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last update Last Updated: 2025-10-23 06:00:02
 薫子の指先が再び伸びたが、それよりも早く走り出したのが功を奏し、捕まらなかった。

 頭よりも先に、腹の中の命を守るために本能が逃げろと叫んでいるようだった。

 (逃げなきゃ。この子を、守らなきゃ)

 そのとき、廊下の陰から夕子が飛び出した。白い布巾に包まれた小さな包みが握られていた。

「お嬢様、これを」

 短く言葉を発した夕子の声に、美桜は手を伸ばした。指先が包を掴む瞬間、薫子の怒号が背後から響く。

「逃がすものですか!」

 薫子が追ってきた。ヒールの音が近づく。だが――

 次の瞬間、夕子がわざと美桜の肩にぶつかった。

 美桜はよろけただけだったが、夕子は大げさに叫びながら床に倒れた。

「きゃあっ!」

 包とは反対の手に持っていたバケツが宙を舞う。

 透明な水が高く跳ね上がり、廊下一面に降り注いだ。

 その瞬間、薫子の足元でヒールが滑った。

 薫子は舌打ちしながら壁に手をつく。

「なにをしているの! 下女風情が!!」

 怒りの声を上げた薫子が、濡れた床を踏みしめながら進もうとする。

 しかし滑る。危険だと判断し、急ぐことは止めて水を避けるように避けた。

 夕子は転倒したまま、申し訳ございません、あの女にぶつかられまして、と薫子に謝っている。

 美桜は悟った。今のは夕子が薫子の時間稼ぎをしてくれたのだ。

 包みを胸に抱き、振り返らずにそのまま玄関へ駆け出す。

 扉を開け放つと外の風が頬を叩いた。

 春の前の風はとても冷たい。暖かな屋敷とは違う。けれど、生きている実感が持てる。

(走れ……この子を連れて、遠くへ……!)

 屋敷の門を抜け、石畳の道へ飛び出す。

 だが、背後から聞こえる。薫子の叫び声が鋭く響いた。

「捕まえなさい! あの女を――!!」

 御者が慌てて馬を抑えるが、薫子の声に従い手綱を緩める。

 馬車が大きく動いた。

 蹄が石を叩き、火花が散る。

 (やだ……来ないで!)

 美桜は足元も見ずに走った。

 腹の奥が痛む。息が詰まる。

 胸を締めつけるような鼓動。

 視界の端に灯が揺れた。

 街道に出る――あと少し。

「止まりなさい!」

 薫子の叫びが追いかけてくる。

 次の瞬間、目の前を走っていた馬がいなないた。

「危ないっ!」

 御者の叫び。

 美桜は本能で腹を庇い、ぐっと受け身の体制を取った。

 轟音。風圧。世界が反転する
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