなんだか大袈裟だし、キザだし……。 悩みながら店内を見て回っていると、目を惹かれるものがあって立ち止まった。 小さなガラスの靴に、ピンクと白のバラが入った、綺麗で可愛らしいプリザーブドフラワー。こういうの、女子は好きそうだな……。 小夜の嬉しそうな顔が自然と頭に思い浮かび、俺の口元も緩む。喜んでもらえることを願って、そのガラスの靴を手に取り、レジへ向かった。 紙袋を持って店の外に出た時、時刻は午後二時。小夜の連絡先を知らない俺は、とりあえず彼女の家に向かうことにした。 ここからなら歩いて十分くらいだから、たいした距離じゃない。今日は少しだけ痛む右足を気にしつつ、ゆっくり歩いて彼女の家に着いた。 外観は昔と変わっていなくて懐かしい。ここに小夜はいるだろうか。 急に緊張しだして、ひとつ深呼吸をしてから意を決してインターホンを押した。 少しして『はい』と出たのは、彼女のお母さんだ。「こんにちは。逢坂といいますが、小夜さんは……」『えっ、もしかして律くん!?』 すぐにわかったらしく、俺が返事をする間もなく駿足で玄関に出てきてくれた。俺を見るなり、感激したような笑顔を浮かべる。「やだ、久しぶりじゃなーい!」「お久しぶりです。お元気でしたか?」「相変わらずよ。律くんはすっかりイイ男になっちゃって~」 ニコニコ笑うおばさんは、おばさんと呼ぶには失礼な気がするほど若々しくて、以前と変わらなかった。俺を覚えていてくれたことも嬉しい。「突然どうしたの? 小夜に用事?」 そう聞かれ、少し背筋を伸ばして頷く。「はい。今いますか?」「それが、今日は友達と会うって出かけちゃってるのよ」 おばさんは申し訳なさそうにするが、俺もその可能性はもちろん考えていた。少し肩を落としてしまうのは否めないけれど。「そうですか」と返して、どうするか思案していると、おばさんは目線を斜め上にさ迷わせて言う。「確か、ありさちゃんの家で誕生日のお祝いしてもらうって言ってたのよね。お昼に出ていったから、たぶんまだいると思うけど」 ありさちゃんの家……。そういえば、彼女の
おばさんは快く教えてくれて、『またいつでもお茶しに来てね』と言い、笑顔で見送ってくれた。 今度の道のりは少し長い。歩き出したら、足の強張りをさっきよりも感じた。 しかし、小夜への気持ちが俺を動かして、スマホのナビを手に一歩ずつ進んでいく。おばさんが小夜に連絡しておくと言っていたから、待っていてくれることを信じて。 ところが、徐々に強張りは強くなり、五分ほど歩いたところで足が痛み出した。 歩きすぎたか? それとも、薬の効き目が切れてきた……? いつもならこんな時間に薬が切れることはないのに。 あれこれ考えていると、ついこの間薬の種類を変えたことが思い当たった。その量や服用のタイミングが、まだ身体に合っていないのかもしれない。 不安が湧いてくるが、今ここで立ち止まってもどうしようもない。予備の薬は一応持ち歩いているものの、むやみに飲んでいいわけじゃないし。 ……まだ大丈夫。まだ歩ける。そう自分に言い聞かせて、重い足をなんとか動かした。 今日は曇っていて、いつもより気温は高くない。それでも、暑さのせいではない汗が、額や背中を伝う。 念のため持っていた、ペットボトルの水を飲む手も震え出した。それを落としそうになりながらも、大事なプレゼントだけはしっかりと持つ。 「はぁ……つら……」 無意識に、弱音が口からこぼれた。熱中症なのか、病気のせいなのかわからないが、だんだんめまいまでしてくる。 喫茶店まであと五分くらいのところに来た頃には、誰が見てもわかるくらい足を引きずって歩いていた。人通りの少ない細い抜け道を教えてもらったから、ほとんど人とすれ違うことはなかったけれど。 目の前に迫ってきた、小さな踏切を越えて少し歩けば大通りに出る。そうしたら、喫茶店はすぐだ。 あと少し。少しなのに、今の俺にとってはそれがものすごく遠い。 ……でもダメなんだ、諦めちゃ。動かなきゃ、俺はここまでの人間だって認めることになる。好きな人を、傷つけただけで終わってしまう。 そんなことにはしたくない。彼女も、昔の約束も守れない上に、想いを伝えることさえできないなんて。 肩で息をして、朦朧としながらも足を出す。しかし、震えと痛さでどうにも歩けず、膝に手をついて立ち止まった、その時。 耳元で大きな音がした気がして、びくりと身体を揺らし
