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「奇行姫、学園に現る」

last update Last Updated: 2025-11-11 23:42:46

 翌朝、ドレッサーの鏡に映る蜂蜜色の髪を見つめながら、私は深くため息をつく。

 指先がひとりでにリボンを結び、襟元を整えていく。エレナの記憶が身体に染み付いてるんだね。

「まあ、このお嬢様口調も、もう諦めることにしましたわ」

 はい、また出た。でも昨日一日で慣れた。エレナの身体なんだもの、こういうものだと受け入れるしかない。

 それより今日は待ちに待った学園デビュー! ゲーム『リュミアの恋する香り』の舞台、フレグラントール学園だ。

 破滅フラグ回避のためにも、今日から本格的にヒロインムーブしなくちゃ。

 廊下の向こうから、クラリスの足音が聞こえる。軽やかで、どこか弾んでるような音。

「お嬢様、馬車の準備が整いましたわ」

「ありがとう、クラリスさん。いつも本当に助かっていますわ」

 クラリスの瞳がまた潤む。この子、涙腺が緩みっぱなしだけど大丈夫かしら。

 玄関先で待つ馬車は、朝日を受けて金色に輝いてる。御者のおじいさんが振り返り、深いしわに囲まれた目元を細める。

「エレナお嬢様、今日もご機嫌麗しゅうございますな」

「おはようございます。今日もよろしくお願いしますわ」

 おじいさんの目が丸くなる。人が喜んでくれるのは、やっぱり嬉しいよね。

 フレグラントール学園は、想像以上に美しかった。

 白亜の尖塔がそびえ立ち、庭園の花々が朝露に濡れて輝いてる。そして何より——香りのシステムがすごい。ほのかなバラの香りに混じって、ラベンダー、ジャスミン、そして名前の分からない甘い香りが層をなして漂ってる。

 馬車から降り立つと、周囲の視線が一斉に集まった。ひそひそと囁く声が風に乗って聞こえてくる。

「あれがエレナ・シルヴァーバーグよ」

「例の高飛車な……体調崩して休んでたんじゃなかった?」

「近づかない方がいいって聞いたけれど」

 なるほど、悪役令嬢としての初期設定だね。でも大丈夫! 善行ムーブで破滅フラグを回避してみせる。

 校門で荷物を降ろしてくれた使用人さんに、私は自然に頭を下げる。

「ありがとうございました。お疲れさまでした」

 その瞬間、周囲が静まり返った。

「え……今、お辞儀を?」

「使用人に? エレナが?」

「ありえない……」

 使用人さんも青ざめ、慌てて深々と頭を下げて足早に去っていく。思った以上に反応が大きい。でもこれで注目を集めることはできたみたい。しかし前のエレナ、どんだけ高飛車だったのよ!?

