LOGIN 馬のいななきが響く中、車輪が石畳を削る音が耳をつんざいた。
美桜の体は、地面に弾かれるように倒れ、包みを胸に抱き、腹をかばうような状態のまま転がった。
乾いた砂利と石が頬を切る。痛みが走る。だがそれよりも、お腹の中の命の方が心配だった。
(この子だけは……!)
叫びたいのに、声が出ない。
意識が遠のく中、車輪が止まり、馬の鼻息が近づいてくる音がした。
頬に砂が張り付き、冷たい風が痛む。
――音が消えた。
静寂の中、かすかな血の匂い。心労のせいでうまく立ち上がれそうにない。
(……だめ。ここで捕まったら終わりなの……)
うまく体を動かせないでいる美桜の耳に、重く響く声が落ちてきた。
「しっかりしてください! 大丈夫ですか?」
その声は
食後、暖炉の前で二人は並んで座っていた。薪がぱちぱちとはぜる音が、静かな夜に心地よく響く。 淡いオレンジの光が壁に揺れ、二人の影を寄り添うように映している。 美桜は小さく息をついた。「……ねえ、一成くん。最近、疲れてない?」 一成は驚いたように目を瞬かせ、彼女に顔を向ける。「どうして?」「だって、顔色が……少し青いもの。無理をしてるんじゃないかしら。私がきてからあまり眠っていない気がする。もっと体を大切にしてほしいの。心配で…」 彼は短く笑った。相変わらず自分のことよりも他人を思いやる彼女が堪らなく愛おしい。「僕のことより、自分の体を大事にして。赤ん坊だっているんだ」 そう言いながらも、声に疲れが滲んでいる気がした。今日の帝都巡りも忙しい時間を割いて自分のために急遽作ってくれたのだろう。彼のお荷物になっているのではないかと思うだけで、美桜の胸を締めつけた。「でも……あなたが倒れたら、嫌よ」 ぽつりとこぼれた言葉に、一成の瞳がやわらかく揺れる。「心配してもらえるなんて、悪くない気分だな」
その後、2人の様子を眺めていた館長がカメラから顔を上げ、うっとりと呟いた。「……まるで外国映画のワンシーンのようですね。これは、ぜひできあがった写真を、ここへ飾らせていただきたい」「えっ……か、飾る……ですか?」 美桜の頬が瞬く間に紅潮した。 一成は小さく笑い、館長に向き直る。「光栄です。ただ、彼女は少し照れ屋なんですよ。そこがまたかわいくて。今妊娠していますから、今日はここで写真に残せてよかった」「そ、そんなこと……!」美桜は慌てて首を振る。 しかも妊娠していると他人に告げるとは…まるで自分が父親化のような口ぶりで美桜は困惑した。 「君の美しさは誰もが認めている。現に館長がそうだ」 「はい。奥様や旦那様以上に素敵な夫婦は帝都中探してもおりませんよ」 あまりに褒められたため、かーっと顔が赤くなる。 一成が嬉しそうに頷いた。 「決まりだね。これで“帝都一美しい花嫁”の誕生だ。大いに飾ってみんなに見てもらおうじゃないか。僕だって、世界中に君のことを自慢したいくらいだ」 周囲のスタッフたちが思わず拍手を送る。 美桜は顔を真っ赤にして小さく俯きながらも、一成と過ごせる時間を幸せだと感じていた。
喫茶店を出る頃には、日差しがやわらかく傾き始めていた。 レンガ造りの建物、日本家屋、洋館が入り乱れた街並みを歩くと、絵葉書屋や帽子店、舶来品を扱う商店が軒を連ね、まるで異国のような光景が広がっていた。「ねえ、あそこ……素敵な建物ね」 美桜が指さしたのは、白い洋風の建物の記念館だった。高い天窓とアーチ型の扉、入口には「文明開化記念館」と刻まれている。中からはピアノの音が微かに流れてきた。「入ってみようか」 二人は並んで館内へ入った。 展示室には、開港当時の衣装や外国の調度品、貿易で使われた地図や模型が並んでいた。 その一角に――ひときわ華やかな部屋があった。 それはドレスルーム。「外国風婚礼衣装体験」と書かれた札が掲げられている。「まぁ……ここで結婚式をする方もいるのね」 素敵だな、と思った。自分には一生縁のないことだ。