緒方小夜さま これは、最初で最後の俺からの手紙です。 苦手だと言ってずっと書かなかったけど、今回は言っておかなきゃいけないことがあるんだ。 小夜がくれたたくさんの手紙は、全部俺の宝物です。 君と出逢えて、幸せでした。忘れたことなんて一日もなかったよ。 俺は、いつでもずっと、小夜のことを * * *「ハッピーバースデー!」「誕生日おめでとう、小夜!」 ありさの両親が経営する、ログハウス風の小さな喫茶店にて。サプライズで皆が用意してくれていたホールのケーキが登場して、私は興奮気味に「ありがとう~!」とお礼を言った。 たくさんのフルーツが乗った色鮮やかなケーキは、今日集まってくれたありさとミキマキコンビがデコレーションしてくれたらしい。 チョコのプレートに書かれた英語が〝Happy birhday〟になっていて、〝t〟が抜けているのもご愛嬌だ。「ありさってケーキとかデコるのセンスあるよね」「さすが喫茶店の娘です」「もっとお褒め」 海姫ちゃんと真木ちゃんが感心したように言い、ありさは茶化しながらも得意げに笑った。 ボーイッシュなありさだけれど、ケーキに限らず料理が上手なのだ。調理師である彼女のお父さんに昔から教えてもらっていたというから、納得だし羨ましくもある。 嬉しいお祝いに感激しながら、皆でケーキの写メを撮っていると、私の左横でひとりマイペースに料理を食べている男子が呟く。「意外と女子力あるくせに、ギャップ萌えしないのはなぜだ」「スペル間違えたおバカは黙ってな」 即座に返したありさは、じとっとした目でキョウを睨み据えていた。 皆に『せっかくだからなにか手伝え』と言われたらしく、プレートにチョコペンで文字を書いたのはこの男。 一応私の誕生日を一緒にお祝いしに来てくれている……はずなのだが、ただ美味しいランチを楽しんでいるだけのように見える。いや、きっとそうだ。 でもやっぱり、皆でわいわいと楽しい誕生日を過ごせるだけで嬉しい。 女子四人の中に違和感なく紛れ込んでいるキョウにもケーキを切り分け、ほどよい甘さのしっとりとしたそれを頬張った。「前よりは元気になったな」 ふいに、キョウが私だけに聞こえるくらいの声で囁いた。優しい表情をする彼に目を向けて、私も小さく微笑んでみせる。 夏休み前、失恋直後はしばらく落ち込んでいたから、皆に心配をかけてしまった。 でも、大丈夫。今こ
……しかし。お母さんからの連絡が来てからもう四十分は経つというのに、まだ律は姿を現さない。「遅いねぇ」 ありさが、壁にかけられたアンティーク調の時計を見上げて言った。飲み物のカップ以外はすべて片づけられたテーブルに肘をついて、海姫ちゃんが尋ねてくる。「小夜ちゃんの家からここまでってどれくらいなの?」「歩いて二十分くらいだけど……」「道に迷ったか?」 コーヒーを飲むキョウも眉をひそめる。家からここまでの道順は、そんなに難しくないから迷うことはなさそうだけれど……。「私、そのへん見てくる」 少し心配になって腰を上げると、ありさがにっこりと意味深に笑いかける。「これで会えたら、そのままデートしてきなよ。あたしたちのことは気にしなくていいからさ」「えぇ?」 戸惑う私に、皆は「いってらっしゃーい」とそろって手を振る。これで律にそんな気がなかったら、私ものすごくみじめなんですけど……。 口の端を引きつらせ、「とりあえず行ってきます」と言ってひとりお店を出た。 蒸し暑い外に出ると、曇り空から少しの晴れ間が覗いている。いつもより暑さは和らいでいる気がするけれど、それでも長時間外にはいたくない。「律、どうしたんだろ……」 家からここまで来る道は二通りあり、お母さんが教えたのはたぶん近道のほうだろう。こんな暑い中、わざわざ遠回りさせないだろうし。 そう推測して、踏切があるほうへと向かう。もし会えなかったら、お店に戻ってキョウから連絡を取ってもらおうか。 ……でも、なんだろう。なんだか、胸騒ぎがする。 言いようのないざわざわとしたものを感じて、自然と早足になっていた。 踏切の警告音が鳴り始めるのを聞きながらわき道に入る。すると、小さな踏切のあたりに人がいるのが見えた。その人以外、周りには誰もいない。「あっ」 律の姿を見つけて、ほっとしたのは一瞬。近づくにつれて、様子がおかしいことにすぐ気がついたから。 膝に両手をついて、今にも倒れそうに見える彼がいるのは、遮断機が下りていく踏切の中。線路の上で、一歩も動こうとしない。明らかに異常だ。「……律っ!?」 カンカンカンと恐ろしい音が鳴り響くそこに向かって、彼の名前を叫び駆け出した。 遮断機のバーを潜り、彼のもとに駆け寄る。「律! 大丈夫!?」 身体を支えるように腕を回すと、彼は顔を上げて目を開いた。汗が流れて、ひどく顔色が悪い。「……な、ん
「はあ……よかったぁ」 一気に力が抜けて、へなへなと倒れ込みそうになるも、私の横には倒れたまま動かない律がいる。うつぶせで横に向けた顔は青白く、苦しそうに歪んでいる。「律っ! ねえ、大丈夫!?」 どうしよう、どう具合が悪いんだろう? あそこで動けなくなるくらいなんだから相当なはず。 まだパニックは治まらず、軽く律の肩を揺すると、彼の唇がかすかに動く。「さ、よ……」「え?」「ごめん……小夜……」 ──四年ぶりに〝小夜〟って呼んでくれた。こんな時なのに、感極まってじわりと涙が滲む。「危ない目に、遭わせて……ほんと、情けない……」 荒い息をしながら途切れ途切れに言葉をつむぐ彼に、私はぶんぶんと首を横に振った。「いいの、私は大丈夫だから。それより救急車──!」 とにかく電話するためバッグからスマホを取り出そうとすると、律がゆっくり手で制した。その手が震えていて、言葉に詰まってしまう。 なんとか上体を起こした彼は、はいつくばるようにして道の脇へ移動しようとする。よく見ると足も震えているみたいだ。 いつもの律から想像できない姿に困惑しながらも、とにかく今は彼を助けようと身体に腕を回して支えた。 あまり人目につかない木陰に一緒に座ると、律はポケットから取り出したスマホを震える手で私に差し出す。「越に、電話……」「えっちゃんに?」「ボタン……うまく、押せなくて」 それを聞いて、さらにぐっと胸が苦しくなった。 この状態を見ていれば、もう一目瞭然だ。律は、きっとなにかの病気を患っているんだって──。 髪で表情が隠された、頭を垂れる彼を見つめて、私は唇を噛みしめる。泣きそうになるのを堪えて〝逢坂 越〟の名前を探し、電話をかけた。 えっちゃんは、私が名乗るとすぐにわかってくれた。今の状況を伝えると、『十分くらいで着くから』と言ってもらえたので、ひとまず安心する。「えっちゃん、すぐ来てくれるって。もう少し待ってられる?」「ん、ありがと……さっきよりマシ」 いくぶんか表情が和らいできた律にほっとしながら、スマホを返した。「でもつらいでしょ? 私に寄りかかってて」 返事を聞くより先に、少し強引に彼の身体を抱き寄せる。律は抵抗せず、おとなしく私に寄りかかり、肩に頭を乗せた。 私の右側に触れている、柔らかな髪、温かい身体。無意識のうちにしっかりと手を握って、ただじっと彼の存在を感じていた。「……小夜
両親への挨拶が済んだ後、私たちはふたりで借りたアパートへ向かった。 部屋に入るとどっと疲れが出て、ふたりしてソファに座り込む。「あー……よかった。ふたりも認めてくれて」「ああ。おじさんたちも、小夜とそっくりで素敵な人たちだって再確認したよ」 嬉しいことを言ってくれる律は「あ、もうお義父さんになるのか」と呟き、私は幸せな笑いがこぼれた。 手を繋ぎ、彼の肩にこてんと頭を乗せる。「これからずっと一緒にいられるなんて、本当に幸せ」「俺も」 幼い頃の約束をずっと実現させたいと思っていたけれど、実際にそうなると夢みたいな気分。 愛しさが膨れて、ふいにキスをしたくなって彼に顔を向けたら、同じことを考えていたのか視線が絡まった。 自然に唇を寄せ、温かな口づけを交わすと、律は私の髪を梳きながら熱っぽい瞳で見つめる。