LOGIN朝の支度をしながら、神谷 想(かみや・そう)はいつものようにカレンダーを確認した。
「今日は……シャンプー、ね。OK」
指で今日の予定を確認する。 だがその視線が、ふとひとつ隣──水曜日に止まった。
『6/4(水) ワインラボ 19:00〜』
「……え?」
見覚えのない予定が書き込まれている。
不意に不安になり、スマホを取り出して履歴を確認すると── 数日前に「ワインラボ メニュー」で検索した形跡が残っていた。
「……意味わかんねぇ」
目をこすりながら机に目をやると、そこにレシートが一枚、無造作に置かれていた。
──ワインラボ
グラスワイン ×5
手作りピザ ×1
タパス盛り合わせ ×1
合計:4,700円(税込)
想は無言で読み上げる。
だが、まったく身に覚えがない。
「飲みすぎたのか……? ワイン5杯で記憶飛ぶようになったのか、俺……」
記憶がないことよりも、酒に飲まれてしまったことへのショックが大きかった。
──もう若くない、という焦りさえ感じる。
だが、身体にまったく異常はない。
酒を5杯飲んだにしては、頭も胃もすっきりしていた。
「……飲み過ぎには、気をつけよう……」
自戒めいた独り言をつぶやき、職場へ向かった。
いつものように自販機でホットコーヒーを買い、財布を閉じかけた瞬間──ふと気づく。
「……あれ?」
財布の中身が、火曜日の夜から減っていない。
「……昨日、ATMで下ろしたんだっけ?」
いや──していない。
レシートがあるのに、現金は減っていない。
違和感が、じわじわと胸に広がる。
「おはよう、想!」
元気な声とともに、同僚がいつにも増してテンション高く話しかけてきた。
「おはよう。……なんだよ、めちゃくちゃ元気じゃん」
「いや〜、お前こそだろ?」
にやにやしながら肘で小突いてくる。
「お前、昨日はお楽しみだったな〜?」
「……は?」
「とぼけんなよ。ワインラボで飲んでたろ、女の子と。あの子、誰なんだ?」
想の動きが止まる。
──まったく覚えがない。
「仲良く話して、楽しそうに店に入ってったじゃん。あれ彼女? ついにやったな〜この裏切り者!」
「……いや、違う」
「ははーん。さては振られたな?」
「は?」
「ちょっと顔がいいからって調子乗るから……そうなるんだよ!」
「……言ってろ」
軽口を交わしつつも、想の頭の中は真っ白だった。
レシート、予定、検索履歴、そして目撃証言。
ひとつひとつは説明できる気がしていたが、並べてみると──“なにも説明がつかない”。
「……ただの飲み過ぎ、じゃないな」
水曜日の記憶は、まるごと抜け落ちている。
“朝から夜までの全行動”が抜け落ちたまま、日常が再開している。
それは偶然ではない。そんな気がしていた。
「──水曜日に……何かが起きている」
確信にも似た予感が、胸の奥でゆっくりと形を成していく。
彼の身に何が起きているのか。
その真相は──まだ誰も知らない。
第3話 了
──研究室・深夜。 りかが押した記憶復元装置の“実行”ボタン。どれ程の時間が経っただろうか。想はまだ、目を覚まさない。「神谷さん!……神谷さん!」 りかの必死な呼びかけも虚しく、想に反応はなかった。「おいおい……まさか……」 橘の胸に、最悪の結末がよぎる。 その静寂を破ったのは──中野の乾いた笑い声だった。「ふふふ……はーっはっはっ!」 室内に、嫌なほど響き渡る。 ──その時。「……う、ん……」 ゆっくりと、想のまぶたが開く。「ここは……」 装置を外し、周囲を見渡す。──拘束された中野。──寄り添うりか。──そして橘。 ひとりひとり、確かめるように視線を送った。「……そうか。帰ってきたんだな」 そう呟きながら、想は中野に視線を戻す。「あなたは──僕の研究を奪い、そして僕から“記憶”を奪った。……その罪は、決して許されない」「神谷
──水曜日・深夜0時30分。 いよいよ、すべての決着をつける時が来た。 研究所前に集まった想・りか・橘の三人。緊張感の中、それぞれの覚悟が静かに燃えていた。「いいですか、神谷さん。 作戦通りにお願いしますね」「……あぁ、必ず成功させる」 想が力強く頷く。「中野の側近と思われるスーツの男は、別件で拘束してる」 橘が言いながら、想の肩を軽く叩く。「アイツは叩けば埃だらけだった。 今夜は中野一人、決めるには最適だ」「……ふぅ、よし、行ってくる」 想は一度、深く息を吐き── ゆっくりと、研究所へ入っていった。 ──研究所内。 受付には、前と同じく無表情の女性職員がひとり、薄暗い照明の中で待っていた。 想が近付くと、電話をかけ始める。「……もしもし、神谷さんが来られました」 電話が終わった瞬間、想は受話器を奪うように置き、背後からりかと橘が現れる。「……これは、一体……?」 戸惑う職員。「今日は、終わらせに来ました」 想がまっすぐに言い放つ。「あなたた
