Masuk美月は冷たい表情のまま、湯気の立つ茶を紗雪の前に置いた。「今日はあなたを呼んだのは、相談したいことがあるからよ」「会長こそ、この会社の実質的な決定権者です」紗雪は茶を一口含み、ほのかな香りと甘さを味わいながら、ゆっくりと言った。「私に相談しなくてもご自身で決められるはずです」その言葉に一片の嘘もない。彼女は本気でそう思っていた。何せ、この会社は美月のものだ。自分は、ただその会社で働いているだけ。その事実は、ずっと変わらないし、紗雪も理解している。だから、母がわざわざ自分に意見を求めること自体、彼女には無駄に感じられた。だが美月は娘の態度に不満げだった。「紗雪は私の娘よ。少し相談したくらいで、母親として間違っているとでも?」突然の厳しい口調に、紗雪は一瞬言葉を失った。眉をわずかに上げ、弁明する。「そういう意味ではありません。ただ、ほとんどのことは会長が判断できますし、私も手が離せない仕事があります」その言葉を聞き、美月の目に失望の色が浮かんだ。「つまり、私があなたの時間を奪っている、と」そう言って席を立つ。その表情を見た瞬間、紗雪は胸の奥に焦りが走った。説明したい気持ちはあるのに、うまく言葉にできない。このところ、彼女はずっと会社のことばかり考えていた。「誤解です」そう言いながら、紗雪は視線をテーブルの湯気立つ茶に落とし、話題を切り替えることにした。「それより、この資料を見ていただけますか」「これは?」美月も話題を変えようとする意図を察し、素直に応じた。互いに退きどころを与えるのも、必要なこと。こんな小さなこと一つ折り合わないなら、会社の大事はどう進めるのか。何より、母娘なのだ。大げさな確執など必要ない。紗雪もそれを理解し、率直に言った。「安東家について調査したものです。私は思いますが、安東家は協力すべき相手ではありません。まるで害虫のように、ずっと私たちの会社を食い物にしてきた。彼らとの協力を解消することは、私たちにとって利益しかありません」美月は資料を受け取り、目を通した。そこには具体的な分析、例示、そして実データが丁寧にまとめられていた。その徹底ぶりを見て、美月は言葉を失う。娘は想像以上に優秀だ。すべてに真剣
紗雪が美月のオフィスへ向かう途中、彼女の顔には抑えきれない笑みが浮かんでいた。安東との繋がりさえ断ち切れば、その先はもう自分が手を下す必要もなく、安東グループは自ら崩れていく。そんな可能性を思うと、紗雪はむしろ面白く感じた。そうなれば、辰琉は今後二度と立ち上がれなくなる。そう考えると、紗雪はますます力が湧いてくる気がした。今一番重要なのは、安東家を切り離すこと。そうすれば、二川全体の環境もずっと健全になり、あの虫けらたちもいなくなる。安東家がずっとグループの血を吸ってきたことを思うだけで、紗雪の胸には苛立ちが広がる。以前は緒莉の顔を立てて黙っていたが、今となっては、あの二人に対して何の情けをかける必要なんて、ない。資料を抱え、紗雪は美月のオフィスへと向かった。今回は一度でしっかり伝えるつもりだ。安東家を助ける必要はもうどこにもない、と。オフィスに到着すると、美月はすでに中で待っていた。彼女がノックするより先に、「入りなさい」と声がかかった。まるで彼女を待ち構えていたかのように。紗雪は一瞬驚いたが、すぐに扉を押し開けた。美月はいつものように仕事をしているわけではなく、来客用のテーブルで茶を淹れていた。部屋には柔らかな茶の香りが漂っている。手元を動かしながら、美月はちらりと紗雪を見て、「来たのね。こっちに座りなさい」と言った。美月のこうした態度に、紗雪は少し驚いた。以前も礼儀正しくはあったが、こんなふうにまるで頼み事があるかのような態度はなかった。そんな可能性を思い浮かべた瞬間、紗雪は軽く頭を振り、その奇妙な考えを追い払った。母娘なのだから、そんな隔たりがあるわけがない。まして頼み事なら、直接そう言えばいいだけだ。紗雪は資料を持ったまま、唇を結び美月の向かいに座った。軽く頷き声をかける。「会長」美月の手がぴたりと止まり、胸の奥に苦味が広がる。少しの間を置き、「紗雪、ここは会社とはいえ、母さんって呼んでいいのよ、そんな――」と口を開いた瞬間、紗雪が遮った。「会長、ここは会社です。距離を保ったほうがいいかと」冷たく、よそよそしい一言。変える気など、初めからない。彼女ははっきり覚えている。以前、会社で美月は彼女に厳しく言い聞かせたのだ。「会社