「……抱いていい? 改めて小夜の大切さを実感したら、全部欲しくなった」 心臓がときめきの音を奏でる。大人になった彼は、色気がありすぎてくらくらするほど。 私は頬が火照るのを自覚しながら、こくりと頷いた。「私も、律にいっぱい触れたかった」 正直に返すと、彼も少し頬を赤らめ「可愛くてたまんない」と微笑む。もう一度唇を寄せると、タガが外れたように濃密なキスをお見舞いされた。 私たちが抱き合える日はそんなに多くない。ふたりきりになれるのは週末だし、律の体調や仕事のタイミングで叶わない時もあるから。 だから、私は毎回緊張して、ずっとドキドキしているのだ。 ソファでたくさんキスをした後、ベッドに移動して身体中を甘く愛撫する。「愛してる」と何度も囁き合い、十分に慣らされてから熱く滾る彼を迎え入れた。 重なる肌からも、自分の中の奥深くでも、彼が生きていることを感じられる。 こんなに幸せなことはないと、とろけそうな意識の中で思いながら汗ばむ背中にしがみついた。 それから数日後、私の誕生日に、律とふたりで海に来ていた。夏真っ盛りで暑いけれど、手を繋いでゆっくり砂浜を歩く。 こうしているなにげない瞬間、一分一秒が、私たちにとっては宝物だ。「キョウは来月こっちに戻ってくるんだっけ?」「ああ。『早く帰りたい』ってそればっかり言ってるよ」 穏やかな波音に、私たちの笑い声が混ざり合う。 あれからキョウは自動車メーカーの営業マンに、ありさは調理師になった。別々の道に進んでも、相変わらず連絡はとっている
小夜、今までありがとう。 高校を卒業してから約五年。辛いことも楽しいことも、全部ふたりで分かち合ってきたけど、 終わりにしよう、俺たち。 * * * 高校を卒業して、早くも五年が経った。 律が飲む薬の量はそこまで変わらず、普通の生活を送ることができている。むしろ、だいぶ症状に慣れてきた分、以前よりも充実した毎日を過ごせていると思う。今はお互い社会人として精一杯生きる日々だ。 私は大学に進学し、理学療法士の資格を取って総合病院に就職した。この道を選んだのはもちろん、律を支えていくために勉強し、その力を存分に使いたいと思ったから。 リハビリのサポートは大変なことも多いけれど、患者さんとのおしゃべりは楽しいし、『あなたのおかげでこんなことができるようになったよ』と感謝されると心から喜びを感じられる。新たなやりがいを見つけられたので、私も律に感謝だ。 律はITのスキルを学べる専門学校に進み、今は大手のインターネット企業でデスクワークをしている。病気に理解があり、リモートワークもできる職場なので、自分のペースで無理なく働けているようだ。 大人になりスーツを着こなす律も当然カッコよくて、会社の女性社員に狙われやしないか、私は内心不安だったりするけれど。 私が就職してからアパートも借りて、週末はそこでふたりで過ごす半同棲生活を送っている。 これは律からの提案だった。『お互い実家暮らしじゃ、思う存分小夜に触れられないから』という、なんとも赤裸々な理由で。 こぢんまりとした部屋に好きな家具や雑貨を置いて、一緒にご飯を食べて寄り添って眠る。この平凡な生活がなにより幸せで、心を満たしてくれる。 ケンカはめったにしない。律が少し無理をして、それで私が怒ってしまう時がたまにあるものの、すぐに謝るから。 時に意見がぶつかって、仲直りしてまた笑い合う。その繰り返しで、私たちには誰よりも強い絆が出来上がっていると自負している。 ──しかし、私の二十三回目の誕生日を約一週間後に控えた今日。この日ばかりは、私と律はお互い固い表情で、あまり言葉も交わさずに隣り合って座っている。 私の家のリビングで、向かい合っているのは私の両親だ。〝話がしたい〟とだけ伝えてあったのだが、おそらく内容は予想できていただろう。 さらに、スーツを着ている律を見て確信したはず。私だけでなく、両親も緊張しているのがわかる。
