LOGIN翌朝、ドレッサーの鏡に映る蜂蜜色の髪を見つめながら、私は深くため息をつく。
指先がひとりでにリボンを結び、襟元を整えていく。エレナの記憶が身体に染み付いてるんだね。「まあ、このお嬢様口調も、もう諦めることにしましたわ」
はい、また出た。でも昨日一日で慣れた。エレナの身体なんだもの、こういうものだと受け入れるしかない。
それより今日は待ちに待った学園デビュー! ゲーム『リュミアの恋する香り』の舞台、フレグラントール学園だ。
破滅フラグ回避のためにも、今日から本格的にヒロインムーブしなくちゃ。
廊下の向こうから、クラリスの足音が聞こえる。軽やかで、どこか弾んでるような音。「お嬢様、馬車の準備が整いましたわ」
「ありがとう、クラリスさん。いつも本当に助かっていますわ」
クラリスの瞳がまた潤む。この子、涙腺が緩みっぱなしだけど大丈夫かしら。
◆
玄関先で待つ馬車は、朝日を受けて金色に輝いてる。御者のおじいさんが振り返り、深いしわに囲まれた目元を細める。
「エレナお嬢様、今日もご機嫌麗しゅうございますな」
「おはようございます。今日もよろしくお願いしますわ」
おじいさんの目が丸くなる。人が喜んでくれるのは、やっぱり嬉しいよね。
◆
フレグラントール学園は、想像以上に美しかった。
白亜の尖塔がそびえ立ち、庭園の花々が朝露に濡れて輝いてる。そして何より——香りのシステムがすごい。ほのかなバラの香りに混じって、ラベンダー、ジャスミン、そして名前の分からない甘い香りが層をなして漂ってる。
馬車から降り立つと、周囲の視線が一斉に集まった。ひそひそと囁く声が風に乗って聞こえてくる。
「あれがエレナ・シルヴァーバーグよ」
「例の高飛車な……体調崩して休んでたんじゃなかった?」
「近づかない方がいいって聞いたけれど」
なるほど、悪役令嬢としての初期設定だね。でも大丈夫! 善行ムーブで破滅フラグを回避してみせる。
校門で荷物を降ろしてくれた使用人さんに、私は自然に頭を下げる。「ありがとうございました。お疲れさまでした」
その瞬間、周囲が静まり返った。
「え……今、お辞儀を?」
「使用人に? エレナが?」
「ありえない……」
使用人さんも青ざめ、慌てて深々と頭を下げて足早に去っていく。思った以上に反応が大きい。でもこれで注目を集めることはできたみたい。しかし前のエレナ、どんだけ高飛車だったのよ!?
◆
廊下を歩けば歩くほど、視線の重さを感じる。教室に入ると、その重さは更に増した。
私の席は窓際の後ろから三番目。主人公ポジションとしては定番の席だね。 席に着く途中、掃除用具を抱えた下級生の女の子とぶつかりそうになる。「あ、ごめんなさい。大丈夫?」
女の子は震え上がり、慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません!」
「いえいえ、こちらこそ前をよく見てませんでした。お怪我はありませんか?」
教室の空気が凍りついた。
「エレナが……下級生に謝った……?」
「それも丁寧語で……」
「何かの呪いにでもかかったの?」
まあ、最初は誤解されても仕方ないよね。
しばらくして、教室のざわめきが大きくなってきた。「ねえ、見た? エレナが使用人にお辞儀してたのよ」
「下級生にも謝ってたし……まるで別人みたい」
「奇行?」
「そうそう、奇行よ。まさに奇行の姫君じゃない?」
くすくすと笑い声が漏れる。
「奇行姫エレナ、なんてどうかしら」
「それいいわね。今度からそう呼びましょう」
奇行姫……まあ、あだ名としてはちょっと微妙だけど、注目を集めるのには成功したみたい。
◆
――そして授業が始まる。
教室の位置や大まかなつくりはエレナの記憶か教えてくれた。 最初の授業は「香料学基礎」まさにこの世界らしい授業だ。先生がいくつもの小瓶を机に並べ、一つずつ香りの特徴を説明していく。私の鼻には、それぞれの香りが驚くほどはっきりと届いてくる。
「では、この香りの名前が分かる方はいらっしゃいますか?」
先生が手にした小瓶から、甘くほろ苦い香りが教室に広がる。
瞬間的に、名前が頭に浮かんだ。「ベルガモット柑橘系第三種ですわ」
教室がざわめく。
「正解です、エレナさん。素晴らしい嗅覚ですね」
やった! 認められるのは素直に嬉しい。
その時、授業開始のベルが鳴る直前に入ってきた少女に気づいた。――息を呑むほど美しい少女。
銀青色のボブカットが朝の光に揺れ、淡藤色の瞳が教室を静かに見渡してる。凛とした佇まいには、近づきがたい威厳が宿ってた。そして彼女の周りには、かすかに冷たい花の香りが漂ってる。スズランにミントを混ぜたような、清涼でどこか寂しい香り。
「あ……」
心臓が跳ね上がった。
ヒロインキャラ登場! この美しさ、この気品……間違いなくメインヒロインだ!
