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「――あら、そこまでおっしゃるのでしたら」 その身体の主、蜂蜜色の髪を持つ令嬢の声には、それまでの微笑みとは違う響きがあった。 軽薄そうな若い男――貴族の得意げな顔が、初めてこちらを向く。 「そんなにご不満でいらっしゃるなら、この婚約、わたくしの方から破棄させていただきますわぁ」 周囲の空気が、凍りついた。 何よりも相手の男が凍りついている。 「お――ほっほっほっ!」 ――その高笑いを聞いて、白石香澄は慌てふためいていた。 物理的にそうしていたのではなく、何とも奇妙な奇妙な状況で。 具体的には、自分の身体ではない誰かの身体の内側で彼女の意識が、魂が、慌てふためいていた。 § § § ――少しだけ時は遡る。 香りの王国、オーブレーヌ。 華やかな夜会の広間は、魔力灯によるシャンデリアの光に満ちていた。 「いやぁ、君には勿体ないくらい、盛大な婚約式になったものだね」 金髪の若い男――オズワルド・ヴァンダール。次期侯爵という肩書きにふさわしい、整った顔立ちに、余裕の笑みを浮かべ、彼女に語りかけている。 「そういえば先日の剣術大会でも、私の腕前には皆驚いていたよ。いやぁ、困ったものだね」 取り巻きらしき令嬢たちが、扇の陰でくすくすと笑いながら聞いていた。誰ひとり、その婚約者の隣に立つ娘へ、気遣うような視線を寄越さない。 {――え、待って!?} その声は、どこからともなく響いた。 {ここ、どこ。この体、誰。なんで私、こんな豪華なドレス着て突っ立ってるの} ――白石香澄は、混乱していた。 ついさっきまで、彼女は自分のデスクにいたはずだった。締め切り間際の資料、冷めきったコンビニのコーヒー、点滅する体調不良のアラート。 それから――真っ暗になった記憶。 冷たく走る、胸の痛み。きっとあれは死の感覚だったのだと彼女は理解した。 {うそでしょ、これ絶対まずいやつだ!} 目の前では、金髪の男が芝居がかった仕草で語り続けている。自分はその正面に立ち、何も言わずに微笑んでいる――らしい。表情筋の動きひとつ、香澄の意志ではない。 {え、私、この状況で笑ってるの。なんで!?} 混乱する香澄をよそに、体
領主館は町の南、段丘の上にあった。 高台に築かれたその屋敷は、外から見れば石造りの地味な建物だが、門を抜けた瞬間に空気が変わる。 芝は短く刈られ、敷石には靴跡ひとつなく、花壇には季節外れの百合が咲いていた。 整いすぎている。どこか、誰かが無理をしてまで整えているような気配。 門を通ったところで年配の家令が現れ、俺を迎えた。 痩身で無表情だが、所作はまさに貴族の屋敷にふさわしい品格を感じさせる。「冒険者ギルドから参りました、フィンと申します。本日のお約束の件で」 俺は軽く頭を下げながら、用意していた依頼状を差し出す。 家令は一礼のままそれを受け取り、目を通すでもなく懐にしまい
放課後のフレグラントール学園から続く道を、私はひとりで歩いていた。 今日は、クラリスが風邪で休み。馬車の手配も忘れていたので、学園から屋敷までの道を歩く羽目になった。けれど、不思議と悪くない気分だった。 こういうのも……主人公っぽくって、よくってよ。 道はやがて王都の西寄りへと続き、人通りもまばらになっていく。貴族が歩くには、少しばかり品のない街並み。小さな雑貨屋、露店、路地裏の猫たち。 それでも私は、そのまま歩みを止めなかった。風に乗って、香りが流れてきたから。 甘くて、静かで、でも芯のある香り。目を閉じると、記憶の奥に触れるような懐かしさがあった。 この香り、知ってる。 で
翌朝、ドレッサーの鏡に映る蜂蜜色の髪を見つめながら、私は深くため息をつく。 指先がひとりでにリボンを結び、襟元を整えていく。エレナの記憶が身体に染み付いてるんだね。「まあ、このお嬢様口調も、もう諦めることにしましたわ」 はい、また出た。でも昨日一日で慣れた。エレナの身体なんだもの、こういうものだと受け入れるしかない。 それより今日は待ちに待った学園デビュー! ゲーム『リュミアの恋する香り』の舞台、フレグラントール学園だ。 破滅フラグ回避のためにも、今日から本格的にヒロインムーブしなくちゃ。 廊下の向こうから、クラリスの足音が聞こえる。軽やかで、どこか弾んでるような音。「
――時は少しさかのぼり、とある令嬢の物語が静かに幕を開ける。 彼女の名はエレナ・シルヴァーバーグ。 先ほどの出会いへとつながる、もう一つの物語が今、はじまる――。 ◇ 深い深い闇の中で、一つの魂が漂っていた。 蜂蜜色の髪をした少女の魂。かつてエレナ・シルヴァーバーグと呼ばれた存在。「もう……わたくしなんて、いないほうがいいんですわ」 その声は、闇の中でかすかに響く。「お母様も、わたくしのせいで……もう、なにもかも……」 愛した母を失った悲しみ。自分のせいで死なせてしまったという罪悪感。 すべてが重すぎて、もう生きていることさえ辛くて。 その魂は、肉体の奥