一般公開が終わった後は後夜祭が行われる。その時に会おうと、律と約束していた私は、クラスの後片づけが終わると四組に向かった。 しかし、教室に律の姿はない。「逢坂なら、古畑と一緒にどこか行ったよ」「えっ?」 律とよく一緒にいる男子が教えてくれて、私は目が点になった。 律がキョウと? なにか話があったのかな。どこに行ったんだろう……。 少しだけ考えて思い浮かんだのは、以前彼に連れられて行った屋上に繋がる階段。なんとなくそこへ向かってみると、上のほうから話し声が聞こえてきた。 思わず忍び足になり、そうっと近づいてみると、聞き慣れた男子の声が聞こえてきた。「病気だなんて知らずに、いろいろ言って悪かったな」 この声に内容……やっぱりキョウが律に言っているようだ。 邪魔はできないけれど話も気になって、私はその場で静かに耳を澄ませる。「いいんだよ、そんなの。言われても仕方ないことをしてたのは俺なんだから。……ていうか、キョウのおかげで思い直すこともできたし」 キョウのおかげ? やっぱり私が知らない間に、ふたりは話していたのだろうか。「病気になってから、いろんな考え方がネガティブになってて。〝頭はしっかりしてんのに、どうして身体が言うこときかないんだ〟、〝俺は人に迷惑かけるばっかりだ〟ってずっと思ってたんだよ」 胸がきゅっと締めつけられるのを感じていると、彼は「でも」と続ける。「今は〝制限のある自分は、大切な人になにができるかを考えるためにこの頭があるんだ〟って思えるようになった。だから、ありがとな」 律の声は、明け方の空みたいに澄んでいて、私の胸の苦しさも和らいでいく。 キョウがなにを言ったのかはわからないけれど、律の気持ちを変えるくらいの影響力があったんだろう。さすが、親友だね。「……ようやく気づいたか」 キョウがふっと笑い、穏やかな声色で言う。「でも、律がそうやって考えてるってことが、小夜にとっては一番幸せなんじゃねーかな」 彼の言葉は、私の心にも優しく流れ込んでくる。 キョウの言う通り、私はなにもしてもらわなくても、律のその気持ちがあれば十分嬉しい。 姿が見えなくても、ふたりの和やかな雰囲気を感じる。昔よりもっと絆が深まったようで、私も自然に表情がほころんでいた。「……あ?」「ひゃっ!」 突然、階段を下りてきたギャルソン姿のキョウが現れて、私は飛び跳ねそうなくらいびっくりし
こんな賑やかな始まりを迎えた二学期、私の心は澄み渡っていた。 律の体調は気がかりだけれど、彼のクラスの仲よしな友達も、病気をカミングアウトして以来気遣ってくれているらしく、特に問題は起こっていない。 以前までのチャラチャラした雰囲気はまるで消えているし、女子たちは不思議がっているかもしれない。 そして、あっという間に文化祭を迎え、今日は一般公開二日目。 うちのクラスのコスプレカフェという名の出し物も、まあまあな盛り上がりだ。奇抜なコスプレをしている人もいる中、私はフリフリのレースがついたちょっとだけゴスロリっぽい服を着ている。 休憩の時間になると、ありさと一緒に比較的静かな体育館の横にやってきた。 なぜか海賊のコスプレをしている彼女、めちゃくちゃ似合っている。うっかり惚れてしまいそう。「なんか女子から熱い視線を感じるんだよね」「だって、ありさカッコいいもん!」 同じく熱い視線を送る私に、ありさは呆れ顔をする。「でも裏方の手伝いしてる時、料理の手際の良さに感心してる男子も結構いたよ」「そぉー? ま、あたしの魅力に気づいてくれる人がひとりくらいいてもいいか」 無邪気に笑ったありさは、美味しそうにクレープを食べ始めた。 私も種類の違うクレープを味わい、しばらくするとありさが神妙な顔をして言う。「それにしても、まさか逢坂くんが難病患者だったとはねー……」 つい先日、ありさとキョウにも、律が病気のことを打ち明けていた。 ふたりとも驚きを隠せない様子だったけれど、もちろん受け入れてくれている。「サニーサイド行った時に、意外と歩くのゆっくりだなぁとは思ったけど、それも病気のせいだったんだ」「うん……言われてみれば、って感じだよね。いつもは全然普通だし」 時々信じられなくなる。こんなに元気なのに、必ず動けなくなる時が来るなんて。 でも、いつか訪れるその時も、私は彼に寄り添っていたいと思う。「律は私たちに迷惑かけたくなかったみたいだけど、私は逆にもっとそばにいたいって思うようになっちゃったよ」 なにげなく口にしたけれど、恥ずかしいことを言った気がして顔が熱くなってくる。 照れ隠しで大口を開けてクレープを頬張ると、ありさがふふっと笑った。「でも、逢坂くんが離れようとしてたのも、小夜との将来をちゃんと考えてたからでしょ。それってすごいことだよね」 ありさの言う通りだ。 私はずっと当たり