このゲームのメインヒロイン、リュミア・カトレア。誰にでも優しいテンプレの乙女ゲーヒロイン。この子にだけは優しくしなくちゃ破滅まっしぐらだったような気がする。
でも雰囲気が全然違う。ゲームのリュミアちゃんはもっと人懐っこくて、親しみやすい印象だったはず。この子からは、まるで氷の壁を纏ってるような冷たさを感じる。
彼女は教室を見回すと、私の視線に気づいた。淡藤色の瞳が、じっと私を見つめる。その瞳の奥に、一瞬だけ鋭い光が宿った。
彼女は表情を変えることなく、私の斜め前の席へと歩いていく。その足音は、なぜかとても静かだった。
「リュシア=フェンリルが来たわね」
クラスメイトが小声でささやく。微妙に複雑な響きがあった。
リュシア=フェンリル……
あれ? 名前が違う。でも明らかにヒロインポジション。ということは、彼女と仲良くなることが攻略の鍵になりそう。
授業が終わると、彼女がゆっくりと近づいてきた。清涼な香りがより濃く漂ってくる。
「あなた……本当にエレナ・シルヴァーバーグなの?」
「はい、そうですけれど……」
リュシアの淡藤色の瞳が、じっと私を見つめる。その視線は冷たいけれど、どこか困惑しているようにも見えた。
「……変ね」
そう呟くと、彼女は踵を返して去っていく。
これは間違いなくフラグだ!◆
次の授業は「香りとスキルの基礎演習」。
まさにこの世界らしい実習授業だ。でも、そういえば私、この世界のスキルとか魔法の詳しいことまだよくわからないかも。
スキルっていうのはこの世界における超能力みたいなもの。 ゲームのエレナは、特にスキルについてはなかったような気がするけれど。教室に入ると、生徒たちが既にペアを組んで準備を始めてた。
ペアが決まる前に、先生が詳しい説明を始める。「今日はスキルの基礎的な使用方法について学びます。まず、スキルと魔法の違いから説明しましょう」
おお、ちょうどいいタイミング! これで私も世界観の復習ができる。
「スキルとは、個人が生まれ持った才能の具現化です。訓練により向上しますが、基本的な方向性や威力は先天的に決まります。一方、魔法は理論と技術により習得可能な学問体系です」
なるほど、スキルは才能、魔法は勉強ってことね。
「スキルは大きく五つの系統に分類されます。感覚系、強化系、操作系、創造系、そして特殊系」
先生が黒板に図を描く。
「感覚系は情報収集に特化。強化系は身体能力向上。操作系は外界への干渉。創造系は新たな効果の創出。特殊系は分類不能な例外的スキルです」
へー、体系的になってるのね。
「特に香りに関するスキルは極めて稀少で、感覚系の中でも特殊枠として扱われることが多いのです」
香りに関するスキル! 香りの王国に相応しいスキル!