それに、もし余計なことを言えば、美月は紗雪に対してさらに冷たくなるだろう。まるで紗雪が自分を使って母親に意見させていると誤解するに違いない。実際には、そんなこと全くないのに。山口は心の底からため息をつく。状況がどう変わろうと、美月の特定の人物への「偏愛」には勝てないのだ。緒莉のときと同じ。目の前に紗雪を傷つけた加害者がいても、別の「可愛い子」のためなら、もう一人の娘を傷つける選択をしてしまう。その滑稽さに、思わず苦笑が漏れた。紗雪のオフィスに着き、ガラス越しに中を見ると、彼女は机に向かい、何かを集中して書いていた。山口がノックすると、中から視線も上げずに「どうぞ」と声がする。その声に安心し、扉を開けた。「紗雪様、会長が用があるそうです」彼は丁寧に告げる。紗雪に対しては、ただの部下以上の敬意を抱いていた。能力があり、部下にも誠実で、何より忍耐強く努力家。取締役たちが陰口を叩こうと、決して怒らず、いつも穏やかに理をもって対処していた。「母が?何の用でしょう」紗雪は顔を上げ、困惑の表情を浮かべる。最近会ったばかりなのに、また呼ばれるなんて。安東家の件で何か問題でも出たのだろうか?山口は首を振る。「私も詳しいことは......」これ以上山口を困らせるわけにはいかない。これは彼女と美月の事情だ。「急いでるの?」「お早めに行かれたほうがいいと思います」紗雪は立ち上がる前に、机の書類に視線を落とす。一瞬だけためらったが、すぐに決心したように身を起こした。母が呼んでいる以上、避ける必要はない。「わかった、あとで行くよ」それを聞き、山口はほっと息をついた。――この母子関係、以前とは比べ物にならないほどぎくしゃくしている。彼が退室すると、紗雪は机上の契約書類を整える。そこに記されている数字と事実は残酷だった。多年にわたり、安東家は二川グループに寄生し、利益をほとんど返していない。これでは協力を続ける意味などない。こんな吸い上げるだけの会社、残して何になる?ただ自分を苛立たせるだけだ。滑稽に思えて、少し笑いがこぼれる。でももう心配はいらない。この資料を母に見せれば、必ず理解してくれる。安東家との協力は近いうちに解消されるだろう
この二つの件、どれ一つ取っても美月が怒らないはずがない。触れてはいけない相手に手を出し、しかもそれが彼女の最も大切な二人の娘。まるで大動脈を切られたようなものだ。だから美月が今していることは、緒莉の顔を立てて「少しだけ手を緩めている」に過ぎなかった。山口はこらえきれず口にした。「会長、どうしてあんなクズをまだ泳がせておくんですか。もう居場所もわかってるんですし、すぐ捕まえて警察に突き出すべきでしょう」彼も紗雪の件を知っている。辰琉を法の裁きに委ねなければ、紗雪にとってあまりにも不公平だ。その言葉に、美月の表情が一瞬揺れた。確かに、辰琉は二人の娘に傷を負わせた。ここで自分が一方的に緒莉の言葉通りにするなら、紗雪への裏切りになる。それは彼女にとって、最も残酷なこと。美月はゆっくり口を開いた。「今あなたに辰琉を見張らせているのは、そういう覚悟があるからよ」彼女は大きな窓越しに外を見つめ、顔に陰を落とす。「紗雪がつらい思いをしたのはわかってる。でも、もう過ぎた話よ。今緒莉が『見逃してほしい』と言った......その願いを聞いてやってもいいでしょ?」それを聞いた山口は、目を丸くした。こんなにも緒莉を甘やかしていたとは。しかも、一番大きな被害者は明らかに紗雪であるのに。なのに美月はただ監視を命じただけで、それ以上の強硬策は取らない。山口は胸の中でため息をつく。――こんな偏った母親なら、いない方がいいのではないか。そう思う一方で、口に出すつもりはなかった。自分はただの部下。退出しようとしたとき、美月が声をかけた。「紗雪を呼んで」山口は一瞬動きを止めたが、すぐに返答する。「承知しました」美月が軽くうなずき、彼は静かに扉を閉めた。美月は満足げだった。長年そばに置いているだけあって、目配りが利き、余計な騒ぎを起こさない部下。信頼も厚く、仕事もそつがない。だからこそ使いやすい、と。以前、山口は美月を尊敬していた。時代を先取る独立した女性――ずっとそう思っていた。しかし今、その評価は揺らいでいる。自分の子どもたちなのに、一方に偏りすぎている。それはあまりにも不公平だ。だが、美月という人間を知りすぎている。正面から意見すれば、