 廊下を歩けば歩くほど、視線の重さを感じる。教室に入ると、その重さは更に増した。

 私の席は窓際の後ろから三番目。主人公ポジションとしては定番の席だね。

 席に着く途中、掃除用具を抱えた下級生の女の子とぶつかりそうになる。

「あ、ごめんなさい。大丈夫?」

 女の子は震え上がり、慌てて頭を下げた。

「も、申し訳ございません!」

「いえいえ、こちらこそ前をよく見てませんでした。お怪我はありませんか?」

 教室の空気が凍りついた。

「エレナが……下級生に謝った……?」

「それも丁寧語で……」

「何かの呪いにでもかかったの?」

 まあ、最初は誤解されても仕方ないよね。

 しばらくして、教室のざわめきが大きくなってきた。

「ねえ、見た? エレナが使用人にお辞儀してたのよ」

「下級生にも謝ってたし……まるで別人みたい」

「奇行?」

「そうそう、奇行よ。まさに奇行の姫君じゃない?」

 くすくすと笑い声が漏れる。

「奇行姫エレナ、なんてどうかしら」

「それいいわね。今度からそう呼びましょう」

 奇行姫……まあ、あだ名としてはちょっと微妙だけど、注目を集めるのには成功したみたい。

 ――そして授業が始まる。

 教室の位置や大まかなつくりはエレナの記憶か教えてくれた。

 最初の授業は「香料学基礎」

 まさにこの世界らしい授業だ。先生がいくつもの小瓶を机に並べ、一つずつ香りの特徴を説明していく。私の鼻には、それぞれの香りが驚くほどはっきりと届いてくる。

「では、この香りの名前が分かる方はいらっしゃいますか?」

 先生が手にした小瓶から、甘くほろ苦い香りが教室に広がる。

 瞬間的に、名前が頭に浮かんだ。

「ベルガモット柑橘系第三種ですわ」

 教室がざわめく。

「正解です、エレナさん。素晴らしい嗅覚ですね」

 やった! 認められるのは素直に嬉しい。

 その時、授業開始のベルが鳴る直前に入ってきた少女に気づいた。

 ――息を呑むほど美しい少女。

 銀青色のボブカットが朝の光に揺れ、淡藤色の瞳が教室を静かに見渡してる。凛とした佇まいには、近づきがたい威厳が宿ってた。そして彼女の周りには、かすかに冷たい花の香りが漂ってる。スズランにミントを混ぜたような、清涼でどこか寂しい香り。

「あ……」

 心臓が跳ね上がった。

 ヒロインキャラ登場! この美しさ、この気品……間違いなくメインヒロインだ!

 このゲームのメインヒロイン、リュミア・カトレア。誰にでも優しいテンプレの乙女ゲーヒロイン。この子にだけは優しくしなくちゃ破滅まっしぐらだったような気がする。

 でも雰囲気が全然違う。ゲームのリュミアちゃんはもっと人懐っこくて、親しみやすい印象だったはず。この子からは、まるで氷の壁を纏ってるような冷たさを感じる。

 彼女は教室を見回すと、私の視線に気づいた。淡藤色の瞳が、じっと私を見つめる。その瞳の奥に、一瞬だけ鋭い光が宿った。

 彼女は表情を変えることなく、私の斜め前の席へと歩いていく。その足音は、なぜかとても静かだった。

「リュシア=フェンリルが来たわね」

 クラスメイトが小声でささやく。微妙に複雑な響きがあった。

 リュシア=フェンリル……

 あれ? 名前が違う。でも明らかにヒロインポジション。ということは、彼女と仲良くなることが攻略の鍵になりそう。

 授業が終わると、彼女がゆっくりと近づいてきた。清涼な香りがより濃く漂ってくる。

「あなた……本当にエレナ・シルヴァーバーグなの?」

「はい、そうですけれど……」

 リュシアの淡藤色の瞳が、じっと私を見つめる。その視線は冷たいけれど、どこか困惑しているようにも見えた。

「……変ね」

 そう呟くと、彼女は踵を返して去っていく。

 これは間違いなくフラグだ!

 次の授業は「香りとスキルの基礎演習」。

 まさにこの世界らしい実習授業だ。でも、そういえば私、この世界のスキルとか魔法の詳しいことまだよくわからないかも。

 スキルっていうのはこの世界における超能力みたいなもの。

 ゲームのエレナは、特にスキルについてはなかったような気がするけれど。

 教室に入ると、生徒たちが既にペアを組んで準備を始めてた。

 ペアが決まる前に、先生が詳しい説明を始める。

「今日はスキルの基礎的な使用方法について学びます。まず、スキルと魔法の違いから説明しましょう」

 おお、ちょうどいいタイミング! これで私も世界観の復習ができる。

「スキルとは、個人が生まれ持った才能の具現化です。訓練により向上しますが、基本的な方向性や威力は先天的に決まります。一方、魔法は理論と技術により習得可能な学問体系です」

 なるほど、スキルは才能、魔法は勉強ってことね。

「スキルは大きく五つの系統に分類されます。感覚系、強化系、操作系、創造系、そして特殊系」

 先生が黒板に図を描く。

「感覚系は情報収集に特化。強化系は身体能力向上。操作系は外界への干渉。創造系は新たな効果の創出。特殊系は分類不能な例外的スキルです」

 へー、体系的になってるのね。

「特に香りに関するスキルは極めて稀少で、感覚系の中でも特殊枠として扱われることが多いのです」

 香りに関するスキル! 香りの王国に相応しいスキル!