さっきも香水の名前が思い浮かんだし、このスキル、わたし持ってるのかも!「それではスキルの実演を。リュシアさん」
教室の空気が一変した。
リュシアが立ち上がり、手を前に向ける。「《氷牢結界》」
瞬間、彼女の周囲に巨大な氷の壁が出現した。美しく透明で、でも圧倒的な存在感。教室全体が静まり返る。
すごい……
「さ、さすがフェンリル家……」
「あのスキル、操作系の上級スキルなんだろ」
「レベルが違いすぎる……」
クラスメイトたちのざわめき。
リュシアは涼しい顔で氷を消すと、何事もなかったように席に戻る。 これが本当のスキルの力なんだ。私なんて、何もできてない。 ちょっと鼻が良いのと、香りの名前がわかるだけ。 それも多分、エレナの記憶のおかげ。「では、ペアになって、お互いのスキルを披露し、観察・評価し合ってください。エレナさんは、まずはスキルを発動できるかどうか試してみましょう」
先生の言葉に、教室の視線が私に集まる。
「エレナさん、僕とペアになりませんか?」
声をかけてくれたのは、柔らかな茶髪の優しそうな男子生徒だった。
「ありがとうございます! よろしくお願いしますわ」
「僕はユリウス・グランツといいます。よろしくお願いします」
ユリウス……その名前、ゲームの攻略対象の一人だ! 植物好きの癒し系、自信がないけど一途なタイプ。確かに他にも攻略対象の男子は何人かいたよね。
――もっとも男子を攻略するのは主人公のリュミアちゃんなのだけれど。
でも、裏ルートでエレナ主人公のルートもあるって聞いたし、これから格好いい男子たちに会えるのかと思うとワクワクする!「まずは僕の《草導制御》を見てもらって、エレナさんにはスキルの発動を試してもらう、というのはどうでしょう?」
ユリウスの提案に、私は緊張する。
彼は手をかざして、小さなハーブを育て始めた。ラベンダーの香りが漂ってくる。「いい香りですわね」
「ありがとうございます。エレナさんも、何か感じませんか? 集中してみてください」
言われた通り、目を閉じて集中してみる。
ラベンダーの香り……その奥に、ユリウスの優しさが感じられるような…… でも、何も起こらない。「すみません、やっぱり何も…」
「大丈夫ですよ。スキルの発現は人それぞれですから」
ユリウスは本当に優しい。
実習が進む中、周りのペアは次々と成果を上げていく。教室のあちこちで、様々なスキルが発動している。強化系のスキルで重い実験器具を軽々と運ぶ生徒、創造系のスキルで複雑な香料調合をする生徒。
そして、私とユリウスのペア……
「エレナさん、もう一度試してみませんか?」
ユリウスが励ましてくれるけど、やっぱり何も起こらない。
周りの視線が痛い。みんな当たり前にスキルを使ってるのに、私だけ……そんな時、近くの席から聞こえてきた声。
「シルヴァーバーグ家のお姫様なのに、スキル発動できないなんて…」
「だから学園も休んで奇行に走るのね。可哀想」
「名門の看板が泣いてるわ」
モブお嬢様たちの陰口が、胸に刺さる。
確かに名門の令嬢なのにスキル未発現って、相当恥ずかしいことなんだろうな。◆
授業が終わると、何人かの男子生徒が近づいてきた。
「エレナ、気にすんなよ。スキルが全てじゃねーし」
赤茶の髪をした、日焼けした肌の男子生徒が声をかけてくれる。
「僕も昔は全然ダメだったんです。今でも自信ないくらいで」
ユリウスまで慰めてくれる。
「エレナさんの香りの知識、昨日の授業ですごいと思った。スキルより大切なものもあるよね」
金髪くせ毛の童顔な男子生徒の言葉で、涙が出そうになる。
みんな、本当に優しい人たちなんだ。「ありがとうございます、皆さん。でも、大丈夫ですわ」
精一杯の笑顔を作る。
――ちょっと待って。今の男子たちも攻略対象だったような? ま、いいか。きっとそのうちわかるから!◆
馬車で送って貰い屋敷に戻る。
自室で落ち込んでる私を見て、クラリスが心配そうに声をかけてきた。「お嬢様、今日はお疲れのようですね」
「少し、思ったようにいかなくて……」
「そうですか。お嬢様、香りがお好きでしたら、街の香水店はいかがですか?」
クラリスの提案に、私は顔を上げる。
