LOGIN翌朝、ドレッサーの鏡に映る蜂蜜色の髪を見つめながら、私は深くため息をつく。
指先がひとりでにリボンを結び、襟元を整えていく。エレナの記憶が身体に染み付いてるんだね。「まあ、このお嬢様口調も、もう諦めることにしましたわ」
はい、また出た。でも昨日一日で慣れた。エレナの身体なんだもの、こういうものだと受け入れるしかない。
それより今日は待ちに待った学園デビュー! ゲーム『リュミアの恋する香り』の舞台、フレグラントール学園だ。
破滅フラグ回避のためにも、今日から本格的にヒロインムーブしなくちゃ。
廊下の向こうから、クラリスの足音が聞こえる。軽やかで、どこか弾んでるような音。「お嬢様、馬車の準備が整いましたわ」
「ありがとう、クラリスさん。いつも本当に助かっていますわ」
クラリスの瞳がまた潤む。この子、涙腺が緩みっぱなしだけど大丈夫かしら。
◆
玄関先で待つ馬車は、朝日を受けて金色に輝いてる。御者のおじいさんが振り返り、深いしわに囲まれた目元を細める。
「エレナお嬢様、今日もご機嫌麗しゅうございますな」
「おはようございます。今日もよろしくお願いしますわ」
おじいさんの目が丸くなる。人が喜んでくれるのは、やっぱり嬉しいよね。
◆
フレグラントール学園は、想像以上に美しかった。
白亜の尖塔がそびえ立ち、庭園の花々が朝露に濡れて輝いてる。そして何より——香りのシステムがすごい。ほのかなバラの香りに混じって、ラベンダー、ジャスミン、そして名前の分からない甘い香りが層をなして漂ってる。
馬車から降り立つと、周囲の視線が一斉に集まった。ひそひそと囁く声が風に乗って聞こえてくる。
「あれがエレナ・シルヴァーバーグよ」
「例の高飛車な……体調崩して休んでたんじゃなかった?」
「近づかない方がいいって聞いたけれど」
なるほど、悪役令嬢としての初期設定だね。でも大丈夫! 善行ムーブで破滅フラグを回避してみせる。
校門で荷物を降ろしてくれた使用人さんに、私は自然に頭を下げる。「ありがとうございました。お疲れさまでした」
その瞬間、周囲が静まり返った。
「え……今、お辞儀を?」
「使用人に? エレナが?」
「ありえない……」
使用人さんも青ざめ、慌てて深々と頭を下げて足早に去っていく。思った以上に反応が大きい。でもこれで注目を集めることはできたみたい。しかし前のエレナ、どんだけ高飛車だったのよ!?
◆
廊下を歩けば歩くほど、視線の重さを感じる。教室に入ると、その重さは更に増した。
私の席は窓際の後ろから三番目。主人公ポジションとしては定番の席だね。 席に着く途中、掃除用具を抱えた下級生の女の子とぶつかりそうになる。「あ、ごめんなさい。大丈夫?」
女の子は震え上がり、慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません!」
「いえいえ、こちらこそ前をよく見てませんでした。お怪我はありませんか?」
教室の空気が凍りついた。
「エレナが……下級生に謝った……?」
「それも丁寧語で……」
「何かの呪いにでもかかったの?」
まあ、最初は誤解されても仕方ないよね。
しばらくして、教室のざわめきが大きくなってきた。「ねえ、見た? エレナが使用人にお辞儀してたのよ」
「下級生にも謝ってたし……まるで別人みたい」
「奇行?」
「そうそう、奇行よ。まさに奇行の姫君じゃない?」
くすくすと笑い声が漏れる。
「奇行姫エレナ、なんてどうかしら」
「それいいわね。今度からそう呼びましょう」
奇行姫……まあ、あだ名としてはちょっと微妙だけど、注目を集めるのには成功したみたい。
◆
――そして授業が始まる。
教室の位置や大まかなつくりはエレナの記憶か教えてくれた。 最初の授業は「香料学基礎」まさにこの世界らしい授業だ。先生がいくつもの小瓶を机に並べ、一つずつ香りの特徴を説明していく。私の鼻には、それぞれの香りが驚くほどはっきりと届いてくる。
「では、この香りの名前が分かる方はいらっしゃいますか?」
先生が手にした小瓶から、甘くほろ苦い香りが教室に広がる。
瞬間的に、名前が頭に浮かんだ。「ベルガモット柑橘系第三種ですわ」
教室がざわめく。
「正解です、エレナさん。素晴らしい嗅覚ですね」
やった! 認められるのは素直に嬉しい。
その時、授業開始のベルが鳴る直前に入ってきた少女に気づいた。――息を呑むほど美しい少女。
銀青色のボブカットが朝の光に揺れ、淡藤色の瞳が教室を静かに見渡してる。凛とした佇まいには、近づきがたい威厳が宿ってた。そして彼女の周りには、かすかに冷たい花の香りが漂ってる。スズランにミントを混ぜたような、清涼でどこか寂しい香り。
「あ……」
心臓が跳ね上がった。
ヒロインキャラ登場! この美しさ、この気品……間違いなくメインヒロインだ!
