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ノクスレイン~香りの王国物語~
ノクスレイン~香りの王国物語~
Auteur: カクナノゾム

第1話 悪役令嬢に転生したので破滅フラグを回避したい

last update Date de publication: 2025-11-08 12:28:06

「――あら、そこまでおっしゃるのでしたら」

 その身体の主、蜂蜜色の髪を持つ令嬢の声には、それまでの微笑みとは違う響きがあった。

 軽薄そうな若い男――貴族の得意げな顔が、初めてこちらを向く。

「そんなにご不満でいらっしゃるなら、この婚約、わたくしの方から破棄させていただきますわぁ」

 周囲の空気が、凍りついた。

 何よりも相手の男が凍りついている。

「お――ほっほっほっ!」

 ――その高笑いを聞いて、白石香澄は慌てふためいていた。 物理的にそうしていたのではなく、何とも奇妙な奇妙な状況で。

 具体的には、自分の身体ではない誰かの身体の内側で彼女の意識が、魂が、慌てふためいていた。

 § § §

 ――少しだけ時は遡る。

 香りの王国、オーブレーヌ。

 華やかな夜会の広間は、魔力灯によるシャンデリアの光に満ちていた。

「いやぁ、君には勿体ないくらい、盛大な婚約式になったものだね」

 金髪の若い男――オズワルド・ヴァンダール。次期侯爵という肩書きにふさわしい、整った顔立ちに、余裕の笑みを浮かべ、彼女に語りかけている。

「そういえば先日の剣術大会でも、私の腕前には皆驚いていたよ。いやぁ、困ったものだね」

 取り巻きらしき令嬢たちが、扇の陰でくすくすと笑いながら聞いていた。誰ひとり、その婚約者の隣に立つ娘へ、気遣うような視線を寄越さない。

{――え、待って!?}

 その声は、どこからともなく響いた。

{ここ、どこ。この体、誰。なんで私、こんな豪華なドレス着て突っ立ってるの}

 ――白石香澄は、混乱していた。

 ついさっきまで、彼女は自分のデスクにいたはずだった。締め切り間際の資料、冷めきったコンビニのコーヒー、点滅する体調不良のアラート。

 それから――真っ暗になった記憶。

 冷たく走る、胸の痛み。きっとあれは死の感覚だったのだと彼女は理解した。

{うそでしょ、これ絶対まずいやつだ!}

 目の前では、金髪の男が芝居がかった仕草で語り続けている。自分はその正面に立ち、何も言わずに微笑んでいる――らしい。表情筋の動きひとつ、香澄の意志ではない。

{え、私、この状況で笑ってるの。なんで!?}

 混乱する香澄をよそに、体は勝手に振る舞い続けていた。自分の身体という意識はあるのに、指一本、香澄の思い通りには動かせない。

「なにせこの私が伴侶になるんだ。シルヴァーバーグ家にとっても、これ以上の栄誉はないだろうね」

 男の自慢げな言葉が続く。

 そのとき、誰のものでもない声が、香澄の中に流れ込んできた。

(――またこの自慢話。三日と空けずに聞かされる身にもなってほしいですわ)

{え?}

(噂の令嬢に貢いだ金は、うちの領地の税収を上回るというのに。剣の腕とやらも、実際に振るうところなど一度も見たことがございませんし)

 それは、香澄自身の考えではなかった。もっと苛立たしげで、もっと辛辣で――そしてもっと、傷ついている声だった。

(この方、わたくしの家を、内心では笑っておいでですわ。成り上がりの伯爵家、と。それでも家のためにはご機嫌を損ねるわけにはいかず……ええ、ずっとそうしてまいりましたの。ずっと)