「香水店?」
「はい。ベルティエ香水店という、とても有名な店があります。きっとお嬢様の気分転換になると思うのですが」
ベルティエ香水店……ゲームでも出てきた高級店だ。
「それは素晴らしいですわ! ぜひ行ってみたいです」
少し気持ちが上向く。
◆
ベルティエ香水店は、想像以上に豪華だった。
まるで宮殿のような内装に、美しく並べられた香水瓶。空気自体が上品な香りに満ちてる。「いらっしゃいませ。ようこそベルティエ香水店へ」
美人の店員さんの丁寧な接客に、思わず緊張する。
「私は調香師のレイヴィスと申します。今日はどのようなご用でしょう? お嬢様」
「あの、香水を見せていただきたくて」
「かしこまりました」
案内されながら、様々な香水を試していく。どれも素晴らしい香りだけど、特別な感覚は……
その時、古い棚の奥に置かれた小さな瓶が目に留まった。
なんだろう、すごく気になる。まるで私を呼んでるみたい。「あの、あれは何ですか?」
「ああ、あれは《ラフェルトNo.4旧型》ですね。古いタイプで、もうほとんど作られていない希少品です」
「試してみてもよろしいですか?」
「もちろんです」
レイヴィスさんがテスター用の小瓶を持ってきてくれる。
香りを嗅いだ瞬間――頭の中に映像が流れ込んできた。
暖かい光の中で、誰かが微笑んでる。とても懐かしくて、愛しい人の姿。え? これって……
「あ…」
思わず声が漏れる。
「お客様? 大丈夫ですか?」
レイヴィスさんの声で我に返る。
「え、ええ。すみません、とても……心に響く香りで」
「《ラフェルトNo.4旧型》に反応されるとは。お客様、もしかして香りに関する特別な感覚をお持ちでは?」
その言葉に、ドキリと胸が高鳴った。
特別な感覚……もしかして、これが?「わ、わかりません。でも、とても懐かしい感じがして」
「興味深いですね。この香水に反応する方は、滅多にいらっしゃらないのですが」
もしかして、私にもスキルの可能性が?
少しだけ、希望が見えてきた。◆
香水店を出て、クラリスと一緒に学園に戻る途中。
なんとなく、誰かに見られてるような気がした。 振り返ってみるけど、特に変わった様子はない。――でも、この違和感は何だろう?
「お嬢様?」
「あ、何でもありませんわ。少し疲れただけです」
クラリスに心配をかけてはいけない。
「明日は街を探索してみましょうか、クラリスさん」
「はい、お嬢様。お供させていただきます」
《ラフェルトNo.4旧型》への反応。もしかして、私にも何かあるのかもしれない。
明日はもっと色々な場所を見て回ろう。きっと面白い発見があるはずだ。 見上げると、王都の空の向こうで、夕日が美しく輝いている。 うん、きっと明日は良いことがあるよね。 わたしは自分に言い聞かせるように、クラリスと共に屋敷へ歩き出したのだった。副支部長のヴァルターに連れられ、受付にたどり着く。 そこには茶髪の受付嬢とは別に、中年の女性事務員が書類整理をしていた。 ヴァルターが軽く顎を引くと、女性事務員が小さく頷いた。 ──あ、なるほど。この二人、阿吽の呼吸だ。 単純な上下関係じゃない。どちらかというと、共犯者みたいな。「では、よろしくお願いしますね、フィンさん」 「はい、頑張ってみます」 軽く俺の肩を叩いて、ヴァルターは奥に消えていく。 その背中を見送りながら、俺は思った。(まずは、この支部の空気に慣れることから始めよう。急いでも、ボロは出してくれなさそうだ)「レミィです、よろしくお願いいたします!」 「フィンです。色々教えてくださいね」 受付嬢のレミィさんに改めて挨拶されて、俺は大きく頷いた。レミィさんは、さっそく手元の書類を一つ俺の元によこす。「じゃあ、まずは軽い依頼からですね。今日の午後に一件、町の配達をお願いしてます」 ……流れるように仕事が振られた。うん、わかってたけどね。 初日は配達。 二日目は行商人の護衛任務の手配。 三日目には、魔物避けの結界符を届ける手伝いで、郊外の農場まで歩いた。 やってくる冒険者は目白押し。 冒険者ギルドの仕事というのは、つまるところ雇われの口利きだ。 魔物退治に薬草集め、護衛に猫探しまで──依頼の中身は多種多様。 