──りかの考えた作戦が、伝えられる。 想は“記憶をすべて取り戻したふり”をして、研究所に潜入。 中野と対峙し、まずは説得。 もし応じなければ、装置を奪い取り、記憶を取り戻す──という強硬策だった。「……ちょっと、雑すぎやしないかい?」 想は、軽く笑いながらツッコミを入れる。「え? 我ながら、けっこう良い作戦だと思ってたんですけど」「いや、“記憶が蘇ったふり”まではいいんだよ。 でもさ、最後が“力ずくで奪い取る”って……成功する未来が全然見えない」 想は苦笑いを浮かべながら、テーブルを指でトントンと叩く。「でも……“気を引いている間に装置を操作する”って方が、まだ現実的かもな」「それこそ、どうやって1人でやるんですか?」 りかの問いに、想は無言でニヤリと笑う。「……えっ、私も?」「当然でしょ。バディじゃん、俺たち」「……もうちょっとマイルドな作戦、考えません?」「おい、ズルいぞ」 2人のやり取りは、どこか漫才のようだったが、その目は真剣だった。ああでもないこうでもないを繰り返し、時間だけが過ぎていく。──このままでは埒が明かないと判断し、橘も交えて作戦会議を開くことに。
──喫茶店・夕方。 橘と別れた後、想とりかは、今後の方針について語り合っていた。「……でも、実際どうやって記憶を戻すか、だな」 想の疑問は、誰もが感じる率直なものだった。「ですね。医学的には、写真や映像、匂いなどの“記憶のフック”が有効って言われてますけど……」「俺の場合、音声だけじゃ、何もピンと来ないんだよね」 2人はそろって肩を落とした。「早くしないと……また、水曜日が来てしまう」 想の表情には焦りがにじんでいた。今日は土曜日。あと数日で、また“あの日”がやってくる。 その夜、再び研究所に向かってしまえば、今度こそ全ての記憶が消されるかもしれない。そう考えるだけで、胸が締めつけられた。「……でもさ、なんで俺、水曜の深夜に限って“動いちゃう”んだろう?」 ふと漏れた想の言葉に、りかの目が鋭くなる。「それ……何かあるのかも。 あの時間じゃなきゃいけない理由……あっ!」 りかが何かに気づいたように、身を乗り出す。「……記憶を“取られた”時間……!」「え、どういうこと?」「もしかしたら、水曜日の深夜0時30分に、記憶を奪われたんじゃないかって&
──共に戦うと誓い合った2人。 だが、その第一歩は、思いのほか難しいものだった。「……で、戦うって言っても、俺たち、何すればいいんだ?」 想が素朴な疑問を口にする。 それは、核心でもあった。「まさにそこなんです。まずは、神谷さんの記憶を戻せたらって思ってて…… 特殊な周波数の装置とか言ってましたよね? 何か、思い出せそうですか?」「うーん……さっぱり」「とりあえず、電波でも当ててみます?」「おいおい、俺の脳をチンでもすんのかよ……脳科学者の発言とは思えないな」「……ごめんなさい」 くだけた会話の中、ふと想が気づく。「そういえば、よく研究所までたどり着けたね。俺の名前まで……」「あ、それは……実は協力してくれてる人がいるんです」「協力者?」「中学の同級生なんですけど……今は刑事をしてて。 事故の調書や、研究所の周辺情報も──その人に手伝ってもらってました」 少し言いにくそうに、りかは続ける。「……聞かなかったことにします?」「いや、言ってくれていいよ。ただ、他言しないほうがいいってこと?」「はい&helli
──長い、長い沈黙。 想は、自分という存在そのものに疑念を抱いていた。“神谷想”という人格すら、誰かに作られた記憶の上に成り立っているのではないか。 かつて自分が生み出した研究が、誰かの記憶を消し、誰かを冤罪に追いやった── その可能性に打ちのめされていた。 聞いてはいけない話を聞いてしまったのかもしれない。りかもまた、迷いを抱えたまま口を閉ざしていた。──どれほどの沈黙が続いただろうか。 先に口を開いたのは、りかだった。「……あなたに、話さなきゃいけないことがあります」 俯く想の隣で、彼女は静かに語り出した。 ──綾瀬りかの弟、優斗。 大学生だった。真面目で、優しくて、家族思いで、将来を嘱望されていた。 ある日、通学中に轢き逃げ事故に遭い、命を落とした。「でも……おかしかったんです」 捕まったのは、ごく普通のサラリーマン。物的証拠も揃っていて、裁判は早かった。 だが、彼だけが言い続けていた。「俺はやっていない。……何も覚えていない。なのに、なぜ記憶が“ある”んだって」 何よりも不可解だったのは── 弟が搬送された病院で、りかが見た“男”の姿だった。「その人……事故の犯人と、全然違う人で