このゲームのメインヒロイン、リュミア・カトレア。誰にでも優しいテンプレの乙女ゲーヒロイン。この子にだけは優しくしなくちゃ破滅まっしぐらだったような気がする。
でも雰囲気が全然違う。ゲームのリュミアちゃんはもっと人懐っこくて、親しみやすい印象だったはず。この子からは、まるで氷の壁を纏ってるような冷たさを感じる。
彼女は教室を見回すと、私の視線に気づいた。淡藤色の瞳が、じっと私を見つめる。その瞳の奥に、一瞬だけ鋭い光が宿った。
彼女は表情を変えることなく、私の斜め前の席へと歩いていく。その足音は、なぜかとても静かだった。
「リュシア=フェンリルが来たわね」
クラスメイトが小声でささやく。微妙に複雑な響きがあった。
リュシア=フェンリル……
あれ? 名前が違う。でも明らかにヒロインポジション。ということは、彼女と仲良くなることが攻略の鍵になりそう。
授業が終わると、彼女がゆっくりと近づいてきた。清涼な香りがより濃く漂ってくる。
「あなた……本当にエレナ・シルヴァーバーグなの?」
「はい、そうですけれど……」
リュシアの淡藤色の瞳が、じっと私を見つめる。その視線は冷たいけれど、どこか困惑しているようにも見えた。
「……変ね」
そう呟くと、彼女は踵を返して去っていく。
これは間違いなくフラグだ!◆
次の授業は「香りとスキルの基礎演習」。
まさにこの世界らしい実習授業だ。でも、そういえば私、この世界のスキルとか魔法の詳しいことまだよくわからないかも。
スキルっていうのはこの世界における超能力みたいなもの。 ゲームのエレナは、特にスキルについてはなかったような気がするけれど。教室に入ると、生徒たちが既にペアを組んで準備を始めてた。
ペアが決まる前に、先生が詳しい説明を始める。「今日はスキルの基礎的な使用方法について学びます。まず、スキルと魔法の違いから説明しましょう」
おお、ちょうどいいタイミング! これで私も世界観の復習ができる。
「スキルとは、個人が生まれ持った才能の具現化です。訓練により向上しますが、基本的な方向性や威力は先天的に決まります。一方、魔法は理論と技術により習得可能な学問体系です」
なるほど、スキルは才能、魔法は勉強ってことね。
「スキルは大きく五つの系統に分類されます。感覚系、強化系、操作系、創造系、そして特殊系」
先生が黒板に図を描く。
「感覚系は情報収集に特化。強化系は身体能力向上。操作系は外界への干渉。創造系は新たな効果の創出。特殊系は分類不能な例外的スキルです」
へー、体系的になってるのね。
「特に香りに関するスキルは極めて稀少で、感覚系の中でも特殊枠として扱われることが多いのです」
香りに関するスキル! 香りの王国に相応しいスキル!