だが根っこはどれも同じ。 困ってる誰かに代わって、それを片づけてほしいって話だ。 だからギルドは、冒険者の溜まり場でもあり、腕の貸し借りを仲立ちする場所でもある。 剣の腕があっても、求められてるのが薪割りなら話にならない。 必要なのは、適材適所。そして、それを見極める目。 それが俺の、表向きの役目ってわけだ。 仕事を進めるうち、何人もの冒険者と顔を合わせた。 怒鳴ってばかりの男。剣を磨くことしか考えてない女。ギルドの帳簿を盗み見ようとする若造。 善人も悪人も、平等に火薬のような空気をまとっていた。 町も、店も、通りも──どれも熱を持ちすぎている。 だからこそ、少しずつ見えてくるものがある。 俺は密かに調査を進めていた。 物資の搬入リスト、冒険者への支払い記録、業者との取引履歴──数字の裏に隠された痕跡を探す。 ヴァルターと商人たちの会話にも耳
王都ペルファリアから馬車でおよそ一ヶ月。 峠を越えた瞬間、乾いた風と一緒に、喧騒と土埃と──欲望のにおいが押し寄せてきた。 帝国との境界近く、王国の西端にある町、グランヘルデ。 もともとは砦の跡地にできた、寂れた辺境の村だったらしい。 けれど今は、町全体が膨れあがっていた。 地中から遺構らしきものが見つかった──それが全ての始まりだ。 未踏破、構造不明、魔物出没。 だが同時に、古代の魔導具、未知の鉱石、魔物素材── 資源と価値の塊が地中に眠っているとなれば、当然、欲に駆られた連中が集まる。 それは、王国史に幾度も刻まれてきた、ダンジョン・フロンティアの始まりだった。 通りには、肩をぶつけ合って歩く冒険者たち。 武具屋の前には魔物の素材が雑に吊るされ、簡易宿の玄関には今日潜る者の名簿が晒されている。 昼から賭けに興じる者、情報屋の小声に耳を傾ける者、買い込んだポーションを胸元に詰めていく者。 市場も、酒場も、裏通りの娼館も、どこも満員だ。 熱気はある。だが、それは生命力ではなく、何かもっと乾いた、切羽詰まった熱だ。 町の空気は、重く、鋭く、荒れている。 ここには、金と命と魔力を賭ける者しかいない。 ────さて、ここからは少しだけ本気を出していこう。 王都のようにのんびりした雰囲気でやっていては、トラブルを招くばかりだとも思うしね。 いつもは半分閉じている瞼をしっかりあけ、瞳を凝らす。 辺境にいる間は、これで行くかな。 ……疲れるけど。 ギルド支部は、町の北端、段丘の上に建っていた。 白い壁と青い屋根の仮設庁舎。王国式の意匠を模してはいるが、どこか無理がある。 建物の前には、王国の旗と、ギルドの青い紋章旗が並んで掲げられていた。 風に翻るそれらを見上げながら、俺は小さく息をついた。(さて……一ヶ月ぶりの仕事か。今度は、ちょっと違うけど) ハルデンから聞いた話は単純だった。 副支部長ヴァルター・グレインの不正疑惑。物資の横流し、予算の私物化、報告書の改竄。 ただし相手は元商人で、証拠隠滅は巧妙。正面から追及しても尻尾を掴ませない。 だから俺が来た。表向きは「人手不足解消のための応援職員」として。 実際は、地味に、静かに、観察して回る係として。 支部の中は、外の喧騒が嘘みたいに静かだった。 この時間なら
「お前の観察眼なら、ヴァルターの不正を見抜けるはずだ。そして可能であれば、シリル支部長に現実を教えてやってほしい」 ハルデンは本題を切り出す。「期間は?」「一ヶ月程度を予定している。報酬はギルド本部から正式に支払う」 その目が、真剣さを増す。「無論、断ってもらっても構わん。だがお前以外に、この任務を託せる人間はいない」 俺はカップを置き、ハルデンを見つめ返す。 この男の言葉には嘘がない。本当に困っているし、俺の能力を必要としている。 だが同時に、これは明らかに計画的な依頼だ。セリナさんがおしゃべりをしたのかな? (手が届くというには遠すぎるけどね……) 俺は少し考える。 彼女が残した言葉と、目の前の状況。そして、この男の真剣な表情。「俺にしか出来ない、ですか」「そうだ」 ハルデンが頷く。「……借りもありますからね」 俺は立ち上がる。「わかりました。