緒莉は気丈に言った。「お母さん、心配しないで。私は大丈夫だよ。もし辰琉を見つけられないなら......それでもいいの」美月はすぐに不満げに眉をひそめた。「ダメよ!まだ始まったばかりじゃない。なんで諦めるの?」緒莉はうつむき、ほんの一瞬で目が赤く染まる。再び顔を上げたとき、瞳には涙が溢れそうに光っていた。「お母さん、私だって諦めたわけじゃないの。声をこんなふうにした相手よ。私、もう疲れたの。これ以上あの人と何も話したくない。もし見つけられないなら、もういい。この数年の情分だったと思って、今後は二度と会わないだけでいいでしょ......」涙を散らす娘を見て、美月の胸も締めつけられる。彼女は一歩近づいて緒莉を抱きしめ、背中を優しく叩きながら慰めた。「泣かないの。緒莉がどう決めても、お母さんはずっとあなたの味方よ」言葉数は多くない人だが、美月の愛情は揺るぎない。「追うのをやめるって言うなら、手を引くわ。あなたが望むなら、お母さんは何だってするよ」その言葉に、緒莉はさらに胸がいっぱいになる。母をぎゅっと抱きしめ返し、涙声で言った。「お母さん......ありがとう。お母さんの気持ち、よくわかった。これからは何を決めるにしても、ちゃんと相談するから」「緒莉はいい子ね」美月は静かに目を細めた。この部屋には、穏やかな温かさが満ちていた。......一方、辰琉の状況はまるで対照的だった。ずっと背後にぴったり張りついてくる影を見ながら、彼の顔色は土のように暗い。最初は「形だけの追跡だろう」と思っていた。だが、途中で明らかに雰囲気が変わった。追っていた者たちは突然指示を受けたように散開し、緊張感が消え失せたのだ。それを見て、辰琉も足を止める。胸を締めつけていた焦りは、冷たい疑念に変わる。――本当に追う気がなくなった?それとも、別の指示で、ゆっくり確実に自分を追い詰めるつもりか?陰りを帯びた瞳が、鋭く光る。今、彼には信じられる人間などいない。この世で頼れるのは自分だけ。その思いを深く刻みつけながら、「真白を連れて、この街から消える」と決めた。奥歯を噛みしめ、車を借りて郊外へ向かう。......その頃、美月のもとにはすでに連絡が届いていた。
これから先、安東家の道はますます順調になるだろう。二川家という脅威さえなくなれば、彼に怖れるものなど何ひとつない。グループも、ただただ上り調子になるはずだ。だが、孝寛は「上には上がいる」という道理を見落としていた。二川家の脅威は消えたとしても、まだ椎名グループが待ち構えている。今回彼が敵に回したのは美月だけではない。身内を守る男――その存在も忘れてはならない。......その頃、辰琉は小さな宿に身を潜めていた。今の彼は多くの人間に追われており、うかつに姿を見せることすらできない。捕まれば終わり――そのことは本人が一番よくわかっていた。だが、頭に浮かぶ場所がひとつある。真白のために用意していた別荘だ。郊外にあり、人の気配も少ない。時折、食事を運ぶ使用人が訪れるだけ。その使用人は長年雇っており、信用できる人物だ。そこだけは、辰琉も自信を持てる場所だった。しかし今の問題は、どうやって郊外まで行くのかだ。考えれば考えるほど、頭が痛くなる。途方に暮れていたそのとき、宿へ向かってくる一団が目に入った。最初は気にも留めなかったが、彼らの話し方を聞くうち、胸に嫌な予感が走る。――自分を探しに来た。直感がそう告げた。辰琉は目を細め、派手ではない彼らの顔ぶれを観察する。知った顔はひとつもない。つまり、父が差し向けた者ではない。――父は自分を差し出したのだ。彼らは警察か、美月の手の者に違いない。胸の奥が一気に冷えた。まさか、自分が安東家の御曹司からこんな惨めな姿に堕ちるとは。――緒莉......全部そいつのせいだ。いつかまた立ち上がれるなら、絶対に許さない。......二川家。緒莉は寝室の中をそわそわと歩き回っていた。まさか、あの男が狂っていなかったとは。どうりであの目つき......ずっと何かがおかしかった。胸の奥がぞわりとしたあの感覚は、間違っていなかった。真実はいつもどこかに痕跡を残す。手が震え、彼女はぎゅっと拳を握る。――もう怯えちゃダメ。帰りの車の中で、美月は彼女の汗をかいた手に気づき、問いただしてきた。なぜそんなに緊張しているのか、と。彼女は安東家で使ったのと同じ理由を口にした。「怖かったから」