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ノクスレイン~香りの王国物語~
ノクスレイン~香りの王国物語~
Auteur: カクナノゾム

第1話 悪役令嬢に転生したので破滅フラグを回避したい

last update Date de publication: 2025-11-08 12:28:06

 ――『ノクスレイン物語 オーロレイン編』より

 断頭の刃が陽光を弾いた。

 広場を埋め尽くした群衆は、誰も声を上げなかった。かつて彼女に踏みにじられた者たちの沈黙は、憎しみよりも重く、そして静かだった。

 沈黙にも種類がある。これは、赦しの沈黙ではない。誰ひとり、この娘のために言葉を使う気がないという意味の沈黙であった。人が本当に他人を見限ったとき、罵りさえ惜しむものである。

「エレナ・シルヴァーバーグ。汝の罪は、王国の民が知るところである」

 罪状が読み上げられていくあいだ、風が広場を渡った。祝祭の日に焚かれる香も、貴族の袖から立つ香も、ここにはない。あるのは石と、埃と、朝の水の匂いだけである。香りの王国において、香のない場所に立たされることが、そもそも刑罰の一部であった。

 蜂蜜色の巻き毛は乱れ、かつて誰よりも豪奢だったドレスは、今はただの布切れのように色褪せている。それでも彼女は顔を上げていた。最後まで、誰にも縋らずに。

 縋らなかったのは、気高さゆえではない。縋る相手を、彼女はもう一人も持っていなかった。この二つは、遠くから見ると同じ形をしている。

「エレナ様……」

 処刑台の下、群衆の中に立つ一人の青年が、拳を握りしめて目を伏せる。彼女がかつて笑って踏みつけた誰かの、名も残らない一人。

 この青年の名を、記録は持たない。かつて橋を架けることを仕事にしていた男が、その橋を折られ、それでもこの朝、ここに立っている。何のために立っているのかは、彼自身にも説明がつかなかったであろう。

 剣が振り下ろされる、その刹那。

 ――彼女は、何を思っただろうか。

 物語はここで、彼女の内心を語らない。

 § § §

observer.init()

scope = "minimal_intervention"

subject = "Elena Silverberg"

note = "let's see how this one goes."

 予め宣言しておこう。

 私はただ、見たものを記すだけ。

 小さな小石を放り込み、どんな波紋が広がるか、くらいのことはするが、私自身は何もしない。

 さて、どのような劇が見られるのか、少しだけ期待して様子を見るとしようか。

 § § §

 夜会の広間は、シャンデリアの光に満ちていた。

「いやぁ、君には勿体ないくらい、盛大な婚約式になったものだね」

 金髪の若い男――オズワルド・ヴァンダール。次期侯爵という肩書きにふさわしい、整った顔立ちに、余裕の笑みを浮かべ、彼女に語りかけている。

「そういえば先日の剣術大会でも、私の腕前には皆驚いていたよ。いやぁ、困ったものだね」

 取り巻きらしき令嬢たちが、扇の陰でくすくすと笑いながら聞いていた。誰ひとり、その婚約者の隣に立つ娘へ、気遣うような視線を寄越さない。

{――え、待って}

 その声は、どこからともなく響いた。

{ここ、どこ。この体、誰。なんで私、こんな豪華なドレス着て突っ立ってるの}

 ――白石香澄は、混乱していた。

 ついさっきまで、彼女は自分のデスクにいたはずだった。締め切り間際の資料、冷めきったコンビニのコーヒー、点滅する体調不良のアラート。

 それから――真っ暗になった記憶。

 冷たく走る、胸の痛み。きっとあれは死の感覚だったのだと彼女は理解した。

{うそでしょ、これ絶対まずいやつだ……}

 目の前では、金髪の男が芝居がかった仕草で語り続けている。自分はその正面に立ち、何も言わずに微笑んでいる――らしい。表情筋の動きひとつ、香澄の意志ではない。

{え、私、この状況で笑ってるの。なんで}

 混乱する香澄をよそに、体は勝手に振る舞い続けていた。自分の身体という意識はあるのに、指一本、香澄の思い通りには動かせない。

「なにせこの私が伴侶になるんだ。シルヴァーバーグ家にとっても、これ以上の栄誉はないだろうね」

 男の自慢げな言葉が続く。

 そのとき、誰のものでもない声が、香澄の中に流れ込んできた。

(――またこの自慢話。三日と空けずに聞かされる身にもなってほしいですわ)