桜並木を抜けた先に、洋風のカフェが見えた。 レンガ造りの外壁にガラス張りの大きな窓、アイアンの看板には『浅野珈琲店』と刻まれている。 店先からは焙煎豆の香ばしい香りが漂い、ガス灯が昼間でもゆらゆらと輝いていた。「まあ……なんて素敵なお店」「気に入った? ここは僕の店なんだ」「え……あなたの?」 一成は少し照れくさそうに笑った。「貿易で仕入れた珈琲豆を使っていてね。もとは海外の商人たちの休憩所にしたのが始まりなんだ。今では、政商たちの集まる社交場にもなっている」 美桜は目を丸くした。 彼が「貿易商」と呼ばれるほどの成功者になったことは知っていたが、こうして目の前にその成果を見ると胸が高鳴った。 今までの日本とはかけ離れた世界。 日本家屋ではなく、洋館を大胆に喫茶店にしてしまうその発想は、恐らく海外で培った経験や先見の目があるからだろう。浅野が帝都一の富豪であり、貿易商として名を馳せている理由がこれでよくわかる。「……すごいのね。知らなかったわ。あなたがこんなにたくさんの人に
長らくの間虐げられてきた美桜は、幼い頃の縁で親切にしてくれているのだと勘違いをしていた。 一成の深い愛情を受け止めるには、まだ、心が整っていない。 きちんと結婚し、正式に浅野家に迎えられたとはいえ、没落華族の自分では彼を大成させることはできないだろう。いずれ別れることになるのだと覚悟していた。 結婚したと騙されていた自分を哀れんでくれた彼のやさしさに、いつまでも甘えるわけにはいかない。少しでも多くの縫物をして給金を稼ぎ、出る時に礼金として渡そう――子供を産むまで世話になって、落ち着いたら出て行こう、とそのように考えていた。「たまには外に出ようか。帝都の空気を吸うと、いい気分転換になるよ」 そう言って一成が差し出した手を、美桜は一瞬ためらってから握った。 その掌のぬくもりは、嘘偽りのないものだった。 一成は馬車で移動できるように用意をしてくれた。乗り込むと隣り合わせで座り、ゆっくりと進んでいく。開放的な馬車なので、帝都の景色がよく見える。「わあ…」 久しく外を歩くことがなかったため、街の移り変わりの速さに美桜は感嘆の声を上げた。「桜が綺麗…」「君の名前は美しい桜の季節に産まれたから、美桜と名付けたのだと君の父上から聞いたよ」「ありがとう」「僕にとって美桜は、帝都一美しい桜よりも綺麗だよ。どんな令嬢よりも素敵だ」
それから日が経った。 浅野邸で過ごすようになってから、誰からのいじめもなくなり、体を休めることも自由にできるようになり、食事も十分食べることができるようになった。美朗の周りには、かつてないほど穏やかな空気が流れていた。やせ細っていた美桜は、お腹の膨らみと共に健康的な体を取り戻しつつあった。 まだ肌寒いが、もう4月に差し掛かる頃。風に流れて花の香りがするようになった。本格的な春の訪れを告げているのだろう。 美桜は縫い物の針を手に取り、窓辺で陽射しを受けながら静かに布を縫っていた。 白い布に、薄紅の糸で刺繍を施している。すでに1枚、レースの手袋は完成させた。 一成に頼まれて、商品を作ることになったのだ。浅野財閥が本格的に洋服を手掛ける店をするらしく、少しずつでいいから商品を作って欲しいと言われたのがきっかけだ。色とりどりの生地、針などが用意されたので、美桜は退屈することなく作品を作ることに没頭している。「やっぱり、こうしていると落ち着くわ」 そっと微笑む美桜のもとに、ノックの後、紅茶のポットが載ったトレイを抱えた夕子が入ってきた。「お嬢様、お加減はもうよろしいんですか?」「ええ、もう平気。あなたたちがいてくれるおかげね」