 さっきも香水の名前が思い浮かんだし、このスキル、わたし持ってるのかも!

「それではスキルの実演を。リュシアさん」

 教室の空気が一変した。

 リュシアが立ち上がり、手を前に向ける。

「《氷牢結界》」

 瞬間、彼女の周囲に巨大な氷の壁が出現した。美しく透明で、でも圧倒的な存在感。教室全体が静まり返る。

 すごい……

「さ、さすがフェンリル家……」

「あのスキル、操作系の上級スキルなんだろ」

「レベルが違いすぎる……」

 クラスメイトたちのざわめき。

 リュシアは涼しい顔で氷を消すと、何事もなかったように席に戻る。

 これが本当のスキルの力なんだ。私なんて、何もできてない。

 ちょっと鼻が良いのと、香りの名前がわかるだけ。

 それも多分、エレナの記憶のおかげ。

「では、ペアになって、お互いのスキルを披露し、観察・評価し合ってください。エレナさんは、まずはスキルを発動できるかどうか試してみましょう」

 先生の言葉に、教室の視線が私に集まる。

「エレナさん、僕とペアになりませんか?」

 声をかけてくれたのは、柔らかな茶髪の優しそうな男子生徒だった。

「ありがとうございます! よろしくお願いしますわ」

「僕はユリウス・グランツといいます。よろしくお願いします」

 ユリウス……その名前、ゲームの攻略対象の一人だ! 植物好きの癒し系、自信がないけど一途なタイプ。確かに他にも攻略対象の男子は何人かいたよね。

 ――もっとも男子を攻略するのは主人公のリュミアちゃんなのだけれど。

 でも、裏ルートでエレナ主人公のルートもあるって聞いたし、これから格好いい男子たちに会えるのかと思うとワクワクする!

「まずは僕の《草導制御》を見てもらって、エレナさんにはスキルの発動を試してもらう、というのはどうでしょう?」

 ユリウスの提案に、私は緊張する。

 彼は手をかざして、小さなハーブを育て始めた。ラベンダーの香りが漂ってくる。

「いい香りですわね」

「ありがとうございます。エレナさんも、何か感じませんか? 集中してみてください」

 言われた通り、目を閉じて集中してみる。

 ラベンダーの香り……その奥に、ユリウスの優しさが感じられるような……

 でも、何も起こらない。

「すみません、やっぱり何も…」

「大丈夫ですよ。スキルの発現は人それぞれですから」

 ユリウスは本当に優しい。

 実習が進む中、周りのペアは次々と成果を上げていく。

 教室のあちこちで、様々なスキルが発動している。強化系のスキルで重い実験器具を軽々と運ぶ生徒、創造系のスキルで複雑な香料調合をする生徒。

 そして、私とユリウスのペア……

「エレナさん、もう一度試してみませんか?」

 ユリウスが励ましてくれるけど、やっぱり何も起こらない。

 周りの視線が痛い。みんな当たり前にスキルを使ってるのに、私だけ……

 そんな時、近くの席から聞こえてきた声。

「シルヴァーバーグ家のお姫様なのに、スキル発動できないなんて…」

「だから学園も休んで奇行に走るのね。可哀想」

「名門の看板が泣いてるわ」

 モブお嬢様たちの陰口が、胸に刺さる。

 確かに名門の令嬢なのにスキル未発現って、相当恥ずかしいことなんだろうな。

 授業が終わると、何人かの男子生徒が近づいてきた。

「エレナ、気にすんなよ。スキルが全てじゃねーし」

 赤茶の髪をした、日焼けした肌の男子生徒が声をかけてくれる。

「僕も昔は全然ダメだったんです。今でも自信ないくらいで」

 ユリウスまで慰めてくれる。

「エレナさんの香りの知識、昨日の授業ですごいと思った。スキルより大切なものもあるよね」

 金髪くせ毛の童顔な男子生徒の言葉で、涙が出そうになる。

 みんな、本当に優しい人たちなんだ。

「ありがとうございます、皆さん。でも、大丈夫ですわ」

 精一杯の笑顔を作る。

 ――ちょっと待って。今の男子たちも攻略対象だったような?