{――これ、誰の声?}

 女癖が悪く、実力もろくにない癖に誇り高い。人格にも難がある。そして何より、自分と自分の家を見下している。腹が立って仕方ない。

 それでも、家のために機嫌を取り続けるしかない自分に、心の底では納得などしていない――。声の主は、そう心の中でつぶやいている。

{あ……}

 その体の主の視線が、大広間にある鏡を捉えた。

 そこに写し出されたのは、見覚えのない自分だった。

 ゆるく巻いた蜂蜜色の髪が、シャンデリアの光を受けて輝いている。気の強そうな吊り目がちの瞳は、薄い琥珀色。

 人形のように整った顔立ちの中で、その瞳だけが燃えるような光を宿していた。豪奢なドレスに包まれた体は華奢で、まだあどけなさの残る、十五かそこらの少女のものだった。

{この顔……}

 その瞬間、香澄の脳裏で、記憶の頁がめくれた。

 子供の頃、幼い妹の枕元で語って聞かせた作り話。それを書き継いで一冊にまで育てたストーリー。

 白石香澄の代表作、オーブレーヌ物語。

 香りの王国と、そこに咲く恋の話。

 締め切りに潰されかけた夜も、香澄はひとりで自分の書いた頁をめくり返していた。

 その物語のなかにひとり、この場面の少し先で、婚約者に婚約破棄を突きつけられ、笑われ、退場していく令嬢がいた。

 蜂蜜色の巻き毛。大きな瞳。誰よりも派手に泣き、誰にも助けてもらえない娘。

 この体の持ち主――エレナ・シルヴァーバーグ自身の本音が、なぜか流れ込んできている。

{エレナ……エレナ・シルヴァーバーグ。噓でしょ! よりにもよって、この子――}

 この子は、妹の香織によく似ていた。ワガママで、自分勝手で甘えん坊。でもそれは、内心の寂しさを隠すためで……

 似ているのではない。喉の奥が、きゅっと締まる。

 似せたのだ。誰に頼まれたわけでもなく、そう決めた人間が、たしかにいた。

 この先に何が来るかも、香澄は知っていた。この夜会が終わる頃、この男は手のひらを返し、大勢の前でエレナを罵倒する。

 そしてやがて婚約が破棄される。

 婚約破棄の次は、家からの勘当。領地からの追放。下手をすれば、それより先。

 よくよく見ると学生らしい若者たちや、王族の一角までもが招かれた、伯爵家の婚約式にしては分不相応なほど盛大な催しであることがわかる。

{婚約式……ってことは、婚約破棄まではまだ時間があるわね}

 それでいて、主役であるはずのエレナの家からは、父も兄も、誰ひとり列席していない。

 この程度の家に、大仰な祝いなど不要——ヴァンダール家の誰も口には出さないが、

 その空気だけが、広間の隅々にまで行き渡っていた。

 楽の調べと、着飾った貴族たちの談笑が広間を満たす中、婚約者の声だけが、やけに得意げに響いていた。

 香澄の背筋を、冷たいものが這い上がった。

{多分、私は仕事中に死んで、この子の中に入ってしまったんだ。転生ってやつ?}

 自分の考えなのに、他人事みたいに間抜けな響きがした。だが今はそれを笑っている場合ではない。

 ここは、かつて妹に語り、自分の手で書き上げた物語の中。オーブレーヌ物語の中。

 このシーンの先にこの子を待っているのは、悲劇だけだ。

{また死ぬの、今度はこの子ごと? 絶対に嫌}

 根を詰めた執筆の末、誰もいない仕事部屋で、誰にも看取られず、机に突っ伏したまま意識を失う。

 そして、もう目覚めることがない。

 もう一度なんて、絶対に御免だ。

 ――けれど、それだけではなかった。

 この子の行く末を思うたび、恐怖より先に、もっと居心地の悪いものが胸の底で動く。うしろめたさ、と呼ぶしかないもの。この子が笑われて退場する場面を、あのとき自分はどんな顔で書いていたか。指先が、それを覚えている。

{なんとか……なんとかしなくちゃ!}

{ねえ。あなた、今すごく怒ってるでしょう}

 香澄は、思わず内側から声をかけてしまう。

{そんなに我慢ならないなら――言っちゃえばいいんだよ!}

 答える様子はなかった。だが、微笑んだままだった唇の端が、ほんのわずかに震えた。震えていた指先が、扇の柄をゆっくりと握り直す。

 オズワルドは、まだ得意げに喋り続けている。婚約式の日取り、招待客の顔ぶれ、自らの武勇伝。誰も遮ろうとしない。誰も、エレナの顔色などうかがおうともしない。

「まったく君は私に感謝するべきだね! まぁ、私と君とでは釣り合いが取れてはいないが、特別の慈悲を持って私の妻に……」

 その口上が、ようやく途切れようとした瞬間だった。

 エレナの背筋が、すっと伸びる。

「――あら、そこまでおっしゃるのでしたら」

 声には、それまでの微笑みとは違う響きがあった。オズワルドの得意げな顔が、初めてこちらを向く。

「そんなにご不満でいらっしゃるなら、この婚約、わたくしの方から破棄させていただきますわぁ」

 周囲の空気が、凍りついた。

 何よりもオズワルドが凍りついている。

「お――ほっほっほっ!」

 高らかな笑い声が、広間に響き渡る。取り巻きたちが、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。

 柱の陰で、令嬢の一人がドレスの裾を握りしめる。

「今の目……ただの伯爵令嬢の目じゃございませんでしたわ」

 隣の令嬢が、無言でうなずいた。

「エレナ・シルヴァーバーグ……もしかしたら時代を変える令嬢なのかも知れませんわね」

{……えー?}

 香澄自身、驚いていた。

 慌てふためいていたといってもいい。まさか自分の一言で、ここまで振り切るとは思っていなかった。だがエレナの声には、迷いも震えも、もはやなかった。

「な――」

 オズワルドの顔が、みるみる赤くなっていく。

「な、なにを、勝手なことを」

「勝手も何も、あなた様が今、ご自分でおっしゃったではございませんの。わたくしとの婚約が、そんなにも不釣り合いだと」

「そ、それは――」

「でしたら、釣り合いの取れた、空っぽのお人形とでも結婚されるがいいですわ? わたくしから言わせれば、きっとそういう方の方が幸せになれましてよ?」

 エレナは、扇を優雅に広げると、それだけ言い残して踵を返した。

{――やった。やっちゃったよ、この子!}

 香澄は、内心で快哉を叫んでいた。小説にはなかった台詞だ。

 小説にはなかった場面だ!

 今、確かに何かが変わった。

 きっと、ここから全てが変わってゆく!

 香澄は未知への期待で胸が躍るのを感じていた。

 背後で、オズワルドの声が上ずった。

「な、なら、明朝、婚約解消の書状を届けさせる。それでよろしいのだな!」

 捨て台詞のように吐き捨てる声が投げつけられたが、エレナは振り返りもしなかった。

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