{え?}

(噂の令嬢に貢いだ金は、うちの領地の税収を上回るというのに。剣の腕とやらも、実際に振るうところなど一度も見たことがございませんし)

 それは、香澄自身の考えではなかった。もっと苛立たしげで、もっと辛辣で――そしてもっと、傷ついている声だった。

(この方、わたくしの家を、内心では笑っておいでですわ。成り上がりの伯爵家、と。それでも家のためにはご機嫌を損ねるわけにはいかず……ええ、ずっとそうしてまいりましたの。ずっと)

{――これ、誰の声?}

 女癖が悪く、実力もろくにない癖に誇り高い。人格にも難がある。そして何より、自分と自分の家を見下している。腹が立って仕方ない。

 それでも、家のために機嫌を取り続けるしかない自分に、心の底では納得などしていない――。声の主は、そう心の中でつぶやいている。

{あ……}

 その体の主の視線が、大広間にある鏡を捉えた。

 そこに写し出されたのは、見覚えのない自分だった。

 ゆるく巻いた蜂蜜色の髪が、シャンデリアの光を受けて輝いている。気の強そうな吊り目がちの瞳は、薄い琥珀色。

 人形のように整った顔立ちの中で、その瞳だけが燃えるような光を宿していた。豪奢なドレスに包まれた体は華奢で、まだあどけなさの残る、十五かそこらの少女のものだった。

{この顔……}

 その瞬間、香澄の脳裏で、記憶の頁がめくれた。

 子供の頃、妹と並んでページを繰った物語。ノクスレイン物語。香りの王国と、そこに咲く恋の話。仕事に潰されかけた夜も、香澄はひとりでそれを読み返していた。

 そのなかにひとり、この場面の少し先で、婚約者に婚約破棄を突きつけられ、笑われ、退場していく令嬢がいた。

 蜂蜜色の巻き毛。大きな瞳。誰よりも派手に泣き、誰にも助けてもらえない娘。

 この体の持ち主――エレナ・シルヴァーバーグ自身の本音が、なぜか流れ込んできている。

{エレナ……エレナ・シルヴァーバーグ。噓でしょ、よりにもよって、この子――}

 妹の香織は、エレナとよく似ていた。ワガママで、自分勝手で甘えん坊。でもそれは、内心の寂しさを隠すためで……

 この先に何が来るかも、香澄は知っていた。この夜会が終わる頃、この男は手のひらを返し、大勢の前でエレナを断罪する。婚約破棄の次は、家からの勘当。領地からの追放。下手をすれば、それより先。

 よくよく見ると学生らしい若者たちや、王族の一角までもが招かれた、伯爵家の婚約式にしては分不相応なほど盛大な催しであることがわかる。

{婚約式……ってことは、婚約破棄まではまだ時間があるわね}

 それでいて、主役であるはずのエレナの家からは、父も兄も、誰ひとり列席していない。

 この程度の家に、大仰な祝いなど不要——ヴァンダール家の誰も口には出さないが、

 その空気だけが、広間の隅々にまで行き渡っていた。

 楽の調べと、着飾った貴族たちの談笑が広間を満たす中、婚約者の声だけが、やけに得意げに響いていた。

 香澄の背筋を、冷たいものが這い上がった。

{多分、私は仕事中に死んで、この子の中に入ってしまったんだ。転生ってやつ?}

 自分の考えなのに、他人事みたいに間抜けな響きがした。だが今はそれを笑っている場合ではない。

 ここは、かつて妹と読んだ物語の中。ノクスレイン物語の中。

 このシーンの先にこの子を待っているのは、悲劇だけだ。

{また死ぬの、今度はこの子ごと? 絶対に嫌}

 残業の末、誰もいないオフィスで、誰にも看取られず、机に突っ伏したまま意識を失う。

 そして、もう目覚めることがない。

 もう一度なんて、絶対に御免だ。

{なんとか……なんとかしなくちゃ!}

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