 ま、いいか。きっとそのうちわかるから!

 馬車で送って貰い屋敷に戻る。

 自室で落ち込んでる私を見て、クラリスが心配そうに声をかけてきた。

「お嬢様、今日はお疲れのようですね」

「少し、思ったようにいかなくて……」

「そうですか。お嬢様、香りがお好きでしたら、街の香水店はいかがですか?」

 クラリスの提案に、私は顔を上げる。

「香水店?」

「はい。ベルティエ香水店という、とても有名な店があります。きっとお嬢様の気分転換になると思うのですが」

 ベルティエ香水店……ゲームでも出てきた高級店だ。

「それは素晴らしいですわ! ぜひ行ってみたいです」

 少し気持ちが上向く。

 ベルティエ香水店は、想像以上に豪華だった。

 まるで宮殿のような内装に、美しく並べられた香水瓶。空気自体が上品な香りに満ちてる。

「いらっしゃいませ。ようこそベルティエ香水店へ」

 美人の店員さんの丁寧な接客に、思わず緊張する。

「私は調香師のレイヴィスと申します。今日はどのようなご用でしょう? お嬢様」

「あの、香水を見せていただきたくて」

「かしこまりました」

 案内されながら、様々な香水を試していく。どれも素晴らしい香りだけど、特別な感覚は……

 その時、古い棚の奥に置かれた小さな瓶が目に留まった。

 なんだろう、すごく気になる。まるで私を呼んでるみたい。

「あの、あれは何ですか?」

「ああ、あれは《ラフェルトNo.4旧型》ですね。古いタイプで、もうほとんど作られていない希少品です」

「試してみてもよろしいですか?」

「もちろんです」

 レイヴィスさんがテスター用の小瓶を持ってきてくれる。

 香りを嗅いだ瞬間――

 頭の中に映像が流れ込んできた。

 暖かい光の中で、誰かが微笑んでる。とても懐かしくて、愛しい人の姿。

 え? これって……

「あ…」

 思わず声が漏れる。

「お客様? 大丈夫ですか?」

 レイヴィスさんの声で我に返る。

「え、ええ。すみません、とても……心に響く香りで」

「《ラフェルトNo.4旧型》に反応されるとは。お客様、もしかして香りに関する特別な感覚をお持ちでは?」

 その言葉に、ドキリと胸が高鳴った。

 特別な感覚……もしかして、これが?

「わ、わかりません。でも、とても懐かしい感じがして」

「興味深いですね。この香水に反応する方は、滅多にいらっしゃらないのですが」

 もしかして、私にもスキルの可能性が?

 少しだけ、希望が見えてきた。

 香水店を出て、クラリスと一緒に学園に戻る途中。

 なんとなく、誰かに見られてるような気がした。

 振り返ってみるけど、特に変わった様子はない。

 ――でも、この違和感は何だろう?

「お嬢様?」

「あ、何でもありませんわ。少し疲れただけです」

 クラリスに心配をかけてはいけない。

「明日は街を探索してみましょうか、クラリスさん」

「はい、お嬢様。お供させていただきます」

 《ラフェルトNo.4旧型》への反応。もしかして、私にも何かあるのかもしれない。

 明日はもっと色々な場所を見て回ろう。きっと面白い発見があるはずだ。

 見上げると、王都の空の向こうで、夕日が美しく輝いている。

 うん、きっと明日は良いことがあるよね。

 わたしは自分に言い聞かせるように、クラリスと共に屋敷へ歩き出したのだった。

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