引き受けましょう」「ありがたい」 ハルデンの顔に、安堵の色が浮かんだ。「期待させてもらおう」 そして机の引き出しから、封筒を取り出す。「これはお前への紹介状と、旅費の一部だ。残りは現地で支給される」 俺は封筒を受け取りながら、その厚みを確認する。中身はかなり充実しているようだ。「出発はいつごろを?」「できれば明日にでも。グランヘルデまでは馬車で一ヶ月の道程だ」 一ヶ月。かなり帝都を離れることになるなぁ。 ムーアさんの許可を取らないと。「帝国との国境の街ですよね、確か」「ああ、国境まで、あと半日という距離だ」 ハルデンが苦笑いを浮かべる。「王都からは遠いが、だからこそ重要な拠点でもある」「ギルドとして?」「ああ、最近になって、といってもここ一年ほどのことだが、新たなダンジョンが発見されてな」 ――ダンジョン。なるほど、それなら街も潤うし、ギルドも大忙しになるなぁ。 俺は立ち上がり、ハルデンと握手を交わす。「現地では、シリル支部長には『本部からの業務指導員』として紹介する。ヴァルターには警戒されないよう、気をつけてくれ」「了解しました」 応接室を出ると、廊下でセリナさんが待っていた。「お疲れさまでした。いかがでしたか?」「辺境への出張が決まりました。一ヶ月の旅になりそうです」 セリナさんの顔に、明らかな動揺の色が浮かんだ。「一ヶ月、ですか?」
朝一番、俺はギルド本部へ向かった。 昨夜受け取った手紙は、かばんの奥で重たく感じられる。ハルデン・ロッシュ。王都ギルド長からの直々の召喚。 職人さんの件でセリナさんに頼みを通してもらった手前、無視するわけにもいかない。だが、それにしては話が大きすぎる。 (重要な案件、か) 手紙の文面を思い返す。無駄のない文字、簡潔すぎる内容、そして「必ず」という強い表現。まるで最初から俺の返事を決めつけているような書き方だった。 西区の朝は、いつものように雑多で温かい。 焼きたてのパンの匂い、荷車を引く商人の掛け声、路地を駆け抜ける子供たちの笑い声。生活の匂いがそこかしこに漂っている。「フィンちゃん、おはよ!」 八百屋のおばさんが手を振ってくれる。昨日、虫よけの香草を買ってくれた常連客だ。「おはようございます。今日もいい天気ですね」 軽く会釈を返しながら、俺は足を止めずに歩き続ける。 この温かい日常から、俺はどこへ向かおうとしているのだろう。 中央通りに入ると、空気が変わった。 石畳は西区より整備され、行き交う人々の服装も上等になる。王都の「顔」としての威厳が、街並みの隅々にまで行き渡っていた。 その先に見えるのが、白亜の王都冒険者ギルド本部。 朝日を受けて金色に輝く紋章が、石造りの重厚な壁に埋め込まれている。二階の格子窓からは、早番の職員が見下ろしているのが見えた。 (……さて、何のお話やら) 俺は一度立ち止まり、建物を見上げる。◆ 扉を押し開けると、朝の静けさに包まれたロビーが広がっていた。 受付カウンターには、見慣れた濡れ羽色の髪がある。「おはようございます、フィンさん」 セリナさんが振り返り、いつもの笑顔を見せてくれた。だが、その目の奥にわずかな緊張が混じっているのを見逃さない。「おはようございます。ギルド長から呼び出しを受けまして」「はい、承知しています。三階の応接室でお待ちです」 セリナさんは立ち上がり、俺を案内してくれる。普段なら雑談を交えながら歩くのだが、今日は妙に静かだった。「セリナさん」「はい?」「ギルド長は、何か言ってましたか?」 階段を上りながら尋ねると、セリナさんは少し考えるような仕草を見せた。「特別なことは。ただ……」「ただ?」「フィンさんのことを、とても高く評価されているようでした」