「おはよー」「あー眠い……」「ねぇ、数学の課題やった?」 いつもと変わらない、クラスメイトの雑談が飛び交う新学期の朝。私はこれまでと少し違った気持ちで教室に入った。 自分の席に荷物を置いたありさは、満面の笑みを浮かべながら私の席にやってくる。「いやーもう本当によかったねぇ、小夜~!」「お前それ何回目だよ」 一緒に登校したキョウが、ありさに呆れた声を投げた。でも彼女はそんなこと気にせず、私に抱きついている。「だって嬉しいんだもん! 小夜の長かった恋が報われてさー」「ありがとね、ありさ」 私もすっごく嬉しいよ。律とまた気持ちが通じ合えたことも、ありさがこんなに喜んでくれることも。 夏休み中に、誕生日を祝ってくれた皆には律とのことを報告していた。病気については律が自分から話すと言っていたので、キョウとありさにもまだ打ち明けていない。 こうやって会うのは久々だから、ありさはテンションが上がっているらしい。私はそんな彼女からキョウに目線を移して微笑む。「キョウもありがとう。いっぱいお世話になりました」 うやうやしく頭を下げると、相変わらず無愛想な彼はちょっぴり意地悪なことを言ってくる。「またどっか行っちまわないように、鎖でもつけといたほうがいいんじゃねーの?」「もう大丈夫!」 自信を持って答えると、キョウの顔にもふっと笑みが生まれた。 思えば、キョウは事あるごとに私を助けてくれていた。今があるのは彼の力も大きいので、「本当にありがとね」と告げた。 満足げで、でもなぜか少しだけ寂しそうにするキョウに、真木ちゃんが近づいてくる。「新しい妻は、この海姫様なんていかがでしょう?」「へっ?」 まぬけな声を合わせ、キョトンとする私たち。真木ちゃんの後ろから姿を現した海姫ちゃんは、なにやら艶やかな笑みと仕草でキョウの肩に手を回した。 ギョッとする彼に、海姫ちゃんが色っぽく迫る。「たまには同学年もアリかーと思ってね。ぽっかり空いた隙間を埋めてあげるわよ、恭哉クン?」「……色気あるお姉様タイプもいいかもな」 顎に手をあてて真剣に言うキョウに、私たちは吹き出した。お互い冗談なのかどうなのか、すごく微妙だけれど。 そうして皆で笑い合っていると、急に教室内がざわめき出す。なんとなく周りに目を向けると、うちのクラスにはないオーラを放つ人物が中に入ってきた。「律……!?」 あれ、なんで律が? 彼がこの教
えっちゃんから話を聞いた後、彼が「どうぞ」と言うので、私は律の部屋に入らせてもらった。 顔色はさっきよりも良くなっていて、穏やかに寝息をたてている彼を見て、少し安心する。 夕日でオレンジ色に染まる、シンプルで男らしい部屋をぐるりと見回してみる。 小学生の頃は、サッカーボールやユニフォームが目につくところにあったけれど、今は見当たらない。チームの皆や、私たちと撮った写真ももう飾られていなくて、寂しい気持ちになった。 本棚には律が好きらしい漫画が並んでいて、その一番端に、漫画ではない本が何冊かある。 背表紙には、彼の病名が書かれている。病気についての解説書や、患者さんの闘病記のようだ。 律もこの病気の患者なのだと改めて思うと胸が苦しいけれど、私ももっと詳しく理解したい。 少し目を通してみたくて本を拝借しようとした時、その本の隣に見覚えがある箱を見つけて、私は動きを止めた。「これ……」 思わず小さな声を漏らして、お道具箱みたいなそれにそっと手を伸ばす。 可愛らしい赤いチェック柄のその箱は、律が引っ越す前に私やキョウがあげたものだと、すぐに思い出した。 確かこれにお菓子を詰めて、餞別のつもりであげたのだ。それをとっておいてくれたなんて。 懐かしさが込み上げつつ、今は中になにが入っているのか気になる。