緒莉はこういう隙を突くのが本当に上手い。人の同情心を利用することにかけても、彼女は抜け目がなかった。だからこそ、美月の紗雪に対する印象は、時を追うごとに悪くなっていったのだ。そこには、いつも緒莉の「介入」があった。部屋に戻った美月は、入浴を終えてベッドに腰掛けた。考えれば考えるほど、胸の中に違和感が広がっていく。そもそも、自分と有佑の因縁なんて、もう過去の話だ。すでに終わったことを、なぜ紗雪に背負わせなければならないのだろう。あの子には何の関係もない。酷い言い方をすれば、その頃まだ生まれてすらいなかった。両親を選んで生まれてきたわけでもない。なのに、なぜ一人の子どもに責任を押しつけるのか。有佑はもうこの世にいない。自分もそろそろ、過去を手放すべきではないのか。そう思うと、美月の胸に罪悪感が押し寄せてきた。この数年、確かに緒莉ばかりに気を取られ、紗雪のことをたくさん見落としてきた。とくに有佑がまだ生きていた頃、紗雪をまともに抱きしめたことすら、ほとんどなかった。だからこそ、あの子があんな質問をしてきたのではないか。自分たちの距離が、取り返しのつかないほど遠ざかってしまった証拠なのでは。そう考えた瞬間、胸が締めつけられる。美月は立ち上がり、勢いよくドアを開けた。すると、そこに緒莉が立っていた。枕を抱えて、驚いたように目を瞬かせている。この時間、もう自分の部屋で休んでいるはずじゃ......?美月は一瞬、戸惑った。けれど、習慣で優しく問いかける。「どうしたの? もうすぐ十二時よ。明日授業があるんじゃないの?」その声は、驚くほど柔らかかった。紗雪に向けられたことのない声色である。もし紗雪がここにいたら、間違いなく胸が痛んだだろう。これは、単なる「差別」なんかじゃない。美月は、初めから紗雪を「娘」として見ていないのだ。緒莉は、無害そうに微笑んだ。そして窓の外の雷雨を指さす。「お母さん......雷が怖いの。一緒に寝てもいい?」その言葉を聞いた瞬間、美月は立ち尽くした。心が一気に溶けてしまう。「どうして早く言わなかったの」美月はすぐに彼女の手を取り、部屋に招き入れた。「お母さんが悪かったわ。雨が降ってるのに、最初から一緒に寝
それから――もう一つ、大きな理由があった。そう思った瞬間、美月は緒莉の肩を抱く手に、無意識に力を込めていた。「お母さん、どうしたの?」不思議そうに見上げる緒莉。けれど美月は何も答えず、ただこの顔を見つめた。自分とは一片も似ていない顔。胸の奥に、迷いと拒絶が入り混じる。すぐに我に返ると、笑って首を横に振った。「大丈夫よ。ただちょっと疲れただけ」「休んだほうがいいよ。私も明日授業があるし、今日は早く休もう」「ええ、そうね。緒莉の言う通りだわ」美月は眉間を押さえた。今日は一日中、まるで戦いだった。勝ったのか負けたのか、それさえ分からない戦い。ただひとつだけはっきりしていることがある。自分は決して、紗雪を嫌っているわけではない。......ただ。美月は視線を落とした。どう向き合えばいいのか、それが分からないのだ。あまりにも自分にそっくりな顔を見るたびに、言葉を失ってしまう。親子であることは疑いようもない。あの顔を見るだけで、自分の血を引く子だと分かる。そんな子を、本気で突き放せるわけがない。だが......紗雪は、あの男との子どもでもある。そう考えるだけで、どうしても受け入れられず、心が拒絶してしまう。もちろん、こんな態度が公平でないことくらい分かっている。けれど、自分の心のしこりをどうしても越えられない。どうにもならないのだ。緒莉は、そんな母の表情に浮かぶ葛藤を見て、内心おもしろくて仕方がなかった。今さら後悔でもしてる?最初に紗雪を抱きしめてあげなかったことを。でももう遅い。紗雪の心はとうに傷つき切っている。あの問いを口にした時点で、母の愛を求めていることは明らかだった。けれど母は迷った。一瞬でも迷うということは、紗雪を大事に思っていない証拠だ。いまさら取り繕ったところで手遅れ。あの子は聡い。母が「埋め合わせようとしているだけ」だなんて、とっくに気づいているはず。一度壊れたものは戻らない。粉々に砕けた鏡のように、どんなに裂け目を埋めようとしても、もう元には戻らないのだ。緒莉は母を部屋まで送り、自分も休むふりをして寝室に戻った。ベッドに横になると、思わず笑みがこぼれる。紗雪が不幸なら、それだけで自