夏の章プロローグ【加筆修正版】 ノクスレイン王国。 人々はこの国を、もうひとつの名で呼ぶ。 ――香りの王国、と。 豊かな森と湿潤な気候に恵まれたこの地では、香りは単なる装飾ではない。文化であり、技術であり、時には武器にすらなる。調香師は貴族に仕え、香水は身分の証として身に纏われ、香りを操る者は畏怖と敬意を集める。 王都ペルファリアは、その中心だ。 白亜の城壁に囲まれた街には、貴族街の優雅な香り、商業区の活気ある匂い、そして裏路地に漂う生活の臭いが複雑に絡み合っている。この国では、香りを読み解く者こそが真実に近づける。そして香りを操る者こそが、人の心をも動かせるのだ。 だが、その豊かさの裏には影がある。 香りで人を操る技術。記憶を消す秘術。感情を誘導する調合。 光が強ければ強いほど、闇もまた深くなる。 ――そんな王国で、季節はゆっくりと夏へ傾きつつあった。◆ 王都ペルファリアの空気は、春の柔らかい香りを手放し、代わりに陽光の濃さと石畳の熱を含み始めている。鼻をかすめる香りは軽く変質し、花々の淡い調べに、乾いた草と果実めいた気配が混じるようになった。 まだ夏ではない。 だが、夏の"兆し"は確実にここにあった。 ムーア雑貨店の扉を少し開けると、ひやりとした店内の空気に、夏の風がわずかに入り込み、揺れる。そのほんの小さな変化だけで、フィンは季節の転換を感じ取った。香りが軽く、鮮やかになり、街全体がせわしなく動き始める――観察する者なら、誰よりも早く気づく兆候。 だが今朝は、いつもと違う空気が混じっていた。 店の奥、カウンターの上に置かれた一通の封書。王都冒険者ギルド本部の紋章が刻まれた、重みのある羊皮紙だ。 フィンはそれを手に取り、封を切った。『辺境グランヘルデ支部・臨時派遣任務 対象者:フィン・アルバ=スヴァイン 期間:夏季、約三ヶ月 任務内容:支部業務補助及び現地状況調査 備考:お前の観察が必要だ。――ハルデン』 依頼書には余計な説明はなく、ただギルド長ハルデンの直筆署名があるだけだった。 フィンは静かに息を吐く。 「……面倒ごとにならなきゃいいけど。いや、なるんだろうな」 辺境グランヘルデ。帝国国境に近い、霧と岩山に囲まれた荒涼の地。そこに新設されたギルド支部は、表向きは冒険者の拠点だが、裏では何かがうごめいている
苦いお茶を半分ほど残して、私はカップをそっと受け皿に戻した。湯気はもう細い糸になって、夜気にほどけていく。店の奥で、眠り香に沈む店長の寝息が、規則正しく上下している。「……変な夜ね」 自分で口にして、少しおかしくなる。変なのは夜ではなく、私だ。十五年、任務の最中にこんなふうに座って、言葉を探したことは一度もなかった。 彼は向かいの椅子に腰をおろし、失敗作のカップを気まずそうに指で回す。黒い瞳は落ち着いていて、けれどほんの少し、さっきの「苦い」の余韻が残っている。「――ねえ」 私は息を整える。喉の奥の固さが取れない。言わなければならないことから、先に言う。「私は、あなたを殺しに来たの。命令で」 彼は驚かなかった。ただ、手元のカップから視線を上げて、私を見た。「あなたが俺をずっと監視していたのは知っていましたよ。組織の――恐らくノルドの手の指示ですか?」 私は息を止める。組織の名を、彼は知っていた。「いいえ、私の監視は個人的な好奇心。でも、今日は組織の指示であなたを暗殺しにきたの。フィン・アルバ=スヴァイン」 彼の名を口にすると、少しだけ距離が縮まったような気がした。「知ってました」 静かな声。私は眉をわずかに上げる。「店に入ってきた時の息遣いと、衣の裾の香り。外気の層と違う匂いが混じってました。眠り香の系統も、うすく残ってます」 説明は淡々としていて、言い訳にも誇示にもならない角度で置かれた。私は口を閉じる。私の仕事を、私よりも静かに把握している。「失礼ですが、お名前を伺っても? 俺だけ名前を知られているのはぞっとしない」 私は小さく笑う。「コードネームはハクア。本当の名前は――もう忘れたわ」 嘘ではない。十五年前、その名前を捨てた時から、私はハクアになった。「……戻れないわ。組織に」 言った途端、胸の奥がすっと軽くなった。クライストの灰色の瞳。二度の失敗。本部への報告。それらが硝子の破片みたいに頭の中で光って、ようやく音もなく砕ける。「処分が下る。それはわかってる。でも、どうでもいいの。今はただ、訊きたい」 私は視線を落とす。自分の手の甲が、少し白い。十五年、香りで人の心を閉じてきた指。匂いで身体を止め、沈黙で息を奪ってきた指。「あなたは、どうして人を救うの? あなたの『それ』なら、殺す方がずっと簡単なのに」 沈







