LOGIN──アラームが鳴り、スマホを探る手が音を止める。
「……あと5分……」
神谷 想(かみや・そう)、33歳。
IT企業に勤める、ごく普通のサラリーマン。
目を閉じたまま再び布団に沈み込む。10分後、再びアラームが鳴った。
「……くあぁぁ……」
大きくあくびをしながら、身体を起こす。
眠い目をこすり、いつもどおり洗面所へ向かった。
洗顔をし、歯を磨く。
ふとスマホを手に取り、日付を確認する。
──5月23日(金)午前7時10分
「もう金曜日か。1週間、早いな……」
何気ない朝。変わらぬ日常。
朝起きて、仕事へ行き、週末は読書とゲーム。
何の変哲もない、いつもの日々──の、はずだった。
きっかけは、ほんの些細な違和感だった。
──夜。
「やべっ……シャンプー切れてたんだった。
今日は水洗いで……あれ?」
風呂場の棚に、なぜか満タンのシャンプーボトルが置かれている。
その足元には、空になった詰め替え用の袋。
「……俺、買ったっけ……?」
考えても思い出せない。
だが深く考えるのも面倒で、想は小さく笑ってつぶやく。
「ま、いいか。」
その日を境に、微妙な違和感が少しずつ増えていった。
──テレビのリモコンがいつの間にか場所を移動している。
──歯ブラシが、朝起きた時点で濡れていた。
──スーパーで買ったはずの牛乳が冷蔵庫になかった。
「……最近、物忘れ多いな……」
思い切って病院を受診することにした。しかし、医師の診断は、あっけないものだった。
『脳にも身体にも異常はありません。ストレスや睡眠不足の影響かもしれませんね。
しっかり休養をとってください。』
「……まぁ、大きな病気じゃなくて良かった」
とはいえ、記憶の曖昧さは気になる。
そこで想は、自分用の“行動記録カレンダー”を作ることにした。
予定、買い物、感じたこと──
とにかく何でも、思いついたことをその日の欄に書き込んでいった。
これが、想像以上に効果を発揮した。
「書いたことを思い出す」だけでなく、
「書こうと意識する」ことで、記憶の抜けが減ったのだ。
毎朝カレンダーを見て、出かける。
毎晩、1日の記録を書き込む。
それはいつしか、日課となっていた。
──月末。
想は壁にかかったカレンダーを破ろうとして、手を止めた。
──文字で埋め尽くされた1ヶ月の記録。
買い物リスト、同僚との会話、夜に見た夢まで書かれている。
自分の生活の断片が、そこにぎっしり詰まっていた。
──ただ、水曜日を除いて。
「……ん?」
他の曜日にはびっしり書き込みがあるのに、
なぜか水曜日だけ、白紙か、数行しか書かれていない。
「たまたま……? 水曜日って、そんなに何もしてないのか……?」
──理由はわからない。
けれど大したことでもないと判断して、想はカレンダーを破り捨てた。
その夜も、いつもと同じように眠りにつく。
この小さな違和感が、やがて“すべての記憶”に関わる運命を動かしはじめている。
このときの彼はまだ──知る由もなかった。
第1話 了
──研究室・深夜。 りかが押した記憶復元装置の“実行”ボタン。どれ程の時間が経っただろうか。想はまだ、目を覚まさない。「神谷さん!……神谷さん!」 りかの必死な呼びかけも虚しく、想に反応はなかった。「おいおい……まさか……」 橘の胸に、最悪の結末がよぎる。 その静寂を破ったのは──中野の乾いた笑い声だった。「ふふふ……はーっはっはっ!」 室内に、嫌なほど響き渡る。 ──その時。「……う、ん……」 ゆっくりと、想のまぶたが開く。「ここは……」 装置を外し、周囲を見渡す。──拘束された中野。──寄り添うりか。──そして橘。 ひとりひとり、確かめるように視線を送った。「……そうか。帰ってきたんだな」 そう呟きながら、想は中野に視線を戻す。「あなたは──僕の研究を奪い、そして僕から“記憶”を奪った。……その罪は、決して許されない」「神谷
──水曜日・深夜0時30分。 いよいよ、すべての決着をつける時が来た。 研究所前に集まった想・りか・橘の三人。緊張感の中、それぞれの覚悟が静かに燃えていた。「いいですか、神谷さん。 作戦通りにお願いしますね」「……あぁ、必ず成功させる」 想が力強く頷く。「中野の側近と思われるスーツの男は、別件で拘束してる」 橘が言いながら、想の肩を軽く叩く。「アイツは叩けば埃だらけだった。 今夜は中野一人、決めるには最適だ」「……ふぅ、よし、行ってくる」 想は一度、深く息を吐き── ゆっくりと、研究所へ入っていった。 ──研究所内。 受付には、前と同じく無表情の女性職員がひとり、薄暗い照明の中で待っていた。 想が近付くと、電話をかけ始める。「……もしもし、神谷さんが来られました」 電話が終わった瞬間、想は受話器を奪うように置き、背後からりかと橘が現れる。「……これは、一体……?」 戸惑う職員。「今日は、終わらせに来ました」 想がまっすぐに言い放つ。「あなたた