岡目八目。緒莉は横で、母の心の中をとっくに見抜いていた。そして、妙に気になって仕方がなかった。どうして母は、明らかに紗雪を気にかけているのに、あえて無関心を装うのだろう。どんなに観察しても、その理由だけは理解できなかった。いくつかの可能性を考えたこともある。たとえば「紗雪は母の実の娘ではない」とか。けれどその考えは浮かんだ瞬間に消えていった。だって、紗雪はあまりにも美月にそっくりなのだ。いや、そっくりどころか、美月の美点を余すところなく受け継ぎ、さらに磨き上げたかのように......まるで人形のように整った容姿。幼いころからずっと、緒莉はその美しさを羨んできた。どういう遺伝の仕組みなのか分からない。母に似ただけでなく、特に「美しい部分」ばかりを選び取ったような顔立ち。その理由を、今も全く理解できないでいる。同じ母から生まれた娘なのに、どうして自分は似ていないのか。それが、ずっと引っかかっていた。それなのに、母はどうして差をつけて接するの?緒莉は、同じ言葉を繰り返す母を見て、最後にはただ笑みを浮かべた。「うん。そうだね、お母さん」素直そうに言う。「妹はまだ子どもだから、ああいう態度になっちゃうんだと思う。私も理解してるから。誰だって小さい頃はそうだったんだから」その言葉に、母の表情がふっと和らいだ。肩を抱き寄せ、安心したように微笑む。「やっぱり緒莉は分かってくれるのね。頼もしいわ」緒莉はそのまま、美月の肩に頭を預けた。従順で素直な娘を演じるように。その仕草が、母娘の距離をさらに縮めていく。けれど、心の奥では冷静に分かっていた。母はやっぱり、紗雪を気にしている。そうでなければ、あの言葉を何度も繰り返したりはしないはず。なのに、どうして自分の前でだけ、あんなふうに冷たい態度を取るのか。そう、あれは「演技」だ。緒莉の瞳に、暗い影が落ちる。母が本気で紗雪を嫌っているわけじゃないことなど、とうに気づいていた。ただ、自分の前では意図的に冷たく振る舞っているだけ。思い返せば、昔からそうだった。自分の前では厳しく当たるふりをして、でも裏では、本当に冷遇していたわけではない。そうじゃない?唇に笑みを浮かべると、胸の内には皮肉な思いが
こんなに長い時間が経ったせいで、当時の記憶はもうあまり鮮明ではなかった。けれど今こうして過去に戻ってみると、母の表情や反応がどれほどはっきりしていたのか、痛いほど分かってしまう。嫌いなものは、結局どれだけ頑張っても嫌いのまま。自分がどんな努力をしても、相手の態度は変わらない。宿題に没頭して気を紛らわせようとする幼い自分を見ていると、胸の奥がずしりと重くなる。けれど今の自分には、ただ見守ることしかできない。それでも知りたかった。この後、あの時の自分に何が起こったのかを。けれど現実は、母も緒莉も互いに寄り添うだけで、幼い自分の気持ちなど誰も気にしてはいなかった。結局、夜が更けても慰めの言葉をかけてくれる人は一人もいなかったのだ。若い紗雪は宿題を終えると、洗面を済ませ、一人で布団に潜り込んだ。小さな身体をきゅっと丸めて眠ろうとする姿を見ていると、紗雪の胸はさらに締めつけられる。そうだ、自分はもうあの頃の脆さを忘れてしまっていた。今の自分は、少しずつ積み重ねて強くなってきた。それが大事なこと。過去は、自分が歩んできた道に過ぎない。母に好かれなかったからといって、何だというのだ。今の自分の力は、緒莉をはるかに超えている――それだけが揺るがぬ事実。紗雪はゆっくりと拳を握りしめた。布団の中で丸くなった幼い自分を見つめると、胸が張り裂けそうなほど痛んだ。できることなら、この時代の自分に言葉をかけてやりたい。どんな道を通ってきたかなんて、気にする必要はない。それは他の誰にも経験できなかった、自分だけの宝物だから。一人でその穴を抜け出せたなら、きっと別の世界を知ることができる。他の人と同じ場所に埋もれる必要なんてない。その先には、もっと広い世界が待っているから。けれど、今の自分には何もできない。ただ願うしかない――幼い自分が少しでも早くこのことに気づき、周囲に振り回されずにいてくれることを。現に、今の自分の成果を見れば分かる。世間の目は、もうとっくに緒莉と自分を同列には扱っていない。病弱な子と、力を持つ子。比べるまでもないことだ。紗雪はベッドの端に腰を下ろし、布団の膨らみをじっと見つめた。胸が痛くてたまらなかったが、今できることはただそばにいること