さっきも香水の名前が思い浮かんだし、このスキル、わたし持ってるのかも!「それではスキルの実演を。リュシアさん」
教室の空気が一変した。
リュシアが立ち上がり、手を前に向ける。「《氷牢結界》」
瞬間、彼女の周囲に巨大な氷の壁が出現した。美しく透明で、でも圧倒的な存在感。教室全体が静まり返る。
すごい……
「さ、さすがフェンリル家……」
「あのスキル、操作系の上級スキルなんだろ」
「レベルが違いすぎる……」
クラスメイトたちのざわめき。
リュシアは涼しい顔で氷を消すと、何事もなかったように席に戻る。 これが本当のスキルの力なんだ。私なんて、何もできてない。 ちょっと鼻が良いのと、香りの名前がわかるだけ。 それも多分、エレナの記憶のおかげ。「では、ペアになって、お互いのスキルを披露し、観察・評価し合ってください。エレナさんは、まずはスキルを発動できるかどうか試してみましょう」
先生の言葉に、教室の視線が私に集まる。
「エレナさん、僕とペアになりませんか?」
声をかけてくれたのは、柔らかな茶髪の優しそうな男子生徒だった。
「ありがとうございます! よろしくお願いしますわ」
「僕はユリウス・グランツといいます。よろしくお願いします」
ユリウス……その名前、ゲームの攻略対象の一人だ! 植物好きの癒し系、自信がないけど一途なタイプ。確かに他にも攻略対象の男子は何人かいたよね。
――もっとも男子を攻略するのは主人公のリュミアちゃんなのだけれど。
でも、裏ルートでエレナ主人公のルートもあるって聞いたし、これから格好いい男子たちに会えるのかと思うとワクワクする!「まずは僕の《草導制御》を見てもらって、エレナさんにはスキルの発動を試してもらう、というのはどうでしょう?」
ユリウスの提案に、私は緊張する。
彼は手をかざして、小さなハーブを育て始めた。ラベンダーの香りが漂ってくる。「いい香りですわね」
「ありがとうございます。エレナさんも、何か感じませんか? 集中してみてください」
言われた通り、目を閉じて集中してみる。
ラベンダーの香り……その奥に、ユリウスの優しさが感じられるような…… でも、何も起こらない。「すみません、やっぱり何も…」
「大丈夫ですよ。スキルの発現は人それぞれですから」
ユリウスは本当に優しい。
実習が進む中、周りのペアは次々と成果を上げていく。教室のあちこちで、様々なスキルが発動している。強化系のスキルで重い実験器具を軽々と運ぶ生徒、創造系のスキルで複雑な香料調合をする生徒。
そして、私とユリウスのペア……
「エレナさん、もう一度試してみませんか?」
ユリウスが励ましてくれるけど、やっぱり何も起こらない。
周りの視線が痛い。みんな当たり前にスキルを使ってるのに、私だけ……そんな時、近くの席から聞こえてきた声。
「シルヴァーバーグ家のお姫様なのに、スキル発動できないなんて…」
「だから学園も休んで奇行に走るのね。可哀想」
「名門の看板が泣いてるわ」
モブお嬢様たちの陰口が、胸に刺さる。
確かに名門の令嬢なのにスキル未発現って、相当恥ずかしいことなんだろうな。◆
授業が終わると、何人かの男子生徒が近づいてきた。
「エレナ、気にすんなよ。スキルが全てじゃねーし」
赤茶の髪をした、日焼けした肌の男子生徒が声をかけてくれる。
「僕も昔は全然ダメだったんです。今でも自信ないくらいで」
ユリウスまで慰めてくれる。
「エレナさんの香りの知識、昨日の授業ですごいと思った。スキルより大切なものもあるよね」
金髪くせ毛の童顔な男子生徒の言葉で、涙が出そうになる。
みんな、本当に優しい人たちなんだ。「ありがとうございます、皆さん。でも、大丈夫ですわ」
精一杯の笑顔を作る。
――ちょっと待って。今の男子たちも攻略対象だったような? ま、いいか。きっとそのうちわかるから!◆
馬車で送って貰い屋敷に戻る。
自室で落ち込んでる私を見て、クラリスが心配そうに声をかけてきた。「お嬢様、今日はお疲れのようですね」
「少し、思ったようにいかなくて……」
「そうですか。お嬢様、香りがお好きでしたら、街の香水店はいかがですか?」
クラリスの提案に、私は顔を上げる。