ちらりと律を見やるも、まだ起きる気配はない。 ……ちょっとだけ、見てもいい? ちょっとだけだから! 好奇心が勝ってしまった私は、心の中で勝手に律に断りを入れて箱に手を伸ばす。そっとふたを開けてみて、目を見開いた。 中に入っていたのは、これまた見覚えがある封筒の束。私が送った、手紙の数々だった。 全部、大事にとっておいてくれたんだ……。 嬉しさを噛みしめるも、ひとつだけ気になるものがある。たぶん私のものではない、ぐしゃぐしゃに丸められた紙だ。これはなんだろう。 どうにも気になって、また〝ちょっとだけ!〟と心の中で言い、ゆっくり開いてみる。 綴られた文字を見て、驚きで心臓が飛び跳ねた。シンプルな便箋には、【緒方小夜さま】と書かれていたから。 うそ……これ、律が私宛てに書いた手紙!? 信じられない気持ちで文字を追うと、私の名前の下には【十五歳の誕生日、おめでとう】と書かれている。 十五歳って、えっちゃんのふりをして手紙をくれたのと同じ、中学三年の時だ。どうしてそんなものが……と不思議
「サッカーができなくなっちゃったのも、それで……?」「そう。激しい運動はやっぱりやめたほうが良くてね。でも律の場合まだ症状は軽いし、薬を飲んでいれば日常生活には支障ないよ」 えっちゃんは私を安心させるように微笑んだ。日常生活に問題はないとわかって、少しほっとする。 とはいえ、大好きなサッカーができなくなって、律はどれだけ悔しかっただろうと思うと、やり切れなさでいっぱいだ。 えっちゃんもすぐに表情を曇らせて、声のトーンを落とす。「でも、今日は特別調子が悪かったみたいだね」「あんなふうになることはよくあるの?」 さっきの律の姿を脳裏に蘇らせて、胸の中に不安と心配が渦巻いたまま問いかけた。 彼は「そんなことないよ」と否定したものの、表情は浮かない。「薬の服用のタイミングや量が合わないと、いろんな副作用が出るんだ。人によって症状は違うみたいだけど……律は足が動かなくなっちゃったみたいだね。今日の状況を聞くと」 だから、踏切の真ん中で立ち止まったまま動けなくなってしまったんだ。あの時、私が彼を見つけていなかったらと思うとゾッとする。「ついこの間、薬の種類が変わったからそのせいかもな。少量の違いで症状が出るから、コントロールが難しいんだ。いつ、どれくらいの量を飲むのか、律が自分自身でちゃんと把握して、うまく付き合っていかなきゃいけない」「そんなに難しい病気なんだ」「ああ……。まあ、今日は暑さにやられたせいもあるかもしれないけど。これだから出無精は困るよ」 口を尖らせているけれど、弟想いなのが伝わってきて、少しだけ笑みがこぼれた。「じゃあ、薬を飲んでいれば症状は抑えられるんだよね?」 そんなに副作用が出てしまうのは怖いけれど、気をつけていれば大丈夫なのかな。完治はしないとしても……。 えっちゃんは、ほんの少し口角を上げて答える。「薬が効いている間は、普通に生活できるよ。寿命には関わらないから、他に病気や事故に遭ったりしなければ長生きできるし」「そうなんだ……!」 余命があるようなものではないと知って、私はあからさまに安心してしまった。 しかし、えっちゃんの声は明るくならないまま、「でも」と続ける。「症状は確実に進行する。何年もかけて、すごくゆっくりとだけど。何十年先かわからないけど、将来寝たきりになるのは避けられない」 その事実を聞いた瞬間、目の前が暗くなる感覚がした。 律の身体
電話で言った通り、十分足らずで来てくれたえっちゃんの車に乗り込むと、律は安心したのかすぐに眠ってしまった。 ほどなくして着いたのは、えっちゃんも一緒に暮らしているというマンション。彼は律を抱き抱えて一階の部屋に運び、私をリビングに上がらせてくれた。「悪かったね、迷惑かけて」「ううん、私は全然」「たまたま俺が休みでよかったよ」 苦笑するえっちゃんは、あまり動揺した様子はない。私はすごく心配したけれど、病院に連れていくほどでもないみたいだし……。 やっぱり、ちゃんと律の身体のことを知りたい。律が寝ている部屋のほうを眺めていると、キッチンに回ったえっちゃんが「なにか飲む?」