本来なら口をついて出る言葉ではないのか。あるいは、迷うことなく言えばいいだけのことではないのか。けれど、美月の口からは、どれだけ時間が経っても出てこなかった。このことが、紗雪にはどうしても理解できなかった。「愛している」と言うことは、そんなに言いづらいことなのだろうか。若い紗雪の心は、少しずつ冷えていく。そして母がためらえばためらうほど、緒莉の笑みは深くなる。これではっきりしたじゃない。母がここまで言いよどむということは、紗雪を愛していない証拠。時間が過ぎれば過ぎるほど、二人の心はすり減っていく。傍から見ても、そんなの誰だって気づけるほど明白なことだった。美月が口を開きかけた、その瞬間。若い紗雪が先に言葉を挟んだ。「もういいよ、お母さん。この質問に答えなくて大丈夫」伏せたまつ毛が影を落とす。「私の中では、もう答えが出てるから......もうわかったの」その一言に、美月の胸はドキリとした。見透かされている――そう感じるのが、どうにも居心地悪かった。それを隠すように、美月の声は不自然に強くなる。「何がわかったっていうのよ!まだ子どものくせに、大人の気持ちなんてわかるはずないでしょ!」けれど若い紗雪は、ただ小さく笑っただけで、それ以上は言わなかった。母が答えなかった言葉の意味くらい、自分にはわかっている。それくらいの目は持っているつもりだった。「お母さん、勉強してくるね」そう言って、彼女はそのまま階段を上がっていった。紗雪もすぐに後を追う。だって、それは自分自身の幼い姿。その時の気持ちがどんなものか、誰よりも理解できていた。あとは母の態度をどう受け止めるか、それだけ。少し首を傾げて考えた紗雪は、結局、幼い自分を追うように足を速めた。冷たい二人と一緒にいるくらいなら、子どもの自分に寄り添う方がずっといい。もちろん、手を差し伸べても触れることはできない。それでも心のどこかが慰められる気がした。だってあの頃の自分は、あまりにも孤独だったから。病弱な緒莉には母がつきっきりだった。では、自分には?清那以外、誰もいなかった。だが自分という人間を誰より知っているからこそ、理解している。たとえ清那がそばにいても、すべてを打ち明けるわけ
その言葉は、あまりにも酷すぎた。口にした瞬間、美月自身さえもハッとした。これは、自分の娘に言うことなのか。若い紗雪の表情も、驚きで固まっていた。目の前で牙を剥いているこの人が、本当に自分の母なのだろうか。もしそうなら、自分はいったい何をしたというのか。そこまで母を失望させるような、許されないことをしたのだろうか。紗雪はそっと視線を落とし、瞳のふちに涙が溜まった。けれど、これまでの自分を思い返しても、間違ったことをした覚えなんてなかった。むしろ幼い頃は、どうすれば母に好かれるかと必死に考えていたくらいだ。ただ、この二年。父が亡くなってからはっきり気づいた。母はただ、自分を嫌っているのだと。そうなると、長い間心の奥で疑問が膨らんでいく。自分は本当に、この人の娘なの?どうしてここまで差をつけられなければならないの?部屋の空気は一気に張りつめ、誰も言葉を発しなかった。緒莉の胸は、抑えきれない感情でいっぱいだった。笑い出しそうになる自分を必死に押さえ込もうと、大腿を爪でつねり続ける。笑ってしまったら、あまりに露骨に見えるから。もちろん、母が自分を贔屓していることは昔から知っていた。紗雪に対してはほとんど冷遇といっていいほど。でも、こうして目の前で明確に突きつけられるのは初めてのことだった。だからこそ、笑いがこみ上げてくる。母の態度は、まるで宣言のようではないか。紗雪なんて大して大事じゃない。母にとって一番大切なのは、やっぱり自分・緒莉なのだと。若い紗雪は呼吸を荒くしながら、必死に自分の腕を握りしめた。涙をこぼしてはいけない。わかっている。姉は自分が泣き崩れるのを心待ちにしている。今ここで泣いてしまえば、それこそ彼女に笑いものにされるだけだ。それだけは絶対に嫌だ。その様子を横で見ていた紗雪の胸は、締めつけられるように痛んだ。ずっと聞きたかった。母にとって、自分は本当に実の娘なのか、と。あの通路のスクリーンで見た光景を思い出す。生まれたばかりの自分を抱いた時、母の顔には確かに微笑みがあった。夜中にそっと布団をかけ直してくれたこともある。表には出さなくても、そういう細やかな愛情があったのは知っている。だからこそ、母であると認