「香水店?」
「はい。ベルティエ香水店という、とても有名な店があります。きっとお嬢様の気分転換になると思うのですが」
ベルティエ香水店……ゲームでも出てきた高級店だ。
「それは素晴らしいですわ! ぜひ行ってみたいです」
少し気持ちが上向く。
◆
ベルティエ香水店は、想像以上に豪華だった。
まるで宮殿のような内装に、美しく並べられた香水瓶。空気自体が上品な香りに満ちてる。「いらっしゃいませ。ようこそベルティエ香水店へ」
美人の店員さんの丁寧な接客に、思わず緊張する。
「私は調香師のレイヴィスと申します。今日はどのようなご用でしょう? お嬢様」
「あの、香水を見せていただきたくて」
「かしこまりました」
案内されながら、様々な香水を試していく。どれも素晴らしい香りだけど、特別な感覚は……
その時、古い棚の奥に置かれた小さな瓶が目に留まった。
なんだろう、すごく気になる。まるで私を呼んでるみたい。「あの、あれは何ですか?」
「ああ、あれは《ラフェルトNo.4旧型》ですね。古いタイプで、もうほとんど作られていない希少品です」
「試してみてもよろしいですか?」
「もちろんです」
レイヴィスさんがテスター用の小瓶を持ってきてくれる。
香りを嗅いだ瞬間――頭の中に映像が流れ込んできた。
暖かい光の中で、誰かが微笑んでる。とても懐かしくて、愛しい人の姿。え? これって……
「あ…」
思わず声が漏れる。
「お客様? 大丈夫ですか?」
レイヴィスさんの声で我に返る。
「え、ええ。すみません、とても……心に響く香りで」
「《ラフェルトNo.4旧型》に反応されるとは。お客様、もしかして香りに関する特別な感覚をお持ちでは?」
その言葉に、ドキリと胸が高鳴った。
特別な感覚……もしかして、これが?「わ、わかりません。でも、とても懐かしい感じがして」
「興味深いですね。この香水に反応する方は、滅多にいらっしゃらないのですが」
もしかして、私にもスキルの可能性が?
少しだけ、希望が見えてきた。◆
香水店を出て、クラリスと一緒に学園に戻る途中。
なんとなく、誰かに見られてるような気がした。 振り返ってみるけど、特に変わった様子はない。――でも、この違和感は何だろう?
「お嬢様?」
「あ、何でもありませんわ。少し疲れただけです」
クラリスに心配をかけてはいけない。
「明日は街を探索してみましょうか、クラリスさん」
「はい、お嬢様。お供させていただきます」
《ラフェルトNo.4旧型》への反応。もしかして、私にも何かあるのかもしれない。
明日はもっと色々な場所を見て回ろう。きっと面白い発見があるはずだ。 見上げると、王都の空の向こうで、夕日が美しく輝いている。 うん、きっと明日は良いことがあるよね。 わたしは自分に言い聞かせるように、クラリスと共に屋敷へ歩き出したのだった。夏の朝は、何かが始まる気配に満ちてた。 学園の中庭には、班ごとに集合した生徒たちが、大きなリュックサックを背負って整列してる。 澄んだ空に白い雲、花壇のラベンダーとローズマリーが香りを立てて、朝露の湿った土の匂いと混じり合う。(きた……完全にサバイバル実習イベントじゃん!) 私――白石香澄としての理性は、心の中で思わずガッツポーズを決める。 乙女ゲームの野外実習ルートといえば、ここから数々のスチルとイベントが開放されるはずなんだ。「お姉様、わくわくしますね!」 隣で、黒髪セミロングのミリアが両手を胸の前でぎゅっと握りしめてる。 スミレ色の瞳が、朝陽を受けてきらきらと輝いてた。「ええ、とても楽しみですわ」 にこりと笑って返すと、彼女はぱっと花が咲いたように微笑んだ。 その様子だけで、胸の奥がじんわり温かくなる。 でも、ふとミリアの笑顔の端に、また微かな陰りが見えた気がした。 班ごとの点呼の後、私たちは輪になって最初の話し合いを始めた。「それじゃあ、まずリーダーを決めましょう」 テオくんの提案に、みんなが顔を見合わせる。「リュシアで異議なし」 ガイルくんが即答して、ユリウスくんとノアくんも頷く。「わたくしも、リュシアさんにお任せしたいですわ」 ミリアも「はい!」と元気よく手を上げた。 