──りかの考えた作戦が、伝えられる。 想は“記憶をすべて取り戻したふり”をして、研究所に潜入。 中野と対峙し、まずは説得。 もし応じなければ、装置を奪い取り、記憶を取り戻す──という強硬策だった。「……ちょっと、雑すぎやしないかい?」 想は、軽く笑いながらツッコミを入れる。「え? 我ながら、けっこう良い作戦だと思ってたんですけど」「いや、“記憶が蘇ったふり”まではいいんだよ。 でもさ、最後が“力ずくで奪い取る”って……成功する未来が全然見えない」 想は苦笑いを浮かべながら、テーブルを指でトントンと叩く。「でも……“気を引いている間に装置を操作する”って方が、まだ現実的かもな」「それこそ、どうやって1人でやるんですか?」 りかの問いに、想は無言でニヤリと笑う。「……えっ、私も?」「当然でしょ。バディじゃん、俺たち」「……もうちょっとマイルドな作戦、考えません?」「おい、ズルいぞ」 2人のやり取りは、どこか漫才のようだったが、その目は真剣だった。ああでもないこうでもないを繰り返し、時間だけが過ぎていく。──このままでは埒が明かないと判断し、橘も交えて作戦会議を開くことに。
──喫茶店・夕方。 橘と別れた後、想とりかは、今後の方針について語り合っていた。「……でも、実際どうやって記憶を戻すか、だな」 想の疑問は、誰もが感じる率直なものだった。「ですね。医学的には、写真や映像、匂いなどの“記憶のフック”が有効って言われてますけど……」「俺の場合、音声だけじゃ、何もピンと来ないんだよね」 2人はそろって肩を落とした。「早くしないと……また、水曜日が来てしまう」 想の表情には焦りがにじんでいた。今日は土曜日。あと数日で、また“あの日”がやってくる。 その夜、再び研究所に向かってしまえば、今度こそ全ての記憶が消されるかもしれない。そう考えるだけで、胸が締めつけられた。「……でもさ、なんで俺、水曜の深夜に限って“動いちゃう”んだろう?」 ふと漏れた想の言葉に、りかの目が鋭くなる。「それ……何かあるのかも。 あの時間じゃなきゃいけない理由……あっ!」 りかが何かに気づいたように、身を乗り出す。「……記憶を“取られた”時間……!」「え、どういうこと?」「もしかしたら、水曜日の深夜0時30分に、記憶を奪われたんじゃないかって&
──共に戦うと誓い合った2人。 だが、その第一歩は、思いのほか難しいものだった。「……で、戦うって言っても、俺たち、何すればいいんだ?」 想が素朴な疑問を口にする。 それは、核心でもあった。「まさにそこなんです。まずは、神谷さんの記憶を戻せたらって思ってて…… 特殊な周波数の装置とか言ってましたよね? 何か、思い出せそうですか?」「うーん……さっぱり」「とりあえず、電波でも当ててみます?」「おいおい、俺の脳をチンでもすんのかよ……脳科学者の発言とは思えないな」「……ごめんなさい」 くだけた会話の中、ふと想が気づく。「そういえば、よく研究所までたどり着けたね。俺の名前まで……」「あ、それは……実は協力してくれてる人がいるんです」「協力者?」「中学の同級生なんですけど……今は刑事をしてて。 事故の調書や、研究所の周辺情報も──その人に手伝ってもらってました」 少し言いにくそうに、りかは続ける。「……聞かなかったことにします?」「いや、言ってくれていいよ。ただ、他言しないほうがいいってこと?」「はい&helli
──長い、長い沈黙。 想は、自分という存在そのものに疑念を抱いていた。“神谷想”という人格すら、誰かに作られた記憶の上に成り立っているのではないか。 かつて自分が生み出した研究が、誰かの記憶を消し、誰かを冤罪に追いやった── その可能性に打ちのめされていた。 聞いてはいけない話を聞いてしまったのかもしれない。りかもまた、迷いを抱えたまま口を閉ざしていた。──どれほどの沈黙が続いただろうか。 先に口を開いたのは、りかだった。「……あなたに、話さなきゃいけないことがあります」 俯く想の隣で、彼女は静かに語り出した。 ──綾瀬りかの弟、優斗。 大学生だった。真面目で、優しくて、家族思いで、将来を嘱望されていた。 ある日、通学中に轢き逃げ事故に遭い、命を落とした。「でも……おかしかったんです」 捕まったのは、ごく普通のサラリーマン。物的証拠も揃っていて、裁判は早かった。 だが、彼だけが言い続けていた。「俺はやっていない。……何も覚えていない。なのに、なぜ記憶が“ある”んだって」 何よりも不可解だったのは── 弟が搬送された病院で、りかが見た“男”の姿だった。「その人……事故の犯人と、全然違う人で