と問いかけた。 お言葉に甘えて飲み物をもらうことにした私は、リビングのソファに座って彼を眺める。 その姿はすっかりカッコいい大人の男性だけれど、優しい雰囲気は昔のままでなんだか落ち着く。おかげで、四年ぶりだというのにまったく違和感なく話せる。「はい、おまたせ」「ありがとう。あの、おじさんたちは?」 琥珀色の液体の中で氷が揺れるグラスを受け取りながら聞くと、えっちゃんは私の向かい側のソファに座って説明してくれる。「引っ越してからは母さんと三人で暮らしてて、親父だけ仕事の関係で向こうに残ってる。律を診てくれる病院はこの街が一番よくて。俺もこっちで就職したから面倒見れるし」「そうだったんだね……」 ということは、おじさんだけ単身赴任している感じなんだ。律が病院に通いやすいように、この街に引っ越してきたということらしい。「今日は母さんも親父のとこに泊まりで行ってるから、小夜ちゃんも遠慮なくいてくれていいよ。律はまだ起きないだろうし」 穏やかに微笑んで、グラスに口をつける彼。私もアイスティーをひと口飲んで、気持ちを落ち着けてから口を開く。「……えっちゃん、律はどんな病気なの?」 核心を突くと、えっちゃんは少しだけ表情を曇らせて苦笑を漏らした。「律は隠したがってたけど、もう今日のことで小夜ちゃんも気づいたよね」 目線を上げた彼は、意を決したように真剣な表情でこう言った。「律は、身体を動かしにくくなったり震えたりして、運動がスムーズにできなくなる病気なんだ。今は進行を止める治療薬がなくて、難病に指定されてる」 難病……その重々しい単語を耳にして、ドクンと鈍い音が身体の奥で響いた。「高齢者に多い病気なんだけど、若くし
「はあ……よかったぁ」 一気に力が抜けて、へなへなと倒れ込みそうになるも、私の横には倒れたまま動かない律がいる。うつぶせで横に向けた顔は青白く、苦しそうに歪んでいる。「律っ! ねえ、大丈夫!?」 どうしよう、どう具合が悪いんだろう? あそこで動けなくなるくらいなんだから相当なはず。 まだパニックは治まらず、軽く律の肩を揺すると、彼の唇がかすかに動く。「さ、よ……」「え?」「ごめん……小夜……」 ──四年ぶりに〝小夜〟って呼んでくれた。こんな時なのに、感極まってじわりと涙が滲む。「危ない目に、遭わせて……ほんと、情けない……」 荒い息をしながら途切れ途切れに言葉をつむぐ彼に、私はぶんぶんと首を横に振った。「いいの、私は大丈夫だから。それより救急車──!」 とにかく電話するためバッグからスマホを取り出そうとすると、律がゆっくり手で制した。その手が震えていて、言葉に詰まってしまう。 なんとか上体を起こした彼は、はいつくばるようにして道の脇へ移動しようとする。よく見ると足も震えているみたいだ。 いつもの律から想像できない姿に困惑しながらも、とにかく今は彼を助けようと身体に腕を回して支えた。 あまり人目につかない木陰に一緒に座ると、律はポケットから取り出したスマホを震える手で私に差し出す。「越に、電話……」「えっちゃんに?」「ボタン……うまく、押せなくて」 それを聞いて、さらにぐっと胸が苦しくなった。 この状態を見ていれば、もう一目瞭然だ。律は、きっとなにかの病気を患っているんだって──。 髪で表情が隠された、頭を垂れる彼を見つめて、私は唇を噛みしめる。泣きそうになるのを堪えて〝逢坂 越〟の名前を探し、電話をかけた。 えっちゃんは、私が名乗るとすぐにわかってくれた。今の状況を伝えると、『十分くらいで着くから』と言ってもらえたので、ひとまず安心する。「えっちゃん、すぐ来てくれるって。もう少し待ってられる?」「ん、ありがと……さっきよりマシ」 いくぶんか表情が和らいできた律にほっとしながら、スマホを返した。「でもつらいでしょ? 私に寄りかかってて」 返事を聞くより先に、少し強引に彼の身体を抱き寄せる。律は抵抗せず、おとなしく私に寄りかかり、肩に頭を乗せた。 私の右側に触れている、柔らかな髪、温かい身体。無意識のうちにしっかりと手を握って、ただじっと彼の存在を感じていた。「……小夜