満場一致でリーダーが決まると、リュシアちゃんは小さく頷いた。「分かった。それじゃあ、森に向かいましょう」 班ごとの点呼を終えて、私たちは森を歩き始めた。 リュシアちゃんは銀青色のボブカットを風に揺らして、黙々と前を見てる。 表情は相変わらず淡々としてるけど、ほんの少しだけ、口元が緩んでるのを見逃さなかった。(あ……可愛い。完全にスチル映えしてる) リュックから漂うハーブサシェの香りが、歩くたびにふわりと香った。 甘くて涼やかな香りが、森の気配を先取りするように漂う。 男子たちはというと―― ガイルくん(攻略対象A)は率先して重い荷物を背負って、頼もしさ全開だ。さすがは将来の騎士候補って感じ。 ユリウスくん(攻略対象B)は歩きながら道端の植物を観察してる。 テオくん(攻略対象C)は地図を確認しながら、効率的なルートを提案してる。 ノアくん(攻略対象D)は小さなメモ帳に何かを記録中。 私は内心でふふっと笑う。 これぞまさに
夏の空気は、どこか浮き立つような熱を帯びてる。 寮の窓から見える中庭の木々も、昨日より少しだけ青さを増してる気がする。今日の朝礼は、学園全体がざわざわしてて、生徒たちの足音や囁き声がいつもより弾んでた。 教室に漂うのは、緊張と期待が混じった独特の空気。 生徒たちが整列する中、教師が壇上に立って、厳かに告げる。「――本日より一週間後、フレグラントール学園恒例の"野外実習"を実施します」 教室の空気が一瞬でざわめきに包まれる。 私――いえ、白石香澄としての理性は、胸の奥で小さくガッツポーズを決めてた。(きた……! ついに野外実習イベント!) 教師は続ける。「実習は王都近郊の森にて行います。チームごとに行動し、自然観察、野外炊事、そして――協力して課題を達成することが求められます」 完璧だ。ゲームの第2章とまったく同じ設定じゃん。 しかも私、エレナとして図書館で過去の実習記録まで調べてた。森での共同生活、星空の下での語らい、そして学校に戻ってからの打ち上げパーティー――攻略対象たちとの距離が一気に縮まる黄金イベント。 脳裏に浮かぶのは、次々に解放されるイベントCGの数々。特に最終日の告白シーンは神がかってた。(やったぁ……これ絶対に、好感度爆上がりチャンスじゃん! フラグ管理、頑張らなきゃ!) ざわめく生徒たちの間で、私は誰にも見えない心のガッツポーズを決めた。 最前列のリュシアちゃんは無表情で話を聞いてたけど、隣でひそひそと囁くミリアが、私の腕をちょこんとつついた。「お姉様、楽しみですわね……!」「ええ、もちろんですわ」 でもミリアの表情に、一瞬だけ何か複雑なものが見えた気がする。 ……思えば、このときにはもう始まっていたのだ。 いや、もっと前から。◆ 午後の講堂は、高い天井に全学年の声が響いてざわざわしてた。 ステンドグラスから差し込む光の中、生徒たちは学年ごとに整列して立っている。私たちは2年生のエリアで、リュシアちゃんと並んで立ってた。少し離れた1年生のエリアでは、ミリアが私たちの方を見て小さく手を振ってる。 全学年の生徒が集まって、天井の高い空間に声が響く。壇上では上級生が教師に何かを耳打ちしてから下がって、教師が発表台に立った。 手にした紙を見下ろす教師の指先が、微かに震えてる気がする。 でも、きっと気の
領主館での三度目の訪問は、これまでよりも穏やかな空気に包まれていた。 応接間に入ったとき、ミラベルはすでに席についていた。 椅子の背もたれに小さく体を預け、ちょこんと座るその姿は、まるで大きな家具に埋もれているようだった。「こ、こんにちは……きょうも、ありがとう……ございます……」 小さく手を膝に揃え、控えめに頭を下げる。 声はか細く、けれど前よりもほんの少しだけ張りがあった。 俺は軽く会釈し、今日の課題──招待状の文面添削──に取りかかる。 所作も発声も、変わらず整っている。 けれどその眼差しには、前回までにはなかった余白があった。 言葉の端に、間の取り方に、少しだけ自然な揺れが混じるようになった。「この一文、ご尊家の皆様にもよろしくお伝えくださいという表現ですが……」 俺がそう言うと、ミラベルは袖口をきゅっと指先でつまみ、少し考えるようにして小さく笑った。「……やっぱり、少しかしこまりすぎてしまいます……よね」 その笑みは、初めて言われたから笑うものではなかった。 彼女の中で何かが確かに変わりはじめている。 添削の合間、ふとした沈黙が訪れる。 窓の外、庭の百合が風に揺れているのが見えた。 そのとき──ミラベルが、ぽつりと呟くように言った。「……王都って、どんなところなんですか?」 突然の問いだった。 だが、そこには軽い興味というよりも、ずっと昔から温めていた問いのような響きがあった。 俺は少し考えながら答えた。「ノクスレイン王国は香りの王国と呼ばれているのはご存じですよね? その王都たるペルファリアには様々な香りが流れています」 俺は既に懐かしくなっている王都を脳裏に思い浮かべ、その光景を語る。「通りには香水店が並んでいて、花や果実、木の樹脂にスパイス……流行の香りは季節ごとに変わるんですよ。春は柑橘、夏はハーブ、秋には温かい煙のような香りも流行ります」 ミラベルは目を伏せ、胸元のリボンをそっと撫でながら、くすりと微笑んだ。「……お母さまが、よくそんな話をしていました」 その声は、どこか遠くを見ているようだった。「王都の香りは、季節の舞踏会みたいに入れ替わるのよって……楽しそうに、何度も」 彼女は手元に置かれた白いハンカチを、ちいさな手でぎゅっと握った。「お母さまは、王都に住んでいたことがあるんです
領主館は町の南、段丘の上にあった。 高台に築かれたその屋敷は、外から見れば石造りの地味な建物だが、門を抜けた瞬間に空気が変わる。 芝は短く刈られ、敷石には靴跡ひとつなく、花壇には季節外れの百合が咲いていた。 整いすぎている。どこか、誰かが無理をしてまで整えているような気配。 門を通ったところで年配の家令が現れ、俺を迎えた。 痩身で無表情だが、所作はまさに貴族の屋敷にふさわしい品格を感じさせる。「冒険者ギルドから参りました、フィンと申します。本日のお約束の件で」 俺は軽く頭を下げながら、用意していた依頼状を差し出す。 家令は一礼のままそれを受け取り、目を通すでもなく懐にしまい込んだ。 彼は無言で一礼すると、静かに先導を始めた。 歩き出してすぐ、低い声でぽつりと呟くように言った。「……お嬢様は、少々変わったお方でして」 一拍の間を置いてから続けた。「……それゆえに、どうか、ご無礼があっても……」 それだけ言うと、家令はそれ以上何も語らなかった。 けれど、その一言に、屋敷の人間が彼女をどう見ているかが滲んでいた。 敬意と距離。その両方があるような声音だった。 俺はその背を追う。 途中、廊下の掃除をしていたらしい中年の女性が、視線を上げぬまま深く礼をした。 屋敷に仕える者の動きまで、徹底されている。 案内された応接間もまた、完璧だった。 机の脚に至るまで磨き込まれ、絵画は傾きなく額装されている。 座っていいのか不安になるほど整然とした空間。着席を促してから、一礼をして家令は下がってゆく。 入れ替わるようにメイドがお茶を運んできた。 しばしの時間がすぎる。 ──そして、扉が開いた。 現れたのは、まるでおそるおそる舞台に出てきた子猫のような気配をまとった人物だった。 淡い色合いのドレスに身を包み、細い首元には控えめなリボンの飾り。 肩より少し長く伸ばしたふわりとした亜麻色の髪。 歩みは慎重で、スカートの裾を踏まないよう気をつけている様子が微笑ましい。 顔立ちは愛らしく、どこかあどけなさが残る。 年齢は十五歳だったっけ。 その存在は、まるで守ってあげたくなるような、小動物めいた可憐さがあった。「は、初めまして……ミラベル・オルシエールと申します……」 声は震えるようにかすかで、喉の奥から押し出すような高音。
副支部長のヴァルターに連れられ、受付にたどり着く。 そこには茶髪の受付嬢とは別に、中年の女性事務員が書類整理をしていた。 ヴァルターが軽く顎を引くと、女性事務員が小さく頷いた。 ──あ、なるほど。この二人、阿吽の呼吸だ。 単純な上下関係じゃない。どちらかというと、共犯者みたいな。「では、よろしくお願いしますね、フィンさん」 「はい、頑張ってみます」 軽く俺の肩を叩いて、ヴァルターは奥に消えていく。 その背中を見送りながら、俺は思った。(まずは、この支部の空気に慣れることから始めよう。急いでも、ボロは出してくれなさそうだ)「レミィです、よろしくお願いいたします!」 「フィンです。色々教えてくださいね」 受付嬢のレミィさんに改めて挨拶されて、俺は大きく頷いた。レミィさんは、さっそく手元の書類を一つ俺の元によこす。「じゃあ、まずは軽い依頼からですね。今日の午後に一件、町の配達をお願いしてます」 ……流れるように仕事が振られた。うん、わかってたけどね。 初日は配達。 二日目は行商人の護衛任務の手配。 三日目には、魔物避けの結界符を届ける手伝いで、郊外の農場まで歩いた。 やってくる冒険者は目白押し。 冒険者ギルドの仕事というのは、つまるところ雇われの口利きだ。 魔物退治に薬草集め、護衛に猫探しまで──依頼の中身は多種多様。 だが根っこはどれも同じ。 困ってる誰かに代わって、それを片づけてほしいって話だ。 だからギルドは、冒険者の溜まり場でもあり、腕の貸し借りを仲立ちする場所でもある。 剣の腕があっても、求められてるのが薪割りなら話にならない。 必要なのは、適材適所。そして、それを見極める目。 それが俺の、表向きの役目ってわけだ。 仕事を進めるうち、何人もの冒険者と顔を合わせた。 怒鳴ってばかりの男。剣を磨くことしか考えてない女。ギルドの帳簿を盗み見ようとする若造。 善人も悪人も、平等に火薬のような空気をまとっていた。 町も、店も、通りも──どれも熱を持ちすぎている。 だからこそ、少しずつ見えてくるものがある。 俺は密かに調査を進めていた。 物資の搬入リスト、冒険者への支払い記録、業者との取引履歴──数字の裏に隠された痕跡を探す。 ヴァルターと商人たちの会話にも耳
王都ペルファリアから馬車でおよそ一ヶ月。 峠を越えた瞬間、乾いた風と一緒に、喧騒と土埃と──欲望のにおいが押し寄せてきた。 帝国との境界近く、王国の西端にある町、グランヘルデ。 もともとは砦の跡地にできた、寂れた辺境の村だったらしい。 けれど今は、町全体が膨れあがっていた。 地中から遺構らしきものが見つかった──それが全ての始まりだ。 未踏破、構造不明、魔物出没。 だが同時に、古代の魔導具、未知の鉱石、魔物素材── 資源と価値の塊が地中に眠っているとなれば、当然、欲に駆られた連中が集まる。 それは、王国史に幾度も刻まれてきた、ダンジョン・フロンティアの始まりだった。 通りには、肩をぶつけ合って歩く冒険者たち。 武具屋の前には魔物の素材が雑に吊るされ、簡易宿の玄関には今日潜る者の名簿が晒されている。 昼から賭けに興じる者、情報屋の小声に耳を傾ける者、買い込んだポーションを胸元に詰めていく者。 市場も、酒場も、裏通りの娼館も、どこも満員だ。 熱気はある。だが、それは生命力ではなく、何かもっと乾いた、切羽詰まった熱だ。 町の空気は、重く、鋭く、荒れている。 ここには、金と命と魔力を賭ける者しかいない。 ────さて、ここからは少しだけ本気を出していこう。 王都のようにのんびりした雰囲気でやっていては、トラブルを招くばかりだとも思うしね。 いつもは半分閉じている瞼をしっかりあけ、瞳を凝らす。 辺境にいる間は、これで行くかな。 ……疲れるけど。 ギルド支部は、町の北端、段丘の上に建っていた。 白い壁と青い屋根の仮設庁舎。王国式の意匠を模してはいるが、どこか無理がある。 建物の前には、王国の旗と、ギルドの青い紋章旗が並んで掲げられていた。 風に翻るそれらを見上げながら、俺は小さく息をついた。(さて……一ヶ月ぶりの仕事か。今度は、ちょっと違うけど) ハルデンから聞いた話は単純だった。 副支部長ヴァルター・グレインの不正疑惑。物資の横流し、予算の私物化、報告書の改竄。 ただし相手は元商人で、証拠隠滅は巧妙。正面から追及しても尻尾を掴ませない。 だから俺が来た。表向きは「人手不足解消のための応援職員」として。 実際は、地味に、静かに、観察して回る係として。 支部の中は、外の喧騒が嘘みたいに静かだった。 この時間なら